蒼海のRequiem外伝 ~北天の流星~   作:ファルクラム

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第80話「転がり落ちる、奈落の底」

 

 

 

 

 

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 話を聞いて、まずは唖然とした。あまりにも荒唐無稽すぎて。

 

 詳しく説明されたにも拘らず、言っている事の意味が、本当に分からなかったのだ。

 

 意味が分かってから、浮かんできた感情と言えば、今度は「愕然」だろうか?

 

 どう考えても、無意味としか思えない事態に、ただただ困惑するしかなかった。

 

 全てが収まり、落ち着きを取り戻した時、

 

 残っていたのは「怒り」だった。

 

「…………本当、なんですか、その話?」

「ああ」

 

 問いかけるエアルに答えたのは、海軍最高司令官のカーク・デーニッツ元帥。

 

 疲れ切ったその表情からは、普段の飄々とした様子は見られない。

 

 総統会議を終え、海軍本部に戻ったデーニッツは、直ちに幕僚と各部署の責任者を招集。

 

 その中には艦隊司令長官のウォルフや参謀長のシュレス。そして、航空戦隊司令官としてエアルも呼ばれていた。

 

 話された内容は、デーニッツが出席した、総統地下壕にて行われた会議の内容である。

 

「総統閣下は、西部戦線における総反攻を国防軍に命ぜられた。既に陸軍と空軍の各部隊は作戦開始に向けた準備を始めている。我が海軍も作戦に参加するように、との事だ」

「馬鹿なッ 無謀すぎる」

 

 エアルは吐き捨てるように告げた。

 

 現在、ドイツの苦境が致命的なレベルとなりつつある事は説明するまでもない事だ。

 

 東西から挟撃されたドイツの戦線は、急速に崩壊しつつある。

 

 東部戦線に目を向ければ、バグラチオン作戦によって中央軍集団を壊滅させたソ連軍は、いよいよ本格的に旧ポーランド領侵攻を開始していた。

 

 それに対しドイツも、東部方面軍が残存戦力を結集して迎え撃つ体制を整えようとした。

 

 しかしドイツ軍が態勢を立て直す間もなく、事態はまたも、大きく動く事になる。

 

 1944年8月4日。

 

 旧ポーランド首都ワルシャワにおいて、ポーランド国内軍を中心とした反独レジスタンスが一斉蜂起に及んだ。

 

 いわゆる「ワルシャワ蜂起」である。

 

 ドイツ軍主力壊滅と、ソ連軍の進行に伴い、ポーランド領のレジスタンスを統括するポーランド国内軍は、今こそ祖国奪還の時と見定め行動を起こしたのだ。

 

 これに先立ち、モスクワ放送は盛んに、レジスタンスの蜂起を促す放送を流し、更にソ連軍からも、大々的に支援する用意があるとの連絡がレジスタンス司令部に齎された。

 

 今こそ奪われた祖国を取り戻す。

 

 我等の手で、我等の国を取り戻す。

 

 その崇高な思いの下、一斉蜂起するポーランド国内軍。

 

 その、予期せぬ突然の攻撃は、ドイツ軍の虚を突いた。

 

 正面のソ連軍にばかり気を取られていたドイツ軍は、ポーランド軍の動きに全く気付いていなかったのだ。

 

 指揮系統が混乱を来すドイツ軍。

 

 ポーランド軍は、戦線が乱れたドイツ軍を各所で圧倒した。

 

 このまま行けば勝てる。

 

 ソ連軍が来援すれば、ドイツ軍を一掃する事も夢ではない。

 

 祖国を取り戻す事が出来る。

 

 ポーランド軍の誰もがそう思い始めた。

 

 だが、

 

 ソ連軍は動かなかった。

 

 盛んに救援を呼びかけるポーランド側に対し、ソ連は沈黙を続け、戦線は一歩たりとも動こうとはしなかった。

 

 バグラチオン作戦によって予想以上に損害を被り、その補充が思ったように進まず、進軍を停止せざるを得ない。と言うのが、ソ連側の言い分だった。

 

