蒼海のRequiem外伝 ~北天の流星~   作:ファルクラム

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第15話「黄の場合」

 

 

 

 

 

 

 

 

 号砲が鳴り響き、蹂躙が大地を席巻する。

 

 鋼鉄と爆炎によって彩られた殺戮者の群れが、一斉に西を目指す。

 

 その怒涛の如き進撃は、何者をもってしても防ぎ止める事は不可能だろう。

 

 空には怪鳥が舞い、死の雨を降らせていく。

 

 その圧倒的な「死」を前に、人々はただ恐怖に怯え、逃げ惑う事しかできないでいた。

 

 1940年5月10日。

 

 ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーはついに、満を持してフランス侵攻のゴーサインを出す。

 

 ドイツ帝国軍による対仏侵攻作戦「黄の場合」発令

 

 陸軍各部隊が、一斉に進撃を開始した。

 

 目標は、第1次世界大戦以来の仇敵の一角、フランス共和国。

 

 国境線に集結したドイツ陸軍は、A軍集団、B軍集団、C軍集団の3隊に分かれ、それぞれ、フランス領を目指した。

 

 一方、

 

 フランス軍、及びイギリス大陸派遣軍から成る連合軍は、眦を上げてこれを迎え撃つ。

 

 双方の戦力はドイツ軍335万、連合軍330万と、ほぼ互角。

 

 しかし連合軍、特に主力を成すフランス軍には、ドイツ軍に勝つ絶対の自信があった。

 

 彼等には最大にして最強の切り札が存在しているのだ。

 

 その切り札こそ、仏独国境に建設された大規模要塞線「マジノ線」の存在だった。

 

 フランス陸軍大臣アンドレ・マジノによって提唱され、第1次世界大戦の英雄である陸軍最高顧問フィリップ・ペタンの後押しによって完成したこの巨大要塞線は、全長140キロメートル、総延長340キロメートル、15キロメートル間隔毎に主要要塞が合計108存在している。

 

 第1次世界大戦時、悲惨な塹壕戦を経験したフランス軍は戦後、ドイツ軍との更なる戦争を想定。その際、塹壕戦によって無益に戦力を消耗するのではなく、国境線に長大な要塞線を形成し、侵攻自体を不可能にしてしまおうと言う考えが広まり、実現したのが、このマジノ線だった。

 

 マジノ線は峻厳な山岳地帯と地下構造によって構成され、その装甲は最も厚いところでは350センチのコンクリートで覆われている。

 

 火力も高く、無数と称して過言ではない大小の火砲によって武装されている。当然、砲座は分厚い装甲の内部に収められており、敵の反撃に対して高い防御力を発揮可能。一部の大型砲は引き込み式になっており、要塞内部に格納可能な為、必要時には迫出して砲撃を行い、装填の際には要塞内部に格納する事も出来る。

 

 言うまでも無く、司令部、弾薬庫、発電機室等、重要区画は地下深くに設けられ、経戦能力は高い。

 

 更に戦闘面だけではない。

 

 いざ戦闘になれば、長期間の籠城も予想される。その為、映画館や運動場など兵士たちの娯楽施設や食堂も完備している他、内部には列車まで走っており、兵員の移動や兵站の補充が迅速に行えるようになっている。

 

 古今東西、マジノ線は間違いなく世界最強の要塞と言っても過言ではなかった。

 

 因みに総工費は160億フラン、維持・改修費に140億フラン掛かっている。

 

 戦艦「大和」がだいたい200隻造れる。と言えば、少しは判り易いだろうか?

