1
白い闇。
視界全てが白に覆われ、先を見通す事が出来ない。
すぐ近くを航行している筈の味方の船でさえ霞んで見える。識別等の明かりのおかげで、どうにか位置が分かっている程度だ。
その白い闇に、音すら飲み込まれたのか、静寂のみがこの場の支配者となっている。
ただ、時折舷側に打ち付ける波の音だけが、不気味に響いていた。
この先には一体、何があるのか?
あるいは、何が「いる」のか?
唯々、不吉な静けさだけが、海原を包み込んでいた。
ふと、脳裏に浮かぶのは、幼いころに聞いた話。
「北の海には魔物が棲む」。
そんな、おとぎ話のような怪談を思い出す。
まさか、そんな筈はない。
魔物なんか出るわけがない。
船員は額に浮かんだ冷や汗を拭い、薄ら笑いを浮かべる。
そうだ、この現代に、海の魔物なんて非科学的な物が出るわけがないじゃないか。
そんなことある筈がない。
ある筈がない。
その、筈なんだ。
そう、
だから、目の前の霧。
その向こう側に浮かんだ、黒々とした巨大な影も、きっと幻に違いない。
そうに、違いないんだ。
一瞬、
風が吹く。
霧が晴れる。
視界の彼方に浮かぶ、巨大な艦影。
細くスマートな船体に、中央で均整の取れた艦上構造物。
前部に2基、後部に1基搭載された巨大な連装砲塔。
そのマストには、
勇壮にはためく鉄十字。
「なッ!?」
驚愕に染まる。
砲門は、既にこちらへと向けられていた。
「て、てて、敵襲ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」
恐怖と共に叫んだ瞬間、
ドイツ巡洋戦艦の主砲が火を吹く。
認識できたのは、そこまでだった。
最高速度の35ノットに達するまでに、それほどの時間は掛からなかった。
鋭角な艦首は鋭く波濤を切り裂き、風を受けてマストの鉄十字は雄々しく翻る。
ドイツ巡洋戦艦「シャルンホルスト」は、目標と見定めた船団に向け最大戦速で突撃しつつ、連装3基6門の40センチ砲を振りかざす。
遥か彼方では、逃げ惑う輸送船団。
その手前には、健気にも彼等を守ろうと向かってくる護衛艦の姿がある。
駆逐艦やコルベットが、その小さな船体に搭載された火砲を振りかざし、健気にも船団を守ろうと、「シャルンホルスト」に挑みかかってくる。
しかし、所詮は蟷螂之斧に過ぎない。
「シャルンホルスト」の艦橋にて、ドイツ海軍第2艦隊司令官エアル・アレイザー少将は、状況を冷静に見定め腕を振るう。
「《オイゲン》以下、僚艦に通達。護衛は全て本艦が引き受ける。引き続き、船団攻撃を続行せよ!!」
「了解、打電します!!」
その間にも、「シャルンホルスト」は主砲を旋回させ、向かってくる敵艦に狙いを定める。
向かってくる護衛駆逐艦は8隻。コルベットが10隻。中には魚雷を装備した艦もある。
いかに巡洋戦艦と言えど、魚雷を喰らえば大ダメージは免れない。
そのままの数で突っ込んでこられれば脅威だが……
「勇気は認める。使命感には敬服する」
エアルはスッと目を細め、「シャルンホルスト」めがけて突撃してくる連合軍の護衛艦隊を睨む。
振り上げる右腕。
「けど、愚かだ」
振り下ろされる右腕。
撃ち放たれる6門の40センチ主砲。
放たれた1トンの砲弾は、ほぼ水平の弾道を描いて、先頭の駆逐艦を直撃した。
文字通りに粉砕される小型の船体。
重量1トンの砲弾が直撃し、小型の艦体は木っ端微塵に通り消し飛ぶ。
海上に現出する炎。
それでも、残りの駆逐艦が突っ込んでくる。