 ソ連軍の援護を得られず、戦線が膠着するポーランド軍。

 

 その間に、態勢を立て直し、反攻に転じるドイツ軍。

 

 こうなると、戦況の逆転はあっという間だった。

 

 ソ連軍との一連の戦いで消耗し尽くしたとは言え、未だに十分な戦力を保有しているドイツ軍主力と、所詮は寄せ集めのレジスタンスに過ぎず、装備も練度も不十分なポーランド国内軍では、端から勝負にならなかった。

 

 ルフトバッフェによる無慈悲な爆撃の後、中央軍集団が進撃してワルシャワの街を徹底的に破壊する。

 

 この攻撃により、ポーランド国内軍は壊滅、ワルシャワの街は灰燼と帰した。

 

 捕まったレジスタンス兵士達は、その場で処刑されるか、運良く生き残った者も収容所へと送られた。

 

 こうしてポーランド人の悲願であるワルシャワ蜂起は、あえなく失敗に終わった。

 

 一度は支援を表明しておきながら、直前で進軍を停止したソ連軍の行動については、陰謀説が長く囁かれる事になる。

 

 ポーランド国内軍は連合軍主導で結成された組織であり、反ナチスであると同時に、反共意識が強い組織でもあった。

 

 戦後の支配構造を睨み、レジスタンス組織の台頭を嫌ったソ連政府は、蜂起を煽る一方で、わざと進軍を停止し、自ら手を下す事無く、ドイツ軍にレジスタンスを共倒れさせたのではないか、と言う事だ。

 

 その証拠に、レジスタンス蜂起後、ソ連側は進軍停止をポーランド側に伝えなかった。それどころか、モスクワ放送は進軍が停止した後も、ワルシャワ蜂起を促す放送を盛んに継続し続けたのだ。

 

 約束された支援を当てに奮闘を続けるレジスタンスを横目に、ソ連は知らん顔を決め込んだ形である。

 

 ソ連側は情報の伝達にちょっとした手違いがあっただけ、として陰謀論を否定しているが、そこに明確な意図があった事は明らかだった。

 

 さらにその後、進軍を再開したソ連軍によってドイツ軍は蹴散らされ、ポーランドはソ連軍の手によって解放される事になる。

 

 その際、生き残ったポーランド国内軍幹部が、ソ連軍の手によって逮捕、処刑された事も陰謀論に拍車をかける一因となっていた。

 

 こうして、ポーランド支配の下地を築き上げたソ連軍だったが、生き残ったポーランド兵士達はその後、地下に潜伏、「呪われた兵士」を名乗り、戦後の長きに至るまでソ連支配に対してテロリズムによる抵抗を継続。ソ連側を悩ませ続ける事になるのは、もはや自業自得としか言いようがない、皮肉な成り行きだった。

 

 一方、西部戦線に目を向ければ、ノルマンディーに上陸を果たした連合軍の進撃も順調を極め、ついに8月にはフランス首都パリを解放する事に成功した。

 

 連合軍がパリに迫る中、ヒトラーは現地司令部に対し、パリの街並みを徹底的に破壊するように命じた。

 

 パリは大戦初期におけるドイツ軍大勝利。その栄光の象徴ともいえる場所であり、「華のパリ」の名が示す通り、フランス文化の中心でもある。そんなパリを、連合軍にただで奪い返される事が、ヒトラーには我慢ならなかったのだ。

 

 この時にヒトラーが発した質問が、有名な「パリは燃えているか?」である。

 

 このヒトラーの質問に対し現地司令官は、命令は確実に実行された。パリの街は完全破壊された、と答えた。

 

 だが、実際にはその逆。

 

 現地司令官は独断でヒトラーからの命令を拒否。パリの街は彼の英断によって、破壊される事を免れ、現在もその美しい姿を世に残している。

 

 それ自体は、確かに美談かもしれない。

 

 しかし、ドイツ軍の組織として見た場合、最高司令官であるヒトラーの命令を無視するなどあってはならない事態であり、これすなわち、軍組織としてのナチス・ドイツ崩壊が既に始まっている事を意味していた。

