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齎された戦勝の報告に、喜びの声は聞かれず、代わりに聞かれたのは安堵のため息が殆どだった。
シェトランド諸島沖海戦において、第1戦闘群はイギリス艦隊と交戦。歴戦の英空母「アークロイヤル」を撃沈する事に成功した。
これで一先ず、体裁は取り繕う事が出来た訳だ。
現在、艦隊はイギリス本国艦隊の追撃を振り切り、キールへ向けて帰還する途中だと言う。
ドイツ側の損害は、喪失艦艇に関して言えばゼロ。実質的なパーフェクトゲームと言えた。
勿論、これが単なる問題の先送りに過ぎない事は誰もが判っている。が、今は、そんなささやかな勝利であっても祝いたいと、ここにいる皆が考えていた。
壊滅状態のドイツ艦隊にとって、今はどれだけ小さな勝利でも、貴重な宣伝材料だったのだ。
「むしろ、大変なのはこれからだよ」
溜息にも似たカーク・デーニッツの言葉に、ウォルフ・アレイザーは振り返った。
ベルリンの海軍本部に集った幕僚の面々の顔は暗い。
勝利は確かに喜ばしいが、この勝利が戦局に対し殆ど帰依し得ない事は明白だった。
オークニー諸島沖海戦で主力艦隊の過半を失ったドイツ海軍にとって、今更「アークロイヤル」1隻沈めたところで、焼け石に水でしかない。
「我々は、海の守りを失った。いずれ始まる連合軍の反攻を、海上で阻止する手段は無くなった訳だ」
途方に暮れたくなる状況。
ただ、途方に暮れてばかりもいられないのが、責任者のつらい所である。
「艦隊を再編する必要があります。それも、可及的速やかに」
傍らのシュレスビッヒ・ホルシュタインも、緊張の面持ちで告げる。
間も無く、帰還する第1戦闘群を中心とした艦隊の再編成は急務だろう。
しかし、いかに「ティルピッツ」「シャルンホルスト」や空母2隻が健在とは言え、その戦力はイギリス海軍の1個艦隊にも及ばない。
イギリス海軍は既にイラストリアス級の新鋭航空母艦に加え、多数の護衛空母を戦線に投入、更にビスマルク級戦艦にも対抗可能な最新鋭戦艦を実戦配備しているという。その他、巡洋艦、駆逐艦と言った中小型艦艇、更にはフリゲート、コルベットから成る対潜部隊を充実させ、ドイツ海軍の真の主力であるUボート艦隊を抑え込みにかかっている。
戦力差は隔絶するばかりだった。
「アレイザー中将」
デーニッツの呼びかけに、振り返るウォルフ。
この新しき海軍総司令官は、ウォルフをまっすぐに見て言った。
「アレイザー中将、例の件、考えてくれたか?」
「・・・・・・・・・・・・」
黙考するウォルフ。
デーニッツは数日前、ウォルフを自身の執務室へ呼び、ある要請を行っている。その答えを求められているのだ。
それはウォルフにとっても決して悪い話ではない。が、同時に多大なリスクを伴う決断でもあった。
ややあって、ウォルフも向き直った。
「一点、 条件があります」
「聞こう」
言ってから、ウォルフはシュレスに目を向けた。
「この、シュレスビッヒ・ホルシュタインを、私の参謀として、留任できるように取り計らって頂きたい」
「ウォルフ、お前・・・・・・・・・・・・」
驚くシュレスに目を向けず、ウォルフはデーニッツに返事を迫る。
そんな2人を見ながら、デーニッツは頷いた。
「承知した。その他全て、思い通りにやってくれて構わない。必要なら私の名前を使ってくれて構わん」
「ありがとうございます」
一礼するウォルフ。
デーニッツがウォルフに依頼した事。
それは、ドイツ艦隊司令官への就任だった。
それは、日本で言えば、連合艦隊司令長官のポストに当たり、事実上、ウォルフが実働部隊のトップに立った事を意味している。
