1
待機所の椅子に座り、クロウ・アレイザーは手紙を開く。
差出人はグラーフ・ツェッペリン。先ごろまで、クロウが所属していた空母の艦娘である。
内容は、全く彼女らしく、お堅い挨拶から始まり、ちょっとした近況が書き連ねられている。
しかし、最後に
『あなたたちと共にあれた日は素晴らしい時に満ち溢れていた。再会できる日を心待ちにしている』
との一文に、思わずクスッと笑みを漏らした。
まったくもって、真面目な彼女らしい手紙。
しかし、文字の端端から、懐かしさが込み上げてくるようだ。
クロウは現在、上級司令部からの命令により艦を離れていた。
ここは旧ウクライナ領の国境線付近に建設された野戦飛行場。
この場所に今、
「隊長、中隊全機、出撃準備完了しました!!」
「判った、すぐ行く」
部下からの報告を聞き、クロウはツェッペリンからの手紙を胸のポケットに収めると立ち上がった。
滑走路では既に、整然と並んだ戦闘機隊が翼を連ね、飛び立つ時を待ち焦がれていた。
クロウは自身の愛機へと歩み寄る。
メッサーシュミットBf109G。
メッサーシュミットの最新型であり、機首の7.92ミリ機銃2丁に加えて、プロペラ中心部にスイス、エリコン社製の20ミリモーターカノンを搭載した武装強化型である。
劣勢に陥りつつあるルフトバッフェが、状況を挽回すべく戦線に投入した機体だった。
コックピットに収まり、キャノピーを閉める。
やがて下る、出撃のゴーサイン。
「行くぞッ!!」
気合の入った叫びと共に、クロウはメッサーシュミットを加速させた。
1943年7月5日。
独ソ両軍は、稼働全兵力をロシア南西部に集結。通算で3度目となる、大規模会戦に突入した。
ドイツ東部方面軍が投入した兵力は、総勢80万、戦車3000両、航空機2000機。
なりふり構わず、持てるだけの戦力を、ありったけかき集めた感じである。
対するソ連軍は、兵力190万、戦車5000両、航空機2700機。
クロウの部隊も、かき集められた一つである。
ツェルベルス作戦の後、「グラーフ・ツェッペリン」航空隊は一度解隊され、クロウ達戦闘機隊も、グスタフ・レーベンス大尉率いるスツーカ隊も、それぞれ元の所属へと戻っていった。
本音を言えば、まだしばらくは「グラーフ・ツェッペリン」で戦って居たかったのだが、そうも言っていられない事情が迫っていた。
言うまでもなく、スターリングラードでの敗北と第6軍の壊滅である。
主力軍を根こそぎ失った東部方面軍は、戦線の構築はおろか、態勢の立て直しすらできないありさまだった。
ドイツ軍が身動き取れずにいる間、ソ連軍は怒涛の進撃を開始した。
後退するドイツ軍を追って、戦線を押し上げるソ連軍。
このまま一気にドイツ軍の戦線崩壊を狙い攻勢を強める。
しかし、勢いに乗るソ連軍の前に、1人の男が立ちはだかった。
知将アルフレート・マンシュタイン元帥である。
スターリングラードにおいて、第6軍救出に失敗したマンシュタインだったが、その後は撤退に成功した部隊を吸収し、麾下の部隊であるドン軍集団を中心とした南方軍集団を新たに編成、反撃の機会を虎視眈々と狙っていた。
当初、ヒトラーは東部戦線を守るマンシュタインに対し、後退禁止と現地死守を命令していた。
頑迷に領土確保に拘る軍事素人のヒトラーは、ドイツ軍が1ミリでも後退する事を我慢できなかったのだ。
しかし、マンシュタインは、そのヒトラーの命令を受け入れるつもりは毛頭なく、戦線の後退と部隊の最編成を進めていた。
再三の後退禁止命令にも背き続けるマンシュタインに、業を煮やしたヒトラーはとうとう自ら最前線に赴きマンシュタインの説得に当たろうとした。
しかし、それでも現地死守を承知しないマンシュタイン。
