紫煙燻らせ迷宮へ   作:クセル

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第一六話

 空を覆う色が、夜の蒼闇に染まる頃。

 西のメインストリートから外れた場末の酒場は仕事を終えた職人、迷宮探索から帰還した冒険者でごった返していた。

 古びた木造の狭い店内には、粗末な装備を身に着けた冒険者が大半を占めており、乱暴な言葉や下品な笑い声、けして上品とは言い難い言葉がしきりに飛び交う。

 ダンジョンの稼ぎも良くない割に妙にプライドばかり高い荒くれ者が安酒を求めて集まる酒場だけはある、と眉を顰めながら最低品質で値段相応の味の酒に口をつけていたクロードは肩を寄せてくる女神を見やって溜息を飲み込んだ。

「……ンで、どうしたよ女神様ァよぉ」

「どうしたもこうしたも! ベル君が、ベル君が浮気をしていたんだ!」

 ダンッ、と飲み干した空のグラスを樽に渡した板材の机に叩き付けるヘスティア。

「浮気、とは穏やかではないな。ベルがその様な事をする光景を、私は想像出来ん」

 穏やかで丁重な口調で言葉を紡ぐ美男、ミアハがヘスティアの言葉を相槌を打ちながら自分の意見を口にする。彼の着用するぼろぼろのくたびれた灰色のローブは違和感なく古びた酒場に溶け込んでいる。

「浮気、浮気ねぇ……あのベルにそんな大それた事が出来んのかねぇ」

 半ば呆れながらも口当たりの悪い安酒に眉をひくつかせ、低く不機嫌な声色で吐き捨てる小人族の少女、クロード。彼女が身に纏う煙の匂いが染みついたコートと、手にした安っぽい煙管もこの酒場に上手く溶け込み、退廃的な雰囲気を醸し出していた。

「いいや、ボクはこの目で見たんだ! 店員君、お酒のお代わりを!」

 事の始まりはつい半刻ほど前の事。【ステイタス】の更新の為に教会の隠し戸へと向かっていたクロードは、偶然にもメインストリートでふらふらと歩く女神を見つけ、声をかけた。彼女に気付いた女神は振り返ると同時にクロードの肩を掴むと『付き合ってくれ!』と問答無用で彼女を引き摺っていったのだ。

 何事かと困惑する小人族を他所に、大通りで偶然出会ったらしき神友(ミアハ)も捕まえると、女神は近場の酒場に足を運んで自棄酒に付き合わされる事となったのだ。

「……はぁ、面倒臭ェな」

「まぁまぁ、そう言ってやるな。恩恵を与えてくれている女神の愚痴だ、聞いてやってもバチは当たらんよ」

 次々に酒を呷り続ける女神に肩を組まれてぐいぐいと揺れ動く彼女に翻弄されながら煙管を吹かしていたクロードの心底うんざりした様な言葉に、男神が苦笑しながらも宥める。

 ヘスティアとミアハの関係は、共に下も下────底辺も底辺の【ファミリア】の主神同士、同じ身分という事で親交が深いのだ。回復薬(ポーション)の製造、販売を行う【ミアハ・ファミリア】を【ヘスティア・ファミリア】が懇意にしており、両派閥の団員も気心知れている────と両主神は思っている。

(……実際には犬女(ナァーザ)の奴、(ベル)をカモ扱いしてんだけどなぁ)

 内心でボソリと呟きつつ、急な女神の自棄酒に嫌な顔一つせずに付き合う美男を見やったクロードは、深く溜息を零した。

「んで、何があったんだよ」

 自身の分として出されていた安酒を女神の方に押しやり、口当たりの悪いソレの処理を任せつつもクロードが問いかける。

「ベル君が女の子と手を繋いでいたんだ! これはもう真っ黒も真っ黒じゃないか!」

 女神の口から飛び出した台詞を聞いたクロードは、無言で紫煙で肺を満たして一息つく。

「ベルにはベルの事情、それなりの付き合いもあるのだろう。黒と決めつけるのは早計に感じるが……そもそも、夫婦でも恋人ですらない者達が浮気云々と語るのもおかしいであろう」