ほくそ笑むウォルフ。
その横顔を、シュレスは厳しい眼差しで眺めていた。
「どういうつもりだ、ウォルフ?」
会議が終わるとすぐに、部屋から出て行こうとするウォルフを呼び止めてシュレスが尋ねた。
ドイツ艦隊司令官と言えば、海軍将兵の誰もが憧れ敬う、理想の地位である。
しかし今、主力艦隊が壊滅した中、その任を引き受けるのは、いかにも貧乏くじを引いた感が否めない。
「何の話だ? ああ、足を止めるな。歩きながら話そう」
そう言うと、歩調をシュレスに合わせるウォルフ。
すれ違う兵士の敬礼を受けながら、2人は海軍総司令部の廊下を歩く。
「今更、艦隊司令官なんぞを引き受けるなど、普通に考えれば自殺行為にも等しい」
言いながらシュレスは、ウォルフを睨む。
「いったい、この期に及んで何を企んでいる?」
見据えるシュレス。
対してウォルフは眉一つ動かそうとしなかった。
「俺が何を考えているかなど、今更、お前に説明するまでも無いだろう」
「・・・・・・・・・・・・」
黙するシュレス。
ウォルフの望み。
ウォルフの願い。
それは即ち、妻であるテアを死に追いやった、イギリスとイギリス海軍に対する復讐。
それのみを糧にし、その他の全て、愛する子共すらも含めて全てを捨てて生きて来た男にとっては必然の終結と言える訳だが。
それにしても、シュレスには腑に落ちない事があった。
「今更、艦隊司令官に就任する事が、お前の目的とどう関係あると言うんだ?」
ドイツ海軍とイギリス海軍の戦力差は絶望的であり、この状況が逆転する事は、もはやあり得ない。そんな事は、語るまでもなく明々白々。
ウォルフの望みは最早、万に一つも潰えたと言えよう。
だが、
「良いか、よく聞け」
ウォルフは殊更小声になって告げた。
「この戦争、負けるぞ」
「お前、それッ」
絶句するシュレス。
それは、ドイツにとって、
否、
如何なる国であろうと、戦争状態にある国の軍人ならば、決して口に出してはいけない事。
事もあろうに、「自国が負ける」などと。
ましてかドイツ軍内では、秘密警察ゲシュタポや、親衛隊SSの目がどこにあるか分からない。
その親衛隊中将が、このような不謹慎な発言をするとは。
だが、ウォルフは構わず続けた。
「ドイツは四方に敵を抱えすぎた。最早、どうにもならん。後は押しつぶされるのを待つのみだろう」
東部戦線は、クルスク会戦以降、戦線の後退が続いている。マンシュタイン元帥を初め、主だった名将たちが戦線を支えてはいるが劣勢は免れず、撤退してくる味方を収容するので精いっぱいだと言う。
南部のイタリアでも連合軍は攻勢を強めている。先の政変以降、既にムッソリーニに権威は無く、味方を取りまとめる事すらできないでいるのだとか。
唯一、望みがあったのが西部戦線だったが、それも海軍の壊滅により防衛線は破綻した。既に連合軍は反攻作戦の準備を整えつつあるという情報も入ってきている。反攻が始まるのも時間の問題だろう。
元々、ドイツ軍は物量に秀でていたわけではなく、むしろ少数精鋭に重きを置いた編成や戦術を組み立てて来た。電撃戦がその好例だろう。
だが少数精鋭の軍は、攻める際には有利だが、一度守りに入ると兵力が不足し一気に瓦解しやすくなる。要するに、全ての戦線に充分は兵を配置する事が出来なくなるのだ。
しかし、
シュレスはそんな破滅的な事を語るウォルフに、違和感を感じずにはいられなかった。
なぜなら、その事を語るウォルフは、不自然な程に落ち着き払い、淡々としていたからだ。
そこで、ハッとする。
なぜ、目の前の男が、劣勢となった艦隊の司令官など引き受けたのか?