そうしているうちに、ソ連軍の砲撃が近づいてきた。
こうなると、ヒトラーも悠長にはしていられない。ぐずぐずしていて砲撃に巻き込まれでもしたら元も子もない。
仕方がなく、説得を諦めて本国へ戻るヒトラー。
ここに、東部戦線の全権は、名将マンシュタインに委ねられた。
しかし、いかなマンシュタインと言えども、物量と火力の差は如何ともしがたく、次々と戦線を放棄して後退せざるを得なかった。
2月16日。
ソ連軍は、ドイツ軍が放棄したハリコフを奪還する。
凱歌を上げるソ連軍。
しかし、
マンシュタインは、この瞬間を待っていたのだ。
ポーランドやフランスでの戦いから、ドイツ軍の得意戦術は電撃戦だと思われがちである。
しかし電撃戦は、相手次第の博打的な側面があり、現にバルバロッサ作戦時には懐の深いソ連領と圧倒的な物量差に阻まれて敗退している。
しかし、ドイツ軍にはより高度で確実性の高い戦術が存在していた。
それこそが「
海戦や空戦にはあまりない概念だが、陸戦には「攻勢限界点」と言う物がある。
これは手持ちの物資、弾薬を使用して進出できる場所と距離を現している。
手持ちの物資が尽きれば、部隊はそれ以上進む事が出来なくなる。その場所が、攻勢限界点と言う訳だ。そうなると、軍隊は補給が来るまで身動きが取れなくなる。
そして、
ドイツ軍の将軍たちは、この攻勢限界点を見極める事に、実に長けていた。
ハリコフを攻略して、一息ついたソ連軍。
そこへ、マンシュタイン率いる南方軍集団が一気に襲い掛かった。
たちまち、大混乱に陥るソ連軍。
反撃したくても、砲弾も燃料も尽き掛けている状況では、効果的な反撃などできようはずも無かった。
怒涛の如く進撃するドイツ軍相手に、ソ連軍は成す術も無かった。
瞬く間にソ連軍の戦線は崩壊。
せっかく奪取したハリコフも、僅か1カ月足らずで、ドイツ軍に再び奪われてしまった。
正に絶技とも言うべき、マンシュタインの戦略により、ソ連軍の攻勢は完全に頓挫してしまった。
だが、そこで終わったわけではない。マンシュタインの目は、既に次を見据えていた。
ハリコフをドイツ軍が奪取した事で、ソ連軍の戦線はハリコフの北にある、クルスクを中心に、一部突出した状態となっていた。
「バルジ」と呼ばれるこの状態は、ソ連軍が危機的な状況に置かれている事を示していた。
戦線と言う物は、均一平行に保ってこそ、防御上の真価を発揮する事が出来る。
一部でも突出部が形成されてしまうと、そこを集中攻撃されて、大打撃を蒙ってしまうからだ。
マンシュタインが目を付けたのが、このクルスクを中心とした、ソ連軍の
ここを攻め落とし、ソ連軍の殲滅に成功すれば、劣勢にある東部戦線を盛り返す事も可能になる。
これが、マンシュタインの狙いだった。
既にドイツ軍には後がない。これが恐らく、ドイツ軍がソ連軍に対して先手を取れる、最後のチャンスだった。
準備を始める東部方面軍。
しかし、そこに待ったが掛けられた。
またしても、総統ヒトラーの横槍である。
ヒトラーは、クルスクに集結したソ連軍、特に機甲師団の量がドイツ軍を上回っている事に危機感を覚えていた。
そこで、自軍にも機甲師団を充実させるように命令を下したのだ。
現在、ドイツ軍はⅥ号戦車「ティーガーⅠ」が、既に実戦配備が完了し、戦線にも配置されている。
ティーガーⅠは、全長8.45メートル、全幅3.71メートル、56口径8.8センチ砲を主砲とし、最高速度は40キロ。
機動性に聊か難があるが、重装甲と高い攻撃力を誇り、ドイツ軍機甲師団の新たなる主力として期待されていた。
更に、開発が遅れていたⅤ号戦車「パンター」も、ようやく量産が開始されたところだ。
