蒼海のRequiem外伝 ~北天の流星~   作:ファルクラム

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第96話「30年目の始末」

 

 

 

 

 

1

 

 

 

 

 

 女性の頬を、優しく撫でる。

 

 眠り続ける女性を、アドルフ・ヒトラーは愛おし気に眺めていた。

 

 女の名はエヴァ・ブラウン。

 

 長年、ヒトラーとは愛人関係にあり、そしてつい先日、ヒトラーと結婚し、妻となった女性。

 

 愛人と言う曖昧な立場にあった彼女だが、ヒトラーとの関係は、決して不純な物ではなかった。

 

 そもそもヒトラーはエヴァ以外の女性を愛した事は無い。彼女を愛人と言う立場に置き続けたのは、その方が選挙の時、女性票を集めやすいからであり、生涯にわたり、愛する女性はエヴァ1人と決めていた。

 

 だが、そんな曖昧な関係も終わりを告げた。

 

 今やエヴァは正真正銘、ヒトラーの妻だった。

 

 そして、

 

 先ほど彼女は、二度と目覚める事のない眠りへとついた。

 

 彼女は全てを受け入れ、毒を煽り自殺した。

 

 その毒薬を用意したのは、他でもないヒトラー本人である。

 

 そして、

 

 そのヒトラー自身もまた、既にドイツの最高権力者ではなくなっていた。

 

 エヴァとの結婚に先立ち、ヒトラーは自らドイツ第3帝国総統の地位を辞任。第2代総統として、海軍最高司令官のカーク・デーニッツを指名した。

 

 まるで、滅びゆくドイツから目を背けるように、最高権力を他人に譲ったヒトラー。

 

 そして、己の運命もまた、自ら決めていた。

 

 既にオーデル・ナイセの最終防衛ラインは突破され、ソ連軍はベルリンを包囲。市内に突入を開始していた。

 

 ベルリン市内では、凄惨な市街戦が展開されている。

 

 重要拠点は次々と制圧されている。連中が総統府に来るのも時間の問題だった。

 

「皆、今までご苦労だった」

 

 周囲に居並ぶSS隊員を見回し、ヒトラーは告げた。

 

 彼等は、この敗亡の寸前にあってさえ、ヒトラーに忠誠を誓い続ける、言わば最後の、そして本物の忠臣達だった。

 

「デーニッツ、あとは任せるぞ」

「は…………」

 

 ドイツ第3帝国第2代にして、最後の総統となったカーク・デーニッツは、「前任者」に対して、恭しく頭を下げる。

 

 この後どうなるか、既に覚悟はできていた。

 

「すまない、皆…………暫く、余と妻、2人だけにしてくれないか?」

「勿論です」

 

 その言葉で、SS隊員たちは、自分達の主君がこれから何をするのか察した事だろう。

 

 しかし、誰もそれを止めようと言う者はいない。

 

 主君の最後の願い。それを妨げようとする不心得者は、この場にいなかった。

 

 最後のナチス式敬礼をし、SS隊員たちは次々と部屋を去り、最後に出たデーニッツが扉を閉じる。

 

 その扉は2度と再び、この部屋の主の手によって開けられる事は無い。

 

 やがて、

 

 部屋の中から、1発の銃声が聞こえて来た。

 

 その音と共に、泣き崩れる親衛隊兵士達。

 

 それこそが、ドイツ第3帝国の最後を象徴する物となった。

 

 

 

 

 

 1945年5月14日。

 

 この日は、歴史に深く刻まれる事になる。

 

 ドイツ第3帝国第2代総統カーク・デーニッツは、連合軍、及びソ連軍に対し無条件降伏の受け入れを打診。

 

 ここに、長きにわたった欧州戦線は決着を見た。

 

 これに先立つ4月30日15時30分。

 

 アドルフ・ヒトラー前総統は、総統地下壕の自室にて拳銃自殺を遂げている。

 

 その2日前に結婚した妻、エヴァ・ブラウンと共に。

 

