ダクネス――ダスティネス・フォード・ララティーナは、ペンダントを掲げて今回の件を預からせて欲しいと裁判長に告げた。
「ダスティネスって確か……」
「王家に次ぐほどの権力を持つ大貴族じゃないか!」
ダクネスが名乗った家名に、傍聴人達はどよめく。
「う、うむ。ダスティネス家のご令嬢の頼みとあらば、今回の裁判は一時中断にしてもよいのですが……原告、どうしますか?」
額の汗を拭いながら、裁判長はそう尋ねた。当の原告であるアルダープは、顔を若干顰めつつ控えめに抗議の声を上げる。
「い、いくらあなたの頼みといえど、その男は大罪人。死刑判決も下されたから一刻も早く処刑すべきかと……」
「おい! 俺はまだ有罪を認めてねぇぞ!!」
早く処刑を行うべきだと主張するアルダープに、カズマが猛烈な勢いで食ってかかる。隣に立つダクネスがそれを手で制した。
「アルダープ。私は今回の件を無かったことにしてほしいのでは無く、結論を出すのを少し待ってほしいだけだ。それまでにこの男の潔白を証明し、破壊されたあなたの屋敷も必ず弁償させる」
「し、しかし……」
「当然、無条件とは言わない。代わりに私が出来ることなら、一つだけどんな言うことでも聞こう」
ダクネスが提示した条件を聞いた瞬間、アルダープの目の色が変わった。ごくりと唾を飲み込み、努めて平静を装いながら着席する。
「し、仕方ありませんな。そこまで言うのなら、今回の裁判はあなたに預けるとしましょう」
やむを得ず条件を飲んだ。という体でアルダープはダクネスの提案を了承した。その目には欲望に満ちた怪しい光が宿っていた。
◆◆◆
「ダクネス! あなたって貴族のお嬢様だったの!?」
「しかもあの大貴族であるダスティネス家の人間だったなんて! 驚きですよ!」
屋敷に帰ってきて早々、アクアとめぐみんは興奮しながらダクネスに詰め寄っていた。
「すまない。隠すつもりは……いや、あったな。私が貴族の人間だと分かると、どうしてもそういう目で見られてしまうから、ずっと隠していたんだ」
視線を逸らしながら、どこか照れ臭そうにダクネスは頬を掻く。
「貴族のお嬢様ってことは、要するにお金持ちなんだよな? なんで冒険者なんかしてるんだ?」
千翼の疑問も当然であった。冒険者というのは常に死の危険と隣り合わせ。収入も不安定な上に、余程の実力がなければ長続きしない仕事である。
それを貴族、しかも王家に次ぐほどの力を持つ大貴族の令嬢が冒険者をしているというのは、どう考えてもおかしい。
「それはもちろん、屈強なモンスターに痛めつけられ……じゃなくて、貴族たるもの世界を見据えなければな。知見を広めるために身分を隠して冒険者をしているんだ」
予想通りの答えが返ってきたため、アクア、めぐみん、千翼の三人はどこか生暖かい視線をダクネスに向ける。
「あ、あのダスティネス……さま? そ、その、あなた様に対する過去の無礼は……」
カズマは震えながら、今まで彼女に対して行ってきた数々の
「カズマ、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。裁判が再開されるまでにお前の無実を証明しなければならない。それに、例え無実を証明しても今度は屋敷の弁償が残っている。休んでいる暇はないぞ」
「だ、ダクネス……!」
カズマの乱暴な振る舞いの数々を気に留める様子も無く、寧ろ彼の現状をダクネスは憂いていた。その優しさにカズマは思わず涙ぐむ。
「そ、それに……お前の責めは私のツボを的確に突いてくるからな。何かお詫びがしたいと思っているなら、今までに以上にハードな責めを……!」