その様子を眺めながら、エアルは目標変更を指示する。
「シャルンホルスト」が敵の護衛部隊を引き付けているうちに、「プリンツ・オイゲン」に率いられた別動隊が、敵後方にいる輸送船団めがけて突撃していく。
対して船団の方も、ドイツ艦隊が接近した時点で対応を取っている。
船団を解除し、それぞれバラバラの方向に向けて避退を始める。
損害が免れないなら、せめてバラバラに逃げて被害を極限しようと言うのだ。
長く、ドイツ海軍の通商破壊戦に苦しめられてきた連合軍が編み出した苦肉の一手である。
もっとも、
「それも、先刻お見通しだけどね」
「シャルンホルスト」艦橋で、不敵な笑みを浮かべるエアル。
既にこれあるを見越して、手は打っておいた。
その頭上で、頼もしいエンジン音が響いてきた。
「グラーフ・ツェッペリン」航空隊が戦場上空に到着したのは、「シャルンホルスト」の襲撃に驚いた敵が、船団を解除して避退に掛かった、まさに絶好のタイミングだった。
メッサーシュミットBf109を駆るクロウは、眼下の様子を冷静に観察して指示を飛ばす。
「南東方向に避退する船団ありッ 第1、第2小隊はそちらを優先して叩け!! 他の隊は逃げ遅れている奴を狙え!!」
矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、向かってくる敵機を返り討ちにするクロウ。
下駄履きの水上機だ。恐らく、武装商船が護衛の為に搭載していたのだろう。
しかし、フロート付きの機体は、空気抵抗の関係で速力が遅い。
速力においては世界最高クラスの性能を誇る、メッサーシュミットの敵ではなかった。
接近と同時に機首のモーターカノンを1連射。
敵機の爆砕を見届けると、クロウは操縦桿を引いて再び上昇に転じる。
眼下では、攻撃を受けた輸送船が炎を噴き上げるのが見える。
更に、護衛艦隊を蹴散らした「シャルンホルスト」以下、第2艦隊主力も船団の中に飛び込むと、火力を全開にして暴れまわる。
戦いは、ドイツ側の圧倒的優位となっていった。
2
ドイツ第3帝国の終局は、容赦なく迫りつつあった。
ポーランド失陥、そしてアルデンヌ攻勢失敗に伴い東西両戦線は崩壊。
ドイツは自力で本国侵攻を阻止する手段を完全に失った。
東のソ連軍と西の連合軍が、それぞれ圧倒的な物量差でもって、ドイツを万力の如く押しつぶさんと迫る。
それに対し、各戦線のドイツ軍はなけなしの抵抗をするのが精いっぱいだった。
やがて、圧倒的な物量と火力を前に、防衛線は文字通り粉砕される。
急速に崩壊していくドイツ第3帝国。
その歯止めは、最早不可能な域に達していた。
前線では無為に兵士の命が失われ、領土は急速に縮小する。
後方からは相変わらず、無責任な後退禁止、現地死守命令が飛ばされるばかり。
もう、だめだ。
多くの者が、絶望の前に屈していく。
しかし、まだ希望はあった。
間も無く、冬が来る。ヨーロッパの厳しい冬が来る。
そうなれば、寒さに慣れていない連合軍は、否応なく進軍を停止せざるを得ないだろう。
逆にソ連軍は、冬の厳しさを知っているが故に、無理な攻勢は避けるだろう。
つまり、必ず戦線は膠着状態に陥る筈。その間に体勢を立て直すのだ。
決戦は春。冬の間に戦線を維持し戦力を増強、部隊を再編制する。しかる後、春の雪溶けを待って、一気に反転攻勢に打って出るのだ。
全ては、この冬が勝負。
冬さえ来れば、ドイツはまだまだ戦えるのだ。
そう、冬さえくれば…………
冬さえ…………
冬、さえ…………
冬…………さえ…………
