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怒涛の如き砲撃が、国境線を火焔地獄へと変じる。
慌てふためく敵兵を鋼鉄の悍馬が蹂躙し、精鋭たる兵士達が敵兵士達を次々と打ち倒す。
圧倒的なまでの進軍。
鋼鉄と炎の波を押し留める事は、誰にもできはしなかった。
1941年6月22日。
この日、ドイツ第3帝国総統アドルフ・ヒトラーは突如、独ソ不可侵条約を一方的に破棄。
国境線に集結した陸軍全部隊に対し、一斉攻撃を命じた。
対ソ侵攻作戦発動。
ドイツ軍は雪崩を打って、ソ連領に侵攻を始めた。
後の世に「史上最大の陸戦」と呼ばれる「バルバロッサ作戦」が開始された。
ドイツ軍は部隊を3つに分け、中央軍集団はソ連首都モスクワ攻略を、北方軍集団はバルト海周囲の制海権確保の為、レニングラード攻略を、南方軍集団は兵站確保の為、ウクライナの穀倉地帯制圧を目指した。
ドイツ軍がこの作戦に投入した戦力は、総勢で150個師団300万人。戦車3500両。
この時期、ドイツ軍が投入可能な全戦力がバルバロッサ作戦に参加していると言っても過言ではない。
これは、ヒトラーがいかに、この作戦を重要視しているかが分かる数字だった。
ヒトラーは戦前から、ソ連の人口の大半を占めるスラブ系民族を「不倶戴天の敵」と公言し、いずれは決着を付けなくてはならない相手と言ってはばからなかった。
さらに言えば、広大なソ連領からスラブ民族を追い出し、いずれはゲルマン民族の定住の地とする事を目標にしていた。
ヒトラーからすれば、対ソ開戦は必然の事例であったと言えよう。
対して、ソ連軍の動きは、いっそ奇妙に思えるほどに鈍かった。
ドイツ軍が攻撃を開始した時、それに対応して反撃に転じたソ連軍部隊は皆無だった。
彼等は一切、ドイツ軍の作戦行動を察知できなかったのだ。
おかしな話だがこの時期、ソ連書記長のヨーゼフ・スターリンは、敵であるヒトラーの事を「信頼」しきっていたとしか思えない行動を取っている。
いくら部下がドイツ軍の侵攻について警鐘を鳴らしても聞く耳を持たず、ソ独国境線の防備を強化するべきとの意見にも耳を貸さなかった。
ドイツがソ連に攻撃を仕掛けてくるなどあり得ない。
ドイツとの戦争など、考える必要もない。
ドイツとの信頼関係は完璧だ。
そう言って憚らなかった。
トップがそのような方針である為、当然ながらソ連軍の国境防衛線は、構築すらされる事は無かった。
とある軍司令官などは、観劇の最中に部下からドイツ軍が国境線に集結していると言う報告を齎されたが、「そんな事はあり得ない」と一蹴したうえで、観劇の邪魔だからと部下を追い返してしまった。彼はその後、ドイツ軍に対するスパイ容疑を掛けられて銃殺されている。
その為、ソ連軍はドイツ軍に対する情報収集はおろか、国境守備隊の増強すら行えていない状態だったのだ。
そこへ、ドイツ軍主力が容赦なく叩き付けられたのだ。堪った物ではなかった。
初日の戦闘だけでソ連軍の国境守備隊は壊滅。独ソ国境は、ドイツ側の手に落ちた。
その後、僅か2週間の戦闘で、ソ連軍は65万の将兵と3500機の航空機、大砲12000門と200以上の拠点を失った。
初戦の戦いは、ドイツ軍の圧勝となったのである。
なぜ、これ程までに一方的な戦いになったのか。
それはソ連側の初期対応の遅延以外にも、大きな要因があった。
実はこの時期、ソ連軍は内ゲバによって内部崩壊を起こしていると言っても過言ではなかった。
原因は、
彼等のトップたる、書記長ヨーゼフ・スターリンにあった。