全長8.86メートル、全幅3.27メートル、最高速度55キロ、70口径7.5センチ砲を装備する。装甲は最圧部で100ミリにも達し、これまでのソ連軍との戦闘で培われた技術を惜しげもなく投入して完成している。
攻防走の3拍子揃った、パンターはまさに現代戦車の先駆けとも言うべき、画期的な存在だった。
この2種類、特にパンターはヒトラーがかねてより期待をかけていた、新型戦車である。
これらの戦車が十分な数揃い、前線に配備されれば、ソ連軍の機甲師団など恐るるに足らないとヒトラーは考えていた。
しかし、このヒトラーの考えに、マンシュタインはじめ、軍部は反対した。
今しかない。
クルスクを攻めるタイミングは今しかないのだ。
今なら、ソ連軍はクルスクを奪取したばかりである事を考えれば、兵力の集結も陣地の構築も不十分だろう。
それに対してドイツ軍は、マンシュタインの活躍でハリコフを奪還し、戦力も勢いも十分にある。現状の戦力でも十分に勝機はある。
今なら確実にクルスクを取れる。それも、パンターが無くても、だ。
しかし、時間が経てば、ソ連軍はクルスクの守りを固めてしまうだろう。そうなれば、いかにパンターやティーガーⅠを揃えたとしても勝てる見込みはない。
また、別の角度から作戦に反対する者もいた。
装甲師団総監を務めるグデーリアン元帥は、ドイツ機甲師団の中心的な人物であり、戦車部隊による電撃戦の創設者でもある。その指揮能力から「疾風」の異名で呼ばれているほどの名将である。
グデーリアンは、パンター戦車が新兵器特有の初期不良を多数抱えている事を指摘し、作戦その物の中止を求めた。
パンターが搭載している
更に、充分な厚みがある様に思われた装甲も、一部に欠陥があり、その部分に砲弾が直撃すれば、一撃で炎上する恐れがあったのだ。
ヒトラー期待の新型戦車パンターは、しかしこの時点では、兵器としての信頼性に疑問符がある代物だった。
グデーリアンは、それらの懸案事項が解消されるまで、パンターの戦線投入は見合わせるべきだと考えており、また、パンターの実戦配備が間に合わないのなら、作戦その物を中止すべきと主張した。
だが、ヒトラーはそれらの意見を聞き入れなかった。
結局、クルスク奪還作戦はヒトラーの要望通り、機甲師団の充実を待って実施される事となった。
作戦名は「
正にドイツを守る最強の砦が出現した事になる。
当初は5月初旬に作戦開始を予定していたが、ヒトラーの横槍によって結局、7月にまでずれ込んでしまった。
しかし、状況は最早、待つことを許されない。
先に述べた通り、ドイツ軍には後が無いのだ。
全ての不安を振り払い、後の世に「史上最大の戦車戦」と呼ばれる事になる、クルスク会戦は開始された。
2
蒼空に掛かる白い雲を突き破り、メッサーシュミットが飛翔する。
機種にモーターカノンを搭載した事で、これまで以上に強力な機体となった愛機の手ごたえに、クロウは満足感を覚えていた。
自分はやっぱり、この機体が好きだ。
無論、祖国が開発した機体だと言う事もある。
しかし、それ以前にやはり、操縦桿が手になじむ感触は、他の機体では味わえない興奮を齎してくれる。
この機体ならば戦える。
メッサーシュミットに乗っている限り、相手が誰であろうと負けはしない。
そう思わせてくれる機体だった。
やがて、雲の切れ間から無数の黒い点が見え始めた。
翼を連ねてまっすぐに向かってくる機体。
イリューシン、ヤコブレフ、ラボーチキンと言った、ソ連空軍の誇る戦闘機部隊である。
「行くぞッ 攻撃開始!!」
レシーバーに向かって怒鳴ると同時に、クロウはメッサーシュミットの速度を上げた。
突っ込んでくるイリューシンの突撃をかわして機体を急上昇。
反転と同時に、急降下を仕掛ける。
急速に視界の中で大きくなる、イリューシンの機体。