そして…………
1945年初頭。ヨーロッパに、冬は来なかった。
この年は1月~2月にかけて、例年に無いほどの暖冬がヨーロッパ全土を覆い、比較的過ごしやすい気温のまま推移した。地方によっては、積雪が全く確認されなかった地域もあり、日によっては防寒具すら必要なかったほどである。
冬季間に戦線を維持し、戦力を回復するという、ドイツ軍の計算は根底から崩れた。
4年前、バルバロッサ作戦を発動した際には、観測史上に残る程の大寒波が襲ったというのに、ドイツ本国が侵攻を受けた時には全く雪が降らないなど、まさしく「天に見放された」としか言いようがなかった。
いずれ連合軍にしろ、ソ連軍にしろ、雪が降らないのであれば進撃を止める理由は無かった。
東西両戦線において、敗走を重ねるドイツ軍。
総統ヒトラーは相も変わらず、絶対安全な地下から「後退禁止」「現地死守」の一点張りだったが、最早誰も、その言葉を聞こうとはしなかった。
その間に、事態は外壁から崩れ始めた。
枢軸国を構成する国々が、戦況に見切りをつけ、連合国側に寝返り始めたのだ。
ハンガリー、ルーマニア、フィンランドと、枢軸国を構成する国々が、次々と脱落していく。
それどころか、矛を返し、それまで友軍だったドイツ軍に対し砲火を浴びせてくる国まである。
彼等も必死だった。それまでドイツに与していたという立場な手前、ここで少しでも「新たなご主人様」の心象を良くする為、ドイツ狩りに奔走した。
こうして、坂を転がり落ちるようにドイツを取り巻く状況が悪化していく。
そうした中、3月に入り、またしてもヒトラーは、何の前触れもなく突如として攻勢の指示を出す。
ハンガリーの寝返りによって、同国の油田が使えなくなることを懸念したヒトラーは、ブダペストへの進軍と、同国にある油田の確保を命じた。
「春の目覚め作戦」と名付けられたこの作戦は当然、軍部から猛反対が出る。
今は本国の守りを優先すべき時であり、油田などに構っている場合ではない。
しかし、この頃になると国防軍はおろか、自身に忠誠を誓う親衛隊員すら疑心暗鬼から信用しなくなっていたヒトラーは、一切の反対意見に耳を貸さず、独断で作戦を強行した。
動員されたドイツ軍は、総兵力14万。
大軍には違いない。
しかし、フランス侵攻時には総勢350万を数え、名実ともにヨーロッパ最強を誇ったドイツ陸軍が、惨めな事になった物である。
対するソ連軍は、ハンガリー方面に展開した兵力だけで、ドイツ軍の3倍以上となる45万。しかも、事前にドイツ軍の作戦計画が漏れており、鉄壁の防御陣を敷いて待ち構えていた。
清算性も戦略性も無い戦いに勝利などあろうはずもない。
ドイツ軍の攻勢は、ソ連軍の防衛ラインを抜く事が出来ず、僅か9日で終了。その後は、反撃に転じたソ連軍によって追い散らされてしまう。
結局この戦いも、ドイツにとって何の成果も齎す事はなく、ただでさえ残り少ない戦力を更に消耗させただけに終わった。
そして、
この「春の目覚め作戦」における戦いが、第2次世界大戦における、ドイツ軍の最後の攻勢になった。
こうして、圧倒的絶望がドイツを飲み込んでいく。
頭上には暗雲がはびこり、足元には地獄の門が口が開く。
人々は堕ちていく己の運命を思い、ただ悲嘆にくれるしかない。
しかし、
そんな絶望的な状況に至って尚、最前線で気を吐き続ける者たちが、未だ少数ながら存在していた。
西部戦線においては、B軍集団が迫る連合軍に対し、頑強に抵抗を続けていた。
