1
銃を手に取る。
ボルトを引いて薬室を開き、銃弾が装填されている事を確認すると、ゆっくりと持ち上げる。
慣れ親しんだ重みと、木製ストックの感触を手に感じる。
Kar98Kは、ドイツ軍が使用する主力小銃だ。
ボルトアクション式で、第2次世界大戦を代表する傑作銃の一つだ。
青年が手にした銃はスコープが取り付けられており、狙撃仕様である事が伺える。
ソ連軍の狙撃兵部隊に手を焼いたドイツ軍は、遅ればせながら自分達もスナイパーを養成。その中から、特に成績優秀な者は狙撃兵部隊に配属され最前線で猛威を振るった。
青年も、そうして前線配備されたドイツ軍スナイパーの1人である。
これまで、幾人ものソ連兵の命を、そのスコープ越しに奪ってきた。
劣勢になった今、味方の撤退を援護する為に戦線後方に残った青年。
既に周囲に味方はおらず、孤独の中で戦い続けていた。
銃を構え、スコープを覗き込む。
レンズ越しに眺める標的。
ソ連軍の将校らしき人物が、部下に指示を出している様子が見える。
息を止め、意識を集中する。
己を殺し、ただスコープを覗く目と、引き金に賭けた指先にだけ、意識を集中する。
ただ一瞬、
訪れる瞬間だけを待ち望む。
鼓動までも一瞬止まった。
次の瞬間、
引き金を引く。
響く銃声。
大気を切り裂き、飛翔する銃弾。
次の瞬間、
スコープの向こうで、直撃を受けた将校が、血しぶきを上げて倒れた。
すぐに、その場を離れる。
事態に気付いたソ連兵たちが銃撃してくる。
何発かが体を掠めたが、大丈夫。致命傷にはならない。
脇目もふらずに、只管逃げまくる。
1日以上、山の中を走り続け、ようやく追撃を振り切った。
ふと、息をついた。
ここまで来れば、もう安心だろう。
その時だった。
突如、頭上から重々しい音が聞こえて来た。
咄嗟に身構える。
隠れている木陰から、首を出して空を仰ぐ。
見上げる先にある、灰色の空。
その空を、巨大な翼が横切っていくのが見えた。
「爆撃機ッ!?」
とっさに身を隠す。
まさか、自分がいる場所を攻撃したりはしないだろうが、咄嗟の習性から出た行動だった。
それにしても、
1機や2機の数ではない。
上空を通過する爆撃機は、相当な数に上るらしい。
10機……20機……30機……もっとか?
いったい、どこに向かっているのか?
やがて、上空のエンジン音が遠ざかっていく。
いったい、どこへ向かっているのか。
爆撃機が飛び去った空を見る。
「…………北?」
いったい、北に何があるのか?
既に、爆撃機の姿も、エンジン音も遠くへ過ぎ去っていた。
いったい、あの爆撃機部隊は何を目標にしているのか?
