1
夜の帳が下りる中、フィヨルド内だけは煌々と明かりがともっていた。
北海の冷たい空気に満たされたフィヨルドは、肺一杯に吸い込むと、頭がすっきりとクリアになる。
桟橋に立ち、エアルは艦を見上げる。
巡洋戦艦「シャルンホルスト」。
エアルが開戦時から指揮を執って来た艦。
そして、
今やドイツ海軍、最後の切り札となった巡洋戦艦。
既に出港準備を終え、乗組員は配置に着いていた。
「提督、全ての準備が完了しました。間もなく、出港可能となります」
「ご苦労」
報告に着た幕僚に振り返る。
「士官候補生たちは?」
「ハッ 全員、予定通り退艦し、『ペーター・シュトラッサー』に移りました」
言ってから、幕僚は苦笑しながら付け加える。
「まあ、相当、反発はありましたが」
「だろうね」
釣られて、エアルも苦笑いを見せる。
今回の出撃に際し、エアルは「シャルンホルスト」「グラーフ・ツェッペリン」「プリンツ・オイゲン」「エムデン」の4隻から、士官候補生を全員退艦させるように命令を出した。
今回の戦いは、これまでとは違う。未来ある彼等を、同行させるわけにはいかなかった。
候補生たちも事情を察したのだろう。命令を発行した際、かなりの抵抗があったようだ。
だがエアルは彼等の主張を認めず、厳命をもって退艦を徹底させた。
「彼等には重要な使命がある。何れ祖国に戻り、この戦争で傷付いたドイツを立て直すっていう重要な使命がね。だから、こんなところで死なせるわけにはいかない」
死ぬのは自分達だけで充分だった。
「その他に退艦希望者は?」
士官候補生の他に、エアルは希望者に退艦の許可を出していた。
これから行くのは、紛れもない死地。
必ず死ぬと分かっている戦場に、強制的に連れて行く事は出来ない。
故にエアルは、希望者は艦を降りて良い事を事前に告知していた。
「それが……ですね」
幕僚は、どこか困ったような顔で苦笑する。
「全艦で12人ほど、事情があってどうしても退艦したいとの申し出があり許可を出しました」
「え? それだけ?」
驚いた。正直、半分近くの人間が艦を降りてもやむを得ないと思っていたのだ。
流石は歴戦の精鋭部隊と言うべきか。
みんなどうやら、生き恥を晒すよりも、最後にイギリス海軍に一泡吹かせる道を選んだらしかった。
敬礼して立ち去る幕僚。
入れ替わるように、マルシャルとヴァルターがやって来た。
「アレイザー、こっちの準備も完了だ。全員が船に乗り込んだぞ」
伝えたのはマルシャルだ。
彼が来てくれたのは、エアルにとって本当に僥倖だった。
この作戦、どうしても優秀な艦隊指揮官が不可欠だった。マルシャルなら望外と言っても良いくらい信頼できる。
「お願いします閣下。どうか、敵の目に掛からずに南ノルウェーに向かってください。そこで降伏を」
「判った。任せておけ」
頷いてから、マルシャルは気遣うように尋ねる。
「しかし、お前は本当にこれで良いのか?」
「ええ」
尋ねるマルシャルに対し、エアルは即答で頷く。
その顔には、静かな笑顔があった。
「俺はエゴイストなんですよ。多分、自分が思ってる以上に。だから、自分が大切に思っているものの為なら何だってしますし、何だって利用します」
「…………そうか」
ならば、もう何も言うまい。
マルシャルは納得して頷く。
「アレイザー、2日だ。2日間だけ、どうにか持ち堪えてくれ」
「2日…………」
「明後日の夜明けまで粘ってくれれば、ベルゲンまでたどり着ける」
「分かりました」
頷くエアル。
正直、彼我の戦力差を考えれば、2日どころか半日すら厳しい。
それを如何にして引き延ばすかが鍵だった。
次いで、ヴァルターが前に出た。
「私は『シャルンホルスト』に乗せてもらいますよ。良いですよね?」