 

 このマジノ線に、フランス軍は主力の精鋭部隊を配置。ドイツ軍を万全に体勢で待ち構えていた。

 

 フランス軍の士気は高い。

 

 自分達は決して負けない。

 

 なぜなら、このマジノ線があるのだから。

 

 この無敵の超要塞があれば、ドイツ軍如きが何百万人攻めてこようが負ける事はあり得ない。

 

 奴らがマジノ線に攻め寄せてきたところを、要塞の火力と防御力で撃退。

 

 総崩れになったところに主力軍が打って出て、散々に追い散らしてやるのだ。

 

 まさに、完璧な戦略だった。

 

 やがて、マジノ線のすぐ手前まで攻め寄せてくるドイツ軍。

 

 フランス軍将兵の誰もが固唾をのんで見守る中、ドイツ軍は要塞の射程距離ギリギリのところで進軍を停止した。

 

 それを見て、ある者は満足し、ある者は安堵し、またある者は失笑する。

 

 そら見ろ、奴らは恐れを成して足踏みを始めたぞ。やはりマジノ線は無敵だ。

 

 フランス軍将兵の誰もが、勝利を信じて疑わなかった。

 

 だが、

 

 破滅は音も無く、彼等の背後から忍び寄っていた。

 

 フランス侵攻に先立ち、ドイツ軍はフランス北方に位置する、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーと言った所謂「低地諸国」と呼ばれる国々を攻略。ここに橋頭保を築いていた。

 

 連合軍も勿論、北部方面からドイツ軍が侵攻してくる事を予想し、イギリス軍を主力とする部隊を国境線付近に配置、迎え撃つ体制を整えていた。

 

 だが一点、連合軍側の戦略には大きな穴があった。

 

 フランスの北側に国境が隣接するベルギー。

 

 このベルギー国境にはマジノ線は存在せず、また部隊も二線級の予備部隊を少数配置していたのみだった。

 

 これには理由があり、まずマジノ線が延長されなかった点については、隣国ベルギーを刺激したくないと言う、フランス政府の政治的配慮があったからである。マジノ線はあくまでドイツ軍に対する備えであり、下手にベルギー国境まで広げて、隣国に警戒心を与えたくないと言うのがフランス政府の思惑だった。

 

 更にもう一つ。

 

 フランスとベルギー国境には、広大な面積を誇る「アルデンヌの森」が存在している。

 

 ここは海抜350メートルから500メートルの高地に存在し、鬱蒼とした森林地帯となっている。中には湿地帯も多数存在し、軍隊の通行は不可能と考えられていた。

 

 その為、連合軍はアルデンヌ方面に戦力を殆ど回さず、防御陣地も、要塞とは名ばかりの、土嚢や鉄条網が若干数存在するだけだった。

 

 誰もがまさかと思う事。

 

 だが、

 

 その「まさか」が起こってしまった。

 

 開戦から3日後の5月13日。

 

 機甲部隊を中心にしたドイツA軍集団が突如、この絶対不可能と言われたアルデンヌの森を突破。

 

 貧弱な防御陣地しか持たない守備部隊を、殆ど一瞬で撃破し、連合軍左翼部隊の背後に回り込んだのである。

 

 A軍集団は絶大な機動性を活かして、英仏海峡方面へと転進、連合軍左翼を構成するイギリス大陸派遣軍の背後から攻撃を加えた。

 

 慌てたのは連合軍である。

 

 全く予期していなかった方向から、まさかの攻撃を受けた事で、完全に大混乱に陥ってしまった。

 

 ただちにパリ方面へ後退しようとする連合軍だったが、パリへの退路は既にA軍集団によって封鎖されている。

 

 更に、低地諸国を席巻したドイツB軍集団が彼等の正面から迫り、A軍集団と連携して包囲体制を構築しようとしていた。

 

 連合軍は、完全に追い詰められた形だった。

 

 一方その頃、マジノ線周辺は不気味なくらいに平和な状態が続いていた。

 

 ドイツ軍の残る1群、マジノ線前面に展開したC軍集団は、遠巻きに要塞を眺めるだけで、一切攻撃を仕掛けてくる素振りは無い。

 

 それに対し、マジノ線に配置されたフランス軍主力は、身動きが取れなかった。

 

 もし今、友軍救援の為にマジノ線から後退すれば、正面のC軍集団がマジノ線に総攻撃を仕掛けることは間違いない。

 

 無敵の要塞が無敵足り得るのは、援護してくれる機動戦力の存在があればこそである。機動戦力の無い要塞など、文字通りの袋のネズミだった。

 