独裁者の性格として、猜疑心が強いタイプが稀にいるが、スターリンはその典型的見本だった。
ソ連のトップに立ったスターリンは、自分の地位をわずかでも脅かす存在がいる事に我慢ならなかった。
自分の周囲は1000パーセント、否、1万パーセント安全でないと気が済まなかったのだ。
その為、スターリンは己の政敵となりそうな人物に片っ端から目を付け、その全てを逮捕、粛清していった。
「ボリショイ・テロル」の名で知られるこの大粛清劇はソ連全土に及んだ。
「秩序を保つ為」との名目から密告も奨励され、摘発を受けた人間はその身の白黒も関係なく、裁判無しで処刑される事も珍しくはなかった。
粛清の波は当然、軍部をも飲み込むことになる。
数々の輝かしい功績から「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」などと呼ばれた名将トハチェフスキー元帥を初め、多くの将星が言われなき罪で処刑されていった。ただ、スターリン自身の権威を守る為だけに。
大佐以上の階級を持つ人間の内、実に60パーセントが粛清されたと言うから、馬鹿げているとしか言いようがない。
残っているのは一部、スターリンから奇跡的に信任されている者以外は、二線級、三線級の将帥ばかり。
そのような状況である為、バルバロッサ作戦が開始された時、ソ連軍は形ばかりは立派だが、その内実は殆ど形骸化していたのだ。
ヒトラーは開戦に当たり「腐った納屋は、入り口を一蹴りしただけで崩壊するだろう」と言ったが、その表現は、あながち誇張ではなかったと言う訳である。
ところで、
快進撃を続けるドイツ軍。
一見すると、バルバロッサ作戦は順調に推移しているようにも見える。
しかし実のところ、そのスケジュールについては、開戦前から既に大きな狂いが生じていた。
そもそも、バルバロッサ作戦は本来、1カ月以上早い5月17日に開始される予定だった。これは、ロシアの厳しい冬が来る前に決着をつけてしまおうと言う思惑があった為である。
しかし、実際の開戦日は6月22日だった。
なぜ、1カ月も遅れたのか。
その事について説明する為には、聊か時を遡らなくてはならない。
1940年9月7日。
時期的にはドーバー海峡を挟み、バトル・オブ・ブリテンが激しく戦われていた頃の事。
ドイツの同盟国たるイタリア王国が突如、英領エジプトへの侵攻を開始した。
イギリスは当時、ドイツ軍に本国を激しく攻められ、植民地の防衛にまで手が回らない状態だった。
その隙に攻め込めば、楽にエジプトを取れるだろう。と言うのがイタリア側の魂胆だった。
イタリア軍はこの戦いに主力軍を投入。その総兵力は23万。
対するイギリス軍は、エジプト軍と合わせても僅か7万。
戦いはイタリア軍の圧倒的勝利に終わるかと思われた。
しかし、自領のリビアからエジプトへ侵攻したイタリア軍は、国境からわずか100キロ進軍したところで停止してしまった。
理由は、イタリア軍は機械化率が低く、広大な砂漠を徒歩での移動が中心だった事。補給が滞った事。装備が貧弱だった事が上げられる。
更に、本来なら北アフリカ戦線に投入されるはずだった戦車1000両を、イタリア首相ベニト・ムッソリーニの命令により、同時期に行われたギリシャ戦線へ勝手に転用される始末。
しかも勝てるならまだしも、そちらの戦線も、優勢なイタリア軍が弱小のギリシャ軍相手に惨敗を喫して撤退を余儀なくされているのだから始末に負えない。
一方のイギリス軍は、数でこそイタリア軍に劣っているものの、装備は最新の重火器や戦車、航空機を投入。補給に関しても、後方拠点である要塞都市トブルクから続々と送られるため、潤沢に備蓄されている状態だった。