意図が分からないだけに、余計に不気味さを感じる。
「どうにかして、本隊に報せないと…………」
とは言え、手元に通信機は無い。
今から味方と合流して、通信を依頼するしかない。
そう決断して、木陰から立ち上がる。
鳴り響く銃声。
血しぶきと共に、青年は頭を撃ち抜かれ地へと倒れる。
呆気なく、一つの命が終焉を迎えた。
誰にも見取られる事のないまま。
自身が持つ情報を伝える事も出来ず、青年は、遠い異郷の地で、その人生を終えたのだった。
2
一時期より、司令部の雰囲気が明るくなったのは、気のせいではないだろう。
上の人間の顔ぶれが変わるだけで、ここまで雰囲気が変わるものなのか。
参謀たちは溌溂とし、活発な意見交換が成されている。
居並ぶ提督や艦娘達の顔にも活気が溢れている。
自分の席に座り、周囲の様子を眺めながら、リオン・ライフォード英海軍少将は、ぼんやりとそんな事を考えていた。
アントワープ沖海戦から約4カ月。
司令部全滅と言う大損害を被った本国艦隊は、その立て直しに奔走した。
特に人事面における立て直しは早急に行われた。
リオン達にとって喜ばしい事に、前任の本国艦隊司令官だったボルス・フレイザー大将が、現職に復帰した。
フレイザーは、昨年行われたオークニー諸島沖海戦において、大胆かつ精密な海上包囲戦術を実行し、ドイツ艦隊主力を殲滅した立役者である。
しかしその後、海軍の主導権を握りたい(要するに、「勝利」の栄誉を独占したい)国王フレデリックの、言いがかりに近い懲罰人事により罷免、閑職に追いやられていた。
しかし、そのフレデリックはアントワープ沖海戦で戦死し、同時に国王派も海軍内部から一掃された事で、再びフレイザーに本国艦隊司令官着任の打診が成され、この程、新司令部が発足したのだ。
ようやく、
本当にようやくの事ながら、イギリス海軍の体制は完璧に整った形である。
その第1回目の会議が、スカパ・フローの本国艦隊司令部にて行われようとしていた。
「ねえ、今回の会議の目的ってさ、多分……」
「ああ」
傍らのベルファストが告げる言葉に、リオンは頷きを返す。
戦局が推移した中、定例会議以外での会議となると、議題は限られる。
その内容に、リオンもベルファストも見当がついていた。
「『シャルンホルスト』の事、だよね」
「だろうな。それしか考えられん」
イギリス海軍にとっては、もはや厄災以上の存在となりつつあるドイツ巡洋戦艦。
先のアントワープ沖海戦。
結果としてイギリス海軍の勝利に終わった戦いだが、その内容は思わず慨嘆するくらいに酷かった。
ドイツ海軍の最強戦艦「ティルピッツ」を撃沈し、更に作戦に参加したUボートも、確定戦果だけで10隻以上撃沈。アントワープに突入して港湾施設や在泊艦艇に艦砲射撃を仕掛けたドイツ海軍の中、小型艦艇も、空軍との共同で全滅させている。
しかし、その勝利も手放しでは喜べるものではない。
戦略的にはイギリスの勝利に間違いは無いが、戦術的にはむしろ大敗と言って良い。
「ライオン」「テメレーア」「ハウ」の3戦艦を含む、多数の艦艇を喪失。更に司令官以下、本国艦隊司令部幕僚を失うという大損害を被った。
後者はともかく、前者は冗談ではなく致命的である。
特に最新鋭のライオン級戦艦が2隻も沈められたのは痛恨だった。
それに比べれば、司令官以下役立たずの幕僚集団が全滅した事など、考慮にすら値しない、些事以下にすぎない。
何より問題だったのは、ドイツ海軍の半数を取り逃がした事だった。
巡洋戦艦「シャルンホルスト」、航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」「ペーター・シュトラッサー」以下、10隻前後の艦隊が、戦場を離脱するのを許してしまった。
艦隊が壊滅したイギリス艦隊には、それらを追撃するだけの余力が残されていなかったのだ。