「いや、それは…………」
思いとどまらせようと、声を上げるエアル。
だが、その前にヴァルターは笑って続けた。
「敵は強大、背後には守るべき者達。まさしく一世一代の晴れ舞台ですぞ。私が補佐しなくてどうするのです?」
「ヴァルター……」
「本国を出る時、妻と息子達には別れを告げてきました。心残りはありません。どうか、お供させてください」
「…………」
それ以上、エアルは何も言えなかった。
この忠臣たる副官は、ともに死ぬ事を選んでくれたのだ。
最期に、
エアルは、佇む少女の方を見た。
シャルンホルストも、既に準備を終えて待っている。
その腕の中では、自分の娘が、ぱっちりとした眼で見詰めていた。
「シャル」
「……うん」
優しく語り掛けるエアルの言葉に、巡戦少女は静かに頷く。
しかし、
娘を抱く腕には、少しだけ力を込めた。
「判ってる……判っては、いるんだよ」
「シャル…………」
「けど、お願い、おにーさん。もうちょっとだけ…………」
そう言うと、シャルンホルストはエミーリアの頬にキスをして、頬ずりをする。
彼女の気持ちはわかる。
否、
完全に分かってあげる事など、世界中の男どもにはできる訳がない。
子供を産んだ事がある母親でなければ、今の彼女の気持ちは分からないだろう。
だから、エアルは待つ事にした。少女の気が済むまで。
そっと近づき、2人を抱きしめる。
しばらく、抱擁を交わす3人。
ややあって、シャルンホルストが顔を上げた。
「ありがとう、おにーさん。もう、大丈夫」
「シャル、もう少しくらいなら……」
「ううん。いい……」
そう言って、エアルから離れるシャルンホルスト。
振り返る。
そこに佇んでいたのは、エアルの妹のサイアだ。
「サイア、お願い」
「う、うん」
頷くサイア。
伸ばした手で、
シャルンホルストの手から、エミーリアを受け取る。
「エミーの事、お願いね、サイア」
「シャル…………」
「どうか、優しい子に育ててあげて。みんなから愛されるような子に」
そう言って、
背を向けるシャルンホルスト。
歩き出そうとした。
その時だった。
突然、
サイアの腕に抱かれたエミーリアが、火が付いたように泣き出したのだ。
驚くエアル。
普段、滅多の事では泣かないエミーリアが、何かを察したように泣き声を上げていた。
「ッ!!」
次の瞬間、
耐えきれなくなったシャルンホルストは、踵を返す。
「エミー!!」
駆け寄って、
サイアの腕から娘を受け取り、もう一度しっかりと抱きしめる。
「ごめんねエミー。ごめんね。ごめんね。ママ、行かないといけないの。だから……だから、ごめんね」
泣くエミーリア。
サイアも涙を流す。
その様子を、エアルは静かに佇んで見守るしかなかった。
出港する艦隊。
まず、警戒の為に駆逐艦3隻が水道に向かう。
更に「プリンツ・オイゲン」「エムデン」の巡洋艦2隻、そして空母「グラーフ・ツェッペリン」が続く。
その次は空母「ペーター・シュトラッサー」が、遅れずに動き出す。
最期に、2隻の空母を守るように旗艦「シャルンホルスト」が、ゆっくりと進み始める。
基準排水量3万4000トン。
全長234メートル、全幅30メートル。
細い船体に、均整の取れた重厚な艦上構造物。
前部に2基、後部に1基装備した主砲塔。
「世界1美しい戦艦」と言われた建造時。
数度の改装を経て尚、その美しさは衰える事無く、海上に映し出している。
マストにはためく鉄十字。
間もなく地上から消えて無くなる国の旗を、尚も誇らしく掲げ、ドイツ海軍最後の艦隊は出撃した。
2度と戻らぬ海へ向けて。
2
零名を迎える中、不気味なエンジン音が、フィヨルドに反響して陰々と鳴り渡る。
