「学校はどうだ??楽しいか?」
「うん楽しいよ。今日もクラスの子と一緒に勉強したり新しい化粧品の話とかして盛り上がった」
「そうか、楽しかったならいいんだ」
「.....」
肯定とも否定ともとれないまふゆの反応に、俺は小さく『そう...』と返す。
会話の途切れた室内にはコトコトと鍋の中が煮える音と、リズミカルな包丁の音。
俺はエプロンを着こなした妹の後ろ姿を眺めながら、彼女が出したコーヒーを啜る。ほろ苦さが心を締め付ける。痛く苦しい...汚泥の底に落ちたまま這い上がれない恐怖のように感じた。
「
「まぁまぁかな。今日はまふゆが来る日だからいつもよりモチベーションは高かったよ」
「そう.....」
彼女の声は、ドアを開けた時の彼女のそれではなかった。
俺が高校入学から大学4年生になる頃まで一切連絡取れなかった期間がある。その間に妹のまふゆは沢山何かを失ってしまった。
俺がいないところで、親がまふゆに俺と同じような事を言って、まるでまふゆを昔の自分と同じように育てようとしている。
そうなるかもしれないと知っておきながら俺は何も出来なかった。気づいた時にはもう
「ご飯、できたら声掛けて。部屋に戻って続きするよ」
「.....わかった」
感情を匂わせない低い声で返事するまふゆ。俺はマグカップを持って自室に戻る。
───────
彼女と再会したのは数ヶ月前の春。
大学院にレポートを提出し、アパートに戻ると彼女が俺の部屋の前に立っていた。最初はわからなかった。当時8歳のまふゆしか面影が無い俺にとって、まふゆは凛とした佇まいの綺麗な美少女という認識でしかなった。
『綺麗だ.....』
本当にそれしか感想がわかなかった。絵になるような可憐さとお淑やかさがあって、だけど触れれば壊れてしまいそうな脆い子。
近づくと、俺に気づいた彼女はにこりと微笑んでこう言った。
『久しぶり、お兄ちゃん』
妹の笑みは空虚で歪な笑みだった。
笑っているけど笑っていなくて、自分の感情は宙ぶらりんになって虚空を彷徨っている。
自分でもそれがわかっているのに”自分そのもの”を見失っていて、しかもそれでいいと思っている。
親は手塩に掛けて育てた自慢の娘と思っているんだろう。
やれと言われたことを素直にやって、友達は自分で選べて、進学先は親が勧める国立大学。将来の夢は医者だと勝手に決める。いいやきっと、勝手に決めたわけでは無い。まふゆに
選択肢を狭めて、意志を尊重せず価値観を押し付けた。
それは当時の俺にやってきたことのそれと同じだ。
それは
俺は無感情の中、電卓をはじいて答えを導き出している。
指の赴くままに。ただひたすらに数字を追い求めている。その時間がたった数分の出来事のはずなのに、数十分のようにも、数時間のようにも感じた。
朝比奈まふゆは、俺の大切な妹だ。
朝比奈家と絶縁し、連絡手段を与えられなかった俺のもとに彼女はやってきた。親戚の人に連絡先と住所を聞いて、親には内緒で塾の帰りにやってくる彼女が何を考えているのか想像がつかない。
何かを思って行動しているのだろうが、きっと彼女自身わかってないし、俺自身も当然わからない。
俺ができるのはただ、彼女のすることに頷くだけ。
「お兄ちゃん、入るよ」
「ん?あぁ、いいよ」
ふとの部屋のノックの音で我に返る。
スマホの時計を確認すると、机に向かってから既に十分以上は経っていたようだ。
静かに扉を開けた先にはエプロンを外している虚ろな目をしたまふゆがいた。
「ご飯できたけど、もう食べる?」
「もう少し後ででいいかな。切りのいいところまでやる」
「そう」
「まふゆはこれから家庭教師か?」
「うん......」
「一緒に食べてくか?」
「......別にどっちでもいい」
「まぁ、家の夕飯もあるしな。小腹満たし程度に一緒に食べようか」
「どうして」
「まふゆとの時間も楽しみたいからさ」
今度は返事がなくなった。
不快......に思われたわけではないだろうが、今でもまふゆのこの瞬間はよくわからない。
ただ真顔で、俺の瞳を覗き込むように見ているだけ。
そのサファイアのように深い瞳に吸い込まれそうな気持になる。
───やっぱり綺麗だ。
そう思った。
「ほら、行こ?家庭教師との勉強時間に間に合わなくなるよ」
動きを止めたまふゆにしびれを若干切らした俺は、シャーペンをつけに置いて立ち上がる。
部屋の前にずっと立っているまふゆを通り抜けて、キッチンからの美味しそうな匂いにつられて歩く俺。
「待って」
ふいにまふゆが俺の裾を引っ張って動きを制する。
「なに......?」
「......」
俺の疑問の応えるわけでもなく、まふゆはそっと俺の背中から腕を回して抱き着いてきた。
急な行動に俺は声を上げそうになったが寸でのところで抑える。変に動揺して声を上げたらこの瞬間が終わる。
「......」
「どうしたまふゆ」
「......よくわからない」
至っていつものまふゆの声にほっとする。
「わからないって」
「なんでだろう......わからないのに」
「......」
「わからないのに、こうしたいって思った」
「そう」
きっとまふゆなりの理由なのだろう。
わからないことだらけのまふゆが必死に探した理由が『こうしたい』。俺にとってただそれだけが嬉しくて嬉しくて愛おしく思った。
「まふゆ、何か良いことあった?」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「......よくわかんない」
「そっか」
「わかんない、けど」
少しきつく締めていた腕を緩め、まふゆは俺の背中に寄り添うような形で身を預ける。
華奢な彼女のぬくもりが、確かな信頼を教えてくれた気がした。
「お兄ちゃんにこうすれば、落ち着けると思った気がする」
背を向けている俺にはわからないけど。
きっと今のまふゆはいつもの無表情じゃない。
そんな気がする......。