逃げたドイツ艦隊は、遥か北のノルウェーに再進出し、援ソ船団への攻撃を再開した。
既に大型の輸送船団2つと、小規模船団3つが壊滅している。
当初は空母2隻による航空攻撃と、Uボートによる襲撃がメインだったのだが、この2月からは「シャルンホルスト」も戦線に加わり、被害は拡大している。
「でも、何で最初から『シャルンホルスト』は出てこなかったのかな? 今更隠す意味ないと思うんだけど」
「恐らく、損傷の修理が完了したんだろう。何れにせよ、厄介な話だ」
「だよね。せめてベルリンが陥落するまで大人しくしててくれたら良かったのに」
揃って嘆息する2人。
まさかリオン達も、シャルンホルスト本人が妊娠、出産の為に戦線離脱していた、とは想像の埒外だった。
とは言え、状況は予断を許されない。正に、連合軍が恐れていた事態が起こってしまったのだ。
事この段に至り、戦局が巻き返されるとは思っていない。恐らく戦争は、連合軍の勝利で終わるだろう。
しかし、ノルウェーのドイツ艦隊を放置すれば、いずれ手痛い目に逢う事は十分に予想できる事態だった。
その時、扉が開き、本国艦隊司令部の幕僚達が入って来た。
ボルス・フレイザー大将を先頭に、参謀たちが入室し指定された席へと移動する。
全員が起立、敬礼する中、本国艦隊司令官に再任したフレイザーが上座に立ち敬礼した。
全員の着席を待ち、会議が始まる。
「今回集まってもらったのは他でもない。ノルウェーに進出したドイツ艦隊に対応する為だ」
そう言って会議の口火を切ったのは、本国艦隊参謀長を務めるロブ・バーネット少将。
第2戦艦戦隊司令官を努めるクロード・グレイスに代わり、参謀長に就任した人物である。
「『シャルンホルスト』と2隻の空母の存在により、北海航路が再び危機的状況に陥っているのは、皆も聞き及んでいると思う。既に複数の船団が壊滅的な損害を被っている。この状況を何とかしない事には、東部戦線の進捗にも影響すると判断された」
「それはつまり、ドイツ艦隊撃滅の為の作戦行動を行うと考えて宜しいですか?」
「その通りだ」
頷くバーネット。
会議室の中で、どよめきが起こる。
ドイツ艦隊は既に壊滅状態であり、ノルウェー近海で活発に活動している第2艦隊を除けば、残っているのはUボートくらい。
言わばドイツ第2艦隊は、イギリス海軍にとっては「最後の獲物」と言えるだろう。
「しかし、敵の指揮官は恐ろしく切れる奴みたいですからねー。そう簡単な話ではないのでは?」
飄々とした調子で言ったのはクロードだ。
肩を竦める元相棒に対し、フレイザーも苦笑しつつ頷く。
「その通りだ。こいつが、なかなか頭が痛い話でな」
これまで、イギリス艦隊も手を拱いていたわけではない。
何度か討伐艦隊を差し向け、第2艦隊の捕捉撃滅を狙った。
しかし、それらは全て失敗に終わっている。
原因は、ノルウェーと言う天険の地が作り出す状況だった。
北の海はとかく荒れやすく、更には日照時間が短いという特徴がある。
その為、イギリス艦隊はドイツ艦隊の捕捉に手間取り、船団襲撃を許す事態が多かった。
加えて、ドイツ艦隊は、少数故の機動性をフルに活用し、イギリス艦隊の接近を察知したら、素早くフィヨルド内の拠点に帰還する事を徹底していた。
その為、イギリス艦隊が戦場に到着する頃には、ドイツ艦隊はとっくに避退してしまっているのが常だった。
更に、イギリス艦隊にも、積極攻勢を控えなくてはならない事情があった。
アントワープ沖海戦において大型艦、特に戦艦の多くが撃沈、あるいは損傷した為、「シャルンホルスト」への対抗が難しくなったのだ。
やはり、最新鋭のライオン級2隻が沈められたのが痛かった。
キング・ジョージ5世級以前の戦艦では、「シャルンホルスト」相手に返り討ちに遭う可能性が高い。
ライオン級の3番艦「コンカラー」、4番艦「サンダラー」の戦力化が完了したのはつい先日である。
以上の理由から、イギリス艦隊は北海で暴れるドイツ艦隊を、苦虫を噛み潰して睨む事しかできなかった。