 

 こうして、パリは解放された。

 

 ドイツ軍の電撃侵攻から、4年ぶりの解放だった。

 

 だが、

 

 こちらの快挙も、美談では終わらなかった。

 

 解放されたパリで待っていたのは、連合軍兵士とその支持者による、凄絶なリンチだった。

 

 特に、ドイツ軍に協力した女性は、髪を全て剃られて頭を丸刈りにされ、更に衣服を全て剥ぎ取られ全裸にされた上で、街中を引き回される恥辱を味あわされた。

 

 更に連合軍兵士は、それが自分達の特権だと言わんばかりに、道を歩いている女性を見つければ、捕まえて強姦に及んだ。

 

 所かまわず女性を犯す連合軍兵士の姿には、「正義の味方」「解放軍」「護民軍」の姿はなく、最大限好意的に評しても、無法者かケダモノの群れでしかなかった。

 

 そこかしこで響き渡る女性の悲鳴と、下卑た行為による嬌声。

 

 こうした連合軍兵士によるパリ女性に対する強姦行為は、何も親ドイツ派女性に対してだけに行われたわけではない。中にはレジスタンスとしてドイツ軍に抵抗し、解放に協力した女性に対しても、連合軍兵士が強姦に及んだ例は多数に上った。

 

 要するに、彼等にとって理由などどうでもよく、ただ女と見れば見境なく興奮し、恥ずかしげもなく下半身を曝け出して襲い掛かるケダモノと変わらないと言う訳だ。

 

 パリの街は、連合軍兵士による「公衆便所」と化した。

 

 「ドイツ軍が来た時には男が隠れなくてはならなかったが、連合軍が来た時には女を隠さねばならなかった」とは、今もパリでまことしやかにささやかれているブラックジョークである。

 

 ドイツ軍は確かに侵略軍であり、スパイや残党狩りの為に怪しい男の狩り出しは行うが、それは軍組織として当然の事。反面、その秩序は軍規によってしっかり統制され、無法を働く者は少なかった。仮に法を犯すドイツ兵がいれば厳正に処罰が下された。

 

 一方の連合軍には、秩序などあったものではなく、自分達の正当性を盾に無法を働く者が後を絶たなかった。

 

 これらの事実は一般的にはあまり語られる事は少なく「侵略したドイツ軍は悪であり、それを解放した連合軍は正義」として語られる事が常である。

 

 今日、侵略戦争をしたナチス・ドイツの「悪行」は広く知れ渡っているのに、連合軍の無法行為については、一般には殆ど知られていない。

 

 「歴史は勝者が作る」とは、要するにそう言う事だ。

 

 とは言え、こうした連合軍兵士による無法行為はフランス国民からすれば災厄以外の何物でもないのだが、残念ながらそれによって、ドイツに対して何らの優位性も齎す物ではないのも明らかだった。

 

 このように、東西から挟撃されつつあるドイツの劣勢は、火を見るよりも明らかである。

 

 そのような中で、突如として浮上して来た総統命令による攻勢作戦。それも、主戦場である東部戦線ではなく、西部戦線における攻勢である。

 

 戸惑うな、と言う方が不可能だ。

 

「じゃあ、どうあっても作戦実施は避けられないわけですね?」

「ああ。残念ながらな」

 

 尋ねるエアルに、デーニッツは神妙な面持ちで頷く。

 

 その様子から考えてもデーニッツ自身、この決定に納得がいっていないのは間違いなかった。

 

「総統閣下は本気だ。本気で、連合軍相手に攻勢を仕掛けるつもりだよ」

 

 嘆息交じりに告げられたデーニッツの言葉が、全てを物語っていた。

 

 あるいは、ヒトラーの説得を試みようとして、結局果たせなかった徒労感から来ているのかもしれないが。

 

 ヒトラーの命令は、国防軍の思惑の真逆をいく物だった。

 

 現在、国防軍では、残存する部隊を本国に集結させ、本土決戦によって活路を見出すべく計画が推進されていた。

 