 それが強力なカリスマによってドイツを導き、一時はヨーロッパの覇権に手を掛けた偉大なる総統の最後だった。

 

 ヒトラー夫妻の遺体は生前、故人が希望した通り地上へと運ばれると、地下壕入り口脇の爆撃痕のクレーターへ安置され、そこでガソリンを掛け火葬した後、厳重に土を盛って埋葬された。

 

 これは、生前のヒトラーが強く望み、厳命をもって実行させた物である。

 

 実はこれに先だった4月28日。ヒトラーにとって最大の盟友であったイタリアのベニト・ムッソリーニが、逃亡先で逮捕、処刑される事態となった。

 

 ムッソリーニの最後は悲惨であった。銃殺された後、彼の遺体は群衆によってリンチに晒され、殴られ、蹴られ、投げつけられ、汚物まで浴びせられた上、最後は同じく処刑された愛人や側近達と共に広場に逆さづりにされて晒し物にされた。

 

 あまりの群衆の下劣さに、居合わせてアメリカ人記者が、思わず顔を背けた程である。

 

 ムッソリーニの死は、ヒトラーを消沈させた。

 

 同時にヒトラーは、自分も死後、衆目の前で晒し物にされる事を恐れ、自分の遺体を完全に消し去ろうと考えたのだ。

 

 その方法として、埋葬する前に遺体を完全焼却するように命じたのである。

 

 後に、ドイツ政府が降伏した後、ソ連軍が総統官邸を占拠。僅かに残った手がかりを頼りに、遺体を掘り起こしている。

 

 ソ連軍側からすれば、是が非でもヒトラーの死を確認する必要があった。万が一にでもヒトラーが生きていて、捲土重来でもされた日には堪った物ではないからだ。

 

 ヒトラーの死を確認し、それを公表し、戦争が終わった事を大々的に宣言しなくてはならない。

 

 ヒトラー夫妻埋葬に携わった親衛隊兵士達は、その大半がベルリン市街戦で戦死してしまったが、それでもわずかに生き残っていた兵士達の証言により埋葬場所が特定され、そこから男女の物と思われる2体の白骨が掘り起こされた。

 

 直ちに検死にかけられた遺体の内、1体は男性で間違いない事。その男性の歯からレタスの繊維が検出された事(ヒトラーが重度の菜食主義者(ベジタリアン)であった事は、国内外を問わず有名な話であった)が判明した。

 

 そして決定的な証拠として、ヒトラーが歯の治療を行ったとされる歯科医から押収したヒトラーのカルテと歯の治療痕が一致した事。

 

 これらの事実により、発見された男性の遺体はアドルフ・ヒトラー本人で間違いなく、その死亡に疑いはないとされた。

 

 ヒトラーの死を高らかに宣言し、自分達の勝利を歌い上げるソ連軍。

 

 しかし、これが後々、大きな混乱と波紋を呼ぶ事になる。

 

 すなわち「ヒトラー生存説」の浮上である。

 

 曰く、ヒトラーは死なず、燃え落ちるベルリンから脱出し、戦後も根強い親ドイツ勢力の多い南米に逃れた、とする説だ。

 

 実際、ドイツ降伏後、戦犯として裁かれる事を恐れた多くの元ナチス党員が南米に逃亡している。

 

 そこに来て、発見されたヒトラーの遺体にも疑義が挟まれる。

 

 まず、ヒトラーが菜食主義者だったとする説だが、これは票集めの為のパフォーマンスだった事が判明し、ヒトラーは普通に肉も魚も好んで食べていた事が判っている。つまり、歯に残っていたレタス片は証拠にはなりえないと言う事だ。

 

 決定的な証拠とされた歯の治療痕についても、そもそも影武者を仕立てておくほど用意周到であるなら、カルテのすり替えくらいはやっていて当然だろう。

 

 極めつけは、検視した遺体は女性の物だったとする研究者も現れる始末。

 