 勿論、フランス軍側からドイツ軍側へ逆侵攻を仕掛ける事も出来ない。そうなれば、折角の要塞の利点を捨てる事になるばかりか、手ぐすね引いて待ち構えているC軍集団から集中攻撃を喰らう事は目に見えていた。

 

 ドイツ軍も馬鹿ではない。

 

 そもそもC軍集団の目的は、マジノ線方面のフランス軍を引き付けて拘束する事にある。

 

 彼等はマジノ線の存在は当然、戦前から知っていた。

 

 そこに無敵の要塞があるからと言って、何も正面から仕掛ける必要など微塵もない。

 

 どのみち要塞は動けないのだから、適当にけん制して身動きできないようにしてしまえば良い。その間に別働した部隊が背後に回り込んでしまえば要塞の意味は無くなるのだから。

 

 退く事も、攻める事も出来ず、フランス軍主力は完全に進退窮まってしまった。

 

 ドイツ軍によるアルデンヌ奇襲。

 

 その作戦構想自体は、第1次世界大戦以前から存在していた。

 

 1905年、当時のドイツ軍参謀総長アルフレート・シュリーフェンによって提唱された作戦案、所謂「シュリーフェン・プラン」が元となっている。

 

 この「シュリーフェン・プラン」では、右翼の戦線を強化し、地図上で反時計回りに進軍して敵の背後を突く事になっていた。

 

 まさに、今回のフランス侵攻と同じ形である。

 

 だが、そのシュリーフェン・プランに、更なる修正を加えた者がいる。

 

 彼は敵が兵力をアルデンヌ近辺に戦力を殆ど配置していない事を見抜き、敢えて、不可能と言われたアルデンヌ突破を作戦案に盛り込んだのだ。

 

 その人物こそ、後にドイツ第三帝国最高の名将と称えられる事になるアルフレート・マンシュタイン将軍だった。

 

 当初、マンシュタインの案は実現不可能と判断され、陸軍内部では誰も見向きもしなかった。

 

 しかし、その独自性と発想の柔軟さに目を付け、採用した人物がいる。

 

 誰あろう、総統アドルフ・ヒトラー自身である。

 

 ヒトラー自身、第1次大戦の折、最前線で塹壕戦を戦った経験のある人物。それだけに消耗戦の悲惨さ、虚しさ、非効率性は心得ている。

 

 それだけに、マンシュタインが立案した作戦の意義を正しく理解していた。

 

 もし成功すれば、少ない戦力でフランス軍の戦線を、極短時間の内に突き崩す事が出来る。

 

 そして、事実としてそうなった。

 

 ドイツ軍の機甲部隊に中央突破された連合軍は壊乱状態に陥り、撤退もままならないまま、徐々に海岸線方向へ追い詰められつつあった。

 

 そして、

 

 フランス軍が絶対の自信を持ち、実に300億フランもの予算を掛けて建造したマジノ線はと言えば、

 

 木偶の坊な巨人の如く、戦線の遥か後方で、その無駄にでかいだけの図体を虚しく晒しているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5月も下旬に入り、フランスにおける戦況は、ますますドイツ軍有利に傾いていた。

 

 成す術も無く、蹂躙されていくフランスの大地。

 

 頼みの要塞は役に立たず、兵士たちは虚しく戦場に倒れていく。

 

 悲惨なのは、イギリス大陸派遣軍を中心とした連合軍左翼部隊であろう。

 

 南からは戦線を突破して後方に回り込んだドイツA軍集団が、北からは大軍を擁するB軍集団が迫り、包囲網を狭めようとしている。

 

 5月21日。

 

 連合軍はなけなしの戦力を結集。アラスの地においてドイツ軍への反撃を試みる。

 

 ドイツ軍のA軍集団は、急激な進軍によって連合軍の背後に回り込んだわけだが、逆を言えば、そのせいで戦線から孤立している状態にある。

 

 そこを突き、各個撃破しようと言うのである。

 

 1万5000の戦力で、ドイツ軍に奇襲を仕掛けた連合軍。

 