 間も無く冬が来る。ヨーロッパ特有の厳しい冬が。

 

 ドイツ軍にとってある意味、一縷の望みを賭けるべき、好機の到来である。

 

 冬が来れば、連合軍もソ連軍も活動を鈍らせざるを得ない。その間に守りを固め、戦力を増強して態勢を立て直そうと言うのだ。

 

 如何に劣勢でも、本土での戦いなら地の利はドイツ側にある。巻き返しの希望はあった。

 

 決戦は春。

 

 それまで、どうにかして持ち堪えなければならない。

 

 兵器を量産し、部隊を再編制、国内の各拠点を要塞化。更に徹底した訓練を行って新兵の技能を向上。

 

 やるべき事はいくらでもあった。

 

 全ては、来たる本土決戦へ向けた準備。

 

 だったのだ。

 

 しかし、その防衛計画も、ヒトラーが発した突然の攻勢指示によって事実上、ご破算となってしまった。

 

 現在、西部戦線は連合軍の攻勢によって押し込まれ、戦線はベルギーのアントワープ周辺に及んでいる。

 

 連合軍は既にアントワープ港を占領する事に成功しており、現在はそこを拠点として兵站線を整える計画を立てている事が判っている。

 

 しかしアントワープ周辺に展開したドイツ軍が頑強に抵抗し、徹底したゲリラ戦を展開。そのせいで連合軍は港を使用できず、兵站計画は遅延している状況だった。

 

 ヒトラーは、この膠着した状況を利用して攻勢に転換、アントワープを再奪回する事で連合軍の作戦を頓挫させようと考えたのだ。

 

 それだけではなく、敢えて攻勢に転じて連合軍側の作戦を破綻させる事によって、連合軍の中に相互不信を生じさせ、もって、最低一国は連合軍から脱落させる事を目的としていた。

 

 の、だが。

 

「話にならない」

 

 話を聞いてエアルは首を振りながら、吐き捨てるように言った。

 

「そんなの、机上の空論ですらない。たちの悪い夢物語じゃないですか」

「総統閣下は、可能だと考えているんだよ。残念ながらな」

 

 ヒトラーの主張としては、連合軍は確かに兵力は膨大だが、その実態は、指揮系統はおろか言語の統一すらされていない寄せ集めに過ぎない。よって、ドイツ軍主力が今、この時期にあえて、全軍をもって攻勢に転じれば戦線の巻き返しは確実。連合軍は容易に壊滅するだろう、との事だった。

 

 絶句するエアル。

 

 希望的観測ですらない。他力本願を通り越して、殆ど神頼みに近い。

 

 今は一刻も早く、本国の守りを、より強固なものにして敵を迎え撃つ準備を進めなくてはならないと言うのに。

 

「我が海軍にも命令が来ている。攻勢を掛ける陸軍に呼応して主力艦隊を出撃、抵抗の為に出撃してくる連合軍艦隊を撃破し、アントワープ港に対し艦砲射撃を仕掛けよ、との事だ」

 

 どこまでも、呆れるしかなかった。

 

 仮にヒトラーの考え通りだったとしよう。連合軍の連携に不備があり、そこに付け入る隙があったとしよう。更に加えて、その隙をうまく突けたとしよう。更に更に、作戦がドイツ軍(と言うよりヒトラー個人)の思い描いた通りに行ったとしよう。

 

 言うまでも無いが、ここまでの時点で既に奇跡レベルである。

 

 しかし、その奇跡をもってしても勝てないのは、火を見る以前の問題だ。

 

 連合軍の兵力自体がドイツ軍を遥かに凌駕している事は間違いない。戦線突破はどう考えても不可能であり、逆に物量に押し返され、ドイツ軍の方が大損害を被るであろう事は容易に想像できる。

 

 仮に一時的に敵を混乱させたとしても、最終的に敗れるのは目に見えていた。

 

 こんな作戦は、兵力と時間をいたずらに消耗させるだけだった。

 