翼に4基のエンジンを備えた機体が、不気味な影を地上へ落とす。
無骨一遍等の角ばった機体は、イギリス空軍のアブロ・ランカスターだ。
数は40機。
編隊を組んだまま、ドイツ海軍が拠点を置く北ノルウェーのアルタ・フィヨルドを目指す。
部隊の内半数に当たる20機は、その腹の内には、巨大な爆弾が搭載されている。
イギリス軍が開発したバンカー攻撃用の超大型爆弾「トールボーイ」である。
その重量は脅威の5トンに達している。大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の主砲弾が1.5トンである事を考えれば、世界最強の戦艦が発射する主砲弾の3倍以上の破壊力を持っている。
イギリス軍はこの超大型爆弾を戦線に投入。撤退するドイツ軍の後方にある拠点や橋、鉄道に投下し破壊して回っている。
そのせいで西部戦線のドイツ軍は大混乱に陥っている。何しろ、撤退しようとしたら橋が無くなっているのだ。悪夢としか言いようがない。
このトールボーイを搭載した爆撃機部隊を、イギリス空軍はソ連領北部へ移動させた。
目標はドイツ軍の北ノルウェー基地。及び、そこに立て籠もるドイツ海軍第2艦隊。
わけても巡洋戦艦「シャルンホルスト」は最重要攻撃目標だった。
戦争終盤になって尚、彼の巡戦は連合軍にとって脅威であり続けている。
「シャルンホルスト」を撃沈し、ドイツ海軍の息の根を完全に止めるのだ。
「間も無く目標上空です」
「ファイナル・アプローチに入る。各隊、爆撃隊形作れ」
隊長の命令に従い、爆撃態勢に入るランカスター部隊。
やがて雲間が晴れ、目標となるアルタ・フィヨルドが見えてくる。
だが、
「目標、確認できず!!」
「こちらも同じく、目標の姿、ありません!!」
次々と齎される報告。
フィヨルド内に停泊している筈のドイツ艦隊の姿は無く、港の風景があるのみ。
それどころか、対空砲火すら飛んでくる様子はない。
北ノルウェー基地は完全に蛻の殻と化していた。
「他隊からも、敵艦の姿が発見できない旨、報告が来ています」
「どうしますか、隊長?」
尋ねるクルーに、爆撃隊隊長は間髪入れず、次の行動を起こした。
「プランBへ移行する。各隊は、敵基地攻撃へ任務をシフト。予定通り爆撃態勢に入れ」
敵艦隊がいない。
それ自体は想定された事態の1つだ。別に慌てるに値しない。
底部の爆弾扉を開くランカスター爆撃機。
元より、運んできたトールボーイを、無為に持ち帰る事は出来ない。
敵艦隊がいないなら、この基地をドイツ海軍が2度と使えないよう、徹底的に破壊するのみ。
投下される超巨大爆弾。
やがて、眼下の基地に次々と、強烈な爆炎が踊った。
同時刻。
北ノルウェー基地を発したドイツ海軍第2艦隊は、バレンツ海を東進していた。
既に北ノルウェー基地が爆撃を受けた旨、現地に残して来たノルウェー人の協力者から連絡を受けていた。
報告を受けて、エアルは安堵のため息をついた。
「間一髪だったね」
「まったくです。出港があと数時間遅かったら、我々はフィヨルド内で潰されていました」
ヴァルターもまた、嘆息交じりに同意の頷きを示す。
まずは第1段階クリア。
しかし、戦いはここからである。
と、
「おとーさんの基地が、最後にボク達を守ってくれたんだね」
「…………」
シャルンホルストがポツリと発した言葉に、エアルは複雑な物を感じずにはいられなかった。
北ノルウェー基地は、亡き父ウォルフが建設を主導した。
その基地が最後の最後で、自分達を逃がし、代わりに爆撃を受けている。
まるで、死んだ父の魂が基地その物となって、最後の戦いに赴く自分達を守ってくれているようにも思えたのだ。
その時だった。