 美男が正論を述べるも、女神は追加で運ばれてきた安酒を呷っており全く聞いていない。

 今日は荒れているな、と群青の髪を掻いた男神と、くすんだ銀髪の少女が視線を交わし合い、互いに溜息を零す。

「くそぅ! そもそも一体なんなんだあの子は!? ベル君はボクのモノなんだぞぉ!」

「これこれ。その発言はいくら主神といえども横暴というものだ。ベルは誰のモノでもない」

「わかってるさ、そのくらい! ただ言ってみただけさ! いいや、言ってみたかっただけさ!」

「もう酔っているのか」

「おうともさ!」

 酔っていなきゃやってられるか、と次々にグラスを空けていく女神は、抱き寄せていたクロードをようやく解放する。呆れつつも自身の酒のつまみとして頼んでいた野菜スティックをそれとなく手元に確保して齧っていたミアハは、ヘスティアから解放されて席を移動したクロードを見やる。

 何処か虚ろに、ベル君ベル君、と呟きながら安酒を浴びる様に飲むヘスティアを見やっていた。

「クロード、何か悩みがあるなら私で良ければ聞くが」

「ンぁ……別に、悩みなんて一つもねェよ」

 嘘だ、と神でなくとも見抜けそうな程の彼女の様子を見たミアハは、対面の席で次々に酒を追加注文しては呷っていくヘスティアを一瞥してから、彼女と向き直った。

「嘘だろう。ほれ、話してみなさい」

「……話しても解決する事じゃねェからいい」

「解決はせずとも話す事で少しは楽になる」

 押し付ける様な厚かましさを微塵も感じさせない低い声色に、クロードが僅かに口元を震わせてミアハを鋭く睨み付けた。

 不機嫌そうに、けれども意を決した様に彼女が口を開こうとして────

「うぅっ……」

 すっかり顔を赤くした女神が嗚咽を漏らした事で二人の視線がヘスティアに移る。目尻に涙をたっぷりとこさえ、今にも決壊しそうなダムを彷彿とさせる。美男と少女が同時に不味い、と感じ顔を引き攣らせ、女神が叫ぶ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!! ベル君ベル君ベル君ベルくーんっ! お願いだからボクの前からいなくならないでおくれ────!!」

「こ、これ!? 声がでかいぞヘスティア!」

 周囲の喧騒を一瞬で散らす程の特大の号泣にミアハが慌て、クロードが頭痛を堪える様に額に手を当てた。他の客たちの視線という視線がヘスティアに集まる。

「君が笑っていてくれればボクは下水道に住み着いたって良いぜ!? それくらい君の事が好きなんだ! ぶっちゃけ同じベッドで寝たいんだギュウギュウしたいんだ君の胸にぐりぐり顔を押し当てたいんだー!! キミが微笑んでくれればボクはパン三個はいけるんだー!」

 周囲の視線も何のその、自身が胸に秘めた思いをぶちまける女神の姿に流石のミアハですらもドン引きし、クロードは他人事の様に紫煙を燻らせている。

「愛してるよベルくーんっ!! ……えへへぇ、一度でいいからベル君への想いをぶちまけてみたかったんだー! ふふぅ、すっきりー」

 本当にすっきりした様にふにゃふにゃと緩み切った笑顔を浮かべる女神を他所に、ミアハとクロードの二人が勘定を進めていく。

「当人が居なくてよかったな。クロード、勘定だが良いか?」

「あァ、金は出すわ」

 クロードが自身の財布から金を出し、ついでに女神の懐に手を突っ込んで財布を取り出し、表情を消した。

「どうした?」

「……この酔っ払い、二〇ヴァリスしか持ってねェぞ」

 女神の懐から出てきた財布にはじゃが丸君一つぶんのお金すら入っていない。到底、彼女の飲んだ分の金など出せる筈もなく、クロードは無言で彼女の懐に財布を突っ込むと、自身の財布から足りない分を取り出した。

