1
その夜、海はひどく荒れていた。
数日前から続いていた荒天によって波は高い。風は容赦なく吹き荒れ、視界もほとんど効かない状態だった。
飛沫は容赦なく拭き付けられ、見張り兵の顔面を強打し、目を開ける事すら難しい有様と来ている。
見張りの任務に就いたドイツ軍兵士も、穏やかとは程遠い気持ちで職務に当たっていた。
こんな日に見張り任務を申し渡された兵士は悲惨だった。明日は風邪を引いてしまうかもしれない。
やれやれと溜息をつきながら、襟元を合わせ直す。
こんな日に見張りなんてやってられるか。さっさと待機所に戻り、酒でも飲んであったまろう。
サボったって問題は無い。どうせこんな日は、敵だって家で寝てるさ。
甚だ緊張感の欠いた考えではあるが、裏を返せば、彼等の心の中にはまだ、余裕が見られていた。
噂では、近い将来、連合軍の反攻作戦が開始されるらしいとの事だが今のところ、全くと言って良いほどその兆候はない。
毎日、海を眺めても時々、商船が通るくらい。敵の姿なんて影も見えない。
時々、偵察機と思しき航空機が上空を通過するが、何もせずに帰っていくばかりだった。
世は正に平和そのもの。
昨日と同じ今日が来たように、今日と同じ明日が来る。
誰もが、そう思って疑っていなかった。
ひと際、風が強く吹く。
震えながら軍用コートの前を合わせ直し、兵士は回れ右をした。
こんな事やっていたって意味は無い。とっとと待機所に戻ろう。どうせ何も起きやしないさ。
待機所へ戻る足を速めながら、ふと、仲間が言っていた事を思い出した。
何でも、ラジオでおかしな放送があったらしい。秋のヴァイオリンが、どう、とか。いや、ヴァイオリンじゃなくてヴィオロンだったか? フランス語はよくわからん。
いずれ、何が気になったのかさっぱり分からない。妙な事を気にするもんだと思った。
ふと、
何かの気配を察して上を見る。
そこで、
脳天に強い衝撃を覚える。
だが、それが何なのか、兵士は確認する事は出来なかった。
なぜなら、彼の人生は、そこで終焉を迎えてしまったのだから。
2
その日、
ついに、奴等は来た。
4年と言う歳月をかけ、
かつて不当に奪われた領土を奪い返すべく、
結成された巨大な軍勢と共に、この大陸へと戻って来たのだ。
1944年6月6日
連合軍による「オーバーロード作戦」発動。
命令を受け、イギリス本土に集結した連合軍は動き出した。
先鋒軍20万、第2波以降の本隊は180万を数える大軍勢が、ヨーロッパ一帯を実効支配するナチス・ドイツと雌雄を決するべく、海を渡り大陸を目指す。
一方のドイツ軍も手を拱いていたわけではない。前々からこれあるを予期して迎撃準備を進めて来た。
上陸作戦を仕掛けてくる連合軍を水際で食い止めるべく、ノルウェーからフランスまでの海岸一帯を覆う巨大な要塞線「大西洋の壁」を建設。更に、可能な限りの兵力と物資を西部方面軍に配置した。
更に総統アドルフ・ヒトラーは、西部方面の防備強化の為、方面軍司令部の他に「監察部」と言う新たなる役職を設けた。その責任者に任命されたのが、かつて「砂漠の狐」の有名を馳せたアルフォンス・ロンメル元帥だった。
アフリカ戦線では奮戦しつつも、ついには敗れ去ったロンメル。
その後は暫く、イタリア戦線を担当していたが、ヒトラーの命令を受け、指揮下の部隊ごと西部方面に転属した。
アフリカ戦線後、一時は対立した関係だったが、ヒトラーはロンメルを見限ってはいなかったのだ。故にこそ、最も重要な戦線を任せる決断をした。
着任したロンメルはヒトラーの期待に応える為、大西洋の壁を完成させるべく精力的に活動を行った。
さらにこの時期、砲火を交える最前線以上に、水面下の戦いも活発化していた。
すなわちスパイ戦、諜報戦である。
ドイツ軍と連合軍は、共に多数のスパイを相手国に潜入させて情報収集に当たった。
特にドイツ軍側からすれば、スパイからの情報は有益だった。
敵がどの程度の数で、どこへ、いつ攻めて来るのか?