ようやく、その真意に気付いたのだ。
「・・・・・・ウォルフ、お前」
「・・・・・・・・・・・・」
「お前にとって、ドイツが負ける事すら些細な事でしかない。と、いう事か」
ウォルフは答えない。
しかし、その沈黙こそが、何より雄弁に肯定していた。
「ドイツが負けようが、国が亡ぼうが、テアの復讐を果たせればそれで良い。そういう事なんだな?」
「誤解するな。俺とてドイツ軍人だ。好き好んで祖国が負ける様を見たいとは思わんし、今まで勝つための努力をしてきたさ。ただ、事この段になって至っては、勝利を望むべくもない。そういう事だ」
ドイツは負ける。
最早、その運命からは逃れられない。
ならば、
負ける前に己が目的を果たすのみ。
今やウォルフの思考は、自らの目的であるテアの敵討ちにのみ、焦点が当てられていた。
「これは最後のチャンスだ。土壇場だが、俺の手には条件を満たす全てのカードが、図らずも揃ってしまった。なら、やるしかないだろ」
「お前と言う奴は・・・・・・・・・・・・」
絶句するシュレス。
これは、復讐に半生を捧げて来たウォルフが行う、最後の賭け。
ドイツが亡ぶのが先か? あるいは、自分が死ぬのが先か?
ウォルフの眼中にあるのは、ただ、その前に復讐を果たす事のみ。
立ち尽くすシュレス。
ウォルフは、それに気づかず歩き続ける。
去る背中を、シュレスは呆然と見ている事しかできなかった。
2
篠突く雨の中、葬儀は静かに進行していく。
参列者は、驚くほどに少なかった。
仮にも王太子たる人物の葬儀である。本来であるならば国中を挙げての葬儀となってもおかしくはないと言うのに。
しかし、集まった参列者は、家族と近親者を含めても20人に満たない。
それは既に、故人が求心力を失っていた事を如実に表していた。
イギリス王室第1王子アルフレッド逝去。
それは、シェトランド諸島沖海戦終結の翌日に齎された訃報。
軍務についていたリオンやベルファスト、クロードは全ての予定をキャンセルし葬儀に駆け付けたのだった。
「まったく、何なのよこれは。薄情とか、そう言うレベルじゃないわよッ」
参列者の圧倒的な少なさに、憤りを隠そうともしないベルファスト。
目の前の光景が、アルフレッドが周囲からいかに見られていたかを物語っていた。
第1王子でありながら生まれつき病弱で、公務にも携わっていなかったアルフレッド。
周囲の人間、特に利権に目を晦ませている閣僚や官僚と言った連中の前には、アルフレッドは無価値な存在としてしか見えていなかった。
だからこそ、ディランが如き俗物が、あれほどの失態を重ねながらも、「英雄」などともてはやされたのだ。
「納得いかないよ、こんなのッ」
尚も言い募るベルファスト。
だが、そんな彼女の肩に、リオンはそっと手を置いた。
「言いたい奴には言わせておけばいい」
見上げる相棒の顔が穏やかな事に気付いたベルファストは、ハッと言葉を飲み込む。
兄を失い、リオンが悲しんでいないわけがない。
しかし、そんな様子を微塵も見せずにいるリオンの心中を察したのだ。
そもそも、葬儀の場とは故人を悼む場所。
ならば、アルフレッドを最も愛した人たちだけが集まればそれで良いではないか。
「我々はいいさ」
口を開いたのはクロードだった。
普段は軽い調子の兄もまた、今日ばかりは謹厳な調子を崩そうとしなかった。
「問題は、彼女だよ」
そう言ってクロードが指示した先には、遺族席に座る小さな少女がいた。
「エリスちゃん・・・・・・・・・・・・」
馴染みのある少女の消沈した姿に、ベルファストも憂いの表情を浮かべる。
第1王子であるアルフレッドが死に、その他の王位継承権を持った者も、殆どが戦死した。
ディランは健在な筈だったのだが、数カ月前からどういう訳か行方不明になっているらしい。一説によると、王室としての権限を剥奪された事を嘆き、国外へ去ったのではないか、との事だが真偽は不明だった。
そしてリオンとクロードは、母が庶民出の為、実質的に王位継承権は認められていない。
必然的に第1王子の長女であり、王太孫にあたるエリスが、王位継承第1位となったわけである。