そこでダクネスは
「それはさておき……皆に一つ頼みがあるんだ」
しばらくして妄想の世界から帰ってきたダクネスは、咳払いをすると真剣な面持ちで話し始める。
「もし、カズマの無実が証明されていつもの日常に戻っても。私のことはダスティネス家の人間としてでは無く、一人の冒険者ダクネスとして今まで通りに接して欲しいんだ……頼めるか?」
真摯な彼女の頼みにカズマ達は顔を見合わせ、互いに笑い合った。改めてダクネスに向き直ると、口を揃えて答える。
『もちろん!』
◆◆◆
裁判から数日後、辛うじて死刑を免れたものの、依然として状況が悪くなっていることに変わりはない。裁判が再開されるまでにカズマは為すべきことは二つ。
一つは魔王軍の関係者ではないことを証明すること。これを聞いたアクアは即座にウィズを突き出すべきだと主張したが、カズマに拳骨を落とされあえなく却下された。
もう一つはアルダープの屋敷の弁償だ。過失とはいえ屋敷を爆破してしまったのは紛れもない事実、こればかりは何とかして金を工面するほか無かった。
弁償の方は今すぐに払う必要はないので、後回しでも問題ない。しかし、無実の証明は大至急取りかからねば、それこそカズマの命に関わる問題である。
しかし――
「どうすりゃいいんだよ……」
広間のテーブルの上で、カズマは頭を抱えて突っ伏していた。まずは身の潔白を証明するためにはどうしたらいいか。というテーマで話し合いの場を開いたものの、話は全く進まなかった。
この世界の人間では無い千翼とカズマはもちろんのこと、知力は高くとも法律に関する知識はないめぐみんもアイディアを出せず、アクアに至っては話を度々脱線させるため、いつの間にか皆から無視されていた。
そもそもとして、彼らは法律に詳しいはずも無く。そんな四人が集まったところで所詮は烏合の衆、話し合いが進むはずも無かった。
「全然進まないね……」
「そりゃあ、私たちは法律の勉強なんてしていませんからね……」
千翼が疲れた様子で呟き、めぐみんがそれに同意する。
「ああ、クソ。こんな時にダクネスがいてくれれば」
ダクネスは昨日の夕方に、アルダープに呼び出されて彼の元へ向かった。貴族の令嬢である彼女なら、もしかしたら何か打開策を思いつくかも知れない。しかし、いくら名前を呼んだところで彼女はいない。虚しさを誤魔化すようにカズマは頭を掻き毟った。
「ダクネス、今頃はどうしてるかしら……」
「そりゃあ……あれだろ……」
カズマとアクアは曖昧な内容の会話を交わす。アルダープの欲望に満ちた目を思い出すだけで、
『……』
誰も彼もが、ダクネスのことを思い口をつぐむ。と、その静寂を破る者は唐突にやってきた。
「サトウカズマ! サトウカズマはどこだ!!」
玄関の扉が乱暴に開かれる音が屋敷中に響き、次いでかなりの勢いで階段を上る音が聞こえる。それが終わった後に広間の扉が蹴り開けられた。
「ここにいたか! もう逃がさんぞ!」
髪を乱したセナが、肩で息をしながら現れた。ここに来るまでに余程の勢いで走ってきたのか、冬場であるにも関わらず額には玉のような汗が浮かび、眼鏡は彼女の体温で曇っていた。
「裁判を預けられて大人しくしていると思ったら、貴様と言う奴は!」
「ちょ、ちょっと待った! 何の話だ!?」
「とぼけるな! 町の近辺で冬眠中のジャイアントトードが一斉に目覚めて大騒ぎになっているぞ! 貴様の仕業だろう!!」
「知らん! 本当に知らん!! 言いがかりだ!!」
喰い殺さんばかりの勢いでセナは詰め寄り、彼女の余りの迫力と怒気に、カズマは無関係を訴えながら震え上がる。見かねた千翼達が仲裁入り、ようやくセナは落ち着きを取り戻した。