 それらを受けて大量に出回ったのは、ヒトラー生存を示す「証拠」の数々だった。

 

 胡散臭い噂話は勿論、特に写真が多く、ヒトラーが南米で悠々自適に暮らしている写真が多く世に出る事になる。

 

 曰く、高級レストランの店員が、多くの警護を引き連れたVIPに給仕したところ、その相手がヒトラーそっくりだった。その客の連れから大量のチップを貰ったが、あれは口止め料だったに違いない。

 

 曰く、とある山間部の高級別荘地に食料品や日用雑貨の配達物を届けた際、奥に人影がチラッと見えた。あれは間違いなく、写真で見たアドルフ・ヒトラーそのものだった。

 

 等々、あやふやで怪しげな噂が飛び交う事となる。

 

 更には、ヒトラー本人を撮影したとされる写真も、多数出回った。

 

 しかし、その殆どが遠くから撮影されていて不鮮明だったり、至近距離から撮られている物も顔が半分以上隠れていたりと、信憑性が疑われる物ばかりだった。

 

 ヒトラーが死んだ事は間違いない。

 

 何より、第2次世界大戦が終結してから半世紀以上経て尚、アドルフ・ヒトラーを名乗り、その確たる証拠を携えた人物は世に現れていない。その事が即ち、肉体的にはともかく、「公的なアドルフ・ヒトラー」が死亡した事は間違いなかった。

 

 

 

 

 

 結局、アドルフ・ヒトラーとは何者だったのか?

 

 今日、アドルフ・ヒトラーの名は世界中の多くの人々にとって、悪魔の代名詞のように扱われている。

 

 それも無理からぬことだろう。

 

 一連の侵略戦争と、それに伴う第2次世界大戦。

 

 多くの捕虜に対する虐殺。

 

 極めつけは、ユダヤ人を始めとする多くの人々に対する迫害と、大量虐殺(ホロコースト)の事実。

 

 ヒトラーを悪魔と呼ぶには十分すぎる証拠がある。

 

 だが、

 

 もしヒトラーを悪魔と呼ぶなら、

 

 その「ヒトラーを悪魔にした者達」の罪はどうなるのか?

 

 こんなエピソードがある。

 

 戦前、ヒトラーがチェコ・スロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲するように迫った事がある。

 

 いわゆる「ズデーデン危機」と呼ばれる事件だ。

 

 ズデーデンは防衛に適した峻厳な山岳地帯と豊富な地下資源に恵まれ、軍事施設も多数存在する、言わばチェコ側の最重要拠点である。

 

 しかしヒトラーは、ゲルマン系の住人が多数暮らしている事を理由に、ズデーデン地方はドイツ側に帰属するべきと主張した。

 

 無論、言いがかり以外の何物でもない。

 

 ヒトラーの狙いはズデーデン地方が産出する鉱物資源と、軍需工場、更にはそこで生産されている多数の戦車や軍用車両の徴用だった。

 

 武力を背景に、恫喝に近い主張をするヒトラー。

 

 当然、チェコ側は反発する。そんな事は認められない、と。

 

 しかし、強気な態度とは裏腹にチェコ側は、自分達が単独でドイツに敵し得ない事も判っていた。

 

 そこでチェコ側は、ドイツを抑え込む事が出来るイギリスとフランスの両大国に交渉の仲介を願い出る事にした。

 

 チェコ側から要請を受けた両大国は、当時からヒトラーが、特に親しくしていたイタリアのムッソリーニを介して、会談の場を設ける事に成功した。

 

 ミュンヘンで行われたこの交渉会議は、異様な状況によって行われた。

 

 会議の場にあって、当事者であるチェコ代表は締め出され、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、イギリスのチェンバレン、フランスのダラディエの4者のみによって行われたのだ。

 

 チェコ側は安堵する。

 

 いかにヒトラーとは言え、イギリスやフランスを相手に強気には出られない事は判っている。

 

 両国に任せておけば、ズデーデン、ひいてはチェコスロバキアは安泰だ。

 