イタリアが手を拱いているうちに、イギリス軍は「コンパス作戦」を発動。進軍が停滞しているイタリア軍に対し包囲攻撃を開始した。
この戦いでイタリア軍は1万5000人もの戦死者と10万人以上の捕虜を出して壊滅。呆気なくリビアまで押し返されてしまう。
それどころか、余勢を駆って攻め込んできたイギリス軍に、リビアまで取られそうな勢いだった。
この、イタリアの壊乱振りに憂慮したヒトラーは、仕方なく増援部隊を送り込むことになる。
フランス侵攻作戦で活躍したアルフォンス・ロンメル将軍に3万の兵を預けて「
リビアに到着したロンメルは、寡兵ながら、あらゆる情報、状況、戦力、地形を駆使して巧みな迂回機動戦術を展開、イギリス軍を翻弄した。
神出鬼没かつ、徹底的な攻撃でイギリス軍に着実に打撃を与えるロンメル。
その様は、まるで狡猾な獣を彷彿させることから、ロンメルは「砂漠の狐」と言う異名で呼ばれ、味方は勿論、敵であるイギリス軍からも賞賛を受けるほどだった。
ロンメルの増援によって、何とか持ち直した北アフリカ戦線。
これを受けヒトラーは、ようやくバルバロッサ作戦の発動準備を命令した。
ヒトラーの命令を受け、まずはルーマニアに侵攻するドイツ軍。
ルーマニアには広大な油田地帯があり、これを制圧する事で、ソ連侵攻時の油を確保しようと考えたのだ。
だがそこで、思いもかけない事態が勃発した。
北アフリカで苦戦中だったはずのイタリア軍が突如、何の前触れもなく隣国ギリシャに本格的な侵攻を開始したのだ。
これにはヒトラーも仰天したほどである。彼もまた、そのような報告は受けていなかったのだ。
なぜ、この時期にイタリアがギリシャに侵攻したのか?
それは、政治的な要因があったからでもなく、戦略的な展望があったからでもない。
理由は、首相ベニト・ムッソリーニの、ヒトラーに対する見栄。要するに「嫉妬」が原因だった。
そもそも「ファシズム」の語源は、元はムッソリーニが率いるファシスト党から来ていた。つまり、かつてヨーロッパ情勢の中心には、間違いなくムッソリーニがいたのだ。
しかし、ヒトラーと、彼に率いられたナチス党、それらを中心としたドイツの躍進によって、イタリアとムッソリーニは完全に脇に追いやられてしまった感がある。
そんな事は許さない。あんなピエロ(ヒトラー)が、自分よりも上に立つなど許さない。目の物を見せてやる。
イタリアは曲がりなりにも大国、列強の一角。対してギリシャは小国に過ぎない。先年はちょっとだけ苦戦したが、こちらが本気を出せば簡単に勝てるだろう、と言う思惑もあった。
と言う訳で、イタリア軍はムッソリーニの命令の下、苦戦中の北アフリカ戦線を明後日の方向に放り出して、主力軍をアルバニアに集結。一気にギリシャ侵攻を開始したわけである。
が、しかし、
が、
しかし、
である。
イタリア軍の侵攻を受けたギリシャ軍は寡兵ながら、特有の複雑な地形を利用したゲリラ戦を用いて果敢に反撃。それに対し、イタリア軍はろくな抵抗も出来ずに、またもや惨敗。アルバニアまで押し返され、逆に攻め込まれてしまう始末。
このままでは本命のバルバロッサ作戦にも支障が出ると判断したヒトラーは、予定を割いてギリシャへドイツ軍の一部を派遣。苦戦しているイタリア軍を支援して、どうにかギリシャ制圧に成功したのだった。
余談となるが、イタリア軍がなぜこれほどまでに弱いのか。
彼等とて、元をたどれば地中海の覇者たるローマ帝国の末裔である。民族的に考えても強くない筈がない。
