鼻先から零れた滴が湯に落ちて波紋を作る。広がる幾重もの輪が、水面に映る少年の顔を揺らした。
「千翼は……人間じゃない?」
教会の懺悔室で知った、知ってしまった真実をカズマは呟く。
初めは自分と同じ転生者が来たと思っていたが、懺悔を聞いている内に関心は疑惑に、疑惑は確信へと変わった。
「日本の企業が人喰いの化け物を創ってた……? ははは……なんだよそれ……悪の秘密結社かよ……」
口から乾いた笑いが漏れた。こうして真実を知った後だと、今までの千翼の奇妙な行動の数々にも全て納得がいく。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
死んだ人間が異世界へ転生する。というだけでも十分すぎるほどにおかしな話なのに、自分が生きていた日本ではそれと同等か、下手をすればそれ以上の有り得ない事が起きていた。
懺悔室では余りの衝撃に頭が追いつかなかったが、こうして温泉に浸かって幾分か冷静さを取り戻したところで、ようやく知ってしまった事実を一つ一つ理解することが出来た。
だが、そうしたところでそれを受け入れられるかは別の話である。
「千翼はイユって女の子を助けようとして、父親と悠って男に殺された……。なんでだよ……千翼が何したって言うんだよ……。あいつは……ただ……生きようと……」
これ以上考えても仕方ない。カズマは湯船から立ち上がるとカランへ向かい、蛇口の下に桶を置いた。
栓を捻ると蛇口から大量のお湯が吐き出され、みるみるうちに桶に貯まってゆく。十分に注がれてから栓を戻してお湯を止めると、桶を両手で掴んで持ち上げ、頭上で勢いよくひっくり返した。
大量のお湯で黒髪が寝かしつけられ、毛先からポタポタと幾つもの水滴がしたたり落ちる。しばらく桶をひっくり返したままの姿勢で止まっていたカズマは、やがて大きな溜息を吐くと桶を戻し、どこかフラフラとした足取りで脱衣所へと向かった。
◆◆◆
「戻ったぞー。夕飯って……」
少しでもこの沈んだ気持ちを紛らわそうと夕飯の話題を振ろうとしたが、部屋にいた人物を見た瞬間に言葉が途切れる。
「それは大変でしたね。まさかアルカンレティアがアクシズ教の総本山だったなんて」
「カズマとはぐれた後も観光をしてたんですけど、あっちこっちから勧誘されて……振り切るのが本当に大変でした」
自分でもうるさく感じるほどに心臓が脈を打つ。大きく喉を鳴らして何とか唾を飲み込んだ。いつの間にかホテルに帰ってきた千翼は、部屋でウィズと談笑していた。
傍から見ればいつもと変わりない、見慣れた光景だ。しかし、カズマは千翼から目を離すことが出来なかった。
「あ、カズマさん。お風呂いかがでしたか?」
「……え、あ、ああ。いやー、さすが温泉の都だな。最高だったよ!」
千翼に意識を向けすぎて反応が遅れる。取り繕うように無難な返事と笑顔を作るが、自分でも顔が強張っているのが分かった。
おっとりとしたウィズでもその不自然さに気が付いたのか、どこか怪訝な顔を浮かべている。
ここで咄嗟に、ホテルに帰ってきてからアクアを見ていない事に気が付いたカズマは、追求される前にその事を話題に振った。
「そ、そういえばアクアは?」
「アクア様なら、温泉の管理人さんのところへ向かわれましたよ。どうしても聞きたいことがあると仰ってましたが……」
「へ、へぇー、なんだろうな」
話はそこで終わってしまった。このままではウィズが不自然なカズマの態度について尋ねてくるだろう。そうなる前に何か話題を探して場を繋がねば。
必死に頭を回転させ、話の種になるような物はないかと視線を忙しなく巡らせる。
「カズマさん……」
「はぁー……いいお湯でした」
「もうじき夕食の時間になるそうだ。そろそろ食堂に向かおう」
ウィズが尋ねようとしたとき、カズマの後ろから風呂上がりのめぐみんとダクネスが現れた。夕食が近いことを知らせるとダクネスはそのまま食堂へ向かい、それを聞いたウィズと千翼も後に続いて部屋を出て行った。
間一髪の所で助かったカズマは、気の抜けるような安堵の息を吐くと壁に寄りかかる。
あと少しでも二人の到着が遅れていたら、ウィズの質問にしどろもどろになっていただろう。下手をすればそこから千翼にも怪しまれ、懺悔室での一件が最悪の形で露呈していたかもしれない。