 そう信じて疑わなかった。

 

 やがて、会議は終わり、交渉結果の内容が発表される。

 

 それは要約すると以下の通りだった。

 

『チェコスロバキアは、ドイツに対しズデーデン地方を割譲する事。尚、割譲の際に住人、及び動産の全ては同地に残す事』

 

『チェコスロバキアは上記の事を、向こう10日以内に実施する事』

 

『イギリス、フランス、イタリアは上記の割譲がスムーズに行われるよう監視する事』

 

『ドイツは上記の条件を受け入れ、以後は他国に対する領土要求は行わない事』

 

 聞いただけで、開いた口が塞がらなくなるのが判る事だろう。

 

 要するに「ズデーデンはドイツにくれてやる。そこにある物全て好きにしてくれて構わない。その代わり、これ以上の領土要求は行うな。特に俺達の国には絶対に来るなよ」と言う感じだ。

 

 チェコ代表が仰天したのは、言うまでも無いだろう。

 

 ズデーデン地方をドイツから守ってほしくて交渉を依頼したと言うのに、事もあろうに英仏両国はチェコを裏切り、生贄に差し出す事で、自分達の安寧だけを守ったのだ。

 

 当然、チェコ代表は怒りを滲ませて両国に抗議する。

 

 これでは話が違う。何の為の交渉だったのか!?

 

 しかし、殺気すら滲ませて迫るチェコ代表に対して、チェンバレンとダラディエの反応は冷淡そのものだった。

 

 ダラディエに至っては、猛抗議するチェコ代表の言葉に、欠伸交じりで応じたと言う。

 

 我々は役目を果たした。侵略者の思惑を押さえ、友好関係を築く事によって、世界の平和に大きく貢献する事が出来た。それは大変すばらしい事だろうに、いったい、それの何が不満だと言うのか? ああ、勿論、不満なら反故にしてくれて構わない。それはチェコ側の自由であり、正当な権利だ。その場合、我々は以後、この件からは一切の手を引く事にする。後は自分達だけで何とかするんだな。

 

 怒りを滲ませるチェコ代表を嘲笑するチェンバレンとダラディエ。

 

 英仏両国は頼りにならず、自国のみでドイツと対峙する事は出来ない。

 

 チェコ側は泣く泣く、決定を受け入れるしかなかった。

 

 チェンバレンは自国に戻るなり、自らの外交の「勝利」を、恥ずかしげもなく高らかにマスコミの前で誇ったと言う。

 

 では、結果的に、彼等の行動は平和につながったか? 秩序は維持され、世界の平穏は保たれたか? 

 

 そんな事は語るまでも無いだろう。

 

 ズデーデンを併合した事でドイツは、将来的に使える予備兵力、豊富な地下資源、優秀な兵站設備、更には生産されていた1000両にも及ぶチェコ製戦車を手に入れる事が出来たのだ。

 

 何より、一連の交渉はドイツを勢いづかせた。

 

 チェンバレンとダラディエの姿勢は、ヒトラーには弱腰に映ったのだ。

 

 チェコスロバキアはその後、結局、軍事的背景をもって圧力を掛けて来たドイツによって完全に併合される事になる。それに伴いチェコはドイツの傀儡政権と、イギリスに逃れた亡命政府、そして反独を掲げる武装勢力とに分かれ内戦状態に突入する事になる。

 

 つまり「世界平和」とやらを謳ったチェンバレンとダラディエの行動は、何一つ「世界平和」に貢献しなかったどころか、却って秩序崩壊を加速させた事になった訳だ。

 

 それどころか以後、ヒトラーはより強気に領土拡大を行い、更には第2次世界大戦へと突き進むことになる。当然、ドイツが戦争初期に投入した戦力の中で、徴収したチェコ製戦車が大きな役割を果たした事は言うまでも無いだろう。

 