理由としては、この時期のイタリアが抱えていた国家体制にあった。
この時期、イタリアは「統一国家としてのイタリア」と言う体は成していたが、その内実は国内に多数の勢力がひしめき合い、寄り合い所帯の様相を呈していたのだ。
言ってしまえば、日本における戦国時代のようなものである。
そのような状況である為、いざ外敵との戦いになっても、他の国と違い、一致団結して事に当たろうと言う気概が薄い国だったと言える。
少々長くなったが、バルバロッサ作戦開始が1カ月以上遅れたのは以上のような理由だった。
しかし、
もし、歴史に詳しい人間がいれば、6月22日と言う日付に、不吉な物を覚えた事だろう。
6月22日。
それは1812年、大失敗に終わったナポレオン・ボナパルトのロシア遠征作戦。その作戦開始が発令された日でもある。
その事を知っている人間からすれば、うすら寒い物を感じずにはいられなかった。
予定通りに行かなかったのは、作戦その物もである。
当初、ドイツ軍は全戦力を一点に集中投入し、一気にロシアの大地を踏破。ソ連首都モスクワを陥落させると言う、中央突破作戦を計画していた。
これは、厳しいロシアの冬が来る前に敵首都を陥とし決着をつけると言う短期決戦方針を達成するための措置である。
しかし、この作戦は、計画の段階である人物から横やりを入れられることになる。
誰あろう。総統アドルフ・ヒトラー本人である。
ヒトラーは「戦争経済の重視」を説き、バルト海の航路安全確保の為、レニングラードの制圧を、更には肥沃な穀倉地帯を確保し、今後の兵站充実を図る為、ウクライナの制圧を加えるよう、軍部に命じたのだ。
ドイツ軍上層部は反対したが、結局はヒトラーの意見が通る形となり、ドイツ軍は3軍に分かれて進軍する事となった。
とは言え、初戦はドイツ軍の大勝利。
その圧倒的なまでの結果を前に、誰もがヒトラーの先見を称えるのだった。
2
7月半ばとなり、ドイツ軍は作戦の第2段階を発動する。
夏季総攻撃。
いよいよソ連領の奥地へと侵攻、夏が終わる前に戦争を終わらせる事を目指す。
初戦と変わらず、圧倒的な快進撃を続けるドイツ軍。
対してソ連軍は大粛清による人材不足に加え、初戦の大敗から立ち直る事が出来ず、ろくな防衛ラインの構築すら出来ないありさまだった。
脆弱なソ連軍を、まるで卵の殻のようにひき潰していくドイツ軍。
だが、
この頃から、戦場において奇妙な状況が見られるようになり始めた。
相変わらず、圧倒的な火力でソ連軍を蹂躙するドイツ軍。
しかし、
その進撃速度は、初期に比べて明らかに鈍り始めたのだ。
突撃してくるソ連軍は、相変わらず弱小。それどころか装備すら行き渡っておらず、中には素手で突撃してくる兵士すらいる有様だ。
ドイツ軍からすれば、落ち着いて引き付けたうえで火力を一気に叩きつければ、殲滅も容易ではない。
しかし、
敵の突撃を防ぎ、進路クリア。
指揮官が前進を命令する。
直後に、ソ連軍の第2波が迫ってくる。しかも、第1波と同規模の戦力で。
ドイツ軍は再び足を止め、迎撃を行わざるを得なくなる。
そして第2波を撃破。
前進を命じようとした時には、既に第3波が、その後方からは第4波が迫っている、と言った有様だった。
やがて、銃弾が尽きたドイツ軍は、一時的に後退せざるを得なくなる。
人海戦術。
ソ連軍は、国中の農村から、男と言う男を強制的に引っ張ってくると、補給不足から武器もろくに持たせずに最前線に立たせ、ドイツ軍に向かって無理やり突撃させたのだ。