 しかし、その攻撃は見事に頓挫する事になる。

 

 今回、相手があまりにも悪かったと言わざるを得ない。

 

 この時、攻撃を受けたドイツ軍部隊を指揮していたのは、アルフォンス・ロンメル将軍。後に「砂漠の狐」の異名で呼ばれる事になる、ドイツ軍きっての名将である。

 

 攻撃によって損害を受けたロンメルだったが、すぐさま体勢を立て直すと、連合軍に対し果敢に反撃。微弱な抵抗を押し返してしまった。

 

 結果、連合軍の反撃は、ドイツ軍に対し僅かな損害を与えたのみで失敗に終わった。

 

 いよいよもって追い詰められる連合軍。

 

 徐々に、海岸線へと押し込まれていく。

 

 その先の地名には、こう書かれていた。

 

 「ダンケルク」

 

 と。

 

 

 

 

 

 陸軍がフランスの大地で快進撃を続ける頃、ドイツ海軍にもまた出撃の命令が下されていた。

 

 目的は、フランス沿岸部に追い込まれつつある、連合軍主力部隊に対する艦砲射撃。

 

 南からはA軍集団が、北からはB軍集団が、そして海上からは艦隊が取り囲み、完全包囲して連合軍を殲滅する作戦だった。

 

 キール軍港を出港したドイツ艦隊は、ラインハルト・マルシャル大将指揮の下、カテガット海峡、スケガラック海峡を抜け、オランダ北方海域に出た。

 

 このまま進路を南西に取り、フランス沿岸を目指す事になる。

 

 連合軍はダンケルクの海岸に追い詰められつつある、との情報を得ているので、これを捕捉、撃滅するのだ。

 

 よしんば、こちらの動きを察知して、敵が内陸に避退したとしても、既に陸軍が包囲網を敷いているので逃げ場はない。

 

 文字通り、袋のネズミだった。

 

 出撃したドイツ艦隊の編成は、以下の通りである。

 

 

 

 

 

〇ドイツ海軍 第1艦隊

巡洋戦艦「シャルンホルスト」(総旗艦)「グナイゼナウ」

装甲艦「アドミラル・シェア」

重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」

軽巡洋艦「ニュルンベルク」「ライプツィヒ」

駆逐艦8隻

 

 

 

 

 

 ナルヴィク沖海戦で多数の艦艇を失い、さらに多方面での作戦を展開しなくてはならないドイツ海軍にとって、現状、動かせる艦を総動員しての出撃である。

 

 そんな中で、「シャルンホルスト」の修理が間に合ったのは幸いだった。

 

 イギリス艦隊が阻止行動に出てくる事も予想される関係から、火力が高い艦の参加は望ましいところ。流石に「グナイゼナウ」1隻では心もとないところであった。

 

 徐々にダンケルクへと接近する艦隊。

 

 このまま行けば、陸軍の総攻撃に間に合わせる事が出来る。

 

 誰もが、そう思っていた。

 

 だが、

 

 誰もが予想だにしない事態が、一同に振りかかるのだった。

 

 

 

 

 

「何だ、これッ!?」

 

 手にした電文に目を通したエアルは、思わず声を張り上げる。

 

 艦橋内にいたシャルンホルストやマルシャルが振り返る中、エアルは内容を確認するように、もう一度読み直す。

 

 だが、何度読み直したところで、内容が変わる事は無かった。

 

 険しい顔をするエアルに対し、シャルンホルストが怪訝な面持ちで声を掛ける。

 

「どうしたの、おにーさん? 『お腹を撃たれた刑事』ごっこでもしてるの?」

「いや、そうじゃなくて」

 

 「何じゃそりゃー」と一同が心に思った事をスルーしつつ、エアルから電文の紙を受け取るシャルンホルスト。

 

 そこで、

 

 ふと、エアルとシャルンホルストの目が合う。

 

「「・・・・・・・・・・・・あ」」

 

 共に動きを止めて向かい合う、青年と少女。

 

 思い出すのは、先日の「デート」での事。

 