苦戦中の東部戦線に加え、南部イタリア戦線にも応援の兵力を送っているドイツ軍にとって、西部戦線全てに十分な兵力を配置する余裕は残されていない。故に、敵がどこから来るのかを見極め、少ない兵力を集中させる必要がある。敵の詳細な情報は喉から手が出るほど欲しい物である。
当初、予想された連合軍の上陸地点は、大きく分けて3か所。ノルウェー西岸、オランダ北部、フランス西部のいずれかと思われた。
その後、更に情報の分析を進めた結果、連合軍がフランス沿岸部を目標としている事を突き止めた。
後は、具体的にどこに来るか、と言う事である。
候補として絞り込まれたのは2か所。パ・ド・カレーとノルマンディーである。
パ・ド・カレーはイギリス本土から直線距離で最も近く、上陸部隊が最も無防備となる、海上にいる時間を減らす事が出来る。更に、大型の船舶が入泊可能な港であり、補給の面でも優れている。
一方のノルマンディーは、広い海岸線があり、大軍の上陸に適している。大部隊を一度に展開できる利点があった。
どちらも可能性としては十分あり得ると考えられており、ドイツ軍はその特定を急いだ。
その結果、導き出された答えはパ・ド・カレーだった。
それは複数のスパイ情報から分析された結果だった。
更に、連合軍がパ・ド・カレー近辺に対する攻撃を強めており、これが上陸作戦への予備攻撃と考えられた為だった。
カレー方面の防備を固めるドイツ軍。
だが、その読みは間違えていた。
連合軍総司令官に就任したドナルド・アイゼンハワー元帥は、攻撃目標をノルマンディーに定めていたのだ。
実はドイツ側が放ったスパイの多くが、既に連合軍側によって買収され寝返っていたのだ。その為、ドイツ軍が得ていた情報は、その大半がでたらめだった。更にカレー周辺に対する攻撃は全て囮であり、ドイツ軍の目を欺く目的で実施されていた。
こうして迎えた運命の日。
イギリスからのラジオ放送で、1つの詩文が流された。
『秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの』
これは「秋の日」と言う詩の一節だったが、同時にフランスに潜伏しているレジスタンスに宛てた暗号でもあった。
すなわち、「連合軍の上陸は近い。待機、呼応せよ」と言う意味だ。
ノルマンディーに対する攻撃はまず、空から行われた。
嵐の中、イギリス本土を飛び立った空軍が爆撃を敢行。
更に輸送機からは空挺部隊が投入され、後続する本隊上陸を前に重要拠点の制圧、破壊を行う。
特に、移動時に重要な橋や、上陸時に厄介な存在となる海岸砲台は最重要攻撃目標となった。
連合軍の攻撃は、天候やドイツ軍の抵抗によって予定通りとはいかなかったが、作戦開始前までには、どうにか予定ポイントの制圧、無力化が完了していた。
対して、
ドイツ軍の動きは、いっそ奇妙に感じられるほど鈍かった。
実のところ、ドイツ側の防衛体制は完璧とは程遠い状況だった。
ヒトラーが完成を豪語した「大西洋の壁」だが、必要資材のあまりの膨大さから、完成は不可能と言われていた。
実質的な施工監督であるロンメルも、連合軍侵攻までに大西洋の壁完成には絶望視しており、一部では地雷原の設置で代用しようとしていたが、それに必要な地雷の確保にも苦戦していた程だった。
又、人材面の不足も深刻化しつつあった。
元々、ドイツの主戦場は東部戦線である。その為、精鋭部隊は優先的に東部戦線に回されていた。
西部戦線は一種の保養所的な扱いであり、新兵部隊の訓練や、前線で損害を出した部隊の最編成や傷病兵の休養に使われていた。
その為、指揮官クラスも2線級、3線級の者が多かった。
とある装甲部隊司令官などは、攻撃開始時に任地におらず、パリの愛人宅で情事に耽っていた程だった。この人物については、そもそも師団長の実力はなく、金とコネで出世したようなものである。そのような人物を前線指揮官に据えなければならない程、ドイツ軍の人材不足は深刻だった。
そのような人物が、まともな状況判断などできるはずも無かった。
この連合軍の攻撃を、単なる定期便程度と考えた現地司令部は、ロンメルや、その上級司令官である西部方面軍司令官ルントシュテット元帥に知らせなかったのだ。