「敵の指揮官は、どんな奴だったかな?」
「確か……エアル・アレイザーですな。開戦時から『シャルンホルスト』の艦長をしていた人間です」
その言葉を聞いて、リオンは微かに身動ぎをする。
「シャルンホルスト」の艦長。
つまり、数々の戦場でイギリス海軍に煮え湯を飲ませてきた人物。
恐らく、リオンとも何度も対峙しているであろう。
エアル・アレイザー。
まだ見ぬドイツ軍人に対しリオンは、憎むべき敵であると同時に、決してそれだけには収まらない、複雑な感情を抱いていた。
奴との決着は、結局着いていない。
その事が、リオンの心の中に微かな引っ掛かりとなっていた。
「アレイザーとシャルンホルスト。お互いに長くいるからこそ、その呼吸の合わせ方も知っている、という事か」
厄介な相手だ。
この場にいる全員が思う。
海軍軍人と艦娘と言う存在にも相性があるが、長く共にいるのなら、その相性も抜群である事が伺える。
エアル・アレイザーと、シャルンホルストの組み合わせ程、厄介な物はドイツ軍にはいない。
正に、最強の存在と言っても過言ではないだろう。
ドイツ最強にして最後の敵が、北の海に居座っているのだ。
イギリス海軍としては、是が非でも打ち破らなくてはならない。
「あの…………」
議論が白熱する中、1人の少女が控えめに手を上げた。
新造されたばかりの、駆逐艦の艦娘である。
まだあまり潮気に晒されていない、どこか初々しさが見て取れる。
「何だね?」
「あの…………その……戦わない、と言う事は……その、出来ないんですか?」
その言葉に、何人かの幕僚や艦長、艦娘が彼女を睨み付けた。
この娘は、いったい何を言い出すのか?
プレッシャーを受け、怯むような仕草を見せる少女。
だが、フレイザーは身を乗り出すと、優しい口調で言った。
「なぜ、そう思うのかね?」
「あ、えっと……いえ……す、すみません」
「構わんよ。ここは忌憚の無い意見を聞く場だ。堂々と、君の意見を言ってくれ。良いか悪いかは、その後で判断すればいい」
「は、はい」
前司令部ではそもそも「意見をする」と言う事自体が許されなかった。フレデリックは己が全てであり、己の意見こそが唯一無二であると思い込んでいた。その為、他人の意見など耳障りでしかなかったのだから。
自然、活発な意見交換など望むべくも無かった。
だが、今は違う。
フレイザーに促され、少女は深く深呼吸してから口を開いた。
「せ、戦争は、もうすぐ終わるんですよね? 西部戦線でも、東部戦線でも、味方が圧倒していると聞きます。なら今更、『シャルンホルスト』1隻に拘る必要はないと思います」
「なぜ、そう思うのかね?」
「だって……戦争が終わってドイツが降伏するなら、『シャルンホルスト』だけ残ってたって意味ないじゃないですか」
彼女の言いたい事は判る。
要するに、ドイツさえ降伏してしまえば、ドイツ海軍に所属する「シャルンホルスト」も自動的に降伏する事になる。
ならば今ここで、無駄な犠牲を払ってまで「シャルンホルスト」撃沈に拘る必要はない。という事だ。
理に適っている。
いやむしろ、この上ない程の正当に近い。テストの問題なら100点満点を越えて、120点をあげても良いくらいだ。
だが、
「まあ、無理、だろうな」
「だね」
リオンが小声で漏らした言葉に、ベルファストも同意の頷きを返す。
答えは判り切っていた。
周囲を見回せば、古参の提督や艦娘程、リオン達と似たような反応をしていた。
「成程、ありがとう。君の考えはよくわかった。座ってくれたまえ」
「は、はいッ」
フレイザーは頷いて少女を座らせると、一同を見回して言った。
「今の彼女の意見は、非常に貴重な物だと思う。確かに、戦わずにドイツ降伏を待つというのは、賢い選択肢だ。無駄な手間も、犠牲も払う必要がなくなる。大変、素晴らしい意見だと思う」
では、戦わず、敵の降伏を待つのか?