翼に描かれた赤い星が、クロウの目に映った。
次の瞬間、トリガーを引き絞る。
機首に備えられた20ミリモーターカノンが唸り、イリューシンを直撃する。
砕け散るソ連機。
炎を上げて地面に落ちていく機体を見送りながら、クロウはさらに次の目標を探す。
それの戦いは一進一退だった。
数に勝るソ連空軍は、物量でルフトバッフェを圧倒しようとするが、対するドイツ空軍は技量に勝る優位を存分に駆使してソ連軍の防空網を突き破ろうとする。
結果、
独ソ両軍の機体が、無数に火を吹いて地上へと落下していく光景が現出した。
更に、ラボーチキンを1機、イリューシンを1機、撃墜したところで、クロウは一息入れるべく機体を水平飛行に移した。
やはり、良い機体だ。
一部ではモーターカノンを装備した事による機動性の低下を懸念する声もあったが、そもそもメッサーシュミットは、イギリスのスピットファイアのような格闘戦をする為の機体ではなく、高度を上げて一撃離脱戦法を行う為の機体だとクロウは考えている。
それを考えれば、多少の重量増加はこの機体の価値を損なう物ではないと考えていた。
と、
戦場に戻るべく、機体を反転させようとした、その時だった。
「あれはッ!?」
一瞬、地上に目を向けたクロウは、驚いて声を上げた。
地上を走る、無数の砂埃。
その中を怒涛の如く疾駆する黒い影。
間違いない。ソ連軍の機甲師団だ。
その向かう先には、ドイツ軍とソ連軍が砲火を交わす前線が存在している。
多数の戦車部隊が、戦線を迂回してドイツ軍の側面に回り込もうとしているのだ。
「司令部ッ こちらアレイザーッ!! 敵戦車多数接近中、注意されたし!!」
怒鳴るクロウ。
しかし、今から司令部が、陸軍に事態を通報したとして、果たして対応が間に合うかどうか。
ソ連軍は初めから、ドイツ軍の戦線を引き付けて挟撃する作戦だったのだ。
このままでは、ドイツ軍は前方と側面から挟み撃ちにあって、壊滅しかねなかった。
「クソッ 誰か・・・・・・誰か、いないのかッ!?」
あの戦車を止める事が出来る誰か。
その時だった。
《任せろ!!》
鋭く返る、力強い声。
同時に、
1羽の猛禽が、天を舞うのが見えた。
鋭い機首にスマートな機体、大ぶりな翼。
よく見慣れた姿は、ユンカースJu87スツーカだ。
しかし、その両翼には、それまでのスツーカには無かった巨大な大砲が1門ずつ、計2門装備されている。
速度を上げて降下するスツーカ。
同時に、
大砲が火を吹いた。
その一撃で、ドイツ軍を強襲しようとしていたソ連軍の戦車が火を吹いた。
更に、後続のスツーカ隊も攻撃を開始。
ソ連軍戦車部隊は、次々と大口径砲弾を食らい火を吹いていく。
その様子を、信じられない面持ちで見ているクロウ。
「そうか・・・・・・あれが新型のスツーカかッ!!」
ユンカースJu87Gスツーカ。
急降下爆撃機として傑作と言っても良い性能を誇り、ドイツ軍の初期の快進撃を支えたスツーカだったが、時間の経過とともに敵、とくにソ連軍の戦車部隊への対抗が難しくなってきた。
そこで、ドイツ空軍上層部は、スツーカの強化に乗り出した。
様々なアイデアが出され、紆余曲折を経て、開発されたのがGタイプだった。
通称「
爆弾の代わりに、本来なら高射砲として開発された37ミリ砲をガンポッド形式で搭載し、攻撃力を大幅に強化する事に成功した機体だ。
これによりスツーカは、急降下爆撃機から対戦車攻撃機として生まれ変わり、再びドイツ軍の空の守護神として転生した。
ソ連戦車隊に攻撃を仕掛けるスツーカ隊の中で、とりわけ目を引く1機があった。
降下と同時に発砲、敵戦車を撃破すると同時に上昇して離脱、更に流れるような動きで次の攻撃態勢に入る。
荒々しくも鋭い。