「クロード君も、ボクに懐いてくれないしぃ。クロードく~ん、ボクの【ファミリア】に入っておくれよぉ~」

「だぁぁぁっ、鬱陶しい!」

 泣いたり笑ったり、酩酊状態でころころと表情を変えながら抱き着いてくる女神に、クロードが鬱陶し気に引き剥がそうとする。

 その様子にやれやれと呟きながらも、ミアハはクロードと共に甲斐甲斐しく酩酊女神(べべれけ)を介抱しながら帰路についた。

「ミアハー、クロードくーん、支払いはどうしたんだーい?」

 ミアハの所有物である商品(アイテム)を積んでいた四輪の手押し車に積まれた女神は、酔っ払い特有の間延びした問いかけに美男は苦笑し、少女は溜息を零す。

「うむ、私とクロードで割り勘にした」

「おいおい水臭いなー。こういう時はボクも入れての割り勘だろー?」

「おまえ、自分の所持金が二〇ヴァリスしか無いの忘れてんだろ」

 酔っ払いの相手しても仕方ないか、とクロードが肩を竦める。その時、ぐいっとコートの裾を引かれてつんのめった。

「っぶねぇ、んだよ!」

「クロードくぅん……ボクの【ファミリア】にぃ~」

 ミアハによって乳母車の様に運ばれる女神が、手押し車の上から手を伸ばしてコートの裾を掴んでいる事に気付き、舌打ちを零しかけて既に寝惚けた様子の女神を見て頬を引き攣らせた。

「……ったく、危ないから放せっての」

「クロード」

「んだよ、ミアハ様」

 面倒臭そうに答えるクロードを見て、ミアハは手押し車に乗せられた女神を見やり、一つ頷いた。

「そなたは何か悩んでいたのだろう。出来れば聞かせて貰えぬか?」

 コートの裾を掴まれたまま、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべた少女に、美男は優しく問いかける。僅かに口を開きかけ、それでも閉ざしたクロードは親指で横道を示した。

 光に溢れた大通りから一つ外れた通り。ぽつぽつと大通りに比べると数の少ない街灯型の魔石灯の灯りに照らされながら歩んでいく。

 クロードの後を手押し車を押しながら進んでいたミアハは、静かに口を開く。

「そなたはヘスティアの事が嫌いか?」

「……別に、嫌いじゃねェよ。面倒だとは思うが」

 本当に面倒だ、と自身のコートの裾を掴む女神の手を引き剥がすと、手押し車に乗せられた女神を覗き込んだ。

「ふむ」

 覗き込むのを止め、懐から煙管を取り出して口に咥えたのを見やったミアハはしばし考え込み、呟く。

「もしや、()()()()()を恐れているのか?」

「……………………」

 その問いかけに答える事はなく、クロードはミアハを一瞥すると煙管に火を入れた。

 問いに対し、ほんの一瞬だけ表情を強張らせた彼女を見たミアハは、静かに言葉を続ける。

「沈黙は肯定ととるが」

「……神様ってのは、本当に相手にすんの面倒臭ェよな」

 鎌をかける様に問う男神の言葉に少女は紫煙と共に言葉を吐き捨てた。

 しばしの間、手押し車の奏でる乾いた車輪の音と、二人分の足音が薄暗い路地に響く。遠く離れた光に溢れる大通りから微かに耳に届く喧騒に耳を傾けていたクロードが、肩を竦めた。

「そもそもよォ、愛ってのは何だ? この女神みたく面倒に構ってくる事か?」

 手押し車の上で心地よさそうに眠る女神を指差し、先の光景の事を示す。

 眷属(ベル)に対し過剰ともとれる愛情を注ごうとする女神の姿には、確かに友としてのミアハですらもドン引きではある。しかし、ヘスティアが本気でベルを愛している事には理解を示すし、それに。

「ヘスティアはクロード、そなたの事も愛しているぞ」

 事実、ミアハは幾度かヘスティアからクロードの事に関しての相談事を受けていた。

 心開こうとしない彼女にどうすれば良いのか、と。真剣に、クロードの事を想っての相談。ヘスティアが彼女を想っている事に嘘偽りはない。

「……面倒だろ、そういうの」

 心底呆れた様にクロードが吐き捨てる。

「オレはな、面倒なのは嫌いなんだよ」

 その呟きを聞いたミアハは、彼女が酷く怯えている様に見えた。

 

 


 

 