皆がそう思った。
だが、
「しかし、それでも我々は戦わなくてはならない」
予想通りの言葉に、リオンは腕を組んで目を閉じる。
意見した艦娘は驚いて目を見開いているが、リオンからしてみれば、フレイザーの意見は当然の帰結と言えた。
「まず、考えてもらいたいのは、正に今彼女が言った通り、戦争は間もなく終わるという点だ」
戦争が終わるなら、ここで無理に戦う必要はない。
少女の主張は、そう言う事だったが。
「しかし、今次大戦において、我が英国海軍はあまりにも多くの犠牲を払い過ぎた。当初は格下と考えられていたドイツ海軍相手に何度も敗北を重ね、多くの将兵、艦娘を失ってしまった。問題はそのせいで、連合軍内における主導権が、失われてしまった事にある」
連合軍は元々、イギリスとフランスが盟主だった。
しかしフランスは初戦で敗北し、イギリスもその後、思わぬ苦戦を続けた結果、連合軍の主導権は後発のアメリカ、更にはソ連に奪われる結果となってしまった。
今やイギリスは、第2次世界大戦と言う大舞台の場にあって、脇役に追いやられてしまったのだ。
「これはそのまま、戦後の枠組みに直結する。恐らく戦後の世界は、アメリカを中心とした自由主義陣営と、ソ連を中心とした共産主義陣営の二極構造になるだろう」
そして、凋落したイギリスが戦後の主導権を握る事はあり得ない。アメリカに追従する形となる事は目に見えていた。
かつて「7つの海を支配する」「大洋の沈まない帝国」とまで称された大英帝国の威光は、今や完全に地に落ちていた。
「だからこそ、ここで『シャルンホルスト』を我等の手で沈め、武威を示す必要がある。皆も知っての通り、『シャルンホルスト』は開戦以来、多くの戦いに参加し、その殆どの戦いで、我が軍を苦しめて来た。それはつまり、彼の巡戦は、多くのイギリス軍将兵、艦娘を海に沈めて来た事を意味している。その『シャルンホルスト』を放置したまま終戦を向かえたとなれば、我が国の権威は、更なる失墜を見る事になるだろう」
「では、政治的な理由から、『シャルンホルスト』を沈める必要がある、と?」
「その通り、それが理由の1つだ」
そう。
開戦初期のラプラタ沖海戦に始まり、「シャルンホルスト」は、参加した殆どの戦いで勝利している。
その度、イギリス海軍は多大な犠牲を払ってきた。
たとえイギリス側が勝利した戦い、たとえばオークニー諸島沖海戦や、ビスマルク追撃戦などでも、「シャルンホルスト」はしぶとく食らいつき、イギリス海軍に無視できない打撃を与え続けた。
「シャルンホルスト」を沈め、少しでも戦後の枠組みの中でイギリスの地位向上に努める。という事だ。
「皆、忘れないでくれ。既に『戦後』は始まっているのだ」
このままではイギリスは戦後、2大国家の間に埋もれ、その存在価値を失っていく事になる。
下手をすれば、列強からの凋落も有り得る。
戦後の枠組みの中で、イギリスがいかに生き残り、存在感を保つ事が出来るかが重要だ。
それを食い止める為には、何としても「手土産」を作らなくてはならない。それも他の国に頼らず、イギリス海軍のみで。
その手土産こそが、「シャルンホルスト」撃沈と言う戦果だった。
「それで、もう1つの理由は何です?」
クロードが尋ねる。
実のところ、彼はフレイザーの胸の内を理解していた。
その上で敢えて尋ねたのは、司令官の考えを周知徹底する事を助ける為である。
元相棒の気遣いに感謝しつつ、フレイザーは口を開いた。
「実際的な脅威だ」
「と、言いますと?」
「昨年末にドイツが行った攻勢。あれと同じ事を、彼等が再び仕掛けてくる可能性もある」
フレイザーの指摘に、誰もが固唾を飲む。
ドイツ軍によるバルジ大攻勢の記憶は、まだ皆の脳裏に新しい。
もし、追い詰められたヒトラーが、破れかぶれとばかりに、「シャルンホルスト」以下、海軍全艦艇に攻勢を命じたとしたら?
機動力の高いドイツ艦隊が、イギリス海軍の目を掻い潜り、本土近海にまで殴り込んできたら?