 あれ以来、エアルとシャルンホルストは、己の内に、自分でも分からない感情を抱え込むようになっていた。

 

 どうしても、相手を意識せずにはいられない。

 

 相手の顔を見るのが、何となく気恥ずかしい。

 

 そんな事を、互いに思っていた。

 

 その為、出撃してからも、事務的なこと以外は、殆ど会話らしい会話もしないまま来てしまった。

 

「シャ、シャル?」

「う、うん、ごめん」

 

 促され、慌てて電文を受け取るシャルンホルスト。

 

 なぜか、お互いに顔が熱くなるのを感じていた。

 

 だが、

 

 渡された電文の内容を読むなり、少女も顔を険しくする。

 

「提督、これ」

「見せてみろ」

 

 シャルンホルストから電文を受け取ると、マルシャルも素早く読み進める。

 

 その顔は、2人同様、すぐに険しい物となった。

 

《だんけるく突入ハ中止トス。第1艦隊ハ、直チニきーるヘ帰投セヨ》

 

 電文には、そう書かれていた。

 

 帰投。

 

 即ち、作戦自体を中止する事を意味している。

 

 今更なぜ? と思う。

 

 既に陸上での包囲網は完成しつつある。ここで艦隊が突入すれば、敵は逃げ場を失う事になる。

 

 後は逃げ場を失った敵を、包囲殲滅するのみ。

 

 まさに完璧な作戦。

 

 なのになぜ? と思う。

 

 なぜ今、作戦を中止する必要があるのか?

 

「敵の偽電の可能性は?」

 

 問いかけるマルシャル。

 

 追い詰められた敵が、時間を稼ぐために偽の電文を打ち、こちらの混乱を狙った可能性はある。

 

 だが、

 

「あり得ません」

 

 エアルは言下に否定した。

 

「発信符牒が友軍の物です。それに、我が軍の暗号を、敵が解読できたとも思えませんし」

 

 ドイツ軍の暗号文は全て「エニグマ暗号機」と呼ばれる、高性能暗号機によって作成されている。

 

 これは第2次大戦当時、世界最高とも言われた暗号機であり、ドイツ軍の快進撃の裏には、このエニグマ暗号機の存在が大きかった。

 

 つまり、この電文は、間違いなく正式な命令である事を現している。

 

「どうするの、提督? おにーさん?」

 

 問いかけるシャルンホルスト。

 

 艦隊の現在、オランダ沖を航行している。明日にはダンケルクへ突入する予定になっているのだが、作戦中止ならば、ここから引き返す必要が出てくる。

 

 暫く考えた後、マルシャルは顔を上げた。

 

「全艦に通達。右一斉回答、進路0―0―0」

 

 それは真北を現す方位だった。

 

「一旦、北に転進して様子を見る事とする」

 

 マルシャルとしては、もしかしたら命令の撤回があるかもしれないと考えていた。

 

 その為、完全に進路を反転させるのではなく、暫く様子を見て、再度の命令に備えようと考えたのだ。

 

 艦を右に振り、進路を北へと向ける「シャルンホルスト」以下、ドイツ艦隊。

 

 進路はやがて完全に北へと向き、陸地から遠ざかっていくのだった。

 

 

 

 

 

 一方、

 

 総統官邸の執務室において、総統アドルフ・ヒトラーが、受話器の向こうの人物に対し、静かな口調で語り掛けていた。

 

「そうだ。進軍停止だ。そう命じるように。良いな。理由だと? 余が命じた。それ以上の理由が必要とでも言うのか?」

 

 戸惑う相手を、強引にねじ伏せる論法。

 

 相手も、国家最高権力者とあっては、引かざるを得ないところだろう。

 

 傍らでやり取りを聞いているウォルフは、無言のまま直立不動を保っている。

 

 通話の相手は、国防軍最高司令官のカイテル元帥。

 

 ヒトラーはカイテルに対し、陸軍部隊の即時進軍停止と、海軍部隊の反転帰投を命じていた。

 

 やがて、通話を終えたヒトラーは受話器を置く。

 