 それは怪物祭の数日前の事だ。

 鍛冶神が手際よく準備を進める傍らにヘファイストスがクロード・クローズについて知っている事を語っていく。

「あの子があれだけ歪んだ性格をしているのは、育った環境が悪かったんでしょうね」

 そして同時に、運も悪かった、とも鍛冶神が続ける。

「彼女には三人の兄が居て、あの子が末っ子だったそうよ」

 それぞれ、彼女の兄達には秀でた部分があった。それは剣術であったり、学術であったり、芸術であったり。三人とも優れた才能を持ち、開花させていたのだという。

「もしかして、クロード君はその兄達に嫉妬して……?」

 兄達への嫉妬心から歪んでしまったのだろうか、とヘスティアが唸る。それをヘファイストスは否定した。

「違うみたいよ、少なくともクロード自身は兄達に対して嫉妬はしていなかったみたいよ」

「嫉妬してなかった?」

「むしろ、兄達とは仲が良かったみたいね」

 クロードの口から語られる兄の話はどれも誇らしげであり、そこに嫉妬等の暗い感情は見て取れなかった。

「じゃあ、なんで……?」

「……母親や周囲が原因みたい」

 クロードの親は、どうやら平等に子供を愛する事をしなかったらしい。常に優秀な兄達と比べて一歩劣るクロードに対する親からの評価は、とても厳しいモノだった。

「兄達の様な優秀な子を望まれていたみたいだけど、クロードにはそれが無かった」

 最初の頃こそ()()()()()期待され、彼女自身もそれに応えようと努力を重ねていた。

 しかし、彼女の努力は実らない────否、実ってはいたのだ。ただし、その実った成果は親や周囲が期待する基準に届かなかっただけで。

「期待に応えられなかったあの子を、彼女の親は幽閉したみたいよ」

「────幽閉?」

「そう、一族の恥、としてだって」

 彼女が名を連ねた一族。その中でも秀でた才能を持つ三人の兄は歓迎の言葉と共に迎え入れられ、求められる期待に沿えなかったクロードは一人、屋敷に幽閉されていた。

 外聞を気にしてか、直接的な危害こそ加えられていない。しかし、彼女は幽閉され、あたかもそんな人物は存在しない様に扱われる。

 居ない、居ない。何処にも居ない、()()()()()()

「専用の屋敷が与えられて、其処から一歩も出られない様に警備まで配置されていたみたいね」

 兄達の様な何かを持たなければ、存在する事すら許されない。

「唯一、というか兄達だけはクロードの事を気に掛けていたみたいだけど」

 幽閉されているクロードの元へ足繁く通っては、彼女の努力に協力を惜しまない。自分達に出来る事ならば、と献身的に彼女の為に動いてくれる末っ子想いの兄達だった、と。

 しかし、それも長くは続かない。不慮の事故で兄達は死に、彼女が一人残された。

「兄弟が死んだあとはもっと酷かったみたいね」

 死んでしまった兄達に代わり、クロードが穴を埋める事を期待された。

 一度は捨てた彼女を拾い上げた母親、ひいては一族は優秀だった兄達と同じ結果を求め、それに応えるべくクロードは努力を重ねていく。

「クロード君の父親は何をしていたんだい?」

 ヘスティアの問いかけに、ヘファイストスは僅かに眉を顰めると槌を金床に置いた。

「……同じように幽閉されていたみたいね」

「何だって?」

 他の家から婿養子として迎え入れられた父親は、いわゆる種馬としての扱いしかされていなかった。

 彼の家が求めたのはより良い遺伝子。彼の一族の血と子を成した際、最も優れた子が産まれる可能性の高い遺伝子を持った男性。それが彼女の父親であり、それ以外の役割を与えられてはいない。

 子を成して以降、彼は屋敷に幽閉されていた。

「クロードは父親が死ぬ程嫌いだったみたいね」

 そして、彼は幽閉されている事に文句一つ無かった。

 屋敷の外に出る事が出来ない以外は、特に不自由のない暮らしが出来る。食事や娯楽は常に与えられ、何もしなくても屋敷の管理や自身の世話をしてくれる使用人だっている。それに彼は文句はなく、大人しく幽閉される事を選んでいたらしい。

「対して、クロードは背負わされた期待に応えようとしていたみたい」

 何でも良い、秀でた何かを証明する事で母親に、一族に認めさせようと努力を積み重ねていた。学術、武術、芸術、とにかく何でもだ。何か、何か一つ、秀でた才さえ証明する事が出来れば。