その可能性は大いにある事は、これまでの状況を鑑みれば明らかだった。
政治的理由と軍事的理由。
双方が揃った今、仇敵「シャルンホルスト」を撃たない理由は無かった。
「皆、これから起こる戦いが、端から見れば如何に無意味な物であるかは、重々承知している。しかしこれは、大英帝国の未来を守る為の戦いでもある。批判も、汚名も、この私が全て引き受ける、だからどうか、最後にして最強の敵となった『シャルンホルスト』を討つ為、力を貸してほしい」
そう言って、一同を見渡すフレイザー。
対して、
幕僚一同は、揃って立ち上がり、敬礼する。
今ここに、イギリス海軍による「シャルンホルスト討伐作戦」が可決された。
3
エアルとシャルンホルストがエミーリアを連れて扉を開けると、既に先客は到着しており、テーブルで待っていた。
「あ、来た来た。兄さん、シャル、こっちこっち!!」
サイアが手を振っている。
テーブルには他に、クロウや、ツェッペリンの姿もあった。
「遅いぞ、兄貴。こっちはもう始めてるぞ」
そう言って、ビールの入ったジョッキを掲げるクロウ。
一方でその傍らでは、ツェッペリンが、やや困り顔で座っている。
「あの、私は場違いじゃないのか? 一家団欒の場だろう?」
「良いんだよ、気にしなくて」
「そうそう」
クロウとエアルは、そう言ってツェッペリンを留める。
アレイザー兄弟に引き留められ、ツェッペリンも恐縮した体で座り直す。
「もうツェッペリンも、俺達の家族みたいなもんだろ」
そう言うとエアルは、ツェッペリンとクロウを交互に見ながら笑みを見せる。
兄のその視線の意味を知ったクロウは、顰め面を作る。
どうやらまたぞろ、クロウとツェッペリンの仲を誤解しているらしい。
「だからな、兄貴……何度も言ってんだろうが」
「提督、私と大尉は、そのような仲ではない」
「うんうん、分かってる。分かってるよ」
そう言って、全く分かっていなさそうな笑顔で頷くエアル。
エミーリアが産まれてからこっち、ある種「無敵の人」と化したエアル。その中で「クロウとツェッペリンは恋仲」と言う誤解は加速していた。
そんなやり取りを他所に、やはり人気者はエミーリアだった。
シャルンホルストの腕から赤ん坊を受け取ったサイアは、早速頬ずりしている。
「ああ、可愛いな、エミー。もう、食べちゃいたいくらい」
「いやいや、食べないでよッ」
「もう冗談だよシャル。冗談冗談…………たぶん」
「たぶんッ!?」
焦るシャルンホルストを他所に、ご満悦のサイアはツェッペリンの方へと振り返る。
「ほら、ツェッペリンも、抱っこしてあげて」
「え、わ、私もか?」
「うん。優しくね」
そう言うと、そっと空母少女にエミーリアを差し出す。
戸惑うようにシャルンホルストを見るツェッペリンだが、母親たる少女も同様にニコニコと見守っている。
観念して、エミーリアを受け取るツェッペリン。
「…………軽いな」
「いやいや、もっと他に感想は無いのかよ?」
「そ、そんな事言われても、だな」
クロウに突っ込まれつつも、戸惑うツェッペリン。
そこで、
エミーリアの目がパチッと開いた。
ツェッペリンと目が合う。
「…………か、可愛い」
ぽつりと漏らす、空母少女。
そんな様子に、クロウはビール片手にフッと笑。
シャルンホルストとサイアは、手を取り合い笑いあうと、次々にツェッペリンと肩を抱き合う。
そんな様子を見て、微笑ましそうに笑うエアル。
戦時中とは思えない程、平和で幸せな光景。
この幸せがいつまで続くか分からない。
だが、自分の力が及ぶ限り、守って行こう。
そう、心に誓うエアルだった。
まさにこの時、
イギリス海軍が未来の為、自分達を討伐する決意を固めた事など、知る由もないまま。
今はまだ、儚くも眩い平和の裡に身を委ねていた。
第88話「鈍色の雲の先」 終わり