「ジャイアントトードが目覚めた原因だが、ここ数日、町の近くで爆発が――おそらくは爆裂魔法だと思われる物が発生している」
静かに逃げようとしていためぐみんの肩を、カズマはしっかりと掴む。
「そして、この町で爆裂魔法を使えるような人間は、そこにいる紅魔族の方だけだと――」
「待ってください。爆裂魔法を使ったことは素直に認めます。ですが、使うように指示したのはアクアです」
慌てて逃げだそうとしたアクアの肩を、カズマはガッチリと掴む。二人の様子を見て、千翼は「あの時のことか」と呟いて納得したような顔をしていた。
「よーし、二人とも。今から後始末にいくぞ。自分でしたことは自分で片付けないとな」
額に青筋を浮かべ、眉をひくつかせながら、いやに爽やかな声と表情でカズマはそう言った。
◆◆◆
銀色の刃が閃き、縦に線が走る。その線に沿って巨大な蛙の体は真っ二つに切り裂かれた。臓物と体液が雪原に零れ落ちる。
青い異形の戦士――アマゾンネオは空高く跳躍すると、眼下に点在する大蛙の一匹に狙いを定めた。
空中で体勢を変えると、下に向けてブレードを構える。重力に引かれてネオが落下し、加速しながら一匹のジャイアントトードに近付いてゆく。
両者の距離が限りなくゼロに近付いた時、ネオはブレードを突き出した。鋭い切っ先が蛙の脳天を貫き、顎下から刃の先端が顔を出す。
蛙の巨体をクッションにして落下の衝撃を和らげると、青い異形は素早く次の獲物に襲いかかった。
引き起こした騒動の後始末。関係ないにも関わらず、心配だからと言って千翼も同行してきた。
結果、主犯と実行犯であるアクアとめぐみん。二人がまた何か余計なことをしないように、そして逃げないように御目付け役も兼ねて同行したカズマは特に出番もなかった。
「凄い……たった一人であれだけの数を物ともしないなんて……」
「凄いでしょ! 冒険者として登録したその日に、ジャイアントトード十匹近くを一人で倒したんだから!」
「それだけでなく、あの冬将軍と互角に渡り合い、違法に作られたキメラを単独で撃破出来るほどの実力者ですよ!」
「なんで偉そうに言ってんだよ。凄いのは千翼であってお前らじゃねぇだろ」
立会人として同行したセナの驚きに対して、さも自分の事のように自慢げに話す二人。その様子にカズマは呆れ混じりの突っ込みを入れた。四人が見ている中で、またも
「こりゃ俺たちの出る幕じゃないな。また千翼に迷惑かけちまった……」
白い息と共に、申し訳なさそうにカズマが呟く。戦闘はいつも千翼に頼りきりで、少しでも彼の負担を減らそうと『弓』と『狙撃』のスキルをこのあいだ習得したばかりだ。
ひ弱な自分はどう考えても前線に出たところで邪魔になるだけ。ならばせめて援護くらいはと習得したのだが、今回は出番もなく終わりそうであった。
新品の弓と矢筒を背負い直して俯く。冷たい空気を吸い込み、靄と共に吐き出した。ドシン、と。地面が揺れる。
『え?』
四人が同じ方向を見ると、そこには一匹のジャイアントトードがつぶらな瞳でカズマ達を見ていた。四つの顔が青ざめる。
「しまった!」
自分が注意を引きつけていれば、後ろの四人は安全だろう。そう考えて出来る限り大袈裟に動いていた千翼は、思わぬ方向から現れたジャイアントトードに焦燥した。
「いやあああぁぁぁ! 来ないでえええぇぇぇ!」
「丸呑みだけは嫌です!」
「な、なんで私まで!」
「蛙はもう懲り懲りだ!」
大声で叫びながらカズマ達はジャイアントトードから逃げ惑う。それが更に注意を引いてしまい、一匹、また一匹と千翼を無視してそちらに向かい始めた。