 そしてヒトラーに対し、自国の領土は奪わないと言う約束も果たされる事は無かった。フランスは侵攻を受けてドイツに屈辱的な降伏、イギリスも直接的な侵攻こそ受けなかったものの、長きにわたる戦いで敗北を重ねてフランス以上に大きな損害を受け、権威は大きく失墜した。

 

 それらは全て、両国代表の無知、無責任、無能かつ、低能で恥知らずな外交の成果である。

 

 キチガイに刃物、阿呆に権力の典型と言う他に無い。

 

 ヒトラーは確かに悪魔だった。それを疑う余地はない。

 

 しかしチェコを生贄にして、ヒトラーと言う悪魔を召喚した低能な召喚術師たちの存在も忘れてはならないだろう。

 

 

 

 

 

 かつて、ドイツ大統領ヒンデンブルグは、ヒトラーを称して、

 

「必ずや国を破滅させる危険人物」

 

 と、称した。

 

 果たして、その予言は間違いではなかった。

 

 ヒトラー政権は10年に及んだが、前半の5年でドイツに栄光を取り戻し、後半の5年で再び破滅に追いやった事になる。

 

 しかし、

 

 第2次世界大戦と言う時代に、ヒトラーと言う強烈な個性が存在し、その存在が世界を主導し続けた。

 

 その事実は、疑いようの無い物であった。

 

 

 

 

 

2

 

 

 

 

 

 控室で待たされる間、リオン・ライフォード英海軍少将は、落ち着かない様子を見せていた。

 

 普段は身に着けない礼装に身を固め、胸には授与された勲章が並んでいる。

 

 正直、こんな格好、煩わしい事この上ないのだが。

 

「あのさリオン…………」

 

 そんなリオンを、妻である少女が呆れ気味に告げた。

 

 ベルファストである。

 

 もっとも、今の彼女は、もはや艦娘ではない。

 

 北極海海戦において多大な損害を受けた「ベルファスト」は、判定大破の損傷を負ってしまった。

 

 艦の主要部分まで損傷を負った「ベルファスト」は、もはや修復不能と判断され、除籍、解体が決定された。

 

 艦娘ではなくなったベルファスト。

 

 ある意味で、自身の存在価値を失ったに等しかった。

 

 しかし、落ち込む彼女を、リオンは優しく迎え入れた。

 

 やがて、愛を交わした2人は、全ての処理を終えた後に結婚。

 

 今日、この日を迎えるに至った。

 

「エリスちゃんの大事な即位式なんだから。しっかりしなさいよ」

「判ってるよ」

 

 妻の叱咤を受け、リオンは憮然としながらも襟を正す。

 

 先の戦いで国王フレデリックが戦死、国王長男だったアルフレッドは病死、次期国王最有力候補だったディラン始め、国王の嫡流の子供達は皆死に絶えてしまった。

 

 後に残ったのは、王位継承権のないクロードとリオンのみ。

 

 そこで、次期国王にはアルフレッドの忘れ形見であるエリスが就任。その補佐役として、外戚のリオンが選ばれたわけである。

 

「こういうのは、クロード兄上の方が適任だと思うんだが……」

「しょうがないよ。エリスちゃん……おっと、女王陛下の思し召しなんだしさ」

 

 ベルファストの言葉に、リオンは嘆息する。

 

 まあ、正直、他の奴がやるよりは、と言う思いもある。

 

 歴史上、強大な権力を持った外戚や佞臣が国政を壟断した結果、亡国の道を歩む結果となった王朝は枚挙に暇がない。

 

 それでも大戦の結果、大英帝国の権威は失墜している。余計な事をして、国を崩壊させるわけにはいかない。

 

 自分はあくまで補佐役。そこを逸脱するつもりはない。

 

 そしてやがて時が経ち、エリスが成人した時、自分は役目を終えて身を引くつもりだった。

 

「まあ、何にしても、だ」

 

 言いながら、妻の方を見やるリオン。

 

「これからも、よろしく頼むぞ」

「はいはい、おまかせを。旦那様」

 

 おどけた調子で応じるベルファスト。

 