その結果、ドイツ軍の防衛体制移行は、大きく出遅れる事となった。
一夜明け、イギリス本土を発した大船団は、ノルマンディー海岸に迫りつつあった。
戦艦8隻を中心とした700隻の大艦隊に護衛された、合計6000隻に上る巨大船団。
その姿を見たノルマンディー防衛の現地部隊指揮官は、狂ったように救援要請を行った。
ともかく、どう考えても自分達だけで防げる量ではない。可及的速やかに増援を送ってほしい、と。
だが、現地部隊の絶望的な叫びは、後方にいるドイツ軍上層部には、いまいち伝わらなかった。
敵の上陸地点がカレーだと思い込んでいる彼等は、ノルマンディーへの攻撃は囮であり、現地部隊が少々、大げさに騒いでいるだけだと思ったのだ。
加えて、初期対応に致命的なミスがあった。
この前日、総統アドルフ・ヒトラーは、明け方の3時までナチス党幹部たちと最近話題の映画の話題等で歓談した後、愛人のエヴァ・ブラウンと寝室に入った。
この時期、ヒトラーは自分専用に、医師に直接調合させた特別な睡眠薬を常用していた。
この薬は飲むとすぐに安眠状態に入り、目覚めると脳内がすっきりとクリアになる、ヒトラーの体調に合わせて作られた物だった。
ただ、効果が非常に強力である為、万が一にも安眠を妨害されると、服用者に多大なストレスを与える事になる。
過去に、止むを得ざる事情で安眠中のヒトラーを起こした事があったが、その際もヒトラーは精神的安定を欠いた状態で周囲に当たり散らし、とんでもない命令を連発する奇行に走った事があった。
その事を知る幹部たちは、ヒトラー就寝中はなるべく寝所に近寄らないようにしていた。
敵軍接近の報告が入ったのは、正にヒトラーが寝入った直後の事であった。
上記の事情があり、「些細な報告」でヒトラーの安眠を妨害し、総統の逆鱗に触れる事を恐れたナチス党幹部たちは、朝になってヒトラーが起きるのを待つことにした。
だが、彼等は間違っていた。
たとえヒトラーを激怒させたとしても、ここは無理にでも起こすべきだったのだ。
なぜならこの時期、ドイツ全軍の指揮命令系統はヒトラーを頂点に一元化されていた。その為、部隊に移動や配置転換にも、ヒトラーの承認が必要だったのだ。
要するにドイツ全軍が、ヒトラーがいなければ、一歩たりとも動く事が出来なかったのだ。
その為、本来ならすぐにでも増援部隊を送らなくてはならない状況であるにもかかわらず、ドイツ軍は数時間にわたって、一切の行動を起こす事が出来なかったのだ。
そして、
その間に、巨大な船団は、粛々とノルマンディーに迫りつつあった。
そんな中ではあるが、僅かではあるが、独自に反撃を試みた部隊もあった。
海軍である。
報告を受けたカーク・デーニッツ元帥は直ちに、現地の海軍部隊に対し迎撃を命じた。
オークニー諸島沖海戦で主力艦隊が壊滅したドイツ艦隊だが、Uボート艦隊や小型軽快艦艇等、まだ行動可能な部隊が少数ながらフランス沿岸に存在した。
直ちに30隻近いUボートがドーバー海峡に出撃する。
しかし、既に確立された連合軍の対潜システムを前に、いかに精鋭とは言えUボート部隊は船団に近付く事さえできず、逆にエース級艦長の艦を含む、複数のUボートを撃沈され、這う這うの体で撤退するしかなかった。
一方、水上艦隊は、駆逐艦3隻、水雷艇4隻が行動可能だった。
ドイツ海軍の水雷艇は、他国における魚雷艇とは異なり、排水量は1200トンあり、武装も最新型のT型は10センチ単装砲4門、53センチ3連装魚雷発射管2基6門を装備した、小型駆逐艦とでも言うべきものだった。
出撃したドイツ艦隊は、上陸を阻止すべく果敢に攻撃を仕掛けた。
対して、圧倒的な火力で迎撃する連合軍。
戦艦を含む大艦隊相手に、僅か7隻の駆逐艦と水雷艇だけで挑んだ彼等の勇気は賞賛に値するだろう。
結果、
ドイツ艦隊は3隻の駆逐艦喪失と引き換えに、連合軍の駆逐艦1隻を撃沈する戦果を挙げた。
彼我の戦力差を鑑みれば、敢闘したと言って良いだろう。
しかし、これは結局、巨大な連合軍からすれば「蚤が像に嚙みついたような物」であり、事実上の損害は、全くのゼロだった。
こうして、全ての生涯を排除した連合軍の大軍は徐々に、ノルマンディー海岸へと迫りつつあった。
イギリス艦隊総旗艦艦橋では、その司令官たる人物が司令官席に腰掛けていた。