自分の幸運と、奇跡的なタイミングで現れてくれた二人に感謝していると、当のめぐみんが何かをカズマに差し出した。
「はい、カズマ」
めぐみんはオレンジジュースの入った瓶をカズマに差し出した。いきなり目の前に出されたジュースの意味が分からず、カズマは小首を傾げる。
「私からの奢りです。遠慮せず受け取ってください」
「あー……ありがとな。でもなんで?」
「まぁ、その……カズマにはいつも迷惑をかけてますから、お詫びというか……」
歯切れの悪い返事にカズマの首が更に傾く。めぐみんはどこか照れ臭そうに頬を掻くと「食堂に行ってますね」と言って、部屋を出て行った。
受け取ったジュースの瓶をカズマはしばし眺め、栓を開けると口を付ける。腰に手を当てると瓶と頭を真上に向けた。
豪快な嚥下音が静かに部屋に響き、音が鳴る度に少年の喉仏が上下する。瓶の中身はみるみるうちに下に落ちて無くなってゆき、あっという間に空になった。
「っぷはぁー……!」
何とも気持ちの良い呼吸音が口から吐き出される。カズマは口元を拭うと瓶に再び栓をして、それを部屋のゴミ箱に入れると食堂へ向かった。
◆◆◆
「なぁ、アクア。私はこの街への移住を真剣に考えているのだが、多くのアクシズ教徒が集まる場所を知らないか? そこで部屋を借りたいんだ」
「あら、もしかしてアクシズ教の素晴らしさを分かってくれたの? アクシズ教に入信してくれるなら移住する際に――」
「二人とも、お願いですから食事の時にアクシズ教の名前を出さないでください。せっかくの美味しいご飯が台無しです」
「ちょっとめぐみん、それってどういう意味よ! 私の可愛い信者達が何をしたっていうのよ!」
「あ、アクア様。どうか落ち着いてください……」
荒ぶるアクアと、嫌悪の表情を隠そうとしないめぐみんとの間で火花が散る。何とか穏便に済ませようと、ウィズが慌てて仲裁に入った。
そしてその様子には目もくれず、カズマは先程から作業的に目の前の食事を口に運び、咀嚼、そして飲み込んだ。味は全く感じられない。原因は自分の筋向かいに座る千翼である。
千翼は女性陣の姦しいやり取りを見ながら小さく笑っている。何の変哲も無い微笑みであるが、何故かその笑顔がカズマにはとてつもなく恐ろしい物に見えた。
――落ち着け。
自分にそう言い聞かせ次々と口に料理を放り込む。余計な事を考えないように、頭を咀嚼することで一杯にする。
「カズマ、そんなに頬張って。お行儀悪いですよ」
めぐみんに咎められ、カズマは謝罪代わりに片手を小さく上げた。呆れたように息を吐くと、めぐみんは食事を再開する。
結局、カズマは味もよく分からぬまま夕食を終えた。
◆◆◆
その日の夜。カズマはベッドに寝たまま天井を眺め続けていた。頭の中を巡り続けるのは、昼間の教会の出来事と千翼の事ばかり。
目を閉じて何度も眠りに就こうとしたが、その度に瞼の裏に千翼の顔が浮かび、反射的に目が開かれる。
「バニルの言ってたことって、このことか……」
あの仮面の悪魔の忠告を思い出す。今思えば、最後のふざけた態度で誤魔化されたが、忠告を口にするときの声色は真剣そのものだった。
「俺……どうしたらいいんだ……」
呟きに答える者は居なかった。
◆◆◆
月が姿を隠し、入れ替わりに太陽が昇り始める。結局、カズマは一睡も出来なかった。
眠気と疲れでふらつく体を引きずりながら部屋を出て、朝食を摂るために食堂へ向かう。階段を下りると既に女性陣が集まって、おしゃべりを楽しんでいた。
「おはよう……」
何とか喉の奥から声を絞り出して、朝の挨拶をする。
「あはよう、カズ……マ」
「お、おはよう……」
「おはようございます、カズマさ……」
「カズマ……その顔どうしたんですか?」
寝起きのカズマの顔を見た女性陣が戸惑い、見かねためぐみんが驚きながら指を差す。
「え……あー……その……眠れなくって……」
思うように働いてくれない頭を動かし、乾いた唇からしわがれた声を出して返事をする。カズマの目の下には見事な隈が現れており、背中は今にも崩れ落ちそうな程に折れ曲がっていた。余りにもみっともない姿にめぐみんが呆れる。
「温泉にでも入ってスッキリしてきたらどうです? この時間でも開いてますよ」