 対して、リオンも笑顔を返すのだった。

 

 

 

 

 

 その浮浪者が、ポーツマスの港に居つくようになったのは、いつの頃からか、誰も覚えてはいない。

 

 気付いたら、いつの間にかいた、と言う感じだが、別段珍しい話ではない。

 

 戦火に焼かれ、何もかもを失って路頭に迷う人間はたくさんいる。

 

 しかも、その男は頭をやられているらしく、言葉もほとんど通じない。

 

 話しかけてうわ言のような言葉を喚き散らすだけだし、いくら追い払っても数日後にはまた同じ場所に戻ってくる。

 

 鬱陶しい事この上ない。

 

 港の関係者も、もはやうんざりして相手にしていなかった。

 

 そもそも、ただぼーっとして、日がな一日港に入ってくる船を見ているだけであり、別段、被害らしい被害も無い。放っておいたところで問題は無いだろうと考えられていた。

 

 そんなある日の事、

 

 男が見ている目の前で、1隻の輸送船が桟橋に停止するのが見えた。

 

 タラップが下がり、船員たちが下りてくる。

 

 その様子を見て、

 

「…………あ……あぁ……アァァァァァァァァァァァ」

 

 男は俄かに甲高い呻き声を発すると、周囲の異様な目を尻目に、這うようにして動き出した。

 

 

 

 

 

 タラップから最後に降りて来たのは、初老の男だった。

 

 作業服に身を包み、ざんばらの髪と、長く伸びた髭面。

 

 顔は垢と煤で汚れ、不潔感極まりない様相を見せている。

 

 げっそりとこけた頬に、目だけは異様にギラギラとしているのが印象的だ。

 

「ほらよ、港に着いたぞ。とっとと降りろよ、ジジィ」

「…………」

「まずは港の管理局に出頭しろ。そこで自分の名前と住んでた場所、職業を言うんだぞ。後は行政の方でお前を何とかしてくれるだろうさ」

「…………」

「じゃあな、あばよ」

 

 親切に説明してくれる船員。

 

 しかし、初老の男は礼も言わず船員を憎々し気に睨むと、ヨタヨタとした足取りで降りていく。

 

 そんな姿を、船員は嘆息交じりに見送るだった。

 

 桟橋に降り立ち、痛めた足を引きずるように歩く。

 

 疲労感に加え、足の痛みもまた、男の苛立ちを際立たせていた。

 

「おのれ、無学なクズどもめがッ この儂がこの国に戻ったからには、必ずや貴様を監獄にぶち込んでくれる。いや、そんな事は生ぬるいッ 貴様らの家族、友人、その他かかわりを持った人間全員をぶち込んでくれるッ」

 

 腐り落ちたようにしわがれた声が、小汚い髭の下から漏れ出て来る。

 

 まるでしゃべる度に、空気が腐乱するかのようだ。

 

 この汚れ切った、乞食の如き老人。

 

 それが、この国の国王、フレデリックであると、誰が想像しえただろう?

 

 アントワープ沖海戦で「ティルピッツ」の砲撃により、旗艦「ライオン」を撃沈され、死亡したかと思われていたフレデリック。

 

 しかし、この男の悪運は尽きなかった。

 

 爆風に飛ばされ、大けがを負いながらも、この男は3日間漂流した末に、偶然近くを通りかかった輸送船の1隻に助けられたのだ。

 

 イギリス本土からソ連領ムルマンスクに向かう途中だった輸送船は、元々は大規模船団を組んでいたのだが、ドイツ艦隊の襲撃を恐れて散開、その後、独行で目的地を目指している途中だった。

 

 救い上げられた後、船員たちはフレデリックを治療し、手厚く看護してくれた。

 

 だが、

 

 目を覚ましたフレデリックは、自分がイギリス国王だと名乗り、相応の待遇を要求した。

 

 しかし、

 

 帰って来たのは爆笑の渦だった。

 

 船員の誰も、フレデリックが本物の国王だとは信じなかったのだ。

 