その表情は、お世辞にも機嫌がいいとは言い難かった。
「陛下、間もなく、砲撃予定地点に達します。全て予定通りでございます」
「ああ、そうか」
面白くもなさそうに、フレデリックは返事をする。
そんな殊勲の様子に、参謀長のアルヴァンは表情を変えずに尋ねた。
「やはり、不満ですか、この艦は?」
「フンッ 問うまでも無かろうよ」
舌打ち交じりに、フレデリックは答えた。
彼が旗艦として座乗した艦。
それは、ペンキの匂いも真新しい、紛れもない最新鋭戦艦である。
戦艦「ライオン」。
先頃完成し、今回の上陸支援で初陣を迎える事となったライオン級戦艦の1番艦である。
その性能は、キング・ジョージ5世級戦艦の拡大発展版とでも言うべきものだった。
基準排水量3万9000トン、全長234メートル、全幅32メートル、最高速度30ノット。
主砲は50口径40センチ砲を3連装3基9門装備。その他に13センチ連装両用砲8基16門、8連装ポンポン砲6基等、対空火力も充実している。
ドイツ戦艦に苦戦を強いられてきたイギリスが完成させた、正にヨーロッパ最強戦艦である。
今回の作戦に際し、1番艦「ライオン」、2番艦「テメレーア」が作戦に参加している。
その他、オークニー諸島沖海戦の損傷から復帰したキング・ジョージ5世級戦艦の「デューク・オブ・ヨーク」「ハウ」「アンソン」、クイーン・エリザベス級戦艦の「ウォースパイト」も加わっていた。
その中でフレデリックは、最新鋭の「ライオン」に将旗を掲げた訳だが。
本来ならば、これ程の艦に将旗を掲げて喜ばぬはずはない所。
だが、
「その最新鋭戦艦も、植民地製と来てはな。喜ぶ気にもなれん」
そう、ライオン級戦艦の建造は、イギリス本土ではなく、同盟国のアメリカで行われた。
連日のようにドイツ軍の爆撃に晒されるイギリス本土では、大型艦の建造は難しい事に加え、更に損傷艦の修理でドックが一杯のイギリスに新規の大型艦建造は不可能に近い。
そこで、技術者をアメリカに送り、アメリカのドックで建造されたのだ。
「あんな植民地人共の手を借りねば、戦争も出来んとは」
苛立ちを隠そうともせず、フレデリックは周囲に聞こえる声で呟きを漏らす。
更に、
フレデリックを苛立たせている理由は、もう一つあった。
突如、鳴り響く巨大な轟音。
目を向ければ、
そこには「鋼鉄の怪物」とでも言うべき存在が2匹、悠然と存在していた。
巨大な8門の主砲を放つ戦艦のマストには、ホワイトエンサインではなく、
アメリカ海軍の最新鋭戦艦モンタナ級。その3番艦「メイン」、並びに4番艦「ニューハンプシャー」である。
日本海軍の最新鋭戦艦「大和」に対抗して建造されたこの巨大戦艦は、ライオン級をも大きく上回る、基準排水量は6万5000トン、50口径46センチ砲を連装4基8門が装備されており、ヨーロッパどころか、世界最強の戦艦と言って差支えがない存在だった。
1番艦「モンタナ」と2番艦「オハイオ」は既に、日本軍との決戦を目指し、ハワイに配備されているという。
あの巨獣に比べればライオン級と言えど、そこらの野良猫と変わりない。
イギリス海軍自慢の最新鋭戦艦は、完成した瞬間、既に旧式化していたのだ。
「ハッ 植民地人共はいちいちやる事が大げさなんだよ。あんな大層なおもちゃが無ければ、下等な猿との戦争にも勝てんらしい」
かつて自分達の国から逃げ出した連中が作った国。
プライドが無駄に高いイギリス人が、アメリカ人を下に見て「植民地人」と呼ぶことはままある事。フレデリックは、その急先鋒のような存在である。
もっとも、その「植民地人」の手を借りて、ようやく最新鋭戦艦を完成したばかりか、それどころか、その植民地人が、自分達の物より、はるかに巨大で強力な戦艦を造り上げた事が、この男のプライドを大きく傷つけていたのだ。
フレデリックの言動は、言わば、その裏返しである。
とは言え、国王とは言え、個人の感情はこの際関係ない。ようはそれが、ドイツ軍の防御陣地を打ち破れるかどうかが問題だった。
やがて、
配置に着いた「ライオン」は、その巨大な砲を、海岸のドイツ軍陣地へと向けた。
3
一夜明け、普段より遅い起床となったヒトラーは、報告を聞いて激怒した。
なぜ、自分を起こさなかったのか?