「あー……そうするわ」
気怠げな足取りで、入浴道具を取りにカズマは部屋に戻っていった。
タオルと着替えを持って、カズマはホテルの温泉へと向かう。その足取りはひたすらに重々しかった。
このままじゃダメだ。と頭を振って気持ちを入れ替えると、『混浴』と書かれた暖簾を通り過ぎ男湯へ向かおうとして――
「……」
ここでふと、カズマは今回の旅行で一番の目的を思い出し、男湯に向かっていた足を反転させ『混浴』と書かれた暖簾をくぐった。
脱衣所で手早く服を脱ぎ、浴場に続く戸を勢いよく開ける。
「……まぁ、流石にこんな時間から居るわけないか」
戸を開けて、その先にある景色を見たカズマはどこか残念そうに呟く。彼の視界には誰もない浴場が広がっていた。
昨日は千翼のことであれだけ苦悩していたくせに、一日経ったら混浴へと向かっている自分に呆れ、嫌悪する。手早く頭と体を洗って湯に体を沈めると、気の抜けた声が少年の口から漏れた。
寒い時期にピッタリな熱めの温泉に浸かっていると、疲れと共に頭の中の悩みも湯に溶けていくような感覚を覚える。
――このまま何も考えたくない、この状態がずっと続けばいいのに
せめて今だけでも目の前の現実を忘れたくて、半ば意識を失いかけている頭でそんなことを願っていると。ガラリ、という音が出入り口から聞こえた。反射的にカズマは振り返る。
「あら、カズマさん。こちらにいらしたんですね」
「うぃうぃうぃうぃうぃウィズ!?!?」
あと少しで眠りに落ちそうだった意識は急速に覚醒し、何度もどもりながら来訪者の名を叫ぶ。
「私、混浴に入るのって初めてなんですよ。実を言うとちょっと興味がありまして」
「そそそ、そうなんですか!!」
物珍しそうに辺りを見回しながら、ウィズが近付いてくる。歩く度にバスタオルに包まれた彼女の双丘が揺れ、カズマの視線は釘付けになった。
ウィズがカランの前に座ると、これから彼女が何をするか理解したカズマは、慌てて顔を前に戻す。
こういった展開を期待はしていたが、心の準備が全く出来てない不意打ちにも等しい出来事に、カズマの頭はあっという間にパニックを起こしていた。
これが気心知れた仲間なら「丁度良いから背中を流せ、ついでに前も洗え」と堂々と
後ろから衣擦れの音が聞こえ、桶が置かれる音と、蛇口から勢いよくお湯が流れ出る音が聞こえる。
「~♪」
ウィズが鼻唄を歌いながら桶を傾けたらしく、お湯が浴場の床にぶつかる音が響いた。次いで髪を丁寧に洗う音が微かに聞こえてくる。
直接見るような度胸は無いが、代わりにどんな小さな音も聞き逃さないように、目を閉じたカズマは耳に全神経と意識を集中させる。
桶を傾け再びお湯が床に打ち付けられ、今度は体を擦る音が少年の耳に届く。聴覚を除いた全ての五感を遮断し、カズマは神経を極限まで研ぎ澄ませた。
三度桶が傾けられ、ペタペタと湿った足音が近付いてくる。
「お隣、失礼しますね」
「どっ、どどどどうぞ!!」
ここ意識が現世に戻ってきたカズマは急いで体を左に向けると、一拍の間を置いて波がカズマの背中に当たった。次いで艶っぽい声が耳に届き、少年の心臓が破裂しそうな程に高鳴る。
「はぁ……やっぱり、温泉っていいですね」
「そっ、そうですね!」
今ここで振り返れば、恐らく自分が拝めることは一生無いであろう光景が広がっている。首をそちらに向けようとするが、すんでのところで自分の中の理性がそれを押し止めた。
こんなチャンスは二度と無いぞ。と自分の本能が右から囁き。
不名誉な称号をこれ以上増やすつもりか。と自分の理性が左から囁く。
本能と理性、相反する二つの意識がカズマの脳内で、静かな激闘を繰り広げていた。
「カズマさん」
「ひゃい! なんでしょうか!」
しかし、その戦いはウィズの一声で瞬時に無効試合となった。
上擦った声で返事をし、もしや見ようとしたことがバレたか? と少年の背筋を冷たい物が伝う。
「昨日、何かありましたか?」
その言葉で急速に頭が冷えてゆく。あれだけ高鳴っていた心臓はあっという間に落ち着きを取り戻し、今度は違う意味で早い脈を刻む。
「なに……って?」
「昨日、ホテルに戻ってきてからずっと様子がおかしかったので。何かあったのではないかと」