勿論、そのような状態である為、ソ連軍の士気は恐ろしいほど低く、中には逃亡を企てようとする兵士も少なくはない。
だが、そのように戦線を放棄する者には、背中から容赦なく銃撃が浴びせられた。
ソ連軍は前線部隊の後方に督戦隊を配置し、逃亡する兵士を片っ端から銃殺し前線を維持させたのだ。
これは非道かつ外道のやり口だが、この状況下では同時に最適解の一つでもある。劣勢の軍では、とかく兵士の逃亡が目立つ。そうした逃亡兵が続出すれば軍その物の崩壊にも繋がる。
だからこそ「逃げればこうなる」と言う事を具体的に知らしめるのは非常な有効な手段だった。
ソ連軍がとにかく欲したのは「時間」だった。
現在、後方では粛清を免れた将軍たちを呼び戻して復職させ、軍組織の立て直しが図られている。
態勢を立て直すまでの間、どうにかしてドイツ軍の侵攻を抑える必要があった。
更に、時間を稼ぎ、冬が来れば、寒さに慣れていないドイツ軍はそれだけで進軍を止めざるを得ないのは目に見えていた。
とにかく時間さえ稼げば勝てる。
それがソ連軍将兵の共通認識である。
兵士達も、味方に背中から撃たれるくらいなら、前進して敵兵と戦って死のうと考える者が多かった。
愛する者や祖国を守りたいと言う気持ちは、ドイツ兵もソ連兵も同じだった。
それでも、中央軍集団の進撃はまだ順調だった。
ヨーロッパからモスクワまでの道のりは舗装された道路が多く、中央軍集団は順調に進軍する事が出来たのだ。
しかし、悪路を行かなくてはならない北方軍集団と南方軍集団は、更に進軍が落ちた。
自慢の機甲師団も、悪路に足を取られて進めなくなる有様だった。
そこへ、強力なソ連軍の戦車部隊が砲撃を仕掛け、ドイツ軍の進軍は停滞を余儀なくされた。
ドイツ機甲部隊の戦車と言えば強力と言うイメージがあるかもしれないが、この時期のドイツ軍戦車はⅣ号、Ⅲ号と言った中、小型の戦車が主力となっていた。
より強力なⅤ号パンター、Ⅵ号ティーガーと言った大型戦車が戦線に登場するのは、まだまだ先の話だった。
それでもⅣ号戦車は、まだしも設計に余裕があった為、砲を強力な物に換装するなどの改良が施され、その後もドイツ機甲師団の主力であり続けた。
しかしⅢ号戦車の方はそのような余裕もなく、ここに来て完全に力不足を露呈。この後、急速に戦場から姿を消して行く事になる。
対して、ソ連軍が戦線に投入した中型戦車T―34は、強力な砲火力と装甲を備えている上に、悪路での運用を想定して履帯を幅広く取るなどの設計がされている。劣勢のソ連軍だが、T―34の活躍もあり、しばしばドイツ軍を圧倒した。
これらの状況を受け、ドイツ軍上層部は再度、ヒトラーに上奏する。
この際だから、進撃が遅延している北方と南方の戦線を縮小し、中央軍集団に戦力を集中して一気に突破を図るべきだ、と。
今からでも遅くない。敵の首都さえ落としてしまえば、この戦争はこちらの勝ちだ。いかに地方の敵軍が粘ったとしても意味はないのだから。
諸将がこぞって、中央への戦力集中を具申する。
それら意見を真摯に聞き入るヒトラー。
そして、全ての意見を聞き終えた上で決断を下した。
「中央軍集団から、苦戦中の北方軍集団と南方軍集団へ援軍を供出せよ」
諸将が仰天したのは言うまでもないだろう。
北と南を放棄しろと言う皆の意見に対し、ヒトラーは真逆の事を言ったのだ。
これには陸軍上層部全員が反対意見を出し、更には当の援軍を受け取る側である、北方軍集団司令部と南方軍集団司令部からも反対意見が出た程だった。
だが、ヒトラーは諸将の意見を頑として受け入れず、結局援軍は送られる事となった。
その結果、どうなったか?