 視線はウォルフ、

 

 ではなく、自身の目の前に立つ、もう1人の人物へと向けられた。

 

「これで良かったのだな、ゲーリング」

「ハッ ありがとうございます、総統閣下!!」

 

 答えたのは、大柄な軍服姿の男。

 

 空軍最高司令官ヘルムート・ゲーリング国家元帥。

 

 ドイツ空軍(ルフトバッフェ)の最高司令官であり、ヒトラーの側近中の側近。

 

 事実上、ナチス党のナンバー2と目される人物である。

 

 先の大戦時には自ら戦闘機を駆って戦場に立ち、多数の敵機を撃墜したエースパイロットでもある。

 

 ゲーリングは、ナチス式の敬礼をヒトラーに向ける。

 

「言った以上は、期待に応えてもらうぞ。良いな?」

「お任せください。必ずや、憎き連合軍を、ドーバーの荒波に追い落して御覧に入れます。では、ハイル・ヒトラー!!」

 

 耳に響くような大声と共に、退室するゲーリング。

 

 執務室を出ると、すぐに待機していた自身の副官に告げる。

 

「直ちに空軍全部隊に通達しろッ 《稼働全航空機を持って、ダンケルクの連合軍部隊を殲滅せよ》と。急げ!!」

「ハッ」

 

 ナチス式の敬礼をして、踵を返す副官。

 

 その背中を見送りながら、ゲーリングはほくそ笑んだ。

 

 これで良い。

 

 既に連合軍の命運は風前の灯火となっている。ここで我が精鋭の空軍が攻撃を仕掛ければ、奴らは総崩れになる事は必定だった。

 

 ゲーリングはヒトラーに対して言った。

 

 空軍の戦力を持って航空総攻撃を仕掛ければ、ダンケルクに追い詰められた連合軍を、一兵残らず殲滅してご覧に入れます、と。

 

 そう、

 

 陸軍でも、海軍でもない。

 

 自分が率いる空軍が、連合軍の主力部隊を殲滅するのだ。

 

 成功すれば、誰にも並ぶ事の出来ない、大手柄となる事だろう。

 

 そうなれば、最早誰も、自分の地位を脅かす事はできない。

 

 実のところ、ゲーリングがヒトラーに対し、このような提案をしたのは戦略的な展望があったからでも、戦術的な有効性を確信していたからでもない。

 

 早い話、嫉妬だった。

 

 誰に対してか?

 

 それは、海軍と陸軍に対してだった。

 

 この欧州の戦いにおいて、常に主役は陸軍だった。

 

 陸軍は開戦と同時にポーランドに電撃的侵攻を成功させたのを皮切りに、ノルウェー、低地諸国、更にはかつての宿敵である、大国フランスをも打倒しようとしている。

 

 海軍もまた、Uボートを始めとした通商破壊部隊が連合国の補給線を脅かし、更にはラプラタ沖、ノルウェー沖において、ヨーロッパ最強のイギリス海軍相手に勝利を収めている。

 

 空軍だけなのだ。

 

 「空軍単独での勝利」を持たないのは。

 

 勿論、言うまでもない事だが、これまでの戦いで空軍が果たした役割は計り知れない。

 

 ポーランドやノルウェー、更に今回のフランス侵攻における陸軍の電撃的な侵攻作戦の成功には、空軍の援護が大きな役割を果たしたしている。

 

 ドイツ軍の中で、空軍は確かに大きな役割を担っているのは間違いなかった。

 

 むしろ空軍なくして、ドイツ軍の勝利は無かったと言っても過言ではない。

 

 だがそれでも、ゲーリングは不満だった。

 

 自他ともに認めるナチス・ナンバー2である自分が率いる空軍が、陸軍や海軍の後塵に配される事が我慢ならなかった。

 

 そもそも軍隊の性質上、重要度が高いのは、防衛戦力として必要不可欠な陸軍、次いで物資や人員を大量に運搬する航路を守るための海軍となる。空軍は、どうしても、それら2軍の「支援部隊」としての役割の方が大きいのも事実だった。