「ええと……あ、アクシズ教だよ! あいつらの勧誘が余りにしつこくてうんざりしてさ……」
ここで昨日、千翼がウィズに話していた内容を思い出し、実際に自分も
「本当に、それだけですか?」
ドキリと、カズマの心臓が一際大きく鼓動する。まるで自分の心の内を見透かされているような感覚に、体が自然と震えた。
「……あ、ああ。本当に、それだけだよ」
これ以上話してもボロが出るだけだと判断し、ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。
「……そうですか」
ウィズは何かを察したのか。それ以上の追求はせず、小さく鼻唄を歌いながら再び温泉を楽しみ始めた。あんな質問をされた直後ではカズマも動くに動けず、諦めて肩を湯に沈める。
後ろから聞こえてくる鼻唄を聴きながら、カズマは水面に映る自分の顔を、黙って見続けた。
「えっと、俺、そろそろ上がるね」
やがてカズマは湯船から立ち上がった。なるべくウィズの方を見ないようにしながら、そのまま逃げるように脱衣所へ向かう。
「カズマさん」
脱衣所の戸に手が伸びたところで、再び背中からウィズが声をかける。
「もし悩み事があったら、遠慮なく私を頼ってくださいね」
「……ああ、そうするよ」
脱衣所の戸を静かに開け、中に入ったカズマは音もなく戸を閉めた。
◆◆◆
「由々しき事態よ!」
「そうか、大変だな」
「まだ何も言ってない!」
ベーコンが刺さったフォークを握り締めながら、朝食の席でアクアが真剣な声を挙げる。隣でサラダを食べていたカズマは、興味なさそうに適当な返事をした。
「ここ最近、アルカンレティアの温泉の質が悪くなっているらしいの。湯に浸かった人の肌がかぶれたり、具合が悪くなったり。酷いときには倒れて入院する人まで出ているのよ」
「そういえば、入浴禁止になっている場所がいくつかありましたね」
コーンスープを冷ましていためぐみんが思い出したように言った。
そう、それよ! と叫んでアクアはベーコンの刺さったフォークをめぐみんに向ける。行儀の悪さを叱るように、カズマが女神の頭を小突いた。
「でね、私わかったの。これは魔王軍による破壊工作に違いないって! あいつら正面から戦っても勝ち目が無いから、温泉を潰して経済的にアルカンレティアを陥落させようとしているに違いないわ!」
「へー、そりゃすごいな」
「ちょっとは真面目に聞いて! ちゃんと確証もあるの!」
見てて。と言って、カズマの前に置かれたコーヒーにアクアは指先で触れる。すると、黒い液体は一瞬にして澄んだお湯に変わった。
「私の力を以てすれば、温泉くらいの水量なら一瞬で浄化できるの。それなのに、汚れた温泉を浄化しようとしたら一分以上もかかったわ。これは明らかに誰かが猛毒を入れたのよ!」
「おい、それはわかったが俺のコーヒーはどうしてくれんだ?」
カズマの文句を無視してベーコンを口に運び、手早く噛んで飲み込むとアクアはフォークを高々と掲げる。
「というわけで、私は朝食を食べ終わったら早速調査に向かうわ! もちろん、みんな手伝って……」
「パス。なんで観光地に来てまでクエスト紛いのことやらなきゃいけないんだよ。今日はまだ行ってない場所を見て回るって決めてるんでな」
「すみません、私もパスで。もうアクシズ教徒に関わるのは懲り懲りです……。今日はカズマと一緒に観光します」
「普通ここは『もちろんです。女神アクア様のためならば』って言うところでしょ!!」
間髪入れずに二人から拒否され、アクアは立ち上がってフォークを振り回しながら怒鳴った。見かねたカズマが彼女の頭を押さえ込み、強制的に着席させる。
アクアがいじけながらフォークでコーンスープをかき混ぜていると、コップを傾けているダクネスに目が止まった。
「ダクネス、お願いだから手伝って! もう貴女しかいないの! おーねーがーいー!」
「わ、わかったわかった、手伝うから泣き止んでくれ。そうしないとウィズが……って、ああ、ウィズ大丈夫か!?」
ダクネスに泣きつき、アクアは彼女の肩を激しく揺さぶる。
泣き落としで手伝ってもらうという、子供じみた方法を使う女神を、コーヒーだった物を飲みながらカズマは呆れた様子で見ていた。