無駄な動きは一切せず、ただ狙った獲物は確実に仕留める。
味方でありながら、思わず怖気を振るってしまう。
見る者を惹き付ける機動。
大空のハンターとでも言うべき戦いぶりだ。
その1機のスツーカだけで、既に10両近いT34を撃破している。
「おいおいおいッ」
呆れと共に、賛嘆の声を上げるしかないクロウ。
「誰だよあいつッ スゲーなッ!!」
そう言っている間に、更に1両のT34が、そのスツーカによって餌食となる。
あんな怪物じみた存在が味方にいるとは。
知らずと震えがくる。
《ああ、あれはルーデル大尉の機体ですね》
「ルーデル?」
その名前には、聞き覚えがあった。
ハンス・ルーデル。
「爆撃王」「空の魔王」「ミスター・スツーカ」など、数々の異名を持つ、急降下爆撃隊のエース。
1000回以上の出撃回数を誇り、撃破した戦車、装甲車の数は1000両以上に達すると言う。
ソ連海軍が保有する数少ない戦艦である「ペトロパブロフスク」も、大型爆弾を使用して撃沈に追い込んだことは有名である。
あまりにも大きすぎる戦果。
それ故にソ連書記長ヨーゼフ・スターリンから直々に名指しで「ソ連人民最大の敵」と呼ばれ、賞金首にまでされている程である。
ものの数分で、眼下の地上を走るソ連戦車は1両たりとも存在しなくなってしまった。
やがて、翼内の砲弾を使い切ったらしいルーデルのスツーカが、クロウのメッサーシュミットに近づいてくる。
パイロット席に座る相手が敬礼して来たので、クロウも慌てて敬礼を返す。
パイロットはクロウに笑みを見せると、そのまま翼を翻して去っていく。
その姿を、クロウは感嘆の眼差しで見送るのだった。
3
怒涛の如く進撃するドイツ軍。
ソ連軍突出部を食いちぎるべく、南北から攻勢を掛ける。
その圧倒的な攻撃力を前に、ソ連軍の防御陣地は次々と突破されていく。
ドイツ軍は、このクルスクの戦いに先立ち、機甲師団に新たな戦術を確立していた。
「パンツァー・カイル」と呼ばれるこの戦術は、装甲が厚く防御力が高い重戦車を先頭に立て、中戦車が続行して火力支援、機動性の高い小型戦車が両翼を固める形で進軍する。
突撃時の陣形に奥行きと幅を持たせることで、ソ連軍の砲撃の照準を狂わせる意図があった。
このパンツァー・カイルを用いた突撃は効果を発揮し、ソ連軍の防御陣地を次々と踏み砕いていった。
しかし、ソ連軍もまた、一歩も引かぬ構えでドイツ軍を迎え撃っていた。
ドイツ軍がヒトラーの気まぐれに振り回され、2カ月もの時間を浪費しているうちに、ソ連軍はクルスクを中心に、8重にも及ぶ重厚な防御陣地を構築していた。
ソ連軍がドイツ軍に対抗する為に選択した戦術は「野戦築城」。要するに、時間いっぱい使って、クルスク一帯の平原を強固な要塞陣地に作り変えてしまったのだ。
ソ連軍の陣地は、機関砲陣地、迫撃砲陣地、塹壕、地雷原、対空陣地、狙撃陣地、そしてパックフロントから成る、複合的な構成となっていた。
パックフロントとは、対戦車迎撃陣地の事で、地雷原や擬装陣地であらかじめ戦車が進撃できる場所を限定しておき、隘路に敵が来たところで四方から集中砲火を加えるのだ。
重戦車を撃破するほどの火力は見込めないまでも、ドイツ軍の進撃を食い止め、その足を鈍らせる効果は十分だった。
しかしやはり、両軍ともに華々しい活躍を見せたのは、主役たる戦車部隊だろう。
特にドイツ軍の機甲師団は、主力の名に恥じない活躍を示して居た。
ティーガーⅠ戦車の活躍は凄まじく、その重装甲はソ連軍のあらゆる攻撃を防ぎ留め、その上で88ミリ砲は圧倒的な火力でソ連戦車を撃破した。
中にはたった1両のティーガーⅠで50両のソ連戦車部隊に挑み、22両を撃破、自らは車両と共に帰還した猛者もいたくらいである。