 

 だが、そんな事はゲーリングには関係無かった。

 

 とにかく、自分の空軍が活躍しない事が我慢ならなかったのだ。

 

「今に見ていろ。真にこのドイツ軍の主役は我が空軍であると言う事を、全世界に知らしめてやる」

 

 大きな声で独り言を言いながら、ゲーリングは大股で歩いていくのだった。

 

 

 

 

 

 一方、総統執務室では、

 

 出ていくゲーリングの後ろ姿を見送った後、ウォルフはヒトラーに向き直った。

 

「よろしかったのですか閣下? あのような御命令をお出しになって?」

 

 ウォルフの目から見ても、あと一息で連合軍の撃破が成る事は明白だった。

 

 陸と海から包囲して殲滅する。

 

 戦略としては、この上ないほどに完璧に見える。

 

 わざわざ包囲網の完成に「待った」を掛けてまで、空軍に花を持たせる必要はないと思うのだが。

 

 尋ねるウォルフに対し、ヒトラーは口髭の下で笑みを浮かべながら言った。

 

「我が友、ウォルフよ、君は確かに海軍の戦略には明るいかもしれぬ。だが、『戦争経済』と言う観点から見れば、まだまだ余に敵わぬな」

 

 そう言うとヒトラーは立ち上がり、壁に掛けられている地図に歩み寄った。

 

 その一点、

 

 ダンケルクの海岸が示された場所に、ドイツ軍の戦力が集中しているのが判る。

 

 更に北海海上には、海軍の第1艦隊を示すピンも刺さっていた。

 

「確かに、陸軍と海軍で包囲殲滅すれば勝利する事も出来よう。しかしその場合、敵の抵抗にあって我が軍にも相応の被害が出る事が予測として出ている。何より、急な進軍で、前線への兵站が滞り始めていると聞く」

 

 ヒトラーの言う事は間違いではない。

 

 フランス侵攻時におけるドイツ軍の作戦行動は、攻勢においても「電撃戦が最も成功した例」として挙げられるほどに鮮やかな勝ち戦だった。

 

 しかし反面、電撃戦と言うのはとかく物資を食う戦術でもある。

 

 何しろ軍は常に前進しているのだから、物資を絶えず前線に送り届ける必要が出てくる。

 

 前線で物資を大量に消費するせいで、兵站があっという間に伸び切ってしまうのだ。

 

 そのせいで既に、ドイツ軍の兵站部門は火の車と言った感じになっている。

 

「さらに言えば、先のアラスの戦いから見ても分かる通り、連合軍にも未だに一定の反撃能力がある事が判明した。いたずらに攻撃を仕掛け、損害を出せば、この後にも差し支える事になろう」

 

 ヒトラーの言う「この後」と言うのが、何を差しているのか、ウォルフには判然としない。

 

 当面の敵であるイギリスを差しているのか?

 

 あるいは、その後ろ盾であるアメリカか?

 

 あるいは、それとも・・・・・・

 

「だが、もし、空軍が連合軍の殲滅に成功すれば、損失も兵站も最小限で済む。だからこそ余は、ゲーリングの提案に乗る事にしたのだ。判るな?」

「ハッ 総統閣下の御慧眼、感服いたしました」

 

 そう言って引き下がるウォルフ。

 

 だが、

 

 内心では、果たしてそううまく行くのかどうか、

 

 疑問を感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第15話「黄の場合」      終わり

 




作中の、マジノ線と大和の予算比較ですが、

適当、

ではないのですが、間違いないか? と言われれば自信はありません(爆

何しろ、当時のフランスフランを、日本円に直接換算する計算式がどうしても見つからないので。

一応、1949年当時の米ドルに換算する形で計算してみました。

まあ、大和の建造費は日本円で1億3000万である事を考えれば、当たらずと言えども遠からずなんじゃないか、と思っています。

世界最大と言っても、大和はまだ「船」のカテゴリから逸脱してませんからね。

それに対して、マジノ線のデカさは異常ですよ(笑

ロマンはあると思いますけどね。どっちも。
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