 その異常な程の期待という重圧の中、彼女はまさに()()()努力を繰り返した。

「ヘスティア、信じられないかもしれないけれど、クロードはダンジョンで目覚める以前は────」

 それこそ、体が()()()()()()()を繰り返し続けたのだ。

 

 ────半身不随でベッドから出られない身体だったらしいわ。

 

 


 

 

「ぬぁぁぁぁぁっ……!」

 ()友との会話を夢に見ていた女神が目を覚ますと、脳内に響き渡る荘厳な鐘の音と、頭痛が彼女に襲い掛かった。

 ベッドの上で仰向けになるヘスティアは、悶えながら呻き声を発した。なんとか周囲を見回した彼女は、見慣れた天井を見てここがホームだと気付く。ついでに壁にかけられた時計から朝だという事にも。

 ミアハとクロードを巻き込んだ自棄酒から一夜明け、ヘスティアは完璧な二日酔いに陥っていた。

「だ、大丈夫ですか、神様?」

「ただの飲み過ぎだろォよ、ったく、神が酒に呑まれてどうすんだっての」

 ベッドの傍にいたのはベルで、ヘスティアの視界からは見えないがクロードの声も聞こえる事から彼女もホームに居るらしい。

 水の入ったグラスを片手に心配そうにヘスティアを見つめるベルに、ヘスティアは声をかけた。

「す、すまない、ベル君、こんな見苦しいところを……」

「いえ、そんな。……えっと、昨日、ミアハ様とクローズさんにも聞きましたけど、やっぱり?」

「……ああ、どうやら飲み過ぎたみたいだ」

 寝たままの姿勢で水を軽く飲ませて貰い、渋面を作る女神。

 昨日、女神を届けたミアハは「()()()()()()()()()。僅かでもいい、構ってやってくれ」と意味深な台詞をベルに残していったらしい。それと、今後暇なときで良いから話をしたい、とも。

(何も思い出せない……)

 女神の記憶から、昨日の事は綺麗さっぱり抜け落ちていた。そんなあやふやな状態で二日酔いする程に酒を飲んだ原因もわからない上、更に酩酊状態だった自分がどんな痴態を晒し、どんな事を口走ったのか、神友(しんゆう)の言い残した意味深な言葉からヘスティアは強烈な不安を覚える。

 そんな中、呆れた様な溜息を零しながらもベッドに近づいてくる人影があった。

「酒飲むンなら、量決めて飲め、馬鹿みてェにガバガバ飲みやがって」

「ク、クロード君……」

 そういえば、と薄ら微かに残る記憶からクロードも居た様な、居なかった様なと女神が首を傾げるさ中、彼女は手にしていた果物をナイフで細かく切り、欠片を片手にベッドに近づいて無造作に女神の口に捻じ込む。

「むぐぅっ!? す、酸っぱぁ~い!?」

 一欠けらとはいえ、非常に強い酸味のある果物、檸檬らしきものを捻じ込まれて悶えるヘスティアを他所に、クロードはベルにも一欠けら差し出す。

「食うか?」

「えっと……ぼ、僕は遠慮しておきますね」

 断ったベルを一瞥すると、クロードは手にしていた果肉を自身で口にした。見ていたベルは思わず唾を飲み込むが、クロード自身は何でも無いようにテーブルに置かれた器から半分に切られた檸檬を手に取り、齧りつく。