B軍集団の総兵力は43万。数だけを見れば、往年のドイツ軍主力にも匹敵する。
しかし、その内実は額面通りの物ではなく、総兵力の内30万以上は、装備だけは立派だが実戦経験皆無な素人集団に過ぎない
しかし、残る10万はこれまで最前線で激しい戦いを生き抜いた国防軍や武装親衛隊等、紛れもない精鋭中の精鋭によって構成されていた。
更に、指揮官のモーデル元帥は、撤退戦、防衛線の名手であり、これまで幾度となく厳しい戦いを指揮した経験から「ヒトラーの火消し屋」と言う異名で呼ばれていた。
モーデルは、B軍集団司令官に就任すると、既に事態は自分の対応できる範囲を超えている事を悟った。
しかし同時に撤退も許されない。自分の敗北は即ち、ドイツの滅亡を意味している事を、モーデルは誰よりも理解していた。
モーデルはB軍集団を率いてドイツ西部のルール地方に立て籠もると、迫りくる連合軍をわずかでも足止めする為に奮闘した。
残り少なくなった機甲師団も、最後の意地とばかりに奮起して見せる。
主力戦車であるパンターとティーガーⅠ。
更にバルジ攻勢で初見参したティーガーⅡ戦車も、この頃になると初期不良がある程度解消され、最前線で更なる猛威を振るい始めた。
堅牢な装甲であらゆる攻撃を防ぎ切り、長砲身88センチ砲は、迫りくる敵を一撃のもとに撃ち抜く。機動性を犠牲にして攻防性能を極限まで高めたティーガーⅡにとって、防衛戦こそが真骨頂である。
空に目を向ければ、異形の猛禽が大気を切り裂いて飛翔する姿が見えるだろう。
戦闘機隊総監ガーランド中将自ら率いている、この部隊の最大の特徴は、世界初の実用ジェット戦闘機、メッサーシュミットMe262シュワルベをフル装備している事だった。
最高速度はレシプロ機には絶対に到達不可能な時速900キロを叩き出し、機首に集中装備した4門の30ミリ機関砲はいかなる敵機をも1撃の下に粉砕する。
アメリカ軍が絶対の自信をもって戦線投入した戦略爆撃機ボーイングB29スーパーフォートレスですら、この機体の前ではカモに過ぎなかった。
このメッサーシュミットMe262は元々、戦闘機として開発が進められていた物を、ヒトラーの気まぐれで爆撃機として転用されそうになった。しかしその後、連合軍の爆撃が激しさを増すにつれ、再び戦闘機としての開発が再開、完成したと言う経緯がある。
紆余曲折あった為開発は遅れ、実戦投入されるようになったのは1944年の後半になってからだった。
しかし、満を持して登場しただけあり、その性能は圧倒的だった。
戦線投入から僅か2カ月で300機以上の連合軍機を撃墜。一時は連合軍司令部が、ドイツに対する戦略爆撃計画の見直しを迫られた程である。
もし、この機体があと1年早く完成し、充分な数が量産できていたら、連合軍にしろソ連軍にしろ、ドイツ侵攻が成功したか疑わしいだろう。掛け値なしで第2次世界大戦における世界最強の戦闘機である。
海には、再び獰猛な鮫の群れが出現していた。
この頃になってドイツ海軍が戦線に投入したUボートはU―XXⅠ型。このタイプは水中高速型と呼ばれ、潜航時の最高速度は脅威の18ノットに達する。これまでの潜水艦の水中速度がせいぜい8~10ノットそこそこだったことを考えれば、いかに画期的かがわかるだろう。
40ノット近い速力を誇る駆逐艦と言えど、ソナー使用中は10ノット近くまで速力を落とす必要がある。速力を上げすぎると、自艦のスクリュー音をソナーが拾ってしまい探知不能になってしまうからだ。
つまりこの新型Uボートは、駆逐艦の弱点を巧みに突いた、最強の潜水艦である。