戦力を引き抜かれた結果、それまで順調に進軍していた中央軍集団まで、進行速度が停滞してしまったのだ。
そのような中、南方軍集団はウクライナ首都キエフへの攻撃を開始する。
ここを陥落させればウクライナ制圧は成ったも同然であり、南方軍集団は戦略目標をほぼ達成。以後は中央軍集団の援護に回る事も期待された。
ソ連軍も、キエフの陥落が重大な事態を招く事は認識している。それ故に主力軍を配置して、籠城戦の構えを見せていた。
ところで、
強固な城砦を攻め落とす際、どのような戦術が有効だろうか?
四方を徹底的に取り囲み、火力に任せて殲滅するか?
敵軍の殲滅や、敵将の捕殺が目的ならそうすべきだろう。
しかし今回、南方軍集団に求められるのは、キエフの速やかな制圧である。
人間心理と言うのは不思議なもので、四方を完全に包囲されると、却って頑強に抵抗しようとするものだ。
「逃げられないならば、せめて徹底的に抵抗して一矢報いてやろう」
「どうせ死ぬなら、敵に一泡吹かしてから死んでやろう」
そう考える物である。
あるいはもっと前向きに、「どこかに包囲網のほころびがあり、そこを一点突破すれば、生き延びる道もあるかもしれない」「時間を稼げば味方が援軍に来てくれる可能性もある」と考えるかもしれない。
故に、四方を取り囲めば却って無駄な抵抗を呼び、包囲軍の方が思わぬ損害を被る事も有り得る。
では、どうするか?
一つの手段として、三方向を囲むが、残る一方はわざと包囲網を開けておく、と言う手段がある。
先の話とは逆に、包囲網に穴があれば、守備隊の心理は却って脆くなる。
要するに「ヤバくなったら、あちらから逃げればいい」と思ってしまうのだ。
そしていざ戦闘が始まれば、そこに恐怖心も加わる。
今は包囲網に穴があるが、直にそこも塞がってしまうかもしれない。そうなる前に、脱出した方が良い。
そう考える兵士が次々と戦線を放棄し、結果、守備隊は瓦解してしまうと言う訳だ。
東洋においてもこの戦術は「
ドイツ軍もキエフ攻略に当たり、包囲網を一部解除し、敵軍の退却を誘発しようと考えた。
先を急ぎたい南方軍集団からすれば、敵の野戦部隊殲滅に時間を取られるよりも、一刻も早くウクライナを制圧して中央軍集団に合流したかったのだ。野戦部隊くらい放置しても、後で中央軍集団と合流すればいくらでも殲滅は可能だった。
だが、キエフ攻略を開始しようとした矢先、ベルリンの総統府から南方軍集団に命令が届く。
曰く「キエフの敵を逃してはならん。一兵残らず殲滅せよ」。
南方軍集団は命令の撤回を求めたが聞き入れられず、仕方なく、四方を囲んだうえで総攻撃を開始した。
結果、
南方軍集団は勝利しキエフは陥落。更にはソ連軍最大の野戦部隊も殲滅する事に成功した。
紛う事無き大勝利。
しかし、
南方軍集団はこの戦いで、本来なら温存できるはずだった兵力と物資を大量に消耗、更には貴重な時間も失った事で、中央軍集団との即時の連携は不可能となってしまった。
戦況は相変わらず、ドイツ軍が優勢に進めている。
しかし、
初めから存在した歯車の狂いは、徐々に大きくなり、軋みを上げ始めていた。
更に、北方と南方に援軍を供出した中央軍集団は、ソ連軍の防衛網を予定日までに打ち破る事が出来ず。
ドイツ軍の企図した夏季総攻撃は失敗に終わった。
3
1941年も9月。
この頃から、ドイツ軍には明確な焦りが見え始めていた。