「これから、あの子の周りには様々な連中が集まるだろう。それこそ、利権を狙って色々な連中がな」
王家に媚びを売りたい連中は、エリスを決して見逃すような真似はしないだろう。
彼女をダシにしてうまい汁を吸おうと言う連中が、それこそ山のように現れる事は目に見えていた。
それこそ、彼女の人生を食いつぶそうがお構いなしだ。
そして、
「・・・・・・・・・・・・」
リオンは沈思したまま、彼方を振り仰ぐ。
今は厚い雲に隠れて見えない。
しかし、その視線の先にある荘厳な宮殿。
そこに住まう主こそが、エリスの人生を食い物にしようとする最たる存在かもしれなかった。
「兄上、兄上達は大丈夫なのですか?」
尋ねるリオンに、クロードは苦笑気味に返す。
リオンが何を言いたいのか、クロードは判っていた。
実は先日、本国艦隊司令部の解散が正式に通達された。
理由は、先の海戦における敗北と、空母「アークロイヤル」の喪失だった。
「シャルンホルスト」を取り逃がした上、歴戦の空母「アークロイヤル」を失った責任は、指揮を執った本国艦隊にあり、それゆえの懲罰人事だった。
しかも、既に後任の人事まで確定している状況である。
「勝手なこと言うよね。そもそも、あの戦いだって司令部は反対したのに、政治的事情とかいう奴のせいで出撃したのにさ」
「仕方がないさ。指揮したのは我々だからね。それに・・・・・・」
「それに」
諦念じみた声で呟くクロードに、リオンとベルファストは訝るように告げる。
「ドイツ艦隊主力の掃討は、この前のオークニー諸島沖海戦で完了している。まだ、『ティルピッツ』と『シャルンホルスト』が残っているが、もう、彼等が積極的に作戦行動を行う事は殆ど無いと見て良いだろう」
東洋に「咬兎死して、走狗煮られ」と言う言葉がある。
野に狩るべき兎がいなくなれば、役目が無くなった猟犬は煮て食われる。それと同じで、不要になった軍人は処分されると言う事だ。
ドイツ艦隊が壊滅し著しく弱体化した今、名将も名参謀も必要ない。
「そして、手柄はあいつが独り占めって訳」
苦々しく呟くベルファスト。
今頃、最良の果実を味わうべき人間が、厚顔無恥な演説を行っているであろう事を想像し、リオンもまた気分を害する思いだった。
その人物の登場は、大半の人間にとって、驚愕と戸惑いによって迎えられた。
壇上に立つ人物は、新品の軍服に身を包み、胸には元帥の階級章と共に、過度な勲章の数々で華美に飾られていた。
男が視線を向けると、一同は敬礼を向ける。
その視線を受けて、男は鷹揚に頷いき口を開いた。
「この度、本国艦隊司令官に就任したフレデリックだ」
国王自らの艦隊司令官就任。
法的に問題ないとはいえ、驚愕の行動なのは確かだった。
フレイザー司令部の解体を宣言して間も無く発令された新人事。
王室の威光を全面的に反映されたその人事は、誰もが驚いた。
まさか、新司令官にフレデリック国王が就任し、その幕僚も彼の息がかかった人間で固められるなどと、誰が予想しえただろう?
いかに実際の政務は、首相のウェリントン・チャーチル達が行うとは言え、あまりと言えばあまりな行動だった。
「既に悪逆非道なるドイツ艦隊は、我が英王室の威光を受けた、諸君らの活躍により壊滅している。これこそまさに、王室最大の栄誉と言えるだろう。故に、諸君らは来たる反攻作戦時には上陸部隊の支援を行う事が主な仕事となるだろう」
確かにドイツ艦隊は壊滅したが、それはあくまで前司令部と本国艦隊将兵が奮闘した結果であって、フレデリック等は一切、何もしていない。
あたかも自分の手柄であるかのように語るのは、厚顔無恥にもほどがあると言う物。
だが、この国の最高権力者に意見できるものなどいようはずもなく、一同は黙して聞き入っている。
そんなフレデリックの傍らには、参謀長に就任したアルヴァン・グラムセル少将の姿もあった。
その他の幕僚達も、フレデリックの息のかかった腹心で固められている。
国王の親衛隊、とでも言えば聞こえはいいが、要するにイエスマン集団だった。
フレデリックの言う通り、反攻作戦の時は近い。