なぜ、かくも重大な報告を後回しにしたのか?
側近たちに一通り当たり散らしたヒトラー。
同時に、その脳裏では次の一手を模索していた。
連合軍の侵攻は確かに脅威ではある。が、それは同時に、前々から予想していた事。驚きはしても、絶望すべき状況ではない。
むしろこれで、敵は我が懐に飛び込んできてくれた。殲滅のチャンスが生まれた事になる。
ほくそ笑むヒトラーは、直ちに命令を発した。
「ノルマンディーへの攻撃は陽動である。敵の主力は必ずカレーにやってくる。カレーの防備を優先せよ」
この命令は忠実に実行され、カレー防衛部隊は強化、増援の為の予備隊もカレー方面へと向けられた。
しかし、
連合軍総司令官のアイゼンハワーは、堅実かつ正統派の戦略家である。
彼は「陽動」などと言うまだるっこしい真似はせず、敵の防衛ラインを正面から打ち崩す作戦を展開していた。
その為、空挺部隊を投入して重要拠点の確保、無力化を行い、大規模な空爆や艦砲射撃によって、上陸に邪魔な砲台や、増援に必要な後方の経路を破壊。更に、先鋒軍20万には最精鋭を配置してドイツ軍の防衛ラインに綻びを作ると、そこから後続する本隊でもって、敵軍の一挙瓦解を狙った。
対するドイツ軍は、その戦略すら定まっていなかった。
と言うのも、ロンメルが水際防御を主張したのに対し、ルントシュテットは内陸の防御陣地に引き込む縦深防御を画策していた。
言わば、上級司令部の意思統一すらされていなかったことになる。
ロンメルは確かに、アフリカの砂漠で勇名を馳せた名将である。
しかし、彼は大規模な艦砲射撃を受けた事が無く、その凄まじさを知らなかった。
彼が頼んだ海岸の要塞線は、悉く連合軍艦隊の戦艦部隊が繰り出した巨砲によって粉砕され、本来の機能を発揮し得ないまま制圧されて行った。
一方のルントシュテットも、実際の艦砲射撃を見た事は無いが、その凄まじさについてはいくつかの情報から得ており警戒していた。
もっともルントシュテットにしても、制空権に関する知識が乏しく、せっかく後方に待機させておいた機甲師団を、航空攻撃によって過半を失う失態を犯してしまう。
前線のドイツ軍は必死に抵抗し、一部の海岸防衛線では、連合軍側の作戦ミスもあって一時は戦線を海側に押し返すほどの抵抗を見せた。
しかし圧倒的な火力と物量差に加えて、ヒトラーや上級司令部の判断ミスが重なり戦線は崩壊。
日暮れまでには、ほぼ全ての海岸防衛線は連合軍の手に落ちた。
ヒトラーがその存在を豪語した「大西洋の壁」は、1日と保たずに崩壊した事になる。
結局、彼は忘れていたのだ。
自分達が、大国フランスをいかに攻略したのか、を。
無敵の要塞とまで言われた「マジノ線」を、どうやって無力化したのか、を。
この手の要塞線は、一か所が破綻すればもう意味がなくなる。
その教訓を忘れ、「奪った領土は、寸土と言えど敵に渡さない」と言う、無意味な領土的野心に取り付かれた結果が、「大西洋の壁」と言う、構想ばかりが肥大化し、ついに完成する事が無かった虚構の要塞である。
その虚構に頼り、ドイツ軍は今次大戦における致命的な敗北を喫する事になった。
これ以後、ドイツ軍は東と南に加え、西にも大きな戦線を抱える事となり、いよいよ、崖っぷちへと追い詰められていくのだった。
第72話「D―DAY」 終わり