当初は夏までにモスクワを陥落させ、ソ連を屈服させる計画で始まったバルバロッサ作戦。
しかし、既に夏は過ぎ去り、秋に入ってしまった。
やがて秋が過ぎれば冬が来る。
かつてナポレオンの大軍をも壊滅に追いやったロシアの冬が、すぐそこまで迫っているのだ。
その前に、何としてもモスクワを落とす必要がある。
ヒトラーは中央軍集団に対し、モスクワ攻略作戦「タイフーン」の発動を命じた。
命令を受け、進撃を開始する中央軍集団。
しかし、
既に作戦開始当初の破竹の勢いは、完全に失われていた。
やはり、北方と南方に援軍を送り、戦力が低下した事は大きかった。
モスクワ攻撃に先立つスモレンスク攻防戦において、中央軍集団は多大な損害を被り、長らく行動不能になっていたほどである。
タイフーン作戦開始時、彼等はまだ、戦力を回復させたとは言い難い状況だった。
更に相次ぐ作戦遅延により、ソ連がモスクワ手前に強固な防衛ラインを形成してしまった事も大きかった。
各戦線で多大な損害を出しながらも、ソ連軍は未だドイツ軍を上回る兵力を保持していたのだ。
ソ連軍はその豊富な兵力を活かして、なりふり構わず徹底的な防衛戦を展開した。
ソ連軍の戦略は初期から一貫していた。
とにかく時間を稼いで、冬が来るのを待つ。
「冬将軍」と呼ばれる程、強烈なロシアの冬が来れば、ドイツ軍を撃退する事が出来るのだ。
一方のドイツ軍も、冬将軍の到来は恐れていた。
だからこそ、ソ連軍の防衛ラインに圧倒的な火力で襲い掛かった。
徐々に、
しかし確実に押し始めるドイツ軍。
このまま行けば、作戦を達成できる。
モスクワさえ落とせば、自分達の勝利となる。
ドイツ軍将兵の誰もが、その想いを胸に戦い続ける。
しかし
その望みは、あまりにも残酷に打ち砕かれた。
1941年11月下旬。
モスクワ近郊でドイツ軍とソ連軍が一進一退の激戦を繰り広げる中、
この年、例年よりも早く雪が降り始めたのだ。
降り始めた雪は折からの強風にあおられて吹雪となり、やがて大豪雪となって襲い掛かってきた。
見る見るうちに気温は下がり、氷点下へ。更に、留まる事無く下がり続ける。
この年の最低気温は、観測史上2番目となるマイナス42度を記録。そのあまりの様相から「紅蓮地獄」とまで称される大寒波だった。
物資も、戦車も、航空機も、装備も、次々と凍っていく。
そして無論、人間も。
夏までにモスクワを陥落させる事を目指していたドイツ軍は、ろくな防寒装備を持っておらず、兵士達はたちまち凍傷に掛かり死んでいく者が続出した。
更に、折からの吹雪で物資輸送も滞りがちになり、最前線はたちまち物資不足に陥った。
対するソ連軍は当然、これあるを予期して防寒装備を充実。物資に関しても、アメリカからの武器貸与に加えて、生産拠点をモスクワ後方に移した事で、潤沢に蓄える事に成功している。
航空機も、野戦飛行場に野ざらしのドイツ軍と違い、しっかりと整備された空港を使用できるソ連空軍は、圧倒的な稼働力でもってルフトバッフェを撃破した。
中央軍集団はそれでも奮闘し、モスクワまであと40キロと言う地点まで迫ったが、そこが限界だった。
事ここに至り、諸将は口を揃えてヒトラーに上奏した。
「バルバロッサ作戦は成功の見込み無し。直ちに撤退するべき」と。
だが、ヒトラーは聞き入れなかった。
「全軍、持ち場を死守し、一歩たりとも下がってはならない」
いったい、どうしろと言うのか?