一先ずダクネスの協力を取り付け両手を挙げて喜ぶアクアを余所に、当のダクネスはアクアの昂ぶった神性に充てられ、体が半透明になって消えかかっているウィズを必死に介抱していた。
早朝からの騒ぎに疲れたように小さく息を吐くと、カズマは視線を僅かに動かして、筋向かいに座る千翼を盗み見た。
介抱されているウィズを心配そうな顔で見詰めており、しばらくすると正面に向き直る。その際に視線がかち合い、カズマの心臓が胸中で跳ね上がる。
「カズマ、何か用?」
「えっ、あー……その……ち、千翼は今日はどうするんだ? また観光に行くのか?」
「まだ見てない場所もあるし、そのつもり。今日も一緒に行く?」
「い、いや、今日はお互い自由行動にしよう。せっかくの旅行なんだから、一人で好きなように観光するのも悪くないだろ?」
それもそうだね。と言って千翼は頷き、水筒を傾けた。
◆◆◆
アクアの神性に充てられて、またもや天に召されかけたウィズを部屋に寝かせ。カズマはめぐみんと共に、二日目となるアルカンレティアの観光に乗り出した。
今日は互いに見てない場所を回ろうと言うことで、街の案内板を見て興味深そうな所に目星を付けると、威勢良く目的地へと向かう。
桶作り体験や、オリジナル入浴剤作り。地熱を使った蒸し焼き料理など、温泉街ならではの体験を二人で楽しむ。昨日に続き、何度もアクシズ教への入信を勧められたが、二日目ともなるとスマートに無視することが出来た。
初めは観光を楽しむカズマであったが、その脳裏には千翼の影がちらついていた。
こんな時まで考えてどうする。と無理矢理振り払おうとするが、頭の中から追い出す度に影はその色を濃くして、何度もカズマの頭の中に現れる。
いつの間にか表情も忘れてしまい、それに気が付いためぐみんが心配そうに声をかける。
「カズマ、どうしましたか。もしかして疲れましたか?」
「……そうだな、ちょっと疲れた」
「あそこが木陰になっていますし、休憩しましょう」
めぐみんが指差す先にはベンチがあり、傍にある木がちょうど日光を遮って影になっていた。パタパタと走り寄ってベンチに座っためぐみんは、カズマを急かすように自分の隣を手で叩く。
カズマは若干覚束ない足取りで向かうと、ゆっくりとベンチに腰を下ろして溜息を吐いた。
「あらー、今日も良い天気だわ! これも女神であるアクア様の恩恵ね!」
そばを通りかかった小脇に鍋を抱えた老婆が、実にわざとらしく叫んだ。横目でカズマとめぐみんに狙いを定めると、瞳を怪しく輝かせながら顔を近付ける。
「この鍋ね、焦げ付かないの! なんたってアクア様の御加護があるからね! いま入信してくれるなら、アクシズ教特製の調理器具一式が無料で付いてくるわよ!!」
休憩しようと思った矢先に、アクシズ教の勧誘攻撃。すっかり油断していためぐみんは小さな悲鳴を上げる。
「ヒィ! か、カズマ助けてくだ……カズマ?」
「……」
「あ、あのーカズマ。聞こえていますか?」
「……」
「も、もしもーし?」
カズマは俯いたまま、全く動かなかった。
不審に思っためぐみんが横から顔をのぞき込むと、虚ろな目で瞬きもせず、まるで石のように固まったままカズマはじっと足下の石畳を見詰めていた。
あまりの異様な様子にめぐみんが唾を飲み込む。
「……ご、ごめんない。どうやらお取り込み中のようね。それじゃあ」
ひたすら一点を見詰め続けるカズマを見た老婆は、居心地の悪そうな顔をすると素早く立ち去った。
とりあえず厄介ごとをやり過ごしためぐみんは一息付くと、未だに反応を見せないカズマの肩を揺する。
「カズマ、カズマ! 聞こえてますか?」
「……え? ああ、悪い。なんだ?」
ここでようやくめぐみんの呼びかけが届き、カズマは目が覚めたように肩を震わせた。
「なんだ、じゃありませんよ。私の声が聞こえなかったのですか?」
「……ちょっと考え事してて」
「カズマ、本当に大丈夫ですか? 昨日の夕食の時も、今朝もそうでしたけど、何だか様子がおかしいですよ。具合が悪いなら大人しく寝ていた方がいいです」
「……大丈夫だよ、心配すんなって」
カズマはそっぽを向いてぶっきらぼうに言う。人の心配を無下にする少年に、めぐみんは呆れるように肩を竦めた。
「親愛なるアクシズ教徒のみんな、聞いてちょうだい!」