 それもその筈。

 

 船員たちは誰も、国王の顔を見た事も無い者達ばかりだった。

 

 別に珍しい話ではない。常に海上にいる事が多い船員たちにとって、国のトップに接する機会など皆無だからだ。

 

 加えて、戦闘による爆風と、その後の漂流によってフレデリックは階級章も勲章も失くし、着ていた軍服も、見る影もない程にボロボロになり果てていた。

 

 当然、フレデリックの身分を証言する者も周りにはいない。

 

 フレデリックの言動は「漂流中に頭を打った老人の戯言」として、船員たちに片づけられた。

 

 それでも船員たちは、フレデリックに献身的だった。

 

 彼等はフレデリックに寝床を提供し、食事を用意し、傷が治るまでしっかりと治療してくれたのだ。

 

 そして、

 

 治療が終わった後、彼等はフレデリックに船員として働くように命じた。

 

 当然だろう。

 

 働かざるもの食うべからず、は万国共通の最低限のルールである。ましてか無駄飯食らいを乗せて置く余裕は輸送船には無い。

 

 フレデリックに、選択の余地は無かった。

 

 時期的には丁度、ドイツ第2艦隊が北ノルウェーを中心に活動していた時期だった事もあり、船は長らくソ連領に留め置かれる事になった。

 

 こうして、船がムルマンスクを出てポーツマスに戻るまでの航海中、フレデリックは輸送船の下働きとしてこき使われたのだった。

 

 イギリス国王として権力を玩具にしてきたフレデリックには、耐えがたい屈辱だったのは間違いない。

 

「見ていろよ、クズどもが。この儂が王宮に帰った暁には……」

 

 呟いた、その時だった。

 

 1枚の古新聞が、風に煽られてフレデリックの足に絡みついた。

 

 訝りながらも新聞を取るフレデリック。

 

「なッ!?」

 

 そこに書かれていた見出しを見て、思わず仰天した。

 

《前国王フレデリックの国葬。新女王エリス陛下が、見事に執り行う》

 

 新聞の見出しは、そう飾っていた。

 

 震える手で新聞を拾い上げ、一気に読み進める。

 

 それによると、アントワープ沖海戦において、前国王フレデリックは本国艦隊司令官として勇敢に戦い、最後はドイツ戦艦の凶弾に倒れた。

 

 フレデリック王戦死の報を受け、先の皇太子アルフレッドの長女エリスが新女王として即位。政務補佐として外戚で叔父にあたるリオン・ライフォードが当たる事となった。

 

 エリス女王最初の公務は、戦死した祖父フレデリックの葬儀となった。

 

 彼女は叔父の補佐を受け、若輩ながら立派に公務を勤め上げた。

 

 との事だった。

 

 寝耳に水だった。

 

 自分がすでに死んだ事にされている事。

 

 孫のエリスが新たの王位継承を行った事。

 

 だいたい、何だこの政務補佐は? こんな奴は知らない。

 

 どうせ国王である自分が死んだのを良い事に、付け込んできた卑しい成り上がり者どもに決まっている。

 

 こんなクズのようなハイエナ共が、自分のいない間に大英帝国を蝕んでいる事に怒りを覚える。

 

 新聞をくしゃくしゃと丸め、地面に叩き付ける。

 

 自分の息子の顔すら覚えていない「元国王陛下」は、怒りと屈辱で震える。

 

 許さない。

 

 自分をのけ者にして、どこの馬の骨とも分からん連中が、この神聖な大英帝国を牛耳るなど、あってはならないのだ。

 

「儂はこの国の王ッ この国は儂の物だッ 決して好きにはさせんぞ」

 

 見ていろ、まずは城に戻って自分の健在をアピールして……

 

 

 

 

 

 ドスッ

 

 

 

 

 

 いきなり、誰かが正面からぶつかって来たのはその時だった。

 

「なッ…………」

 

 絶句するフレデリック。

 

 ボロボロの形をした浮浪者が、自分に体当たりをしている。

 