既に連合軍主力は既に英本土に集結を完了し、必要物資も山の如く積み上げられている。それらを輸送する船舶の手配も完了していた。
唯一の懸念材料だったドイツ艦隊はオークニー諸島沖で壊滅し、既に脅威足り得なくなった。
後は作戦発動のタイミングを待つのみである。
言わば、
「諸君には、王室と祖国へ義務を果たし、任務に励んでくれることを願う」
最後に告げられた言葉が、空虚な響きとなって霧散していくのを、誰もが感じ取っていた。
3
まどろみの中から目を覚ます。
ティルピッツは目を開けると、そこが病室である事に気が付いた。
「ああ、そっか・・・・・・・・・・・・」
入院中であった事を思い出し納得する。
外が暗い所を見ると、まだ夜だと言う事が判る。
先のオークニー諸島沖海戦で大破した「ティルピッツ」。艦娘である彼女も重傷を負い、今はこの病院で治療を受けていた。
艦体の方はキールのドックにて修理を受けている。
しかし、集中攻撃を食らった「ティルピッツ」の損傷は激しく、元通りになるまでは相応の時間が掛かる見通しだった。
壊滅したドイツ海軍の中で、「ティルピッツ」の存在はますます大きなものとなる。本来なら、こんなところで寝ている場合ではないのだが。
「まだ、無理をするんじゃない」
唐突に、優しい声が掛けられる。
「え?」
振り返った先に、人影がある事に気が付いた。
顔はよく見えない。
しかし、灰色の軍服を着込んだ、すらりと背の高い女性である事が判る。
その証拠に、腰まである長く美しい金髪が、否応なく視線を奪っていった。
女性は、ベッドで寝ているティルピッツの脇まで来ると、その頭をそっと撫でる。
「まだ時間がある。もう少し、寝ていなさい」
「え、あの・・・・・・」
いったい、誰だろう?
正体不明の人物に、戸惑いを隠せないティルピッツ。
しかし、不思議と恐怖は感じなかった。
それは、掌を通して伝わる感覚が、なぜかとても懐かしい気がしたからかもしれない。
この人が傍にいてくれるだけで、なぜか心が休まり、落ち着きを取り戻していった。
「良い子だ」
女性がほほ笑む。
その手が、ティルピッツの髪を優しく撫でた。
心地よさげに目を細めるティルピッツ。
「すまない。私は、お前を守ってあげる事が出来なかった」
「え?」
何の事だろう?
訝るティルピッツに、女性は続ける。
「けど、お前には素晴らしい友人がいる。彼女たちが、きっと、お前を助けてくれるだろう。だから、安心しなさい」
「友達?」
「ああ、友達だ」
頷く女性。
そっと、ティルピッツの頬に手を当てる。
「さあ、もう寝なさい。起きたら少しは、楽になってるから」
「・・・・・・・・・・・・うん」
言われるまま、素直にうなずくティルピッツ。
意識はそのまま、心地よい闇へと落ちって言った。
目を覚ます。
開かれた視界は明るく、そこが病室である事はすぐに分かった。
しかし、
「あれ・・・・・・えっと・・・・・・」
何だか、夢を見ていた気がする。
とても、
そう、とても優しい夢を。
ずっと、見ていたいと思えるような、そんな夢を見ていた気がする。
だが、どうしても、その内容を思い出せなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
一筋、涙がこぼれる。
悲しいから、ではない。
だが、なぜか、涙が止まらなかった。
と、その時、
「あ、起きた?」
静かな声に振り返ると、小柄な少女がベッドの傍らの椅子に座っているのが見えた。
「・・・・・・・・・・・・シャルンホルスト、帰って、来たの?」
「うん。今朝、ね」
そう言って、シャルンホルストは微かに微笑む。
作戦を終了し、ヴィルヘルムスハーフェンに帰港した第1戦闘群。
2つの輸送船団を壊滅させ、更に空母「アークロイヤル」を撃沈。
戦いは、ドイツ海軍の勝利で終わった。
オークニー諸島沖海戦で大敗した後の勝利である為、殊更に大きく宣伝されていた。
シャルンホルストは帰港すると、すぐその足で、ティルピッツが入院している病院を訪れたのだ。