 見ているだけで口内に唾液が溢れ返る姿にベルが視線を逸らし、ヘスティアが上体を起こした。

「大丈夫ですか、神様?」

「うん、あの酸味が効いたよ」

 完全に復帰とは言えずとも、ある程度治った、と空元気の様子で答えると、ヘスティアはソファーにどっかりと腰掛けるクロードを見て首を傾げた。

「ところで、クロード君はなんで此処に?」

「……はぁ、昨日泊めさせて貰ったんだよ」

 ヘスティアを送り届けた後、ミアハと共に帰ろうとしたクロードは、ミアハとベルに説得されてこの教会の隠し部屋に泊まる事になったのだ。

「そっか、すまないね、クロード君」

「別に、オレはもう帰るが文句はあるか?」

「いや、無いよ。本当にありがとう」

 適当に食っとけ、と果物が入った籠をテーブルに載せたクロードは手早く荷物を纏めて立ち上がる。

 その背中に手を伸ばしかけ、ヘスティアは言葉に詰まった。ヘファイストスから聞いた彼女の話、それに対してどう接するのが正解なのか。

 期待されて、応えられなくて捨てられた。その後、また拾い上げられて、今度こそ応えようとして、壊れた。そして、最後には……。

「クロード君、また……いつでも来てくれていいからね」

「…………」

 軽く手を振ると、クロードは階段を上がっていった。

 

 


 

 

「良い報せと悪い報せ?」

 昼下がり、商館の応接室で紫煙を燻らせていたクロードは首を傾げた。対面していた商人の男はテーブルの上に『ソーマ』を置いて告げた。

「ああ、良い報せと悪い報せ、どっちから聞きたい?」

「そりゃあ、良い報せだ……って、コレが『完成品』の酒か?」

 卓に置かれた『ソーマ』を見たクロードの問いかけに、商人の男は大きく頷いた。

「ああ、これが完成品の酒らしい」

「ほー……開けていいか?」

「もうアンタのモンだ、好きにしてくれ」

 良い報せの方は完成品のソーマが早くも手に入った事。

 早速、栓を抜いて香りを嗅いだ所で、クロードは目を見開いて感嘆の声を上げた。

「おォ、こりゃァ……香りだけでも最高だな」

 酒に似つかわしくない甘い香りを漂わせるソレを、グラスに僅かに注いで煽る。

 舌全体を痺れさせる様な強烈な甘みは、けれどもしつこさは一切ない。滑らかな口溶けと共に、香りが鼻腔を抜けていく。後味まで爽やかで、余韻だけで意識が朦朧とし、体の隅々に染み渡る様に幸福感に満たされていく。

「ふぅ……なぁるほど、なるほど」

 味わい終えたクロードは栓を戻し、片目を閉じて商人の男を見やった。

「んで、悪い報せは?」

「あの貴族様、口が軽かったみたいで他の貴族様からも問い合わせ殺到中」

「……何?」

 最初に彼が取引していた貴族に、クロードの作り上げた煙草を売り渡したのは良いモノの、その後、かの貴族はあろう事かその煙草を他の貴族連中に自慢してしまったらしい。

「なら、お前ン所で作ってる奴を適当に卸してやれば……」

「それがな、あの貴族共、無駄に舌が肥えてやがんのか俺のお抱えの薬師共の奴じゃ物足りんとかほざきやがるんだよ」

「……おい、待て」

 商人の男が開発した煙草はそれなりに再現されていると開発者(クロード)自身感じている。それでも件の貴族連中は()()()()()()と注文を付けてきている、と。それはつまり。

「と言う訳で、悪い、開発者が誰かの問い合わせが殺到してんのよ」

 非常に申し訳なさそうに両手を合わせて懇願してくる男に姿に、クロードが頬を引き攣らせる。

「待て、まだ正体はバレて無いんだな?」

「一応、な?」

 一応、未だにクロード・クローズという人物が件の煙草の開発者である事は貴族連中に気付かれてはいないが、彼等もお抱えの薬師として開発者の身柄を欲しているとの事。

 つまり、今後はクロードの周囲を嗅ぎ回る者が増えるという事を意味していた。

「……面倒臭ェな、おい」

「はっはっは、どのみちギルドが【ランクアップ】の件を発表すれば一躍有名人だろ」

「それとこれとは話が別だろ」

 特に貴族連中は金にモノを言わせて何をしでかすかわかったものではない。見つける為にあれやこれややらかされてる間に、ギルドが嗅ぎ付けてくれば面倒事どころか、下手をすれば牢獄行きだ。

「はぁ……んで、手は?」

「一応、尽くす積りではあるが……死ぬときは一緒にな?」

「おまえを殺してから死ぬ事にするわ」




 アニメ版しか見ていない人にとって『ソーマ(完成品)』って超ヤバい代物、って印象なんだと思いますが。
 原作の方では『禁断症状は無く』、『依存症状は酷くない』。らしいです。

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