「まずい!」
殴り倒した大蛙にブレードで手早く止めを刺し、自分の脇を通り過ぎようとした一匹を斬り裂く。そうしている間に二匹がカズマ達へと向かった。どう見ても千翼一人で対処できるような状況では無い。
あっという間にカズマ達はジャイアントトードに囲まれ、逃げ場を失った。背中合わせの四人が震える。
「ちょっとカズマ、なんとかしなさいよ!」
「こ、こうなったら、爆裂魔法で……!」
「めぐみん、それだけは絶対に止めろ! こんな至近距離で使ったら俺たちもお陀仏だ!」
「な、なんでこんなことに、私はただの立ち会いに来ただけなのに……」
もはやここまで、蛙の粘液塗れになることを四人が覚悟した時であった。
「ライト・オブ・セイバー!」
涼やかな声が雪原に響き、光の刃が閃いた。カズマ達に襲いかかっていたジャイアントトード達に光の線が走ると、上半身と下半身が左右にずれ、そのまま真っ二つとなって雪の上に倒れる。
そのまま光の刃は雪原を薙ぎ払い、他のジャイアントトードも同じように両断してゆく。刃が消えた時には、生きている大蛙は一匹も残っていなかった。
「す、すげぇ……何が起きたんだ!?」
「今のは上級魔法……あの子が使ったのかしら?」
アクアの視線の先には、めぐみんと同世代ほどだろうか、髪を左右で結い、黒のマントを羽織った少女が近付いてくる。カズマ達から少し離れたところで立ち止まると、鮮やかな紅い瞳でめぐみんを見据え、手に持つワンドを鋭く彼女に向けた。
「ひさしぶりね、めぐみん! あれから修行を重ねて、上級魔法を使えるようになったわ。さぁ、私と勝負よ!」
「貴方は……!」
めぐみんの緊迫した声に、空気が張り詰める。ただならぬ雰囲気に呑まれ、その場の誰もが身動きが取れなかった。
風が吹いて粉雪が舞い。めぐみんはゆっくりと口を開く。
「……誰ですか?」
めぐみんの何とも気の抜けた一言に、紅い目の少女はガクッと体勢を崩した。危うく転びそうになるが、何とか踏みとどまる。
「わ、私よ! ゆんゆん! 紅魔の里の学校で同期だったでしょ! 本当に忘れちゃったの!?」
自分を指差しながら、めぐみんの同期だと名乗る紅魔族の少女ゆんゆん。それに対して、当のめぐみんは疑うような目つきで彼女を見ていた。
「怪しいですね……本当に紅魔族の人間なら名乗りを上げるはずですが……」
「う、うう……知らない人も居るのに……」
ゆんゆんは顔を赤く染めながら、マントを翻して声を震わせながら名乗りを上げた。
「わ、我が名はゆんゆん! 上級魔法を操り、いずれは紅魔族の長と――」
「ああ、ゆんゆんですか。久しぶりですね。元気ですか?」
名乗りを途中で遮られ、今度こそゆんゆんは転んだ。素早く起き上がるとめぐみんに猛烈に食ってかかる。
「わざとでしょ!? 本当は最初から覚えてたのにわざと忘れたふりをしてたでしょ!?」
いやぁ、懐かしいですね。などと、めぐみんは白々しく過去を思い返していた。そこへ元の姿に戻った千翼がやってくる。
「えーと……どういう状況?」
「ああ、チヒロ。紹介しますね、こちら私の同期でいつもぼっちのゆんゆんです。友達を欲しがっているので、仲良くなると泣いて喜びますよ」
「ちょっとめぐみん!! 紹介するだけで何で言わなくていいことまで言うの!?」
余程それには触れられたくなかったのか、ゆんゆんは涙目になりながら叫ぶ。めぐみんはそれを華麗に無視した。
その態度が火に油を注ぎ、ゆんゆんは更にめぐみんに詰め寄る。男二人はその迫力に気圧され何も出来ず。寒いから早く帰りたいとアクアがぼやいた。