 それに、いくら我が方に最強戦艦の「ティルピッツ」がいるとは言え、イギリス海軍もまた、最新鋭のライオン級戦艦を次々と竣工させ、更にその他の艦艇も充実を見ている。

 

 元からあった戦力差は、今や覆しようのない領域に達している。

 

 だからこそエアル達は空母機動部隊を整備し、より高機動を主体とした海上ゲリラ戦で活路を見出そうとしている。

 

 敵がドイツ本国に踏み込んできたところを海上に空母機動部隊を展開。航空兵力と潜水艦隊の連動でもって敵の兵站線を破壊して回る。

 

 更に空軍が呼応して内陸の鉄道網を破壊する。

 

 最前線で補給が滞り、連合軍主力の身動きが取れなくなったところで、国内に待機していた陸軍主力が総反攻に転じ、一気に押し返す。

 

 言わばドイツ軍御得意の「後手の一撃(バックハンド・ブロウ)」を、3軍統一、拡大型で行う形である。

 

 これが現状考えられる、唯一の勝利シナリオだ。

 

 ヒトラーの決定は、その努力を踏みにじるに等しい愚かな決定と言えた。

 

 「神頼み」と言ったが、この作戦がもし成功するとすれば、頼む神がダース単位で必要だろう。

 

「もはや、どうにもならん、か」

 

 吐き捨てるように言ったのはウォルフだった。

 

 そんな父の言葉に、エアルは驚きを隠せなかった。

 

 今までウォルフは、ヒトラーの行動に対し批判的な事を言ったことは一度も無かった。

 

 そんな父が、諦念にも似た言動をするとは。

 

「これが総統閣下の命令である以上、従わなければならん」

「だからって…………」

 

 まったくもって、納得のできる話ではない。

 

 しかしウォルフの言う通り総統命令である以上、たとえどれだけ理不尽な命令であったとしても、従わざるを得ない。

 

「艦隊司令官の言う通りだ」

 

 ウォルフの言葉を引き継いで、デーニッツが言った。

 

「皆、ご苦労ではあるが、作戦実施予定まであまり時間が無い。準備に取り掛かってくれ」

 

 デーニッツの言葉に、全員が立ち上がり敬礼を行う。

 

 エアルもまた、敬礼しているが、その顔にはあからさまな不満が滲んでいる。

 

 もっとも、この場で不満を述べたとしても、何も始まらない。

 

 ウォルフやデーニッツの言う通り、総統命令である以上、いかに不満があっても、従う以外に無かった。

 

 

 

 

 

2

 

 

 

 

 

 結局、会議はエアルにとって、何ら実りあるものではなかった。

 

 作戦開始は、もはや避けがたく、構想していた本土決戦案も廃案にせざるを得ない。

 

 何より、

 

 恐らく、これからドイツ軍が被るであろう損害と、その後にやってくる再建作業の事を考えれば、それだけで眩暈がしてくる想いだった。

 

 結局のところ、ヒトラーはかつての栄光が忘れられないのだ。

 

 かつて精強だったドイツ国防軍。

 

 その精鋭部隊がもたらした初戦の大勝利が忘れられないのだ。

 

 しかし、そんな物は最早、昔日の幻に過ぎない。トップが幻想に浸り、現実を見ないのでは、この国はもう…………

 

「兄貴」

 

 声を掛けられたのは、エアルが思案に耽っている時だった。

 

 振り返れば、随分と懐かしく思える顔がそこにあった。

 

「クロウッ どうしてここにッ」

「久しぶり、兄貴。航空隊の方でも意見を聞かせてほしいって言われて、隊長の俺が呼ばれたんだよ」

 

 今や空母機動部隊は、海軍の中核戦力となりつつある。その為、意見を求められたのだろう。

 

 互いの手を固く握るアレイザー兄弟。

 

 共に笑顔が浮かべられる。

 

「このあと時間ある? よかったら、食事でもどう?」

「いいね。もちろん、兄貴の奢りだよな」

「おいおい……大尉が少将に飯をたかるかね」

 