物資は全て凍り付き、補給も無く、兵士達は戦闘ではなく、飢えと寒さでバタバタと死んでいっている。
今や誰の目から見ても、ドイツ軍の戦線維持は不可能。
前線部隊からも、日に何度も撤退の許可を求める通信がもたらされる。
だが、ヒトラーはそれらの通信を無視し、頑として受け入れなかった。
だが、いかにヒトラーが遥か後方のベルリンから叫んだところで、最早どうにもならなかった。
1941年12月中には、中央軍集団と南方軍集団が、
1942年1月には、唯一粘っていた北方軍集団も撤退を開始した。
勿論、これは総統府の命令を待たない、各軍独断による物である。
これに激怒したヒトラー。
ただちに3軍の司令官を更迭すると、自らが全軍の指揮官として直接指揮を執り始めたのだ。
これがいかに、異常な事か、語るまでもないだろう。
ヒトラーは軍事に関しては素人である。
第1次大戦時には軍に所属していたが、それは一兵士として最前線で戦ったのであって、軍を指揮するのに必要な才能があったわけではない。
軍事素人が、最前線に足を運ばず、戦線の実情を見た訳でもなく、ただ安全な後方から好き勝手に口を出すことほど危険な事はない。
だがヒトラーは、己の周りを、自分同様の軍事素人のイエスマンで固め、自らの考えのみを頼りに前線部隊に無理な命令を出し続けた。
結果、
目端の利く指揮官を頂いた部隊は、適当な理由を付けて後退する事に成功したが、ヒトラーの命令を律儀に順守した部隊は、ソ連軍に包囲されて全滅する運命となった。
こうして、バルバロッサ作戦は終結した。
この戦い、ドイツ軍は戦略目標であるソ連打倒ならず敗れ去った。
以後、ヒトラー主導の下、ドイツ国防軍は態勢立て直しに奔走する事になるが、その内実はヒトラーの意志に逆らう事が出来ない、イエスマン集団に成り下がって行くことになる。
一方、勝利したソ連軍だったが、こちらはある意味、ドイツ軍よりも深刻だった。
勝ったとは言え、戦線は終始劣勢であり、損害だけを見れば、ソ連軍はドイツ軍に4倍以上の死傷者を出し、捕虜、戦傷、行方不明者は数十倍にも達する。
開戦前のボリショイテロルと合わせても、態勢を立て直すにはかなりの時間がかかる事は目に見えていた。
だが、
この戦いにおいては、無敵と信じたドイツ軍が喫した初の大敗となる。
それがもたらす意味は、あまりにも大きかった。
4
1941年12月12日。
北の大地で、陸軍が絶望的な戦いを繰り広げている頃。
それよりもはるか西のフランスにおいても戦線が動こうとしていた。
今はドイツ軍が「借用」しているフランス、ブレスト軍港において集結した艦隊。
そのマストには、雄々しく鉄十字が掲げられる。
その旗艦の会議室において、司令官であるウォルフ・アレイザーは、居並ぶ諸将を見渡す。
会議室には参謀長のシュレスビッヒ・ホルシュタインをはじめとした司令部幕僚、更には各艦の艦長や艦娘の姿もある。
無論、ウォルフの息子である、巡洋戦艦「シャルンホルスト」艦長、エアル・アレイザー大佐や、艦娘のシャルンホルストの姿もあった。
「諸君」
一同が揃ったのを確認した後、ウォルフが口を開いた。
「先日、海軍本部より情報が入った。大規模な艦隊に護衛された敵の輸送船団がポーツマス港を出港しつつあるとの事だ。恐らくは北アフリカ戦線支援の為の物資を満載しているものと思われる」
現在、北アフリカ戦線は、ドイツ・イタリア枢軸軍と、イギリス軍を主力とした連合軍が一進一退の攻防を続けている。
ロンメル将軍の活躍により、枢軸軍が戦線を押し返しつつあるが、それでも予断を許される状況ではなかった。
「海軍本部より、第1艦隊の編成命令と、私に対する指揮官の就任命令が届いた」
一同を見回すウォルフ。
その瞳は、かつてないほどに鋭い輝きを放って一同を見る。
そして、言い放った。
「あえて言う。この戦いはライン演習作戦の集大成である」
第44話「傲慢なりし赤髭王」 終わり