 そして、

 

「ギ…ゲヒャ……ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」

 

 だらしなく開いた口元から、大量の涎と共に漏れる、不気味な笑い。

 

 その手に持った、錆びたナイフが、深々とフレデリックの腹に突き刺さっていた。

 

「き、きさま……貴様はァァァァァァ」

 

 ボロボロの服を纏い、伸ばし放題の髪に泥を塗りたくった真っ黒な顔。

 

 目だけは異様に輝き、よだれを垂らす口元には不気味な笑みが刻まれている。

 

 あまりにも見るに堪えない風体。

 

 しかし、その姿に、フレデリックは見覚えがあったのだ。

 

「きさ、ま……貴様……貴様はァァァァァァァァァァァァ」

「ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャ、ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

「お、のれ、き、さま……ど こ ま で も、邪魔しおってェェェェェェ」

「コレデ…………コレデワタシガジキコウオウダァァァァァァァァァァァァ!!」

 

 言いながら、刺した浮浪者はあおむけに倒れ、そのまま動かなくなった。

 

 怒りの声を上げるフレデリック。

 

 しかし、

 

 最早、彼にはどうする事も出来なかった。

 

 前のめりに倒れる老体。

 

 地面にまき散らされる鮮血。

 

 命は急速に失われていく。

 

「い……いやだ……この、儂が、こんなところで…………いやだ…………こんなの………………」

 

 呆然と呟くフレデリック。

 

 その視界の先で、

 

 あり得ない物を見た。

 

 倒れているフレデリックを見下ろすように、1人の美しい女性が立っている。

 

 それは、いつか見た女性。

 

 自分の欲望から汚し、手籠めにし、犯し尽くし、そして死に追いやったドイツの艦娘。

 

 幾人もの女を手籠めにしたフレデリックだが、その殆どの顔を覚えてはいない。覚えている必要すら感じなかった。

 

 だが、

 

 目の前に佇む女の事だけは、やけに鮮明に覚えていた。

 

 否、忘れる事が出来なかった。

 

 女は冷ややかな目でフレデリックを見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『だから言ったでしょう。あなたは、何も手に入れられないって』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう言うと、踵を返す女性。

 

 待っていた見知らぬ男と腕を組み、共に歩き出す。

 

 去って行く2人。

 

 楽しそうに笑いあいながら。

 

 無様に転がったフレデリックには、もはや見向きもしない。

 

 待てッ

 

 待ってくれェッ

 

 俺を置いていくなッ

 

 いやだッ

 

 こんなところで、1人で死ぬのは嫌だァ!!

 

 俺も連れて行ってくれェ!!

 

 

 

 

 

 刺された男と、刺した男。

 

 気が付けば、両方とも息絶えていた。

 

 報せを聞いて駆けつけた港の職員は、困ったように両者を見比べる。

 

「結局、何だったんすかね、この2人?」

「さあな。一応、警察には連絡するが、身分証も無いみたいだし、無縁墓地行きは間違いないだろうな」

 

 面倒くさい、と言いたげに先輩職員が投げやりに告げる。

 

「何にしても、こいつらは幸せだよ」

「え、どういう事すか?」

「こう言うご時世だ。死体がちゃんとあって、埋葬してもらえるだけ幸せだろうって事だよ」

「それもそうですね」

 

 戦場で散ったり、海の底に沈んだ者達は、墓に埋めてすらもらえないのだから。

 

 彼等は知らなかった。

 

 刺された男が国王フレデリックである事も、

 

 そして、刺した男がかつて、救国の英雄としてもてはやされた第2王子ディラン・ケンブリッジである事も。

 

 やがて2人の遺体は、トラックの荷台に放り込まれて運ばれていく。

 

 この後、簡易的な葬儀が行われた後、誰に知られるでもない適当な場所に埋葬される運命にあるのだった。

 

 

 

 

 

第96話「30年目の始末」      終わり

 




本作は残り1話となります。今暫く、お付き合いください。
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