 苦笑しつつ弟の頭を小突きながら、連れ立って歩き出すのだった。

 

 

 

 

 

 エアルがたまに行く、軍関係のレストランへ行き、それぞれ食事を注文する。

 

 頼んだ食事が運ばれてくる間、クロウは興奮したように語り続けた。

 

 東部戦線での事。

 

 敵軍の規模。

 

 仲間たちの活躍。

 

 そしてもちろん、自分の活躍も。

 

 その一つ一つを、エアルは丁寧に聞き入る。

 

 弟の話は、どれも聞き入る程に興味深く、聞いて居るアエルも興奮してくるほどだった。

 

「なあ、兄貴」

 

 料理が運ばれてきたタイミングで、クロウは改まった口調で尋ねた。

 

「サイアから聞いたんだけどさ、その、子供生まれるって、マジか?」

「…………まあ、ね」

 

 少し躊躇うように、エアルは頷く。

 

 シャルンホルストにはああ言ったが正直、このような時期に艦娘を妊娠させてしまった事への罪悪感は、エアルの中にもあった。

 

 糾弾されてもおかしくない立場であるのは自覚していた。

 

 だが、

 

「やったじゃんかよ」

 

 そう言って、クロウは笑顔を浮かべる。

 

「兄貴はさ、ずっと俺とかサイアの親代わりしてくれてがんばってきたじゃんか。だからさ、兄貴には幸せになってほしいんだよ」

「クロウ……」

 

 思いがけない弟の言葉に、エアルは思わず言葉を詰まらせる。

 

 正直、クロウにここまで言われるとは思ってもいなかったのだ。

 

「彼女の事も、子供の事も、大切にしろよな、兄貴」

「勿論だよ」

 

 そう言って頷くエアル。

 

「俺の事より、そっちはどうなのさ?」

「いや、俺は別に……」

「とか言って、誰かいるんじゃないの? たとえば、そうだな…………ツェッペリンとか」

「いや、何であいつの名前が出て来るんだよ!?」

 

 食べながら、盛り上がるアレイザー兄弟。

 

 運ばれてきた料理を全て平らげた後も、尽きない話題。

 

 兄弟水入らずの、楽しい時間が流れていった。

 

 

 

 

 

 掃除と洗濯を終え、一息つく。

 

 シャルンホルストは、軽く疲労した体を休めるように、椅子に座って、入れておいたお茶を飲んだ。

 

「ふう、だいぶ片付いたかな」

 

 部屋の中を見回しながら呟いた。

 

 ここはキール軍港にある「シャルンホルスト」艦内。

 

 ではない。

 

 ここは海軍基地内にある宿舎。

 

 エアルの部屋。退院した後、シャルンホルストはこの部屋で生活していた。

 

 何れは艦に戻るつもりなのだが、それまでの繋ぎである。

 

 何しろ、お腹に赤ん坊がいる体である。

 

 艦体は言わば、艦娘のもう一つの体であるとは言え、いきなり海の上に戻ったりしたら、どんな悪影響があるか分からない。

 

 そこで、もう暫く陸にいて様子を見ようと言う事になったのだ。

 

 食事の準備をしようとした時だった。

 

 ドアがノックされる音が、部屋の入り口から聞こえて来た。

 

 訝るシャルンホルスト。

 

「あれ、おにーさんかな? 早いな……」

 

 そう呟きながら玄関へと向かう。

 

 エアルなら、そもそもノックなんかしないで入ってくるはずなのだが。

 

「はーい、今開けます」

 

 そう言ってノブを回す。

 

 扉を開いた先。

 

 しかし、そこにいたのは、予想した人物ではなかった。

 

「あ…………」

 

 声を上げるシャルンホルスト。

 

 対して、相手は少しばつが悪そうに言った。

 

「突然、済まない。少し、話がしたいんだが、良いかな?」

 

 ウォルフ・アレイザーは、そう言って真剣な眼差しを向けて来るのだった。

 

 

 

 

 

第80話「転がり落ちる、奈落の底」     終わり

 

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