「提督、『ペーター・シュトラッサー』より信号!!」
見張り員からの報告を受け、エアルは振り返る。
「シャルンホルスト」の左舷側を、並走するように航行する空母に目を向ける。
今回、空母「ペーター・シュトラッサー」は戦いには参加しない。
理由は2つある。
そもそも、複数回行われた戦闘で、第2艦隊の航空隊は消耗してしまった。
既に空母2隻分の艦載機搭載分を満たすだけの機体は存在しない。
そこでエアルは、「グラーフ・ツェッペリン」のみを作戦に参加させ、「ペーター・シュトラッサー」は戦列から外した。
その代わり、「ペーター・シュトラッサー」は、より重要な任務を負う事になる。
北ノルウェー基地にいた基地戦闘員や軍属の民間人、さらには傷病兵の搬送である。
各艦から退艦させた士官候補生たちも、これに加わる。
第2艦隊主力が敵艦隊の目を惹き付けている間に、「ペーター・シュトラッサー」は避難民を乗せて、敵の攻撃圏外に避退するのだ。
これは敵と戦う以上に重要な任務である。
北ノルウェー基地の莫大な人員を輸送するのに、グラーフ・ツェッペリン級航空母艦の格納庫は最適だった。
その他、乗り切れなかった分は、残存していた輸送船3隻に分乗させた。
幸い、輸送船は高速な物が残っており、艦隊に追随する事に問題は無かった。
船団の指揮には、信頼する上官のマルシャルに頼んだ。
「ペーター・シュトラッサー」は空母だが、重装甲と軽巡並みの火力を備えている。いざとなれば自分の身は自分で守れる。
無論、「ペーター・シュトラッサー」だけでは心もとない。
飛行甲板には少数ながらフォッケウルフとスツーカを露天係止して万が一に備え、更に残存する駆逐艦3隻全てを「ペーター・シュトラッサー」の直接護衛に付け、その他にも配下のUボートを、ノルウェー沿岸航路に張り付かせ、万が一敵の目が船団に向いた場合に供えさせた。
ドイツ海軍最後の戦い。
それは、ナチスの為でも、ヒトラー総統の為でもない。
民間人を守り、ひいてはドイツの未来を守る為の戦いでもある。
負ける事は許されない。
そう、
たとえ、自分達の命が北極海の底に沈もうとも。
「『ペーター・シュトラッサー』、離れます!!」
見張り員の報告通り、「ペーター・シュトラッサー」と輸送船3隻、更には護衛の駆逐艦3隻が取り舵を切り、艦隊から離れていく様子が見えた。
徐々に遠ざかっていく艦影。
《航海の無事を祈る。神の御加護があらん事を》
《武運を祈る。神の御加護があらん事を》
「シャルンホルスト」と「ペーター・シュトラッサー」の間で、そのように発光信号が交わされた。
遠ざかっていく空母。
「結局…………」
艦橋から、遠ざかる光を眺めていたシャルンホルストが口を開いた。
「結局、ボクがあの子のママでいられたのは、半年にもならない時間だったね」
寂しそうに呟く巡戦少女。
エミーリアと、彼女を預けたサイアは「ペーター・シュトラッサー」に乗っている。
エアルは、そこは司令官特権としてごり押しした。
去り行く我が子を乗せた艦を、いつまでも見詰めるシャルンホルスト。
その肩を、エアルはそっと抱き寄せる。
「そんな事ないよ」
「…………」
「たとえ何年経っても、一緒にいれなくても、エミーのママはシャル1人だけだよ」
いずれ、エミーリアが成長したら、サイアがあの子に真実を伝えるだろう。
その時、あの子ならきっと受け止めてくれる。
そう、信じていた。
やがて、脱出艦隊の光は水平線の中に小さくなっていく。
彼女たちの事はマルシャルに任せてある。きっと、良いようにしてくれるだろう。
「おにーさん、もう良いよ」
船団が完全に見えなくなったのを見届けると、シャルンホルストはそう言ってエアルから離れる。