速力を上げれば見失い。探知に専念すれば追い付けない。
各種新兵器の投入でドイツ海軍潜水艦隊を追い詰めたかに見えたイギリス海軍だったが、この新型Uボートの実戦投入により再び被害は増大。中には、索敵中の駆逐艦が、Uボートに返り討ちにされる例まであった。
その最強の潜水艦を、更なる極限に押し上げたのが酸素魚雷の存在である。
同盟国の日本から提供され、量産化に成功したこの最強魚雷を搭載したUボートの一部が戦線に投入されるや否や、イギリス海軍対潜部隊がパニックに陥ったのは言うまでもない事だった。
姿無き潜水艦が、姿無き魚雷を放ってくるのだから、そこにあるのは恐怖以外ありえなかった。
一時期は、連合軍の対潜部隊に追い込まれたUボート艦隊は、再び深海の支配者に返り咲こうとしていた。
そして、
北の海においても、激しい戦いが続いていた。
今や海軍唯一の実働水上部隊となった、エアル・アレイザー少将率いる第2艦隊はアントワープ沖海戦の後、戦場の脱出に成功。敵の追撃を振り切って、再び北ノルウェー基地に進出。北海を中心に通商破壊戦を展開した。
エアルが主戦力として頼みにしたのは、2隻の空母「グラーフ・ツェッペリン」と「ペーター・シュトラッサー」だった。
ドイツ海軍空母機動部隊の機動性と攻撃力はすさまじく、第2艦隊のノルウェー展開から僅か1カ月で、北海北部からバレンツ海にかけての制空権、及び制海権はドイツ側の手に帰した。
エアルは巧みだった。
空母機動部隊は確かに強力だが、虎の子の切り札である事も理解していた。その為、運用には慎重を求められる。
まずUボート艦隊と航空隊を駆使して徹底的な偵察を実施。輸送船団を発見すると同時に、水上艦隊による襲撃を敢行する。
水上艦隊が船団を補足できれば、そのまま砲雷撃戦で撃滅する。
もし、敵が船団をばらけさせて逃走を計ったら、Uボートと航空隊による追撃を行う。
正に鉄壁の布陣と言えた。
エアルの作戦展開は巧妙だった。
先述の通り、偵察を徹底したエアルは、発見した船団の規模を見極め、少数であるならば時折、見逃して通してやる事もあった。
これは、エアルが敵に情けを掛けたから、ではない。
あえて少数の船団を時折通してやる事で、「この海域は安全である」と、連合軍やソ連軍に錯覚させるのだ。
そうして敵が油断して海域に進入したところを、全艦上げて襲撃を行い全滅させる。
この方法でエアルは、多数の輸送船を撃沈、拿捕する事に成功していた。
この巧緻かつ、徹底したやり方は亡き父、ウォルフに通ずる物があった。
更に1945年の2月の入ると、「諸般の事情」で戦線離脱していた巡洋戦艦「シャルンホルスト」が復帰。ドイツ艦隊による北海航路封鎖はますます強化された。
第2艦隊が北海で作戦行動が出来たのは、先のアントワープ沖海戦の影響が大きかった。
あの戦いで、ウォルフ・アレイザー率いるドイツ第1艦隊は、自分達の全滅と引き換えに、イギリス本国艦隊の、特に大型艦を中心に多大な損害を与える事に成功した。
主力艦隊が壊滅するほどの損害を被ったイギリス艦隊。
これにより、北海で暴れるドイツ第2艦隊に対し、即応する事が難しくなったイギリス海軍は、常に後手を踏まざるを得ない事態となった。
何度か討伐の為の艦隊を出撃させたが、イギリス海軍の主力艦隊接近を察知すると、エアルはたちまち撤退し、フィヨルド内に逃げ込んでしまう。
無理に攻めようとしても、北海の荒れた海の中では艦隊を長時間留めておくことは難しく、やむなく撤退せざるを得ない。