収集の付かない混沌とした状況を、パンパンと手を打ち鳴らす音が鎮める。
「はい、そこまで。まずはチヒロさん、ジャイアントトードの討伐お疲れ様です。見事な戦いぶりでした」
「いえ、それほどでも」
千翼は首と手を小さく振る。
「そしてサトウカズマさん。仲間の行動についてはもう少し把握するようにしてください。毎度毎度こんな騒ぎを起こされては、堪ったものではありません」
「仰るとおりです……」
カズマは力なく項垂れる。
「さて、私はこれで失礼します。サトウカズマさん、裁判の再開は未定ですが、それまでに今回のようなことが続けば心証がどんどん悪くなりますよ。気を付けてくださいね」
最後に念を押すようにそう言って、セナは去った。彼女の姿が見えなくなって、ゆんゆんは改めてめぐみんと対峙する。
「さて、それじゃあ改めて、私と勝負よ!」
「いえ、お断りします」
ゆんゆんがまたもガクッと体勢を崩した。
「ずっと外にいたから体が凍えています。どうしてもと言うなら仕方ありませんが……もし風邪を引いたらゆんゆんのせいですよ。そうなったら治療代を請求しますからね。ついでに私の体調より私情を優先したとあちこちに言いふらしますよ?」
「わ、分かった分かったわよ! 今回はやめておくわ……」
半ば脅迫じみためぐみんの言葉に、ゆんゆんはあっさりと折れた。カズマ達に一礼してから彼女は立ち去り、残された四人はジャイアントトードの残骸が散らばる雪原を見やる。
「さて、ギルドに報告して俺たちも帰ろう。早く風呂に入ろうぜ」
賛成! とアクアの嬉しそうな声が寒空に木霊した。
◆◆◆
ダクネスがアルダープの元へ向かってから二日目。少しでも屋敷の弁償代を稼ぐために、朝からカズマ達はギルドへ向かったが、めぼしいクエストは一つも無かった。仕方なく今日は自由行動となり、その場で四人は解散する。
やることが無くなった千翼は、アクセルの町を探索することにした。ここ最近のアクセルは活気づいており、デストロイヤー撃破の報酬は参加した全ての冒険者に支払われたので、その報酬目当てに様々な人間がこの町に集まっていた。
大通りでは露店商たちが威勢の良い声で客引きをしており、あちこちで珍品や名品を売る者、屋台を開いて食欲をそそる匂いを振りまく者、くじ引きや的当てゲームの屋台を開いている者など、実に様々な露店が並んでいた。
「あれは……」
千翼の視線の先では、髪を左右に結った紅い目の少女が串焼きを売っている屋台の前でウロウロしていた。
やがて、意を決したように屋台へ向かうと、妙に緊張した面持ちで店主に向かって指を三本立てた。それを見た店主の男は、焼き上がったばかり三本の串焼きを紙袋に入れ、ゆんゆんに手渡す。
それを受け取ると、ゆんゆんは妙に慌てた様子で懐から財布を取り出し、代金を支払ってそそくさと屋台の前から立ち去った。近くに空いているベンチを見つけて腰掛けると、先ほど購入した串焼きを一本取り出して頬張る。
実に幸せそうな顔で咀嚼して飲み込むと、串に残った肉を一気に頬張った。肉が無くなった串を袋に戻すと次の串焼きを取り出し、それも同じように口にする。
あっという間に二本の串焼きを平らげると、紙袋から最後の一本を取り出し、大きな口を開けてかぶり付こうとした時だった。自分に向けられる視線に気が付いたのか、口を開けたまま首を動かすと、千翼と視線がかち合う。
しばしの間、ゆんゆんはそのまま動きを止め、やがて湯気が出てもおかしくないほどに顔が真っ赤に染まった。視線を彷徨わせると、まずは開いたままの口を閉じ、手に持つ串焼きをそっと紙袋に戻す。そして袋の口を丁寧に折り畳むと、それを隠すように抱きかかえつつベンチから立ち上がり、何かを迷う素振りを見せたあと千翼に近付いてきた。