「ボクはもう、大丈夫」
淋しそうに笑うシャルンホルスト。
「ボクはママとして、エミーと一緒にいてあげる事は出来ない。だからせめて、あの子のママとして、あの子の事を守って戦うって決めたんだから」
固い決意を語る少女。
キミを守る。
たとえこの身が北の海に沈もうとも。
母として、艦娘として、シャルンホルストの示した決意は固かった。
少女の瞳が、決意と共に輝く、
ただ一筋、頬を伝う涙は、止められなかった。
決戦の時は、近かった。
一方、
白波を蹴立て、北海を北上する艦隊がある。
マストにはホワイトエンサインを高らかに掲げ、このヨーロッパにおける海の戦いに終止符を打つべく突き進む。
スカパ・フロー軍港を発したボルス・フレイザー大将率いるイギリス本国艦隊は、一路、北ノルウェー沖を目指して航行していた。
その数は、戦艦3隻、空母2隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦24隻。
旗艦「サンダラー」は、ライオン級戦艦の4番艦であり、イギリス海軍の最新鋭戦艦である。
その他、戦列には3番艦の「コンカラー」、キング・ジョージ5世級戦艦の「デューク・オブ・ヨーク」いる。
「サンダラー」艦橋に立つフレイザーの元に、北ノルウェー基地を爆撃した爆撃機隊からの報告がもたらされた。
「《フィヨルド内に敵艦影認めず。これより、敵基地への爆撃を敢行す》か、成程な」
納得したように頷くフレイザー。
焦りはない。
元より今回の作戦は2段構え。
首尾よく爆撃隊が敵艦隊を補足できれば良し。敵は港内にいる間に成す術も無くトールボーイに叩き潰される事になる。
そして、万が一爆撃が空振りに終わった場合は、本国艦隊主力でもってドイツ海軍最後の艦隊、ひいては「シャルンホルスト」に止めを刺す。
全ては想定内。結果が後者になっただけの話だった。
「爆撃隊には気の毒な事をしました。わざわざソ連領まで長駆遠征してもらったというのに」
「まったくだな。あとで私の名前で、彼等にスコッチ・ウィスキーを送っておいてくれ。1機につき1ダースな」
言いながらも、フレイザーは心の中でどこか安堵している。
否、
安堵、と言うより「高揚」と言った方が良いかもしれない。
「シャルンホルスト」は、これまで多くの戦いでイギリス海軍に煮え湯を飲ませ、今日まで生き残って来た、言わば「宿敵」であり「仇敵」であり、同時に「最後の獲物」だ。
そんな「シャルンホルスト」が、フィヨルドに停泊したまま爆撃で沈もうものなら、興ざめも良い所。
「
それが、フレイザーの本音だった。
「それにしてもドイツ海軍も、運が良いのか、勘が良いのか? こちらの爆撃を空振りに終わらせるとは」
「いや、そのどちらでもあるまい」
ロブ・バーネット参謀長の言葉に、フレイザーは頭を振る。
フレイザーは敵将アレイザーに思いを馳せる。
バーネットが言ったように、運も勘ももちろんあっただろう。
しかしそれ以上に、敵将の持つ「嗅覚」が、危機的状況を紙一重で回避してのけたように思えた。
「敵は少数とは言え、大戦の初期から最前線で戦い抜いて来た艦だ。侮ればこちらがやられるぞ」
「はッ」
フレイザーの言葉に、神妙な面持ちで頷くバーネット。
北の海を目指すイギリス艦隊。
いよいよもって、その士気は高まりつつあった。
3
「ペーター・シュトラッサー」以下の脱出船団と別れたドイツ海軍第2艦隊主力は、進路を東にとって航行していた。
既にイギリス本国艦隊が、自分達との決戦を求めて北上している事は判っている。
彼等の目が船団に向かないよう。
せめて、船団が南ノルウェーの圏内に入るまで、敵の目を引き付ける必要がある。