イギリス艦隊にとって、憂鬱な日々が続く事になった。
こうして、絶望的な状況の中で奮闘を続けるドイツ軍。
それは正に、燃え尽きる前の最後の光芒が光り輝くにも等しい、眩しくも儚い、一瞬の閃光だった。
3
「シャルンホルスト」がフィヨルドの定位置に着くと、錨が下ろされる。
北ノルウェー基地は、エアルの父であり、アントワープ沖海戦で壮絶な戦死を遂げたウォルフ・アレイザーが心血を注いで完成させただけあり、あらゆる面で艦隊泊地として優れていた。
外海と隔絶している為安定して停泊できる事は無論の事、事前に蓄積された物資、弾薬は、元々ドイツ海軍水上部隊全体を賄える量がある。つまり(それ自体は皮肉な事だが)戦力的に激減した現状、たとえ補給が途絶えても、第2艦隊が複数回に渡って出撃が可能。1年以上の継戦能力を維持できる計算が出ていた。
防御力に関しても、フィヨルド特有の切り立った断崖と濃密な対空砲火は、航空機の侵入を拒み続けている。もちろん、水上艦や潜水艦が侵入できないように監視、防備は万全だった。
更に北の海特有の荒れた海が、これまで敵の侵攻を防いでいた。
正に、天然の要害に築かれた難攻不落の城塞である。艦隊が籠城するのに、この上ない程理想的な環境だった。
仮にだが……
ドイツ本国が陥落しても、暫くは戦い続けられるだろう。
アントワープ沖海戦の後、この北ノルウェー基地に落ち延びたエアル率いる第2艦隊は、ここを基点に作戦を展開し、イギリス―ソ連間を行き来する船を狙って通商破壊戦を行っていた。
タラップから揃って降り立つ、エアルとシャルンホルスト。
既に港では、荷下ろし作業が始まっている。
拿捕した輸送船から、使える物資を下ろすのだ。
北の海に立て籠もる第2艦隊にとって、拿捕した輸送船と物資も、大切な生命線だった。
と、
「兄さんッ シャル!!」
呼びかけられて振り返る2人。
途端に、シャルンホルストは満面の笑顔になった。
「サイアッ エミー!!」
巡戦少女が駆け寄る先に立つのは、エアルの妹であるサイア・アレイザー。
そして、
彼女の腕の中には、つぶらな眼差しでこちらを見詰めている赤ん坊の姿があった。
赤ん坊をサイアから受け取り、しっかりと抱きしめるシャルンホルスト。
「ただいま、エミー。ママ頑張って来たよ。良い子にしてた?」
「アハハ、エミーは良い子だったよ。ミルクもたくさん飲んだしね」
「そっかー。なら、すぐにおっきくなれるねー」
そう言うと、赤ん坊に頬ずりする巡戦少女。
その様子を傍らに見ながら、エアルはサイアに向き直った。
「ただいまサイア。留守中、エミーの面倒見てくれてありがとう」
「いえいえ、兄さんもシャルも忙しいんだから、これくらい当然だよ」
そう言ってサイアは笑みを見せた。
1945年1月。
アントワープ沖海戦から約1か月後、シャルンホルストは女の子を出産した。
正に、この絶望的な状況に生まれた希望。
赤ん坊の誕生は、艦隊、ひいては基地全体で盛大にお祝いしたほどだった。
赤ん坊には「エミーリア」と名付けた。
エミーリア・アレイザー。
このような状況で生まれたからこそ、彼女の幸せを願わずにはいられなかった。
だが、非情にも、状況は更なる一途を辿る。
本国を巡る戦闘はますます劣勢を増し、ドイツの敗亡は秒読みの段階になりつつあった。
エアルは心苦しさを感じつつも、出産後のシャルンホルストに頼るしかなかった。