「こ……こんにちは、チヒロ……さん……? き、昨日はどうも……」
「えーと、こんにちは……」
ゆんゆんは俯いたまま、蚊の鳴くような声で挨拶した。
「……その、今日は人が多いですね」
「……そうだね」
「……」
「……」
それ以上会話は続かなかった。二人の間になんとも気まずい空気が流れる。
「それじゃあ、これで」
このまま居ても状況は悪化するだけだ。そう確信した千翼は早々に退散を決め、片手を上げてその場を立ち去ろうとする。
「……っ、あ、あのチヒロさん!」
それを引き留めたのは、ゆんゆんの上擦った声であった。踵を返し、踏み出しかけていた千翼の足が止まる。
「その……ええと……きょ、今日ってお暇ですか!?」
「まぁ、特に予定もないけど……」
「よ、よよ良かったら一緒にお店を見て回りませんか!?」
恐らく、彼女はかなりの覚悟を決めて千翼に尋ねたのだろう。全身が小刻みに震えて、抱えている紙袋がカサカサと音を立てている。
千翼は少しだけ迷い、彼女の誘いに答えた。
「うん、いいよ」
「本当ですか!」
その言葉を聞き、少女が花の咲くような笑みを浮かべた。
それから千翼とゆんゆんは、弓矢を使った射的、輪投げ。くじ引きやダーツなど、様々な屋台を回る。
多種多様な景品を抱え、楽しげに鼻唄を歌うゆんゆんを見ながら、千翼は生前を思い出していた。
――イユも、本当は楽しかったのかな。
脳裏を過るのは生前の記憶。まるで人形のように無感情な
結局、彼女は遊園地でも終始無表情だった。だが、もしかしたらあの時の彼女は、表に出せなかっただけで楽しんでいたのかもしれない。
カラスのような真っ黒な服を着た、死ぬ間際まで喜びも、悲しみの感情も見せなかった
生前の彼女との思い出を振り返っていると、ゆんゆんが突然立ち止まった。
「あ、あのチヒロさん! ちょっとここで待っててください!」
何かを見つけたゆんゆんは、そう言って慌ただしくとある屋台へ向かった。何かを注文すると、店員はボウルから生地を鉄板に広げる。何かを店員が尋ねるとゆんゆんは一瞬固まり、やがて慌てた様子で答えた。
焼き上がった二枚の生地の上に、店員が次から次へと何かを乗せ、それを素早く巻き上げる。ゆんゆんが代金を払うと出来上がったものを彼女に渡した。
両手に屋台で購入した物を持ちながら、ゆんゆんは上機嫌で千翼の元へ帰ってくる。
「はい、どうぞ!」
笑顔のゆんゆんは、そう言って真っ白な生クリームと、色とりどりの果物が乗せられたクレープを差し出した。
「えっと、これは……」
「クレープです! 私、誰かと一緒にこういう物を食べるのが夢だったんです!」
満面の笑みで、彼女はそう言った。
「あ、ありがとう……」
思わず受け取ったクレープを千翼はじっと見詰める。当然ながら目の前のクレープに対して食欲は全く湧かない。そうしている間にゆんゆんは、満足そうな笑みでクレープを味わっていた。
一度受け取った物を今更返すのは不自然すぎるし、何よりもせっかく買ってくれた彼女に対して余りにも申し訳ない。手に持つこれをどうしたらいいのか。千翼が迷っていると、ゆんゆんは不思議そうな顔をする。
「あれ、チヒロさんどうかしましたか?」
「あ、いや……」
――大丈夫、一口くらいなら何とかなる。
ゆんゆんの目の前でとりあえずは一口食べ、適当な理由を付けてすぐに彼女と別れる。その後でクレープは処分すればいい。
罪悪感と、こんなことを考えている自分に嫌悪感を抱きながら、覚悟を決めて千翼はクレープを口にした。