その時、妙に聞き覚えのある声が二人の耳に届く。一体どこからだと首を回すと、広場の方に人だかりが出来ていた。
「あっちだな」
「行ってみましょう」
ベンチから立ち上がった二人は足早に広場の方へ向かった。
広場では、噴水を中心にして円形の人垣が出来ていた。二人は何とか中の様子を見ようと、カズマは背伸びし、めぐみんは近くにあった植え込みに上がる。
「この事態に、私は立ち上がることを決意したの!」
噴水の前では、木箱の上に乗った青い髪の少女――水の女神アクアが両手を広げながら演説をしていた。彼女の隣では顔を真っ赤にして俯いているダクネスの姿が。
「いま、このアルカンレティアが魔王軍の卑劣な工作によってピンチになっているの! 奴らは温泉を汚して、経済的にアルカンレティアを潰そうとしているわ! そこでお願い、温泉に入るのを止めて!」
街中で突然演説を始めたかと思えば、今度はいきなり「温泉に入るな」と叫ぶ少女に群衆がざわめく。
アクアは隣で俯き、体をモジモジとさせているダクネスに耳打ちした。
「ほら、ダクネス。一緒にお願いして」
「入らないで……ください……」
蚊の鳴くよりも小さな声を、ダクネスは口から漏らした。当然ながら周囲の音にかき消される。
「おいおい嬢ちゃん、温泉はこの都の目玉だぜ。それは無理な話ってもんだ」
「確かにここのところ温泉の質が悪くなってるけど、魔王軍ってのは大袈裟じゃないか?」
「いいえ、これは魔王軍の破壊工作に違いありません。私にはハッキリとわかります。なぜなら私は――」
「ここにいたか! もう逃がさねぇぞ!!」
アクアが何かを言いかけ、それは男の怒鳴り声で遮られた。
噴水の周りに集まった全ての人間が声のした方に顔を向けると、怒り心頭の様子でアクアを睨む何人もの男達がいた。
「みんな、そいつは温泉をただのお湯に変えちまう悪質な女だ! さっきその女がウチの温泉に入っていったら、お湯に変わっちまってたんだ!」
口角泡を飛ばしながら男がアクアを指差す。群衆が眉を顰めながら、先程とは違う意味でざわめいた。
「ちょ、ちょっと待って! 私がさっき入った温泉は既に汚染されてて、浄化する必要があったの! この騒ぎが解決したら、直ぐにでも元の温泉に……」
「何が魔王軍による破壊工作だ! 温泉をお湯に変えるお前こそが魔王軍の手先だろ!」
その一言で、群衆のアクアを見る目付きが一気に敵意に満ちた物になった。
「さてはお前が温泉の質が悪くなった原因はお前だな!」
「毒でも入れたんだろ!」
「足が付きそうになったから、今度はお湯に変えて嫌がらせしてるのか!」
男の叫びが決定打となり、アクアはあっという間に汚染騒ぎの犯人にされてしまった。
彼女は純粋な正義心と自分の信者達を思う気持ちから汚れた温泉を浄化したのだが、群衆は当然ながらそんなことは知る由も無い。
「あ、アクア。流石にこれ以上は……もう止めよう……」
巻き添えをくらっているダクネスは、辛うじて聞き取れる声量でアクアに囁く。しかし、当の本人は聞こえているのか聞こえていないのか、口元を引き締めて何やら覚悟を決めたようであった。
「こうなったら仕方ないわね……。みんな、驚かないで聞いてちょうだい!!」
アクアの真剣な表情と声色に、罵声を浴びせていた群衆が静まる。
彼女のただならぬ雰囲気に何かを感じ取ったのか、誰も野次や罵声を飛ばすこと無く次の言葉を待った。
「あー……めぐみん、逃げるぞ。ここにいたら俺たちまで巻き添えをくらうハメになる」
「アクアとダクネスには大変申し訳ありませんが、その意見に賛成です……。今すぐ逃げましょう」
この後に何が起こるのか本能的に理解した二人は、アクアに見つからないようにこっそりと広場を離れた。
二人が曲がり角の向こうに消えたところで、アクアは意を決して口を開く。
「私の名はアクア、アクシズ教徒である貴方達が崇める女神よ!!」
堂々と自分の正体を明かした女神アクアに、人々は驚きで一瞬だけ顔を見合わせる。一瞬だけだった。
「ふざけんなー!!」
「何が女神だ! 魔王軍の手先め!!」
「髪と目が青いからってアクア様の名を騙るなー!!」
罵詈雑言の雨霰が容赦なく彼女へと浴びせられる。予想とは真逆の反応を見せる信者達に、アクアは慌てふためいた。