体調が戻ったシャルンホルストは、本人の希望もあって2月中旬から作戦に参加。艦隊の中核戦力として活躍。イギリス艦隊の抵抗を粉砕し、僚艦による輸送船攻撃を支援した。
「本当は、もっと一緒にいさせてあげたいんだけど…………」
呟きながら、嘆息するエアル。
正直、司令官としては彼女の参戦は非常にありがたい。
しかし、恋人として、そして父として、
生まれたばかりの赤ん坊から、母親を引きはがすかのような行為には、少なからず心が痛んだ。
深夜。
自室に戻り、作戦行動中に基地に入って来ていた報告書に目を通すエアル。
戦況は思った通り、
否、
思った以上に思わしくない。
特にひどいのは東部戦線だろう。
同方面には既に、組織的抵抗力を持った部隊はほとんど残っておらず、圧倒的物量を誇るソ連軍を前に、各戦線は崩壊。
本国への侵入を果たしたソ連軍は、ベルリンへの攻撃も秒読み段階に入っているとか。
対してドイツ軍は残存兵力を結集。ベルリン東側のゼーロウ高地に立て籠もり、ソ連軍を防ぐ事を画策しているが、何の事はない。そんな物は時間稼ぎにしかならない事は、日を見るより明らかだった。
西部戦線もまた、いよいよ絶望的となりつつあった。
モーデル元帥率いるB軍集団が立て籠もるルール地方を、連合軍は包囲しつつある。
B軍集団が壊滅すれば、西部戦線も崩壊してしまう。
そうなればドイツは、東西から万力のように押しつぶされてしまう事になる。
もし、そうなった時、
自分達は、どうするべきか?
そう、
今や、それを考える段階まで来ているのだ。
祖国と総統を信じ、最後まで戦うか。
あるいは、降伏するか?
エアルは第2艦隊の司令官であり、このノルウェー基地一帯を預かる総責任者でもある。
その双肩には、基地に関わる、全ての人間の命運が掛けられていた。安易な考えは許されない。
そもそも、
自分はなぜ、今も戦い続けているのだろう?
この、敗北が秒読みに入った状況下で、戦う意味とは?
祖国の為か?
ヒトラーの為か?
最終的な勝利の為か?
…………
違う。
どれも、違う。
「俺が戦う意味……は……」
そう言いかけた時だった。
扉が開き、エミーリアを腕に抱いたシャルンホルストが入って来た。
「はあ、良いお風呂だった。久しぶりにサイアと一緒に入れて楽しかったよ。エミーも洗ってあげる事が出来たしね」
自分達のベッドの傍らに設置したベビーベッドに、エミーリアを寝かせる。
久しぶりに母親と一緒に風呂に入れて気持ち良かったのか、エミーリアは静かな寝息を立てて眠っている。
シャルンホルストの傍らに立ち、エアルもエミーリアの寝顔に見入る。
エミーリアは性格的におとなしいのか、あまり夜泣きをしたりぐずったりすることはない。
「シャルンホルスト」が出撃する時、サイアに預けるようにしているのだが、その時も大人しく見送ってくれる。
親として、本当に助かっていた。
ふと、
傍らのシャルンホルストが、そっと身を寄せて来た。
甘える仕草を見せる巡戦少女。
そんな少女を抱き寄せ、唇を重ねる。
「ん……ぅむ……」
くぐもった声が、唇の奥から聞こえてくる。
暫くして、離れると、エアルは笑みを浮かべて少女を見る。
「もしかして、もう2人めが欲しくなった? 流石に気が早くない?」
「もうッ 馬鹿……」
少しすねたように顔を赤くするシャルンホルスト。
しかし、少女はエアルから離れようとはしない。
愛する少女と、愛おしい娘。
この2人を守る。
その為に戦う。
何も難しい事は無いのだ。
その事を、エアルは改めて実感するのだった。
第87話「北の海に咲く」 終わり