口の中で柔らかい何かと、薄い何かが歯で噛み切られ、磨り潰される。味は全く感じなかった。顎を数回動かし、食べた物が十分小さくなると、それを飲み込むために千翼の喉仏が持ち上がる。
「ッォェ! ゴホッ!」
クレープが喉を通り過ぎようとした瞬間だった。喉奥からの強烈な不快感と共に、食べた物を吐き出しそうになる。
慌てて口を押さえた拍子に、持っていた残りのクレープを地面に落とした。それに構わず、千翼は近くにあった草むらに急いでしゃがみ込むと、胃液と飲み込もうとしたものを盛大に嘔吐する。
「ゥオェ……エホッ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
ゆんゆんは少年の背中を必死に擦った。大事ない、と千翼は小さく手を上げる。
「……喉に、詰まった」
「な、なにか飲み物いりますか!?」
千翼は首を横に振り、ゆんゆんに謝ろうと向き直る。
先ほど吐き出した反動だろうか、彼女の顔を見ようとした目は、細い腕に釘付けになった。周りの全ての音が消える。
――あの……チヒロさん?
遠くからぼやけた音が聞こえた。そんなことは直ぐに頭の片隅に追いやられ、目の前の白い腕を見ているだけで口の中から涎が絶え間なく溢れてくる。
そして、血色も良く、程よい肉付きの腕に噛み付こうとして――
「本当に大丈夫ですか? どこか具合が悪いんですか?」
ゆんゆんの声は届いた。本能に呑まれかけていた千翼の意識が、すんでのところで踏み止まる。
自分が何を考えていたのか、何をしようとしていたのか悟った千翼は慌てて口元を押さえた。
「ッ! ごめん、急用思い出した!!」
叫ぶようにそれだけ言うと、ゆんゆんを置き去りにして千翼は走り去った。
「え、あ、チヒロさん!?」
急いでこの場から離れなければ。さもないと本能のままに彼女を襲ってしまいそうだった。所詮、自分は人食いの化け物でしかないのか。どれだけ取り繕っても、その下にある本能を無くすことは出来ない。
千翼は少しでも人が少ない場所を求めてひた走る。幸いにも人の居ない路地裏を見つけ、そこに駆け込むと急いでリュックから水筒を取り出し、蓋を開けると直接口を付けて勢いよく飲み始めた。喉を鳴らしてあっという間に水筒を空にすると、大きく息を吐く。
先ほどまでの食人衝動は幾分か収まり、本能に支配されかけていた頭に理性が戻ってくる。
「ハァ……ハァ……」
荒く息を吐き、ずるずると背中を建物に擦りながら、千翼は力なく座り込んだ。そのまま膝の間に顔を埋めて、町の喧騒が聞こえないように耳を塞ぐ。
あんなにも楽しそうにしていた、自分にクレープを奢ってくれた少女に対して、食欲が湧いてしまった。余りの情けなさに涙が出てくる。せめて声だけは外に漏らすまいと、千翼は口を固く閉じた。小さな嗚咽が路地裏に響く。
石畳を涙で濡らし、やがて声も枯れてきた。しばらく一人になったおかげか、ある程度は冷静さを取り戻すことが出来た。
もう、屋敷に帰ろう。そう決めると水筒をリュックに戻し、涙を拭って千翼はゆっくりと立ち上がる。このまま人の近くに居続けたら、誰かを襲ってしまいそうだった。
路地裏を出て、すれ違う人々をできる限り見ないようにしながら、千翼はアクセルの町を出た。さっきよりも足を速め、やがて屋敷に到着すると自分の部屋に直行し、リュックを適当に投げ捨てそのままベッドに倒れ込んだ。
今は何も考えたくない。とにかく一刻も早く眠りたい。千翼は目を閉じて眠ることに集中する。数分もすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。