「でも、どうして?」
「だって、行く前に言ったでしょ。帰ってきたら話そうって」
言いたい事、聞きたい事、それはたくさんある。
「それじゃあ・・・・・・何から、話そっか?」
静かな口調のシャルンホルスト。
だが、
その声が、微かに震えている事に、ティルピッツは気付いた。
「シャルン・・・・・・・・・・・・」
「君の、お姉さんはね・・・・・・」
ティルピッツが話し始める前に、シャルンホルストが口を開いた。
「君のお姉さん・・・・・・ビスマルクは、本当にすごい人だったんだ。あの人が生きていてくれたら、今のドイツはこんなじゃなかったかもしれない。ボク達は、もっともっと、一杯戦えていたかもしれない。それくらい、すごい人だったんだよ」
「シャルンホルスト・・・・・・・・・・・・」
震える少女の言葉を聞きながら、ティルピッツは、シャルンホルストの目から、大粒の涙が零れ落ちるのを見た。
そこで、ハッと気付く。
目の前の少女は、自分と同じなのだ、と。
ティルピッツはビスマルクを、
シャルンホルストはグナイゼナウを、
大切な物を失い、心に大きな傷を負った少女たち。
「ッ」
ティルピッツは渾身の力で起き上がると、ベッドから出てシャルンホルストを抱きしめる。
一瞬、驚いたような顔をするシャルンホルスト。
次の瞬間、その顔は歪み、押し寄せる感情の波に抗う事が出来なかった。
声を上げて泣く、2人の少女たち。
そんな様子を廊下の陰から見て、
エアル・アレイザーはそっと、扉を閉めるのだった。
戦いは、確かにドイツ海軍の勝利で終わった。
しかし、それが一時的な物でしかない事は、誰の目にも明らかだった。
制海権を喪失したドイツ海軍は以後、連合軍の海上輸送を阻止する手段を失った。
それは即ち、来たる反攻作戦を海上で押し留める手段を失った事を意味している。
破滅の足音は、確実に海を越えて近付こうとしていた。
第71話「夢現の邂逅」 終わり
ベルリンにある高級ホテル。
その一室に、オスカー・バニッシュはいた。
ベッドに腰掛け、虚ろな目で部屋の中を見つめ続けている。
何も考える事が出来ない。
ただ噛みしめるのは、己の無力さ。
なぜ、守ってやる事が出来なかった?
なぜ、彼女が死ななくてはならなかった?
なぜ?
なぜ?
なぜ?
尽きない疑問だけが、無意味に浮かんでは消えていく。
思い浮かぶのは、グナイゼナウの事ばかり。
彼女の笑顔、
彼女の優しさ、
彼女の温もり、
それだけが、自分のよりどころだった。
それを失った今、自分にできる事と言えば、
「・・・・・・・・・・・・」
ベッドの上に目をやる。
無造作に置かれた拳銃は、ワルサーP38と呼ばれる大型拳銃で、ドイツ軍内でも広く愛用されている銃だ。
虚ろな目のまま、何の気なしに銃を手の取るオスカー。
マガジンに残弾が入っている事を確認してからスライドを引く。
入り口のドアがノックされたのは、正にそのタイミングだった。
「・・・・・・誰だ?」
反射的に聞いてしまったのは、習慣のなせる業だったかもしれない。
果たして、ドアの向こうから、ややくぐもってはいるが、明瞭な声が帰って来た。
「失礼します。オスカー・バニッシュ准将はおられますでしょうか?」
訝るオスカー。
オスカーは、このホテルに宿をとる事を、他の誰にも話していない。
それなのに来客があった事を不審に思ったのだ。それも、オスカーを名指しで来ている事から考えて、人違いの類ではないと考えられる。
一旦、拳銃を置く。
死ぬ事なら後でもできる。それよりも今は、部屋の外にいる男の事への興味が勝った。
ドアを開けると、いかにも精悍な顔つきの青年が立っていた。
陸軍の軍服に身を包み、驚いた事に左目を眼帯で覆っていた。
「夜分に失礼いたします、閣下」
見事な敬礼をする青年。
その眼光が、鋭くオスカーを睨む。
「ドイツ帝国の現状を憂い、未来を守る為、どうか閣下の力をお借りしたくまかり越した次第であります」
男の言葉を、聞くともなしに聞き入るオスカー。
今、
ドイツ全土を覆うべく、漆黒のオーケストラが、最終楽章を奏でようとしていた。