「ま、待って! 私は本当に水の女神アクアで……ダクネスお願い! 貴女からも何か言って!」
「か、彼女は……ほ、本物の……」
先程よりも更に小さい声でダクネスは囁く。無論、群衆の罵声にかき消された。
時間と共に人々の怒りはヒートアップしてゆき、道ばたに落ちていた石や枝。中には野菜や果物を手に持つ者まで現れ始めた。今にもそれを投げ付けてきそうな程に殺気立っている信者達に対して、アクアは必死に呼びかける。
「お、お願い! お願いだから話を聞いて! そうすれば、きっと私が本当に水の女神だって……」
澄み渡る青空に、女神の悲鳴と群衆の怒号が木霊した。
◆◆◆
「なんでよー!! なんで私が女神の偽物呼ばわりされなくちゃいけないのよー!!」
太陽が地平線に沈み、月が顔を出し始めた夜の入り時。アクアは泣き伏しながら、八つ当たりするように宿泊している部屋のベッドを叩いていた。
あれから一番最後にホテルに帰ってきたアクアに、何があったのかカズマが尋ねると。広場での騒ぎから命からがら逃げ出し、その後も自分を探すアクシズ教徒達から逃げ続け、夕方を過ぎてようやくホテルに戻ってくることできた。そして話終えた彼女は突然泣き出してベッドを叩き始め、今に至る。
「ぐすっ……わ、私は信者のみんなを、アルカンレティアを守りたくて、こういう時こそ女神の私が何とかしなくちゃって……。だから凄く頑張ったの、一刻も早くみんなが安心して温泉に入れるように……それなのに……うわあああぁぁぁん!!」
カズマと千翼は哀れむような視線を彼女に送り。ウィズはなんとか慰めようとするが、感情が昂ぶって神聖な魔力が溢れ出しているアクアに近付けず、オロオロと狼狽えるばかり。
「あ、アクア、泣き止んでください。シュワシュワでも飲みますか?」
「な、何か欲しいおつまみはあるか? いくらでも買ってきてやるぞ。そうだ、ついでにデザートも買ってこよう。リクエストはあるか?」
いつものアクアならここで即座に食いつくが、今回は余程堪えたのか。めぐみんと、アクアの代わりに群衆の攻撃を一身に受けて、どこか満足そうなボロボロのダクネスの言葉も届かぬほどに泣き叫ぶ。
さしものカズマも、余りにも不憫な目に遭った彼女にいつもの調子で乱暴な事は言えず、ここは同性である彼女たちに任せた方が良いと判断し、黙っていた。
「すんっ……もう犯人を直接捕まえるしか無いわ! そうすれば信者の皆だって、私が女神だってきっと信じてくれるわよ!」
しかし、ここまで打ちのめされてもアクアの心はまだ折れていなかった。鼻をすすりながら立ち上がると拳を握り締め、犯人確保への決意を固める。
その様子を感心と呆れの混じった眼差しで見ていたカズマはふと、表が騒がしいことに気が付く。カーテンの隙間からこっそり外を見ると、ホテルの前には何本もの火の付いた松明が掲げられ、その下で沢山の何かが蠢いていた。
「な、なんだなんだ!?」
目をこらしてよく見ると、松明の下には何十人もの人間がいた。異様にギラついた目でホテルを睨んでいる。
「ここだ! ここにあの女がいるらしいぞ!」
「畏れ多くも我らがアクア様の名を騙る不届き者を許すなー!」
「悪魔殺すべし! 魔王しばくべし!」
誰かが叫んだ言葉はあっという間に伝播し、群衆は一丸となって繰り返す。
『悪魔殺すべし! 魔王しばくべし! 悪魔殺すべし! 魔王しばくべし! 悪魔殺すべし! 魔王しばくべし! 悪魔殺すべし! 魔王しばくべし!』
もはや群衆は、いつホテルに雪崩れ込んできてもおかしくないほどに殺気立っていた。カズマが顔を青ざめさせながらその光景に戦慄していると、アクアが近付いてくる。
「ぐすっ……どしたの、外でなにかあった?」
「あっ! 顔を出すな!」
アクアを窓から引き離そうと腕を伸ばすが、一手遅かった。ホテルの前に集まったアクシズ教徒の姿を見ると、泣き腫らした顔から一転して満面の笑みを浮かべ、窓を勢いよく開け放ち、上半身を乗り出して愛すべき信者達に向かって手を振った。
「みんなー! やっぱり私が女神だって分かってくれたのね! 安心して、汚染騒ぎは直ぐにでもこの私が――」
「いたぞー! 魔女だ!」
殺意に満ちた幾つもの視線が女神に突き刺さる。さしものアクアも様子がおかしいことに気が付き、手を振るポーズのまま固まった。