「シャルンホルスト」「グラーフ・ツェッペリン」「プリンツ・オイゲン」「エムデン」。
僅か4隻から成る、ドイツ海軍最後の水上部隊が、悲壮な覚悟を持って北極海を進んでいく。
旗艦「シャルンホルスト」の艦橋では、巡戦少女がまっすぐ前を見つめていた。
その横顔を曙光が照らし出す。
夜が完全に明けた。
北極海と言えば、日照時間が少ない特徴がある。
これから、この北の海で、短い「昼」が始まる。
そんな少女の様子を、エアルは静かに眺める。
娘と別れ、彼女を守る為に戦う決意をしたシャルンホルスト。
その決意の眼差しは、もう揺らぐ事はない。
だが、
その心に、尚も微かな揺らぎがある事を、エアルは見逃さなかった。
どんなに強がっていても、お腹を痛めて産んだ我が子との別れは、母親にとってこの上なくつらい物。
そんな少女に、エアルは向き直った。
「そうだ、シャル。1つ、お願いがあるんだけど」
「え、何、おにーさん?」
怪訝な面持ちで振り返るシャルンホルスト。
決戦前だ。きっと、何か重要な事だろう。
そう思い緊張する少女。
対して、エアルは言い放った。
「俺と、結婚してくれないか?」
「…………へ?」
言っている意味が分からず、間抜けな声を発する巡戦少女。
ヴァルター以下、周りの幕僚達も唖然として動きを止める。
対して、
言った本人だけが、平然と佇んでいた。
やがて、
「…………んなッ」
ようやく、意味が脳内に伝わったらしいシャルンホルストが、顔を急速に真っ赤にして声を上げた。
「何言ってるのさ、おにーさん!!」
殆ど怒鳴りつけるような勢いのシャルンホルスト。
対して、エアルはどこ吹く風と言わんばかりに平然としている。
シャルンホルストがこんな反応をする事は、予想していた事。驚くほどの物はない。
一方のシャルンホルストはと言えば、混乱の極致から覚めやらぬ様子。
「こんな時に何言ってるのッ!?」
「君こそ何言ってるの?」
対して、平然と答えるエアル。
「俺達は、あと数時間後には死ぬんだよ。『こんな時』以外にいつ言うの?」
今でしょ。
「いや、それはそーかもしれないけどッ」
ウガーッ とがなりまくる巡戦少女。
だが、エアルはあくまで冷静に話す。
「結婚、してくれないかな。それが、俺の最後の願いだ」
「~~~~~~//////」
顔を真っ赤にして、声にならない声を上げるシャルンホルスト。
助けを求めるように、周囲を見回す巡戦少女。
だが、
ヴァルター以下、幕僚達はニヤニヤと笑ったまま、成り行きを見守っている。
味方は、いなかった。
対して、エアルは静かに返事を待っている。
やがて、
観念したのか、シャルンホルストは顔を真っ赤にしたまま俯き、
そして、
「…………はい」
小さく、
しかし、確かに頷きを返した。
微笑むエアル。
今や自分の妻となった巡戦少女へ近づくと、そっと、その華奢な体を抱きしめる。
顔を上げる少女。
顔を赤く染めながらも、目は涙で潤ませてほほ笑む。
やがて、
2人は互いに唇を重ねた。
たちまち、拍手が巻き起こる。
これから死地へ赴く艦内にあって、寒々とした北海の空気をも圧倒する熱い風が「シャルンホルスト」の艦橋に流れる。
神への誓いも、神父の言葉もない。
場所も教会ではなく、これから死地へ向かう巡洋戦艦の艦橋。
しかしこれは、紛れもない戦場の結婚式。
新たなる新郎新婦。
その誕生に、誰もが祝福する。
「おにーさん、ボク、幸せだよ」
「ああ、俺も」
微笑み合う2人。
たとえ、すぐにこの世を去る運命だとしても。
否、
だからこそ、来世でも決して放さないと誓いあう。
見つめ合う、エアルとシャルンホルスト。
もう一度、
互いの唇を重ねるのだった。
第90話「決意の水平線」 終わり