後年、ティーガーⅠこそが、ドイツ戦車の代表であったと言う研究者が多数いた事からも、その活躍ぶりがうかがえる。
一方、パンター戦車も目覚ましい活躍によって、多数の敵戦車を撃破した。
しかし、やはり当初グデーリアン元帥が予見した通りパンターは、解消しきれなかった初期トラブルにより故障する車両が相次ぎ、素晴らしい活躍を示しながらも、最前線で擱座し放棄、果ては鹵獲される車輛が多数に上ったのは、皮肉以外の何物でもなかった事だろう。
こうして、独ソ両軍がクルスクをめぐって激しい攻防戦を繰り広げる。
だが、
変化は唐突に訪れる事になる。
1943年7月13日。
「作戦中止って、どういうことですかッ!?」
食って掛かるクロウ。
相手は戦闘機部隊の指揮官で、クロウの上官に当たる。
本来なら、たてつくような真似は許されない。
しかし、そんな事が関係ないくらい、今のクロウは激高していた。
「納得いきませんッ」
「だが、それが命令だ、聞き分けろ中尉」
冷徹ともいえる指揮官の言葉。
しかし、そんな事で納得しうるはずも無く。
尚もにらみつけて来るクロウに根負けしたのか、指揮官はひとつ嘆息すると口を開いた。
「南の方で動きがあったらしい。どうやら、連合軍が本格的にイタリア上陸に向けて動き出したようだ」
その指揮官の説明に、クロウはハッとした。
北アフリカの連合軍は、ロンメルなき枢軸軍を撃破した後、部隊の再編成を進めていた。
そしてついに7月10日、連合軍はイタリア南部シチリア島に上陸を開始。本格的にイタリア本土侵攻を視野に入れ始めたのだ。
この状況に危機感を覚えたのはヒトラー総統だった。
ヒトラーは地中海戦線の劣勢により、イタリアが枢軸側から脱落する事を恐れた。
そこで、ツィタデレ作戦に投入予定だった部隊を南イタリア戦線へ転用する事を決定してしまったのだ。
ヒトラー自身、ツィタデレ作戦には当初から、あまり乗り気ではなかった事も大きかった。
これにより、戦線維持に必要な兵力確保が困難となった東部方面軍は、やむなく作戦の中止を決定したのだった。
「そんな・・・・・・せっかく、ここまで来たのに・・・・・・」
ドイツ軍は現在、苦戦しつつもソ連軍の防御陣地をあと一歩で食い破れるところまで来ている。
この段階での作戦中止は、あまりにも理不尽としか言いようがなかった。
だが、最早どうにもならない。
「戦場はまだある。ここで焦る必要はないさ」
そう言うと、指揮官はクロウの肩を軽く叩いて部屋を出て行く。
しかし、
これで東部戦線に続いて、南からの敵にも対応しなくてはならなくなった。
四方を敵に囲まれ、徐々に追い込まれ始めているドイツ。
海軍の活躍で、辛うじて持ち堪えている西側が最もまともと言えるだろうが、それもいつまで保つか分かったものではなかった。
「兄貴、ツェッペリン、死ぬなよ」
クロウは、この場にいない兄と戦友に語り掛けるのだった。
こうして、クルスクの戦いは終わった。
ドイツ軍は善戦したものの結局、戦略目標だったソ連軍の殲滅もクルスクの奪還もならず、敗北に終わった。
この戦いでドイツ軍は、36万の兵力を失い、その再建に再び奔走せざるを得なくなる。
一方、勝ったとはいえ、ソ連軍もドイツ軍の倍以上となる85万の兵力を失い、こちらも壊滅に近い損害を被っていた。
しかし、ドイツ軍の得意とする野戦で勝利した事実は大きく、以後、東部戦線の主導権はソ連が掌握して行く事になる。
一方、ドイツ軍にとっては、クルスクでの戦いは先手を取れる最後のチャンスであり、劣勢の東部戦線を巻き返せる最後の機会でもあった。
しかし、そのチャンスも潰えた今、もはや勝機は遥か遠のいたと言っても過言ではない。
ドイツを守る城塞は、ここに崩れ去ったのである。
第58話「最後の砦」 終わり