「魔女を捕まえろー!」
「絶対に逃すな!」
「アクア様の名を騙る魔女め!」
群衆は一斉にホテルへと殺到する。すぐに部屋の扉の向こうから何人もの怒号と荒々しい足音が聞こえてきた。
「みんな、荷物を持って直ぐに逃げろ!!」
カズマ達は大慌てで荷物を引っ掴むと、逃げるようにホテルを後にした。
◆◆◆
アクシズ教徒達の捜索を何とか逃れた六人は、街を出て源泉のある裏山へ向かっていた。
逃げている最中に、温泉を汚した犯人は次はどう出るか? と話しあったところ、浄化能力を持ったアクアの存在が街中に知れ渡ったため、当然ながら犯人の耳にもそのことは届いていると判断。温泉を一つ一つ汚しても、アクアが片っ端から浄化してイタチごっこになるため。源泉そのものを汚し、まとめて温泉を潰そうとするはずだとカズマ達は結論付けた。
だとすれば、この騒ぎに乗じて犯人は源泉に向かっていると考え、一行はアルカンレティアの裏山を目指すことになった。
この事態を解決せねば、アクアだけでなくカズマ達も魔女狩りに遇ってしまう。最早自分たちにかけられた疑いを晴らすためには、この汚染騒ぎの犯人を捕まえるしかなかった。
魔女狩りの危機を脱し、ようやく落ち着いたところで、アクアがホテルに続いて再び泣き出す。
「なんでー! なんでなのよー! 女神どころか魔女だなんてー! あんまりよー!!」
山道を歩きながら、アクアは人目も憚らず泣きじゃくる。
本人曰く『愛すべき可愛い信者達』から女神として認められず、それどころか『アクアの名を騙る魔女』の烙印を押されてしまい、彼女は今まさに不幸のどん底であった。
さすがに見かねためぐみんとダクネスが、彼女の背中を擦りながら必死に慰めている。
「こうなったら、たとえどんな手段を使ってでも汚染騒ぎを解決してみせるわ! そして犯人に、私を敵に回した事をたっぷりと後悔させてやる! 女神の意地を見せてやるんだから!」
涙で濡れた顔で鼻息を荒く吐いて、アクアがずんずんと前に進む。遅れないように五人もその後に続いた。
しばらく歩くと、大きな門が見えてくる。源泉が湧いている山への道は門で固く閉ざされており、その前には槍を携えた二人の門番が突然やってきたカズマ達を鋭い目つきで睨む。
「すみません、俺たち源泉の調査に来たんですけれども、ここを通してくれませんか?」
アクアが不用意な発言をして余計なトラブルを起こす前に、カズマは彼女よりも先に門番に尋ねた。門番は揃って、無表情で首を横に振る。
「ダメだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ。というか、源泉の調査に行くのになんで武器なんか持ってるんだ?」
「ええと、これはですね……」
今回の汚染騒ぎは人為的な物、それこそ魔王軍の破壊工作の可能性がある。そうなれば犯人との戦闘は避けられないだろう。それに備えて装備を整えてきたのだが、門番からしたら『武器を持った怪しい団体』でしかないため警戒するのも無理からぬ話であった。
カズマが返答に窮していると、アクアは胸を張って二人の門番を指差す。
「そこのあなた達、緊急事態だから今すぐここを通してちょうだい! 大至急、源泉を調査しなくちゃいけないの!」
「ここは通せないと言っている」
「通してって言ってるでしょ! 緊急事態だって分からないの!?」
「少し前に管理人の爺さんから『源泉を調べてくるから、誰もここを通すな』って言われてな。今頃は調査の真っ最中だろうし、行ったところで仕事の邪魔になるだけだ。というか、あんたらそもそも部外者だろ? だったらなおさら通すわけにはいかない」
門番から至極当然且つ、真っ当すぎる理由を返されて今度はアクアが返答に詰まるが、それでも何とか言葉を返す。
「私はアクシズ教のアークプリーストよ! あなた達も同じアクシズ教徒なら――」
「俺はエリス教徒だ」
「自分も」
「なんでよー! なんでエリス教徒が源泉の入り口を守ってるのよー!」
にっくきエリス教徒がアルカンレティアの源泉を守っている。という事実にアクアは地団駄を踏んで喚いた。
その後もアクアが喚き、門番が突っぱねるというやり取りが何度も繰り返され、それを見ていためぐみんは首を横に振りながら溜息を吐いた。
「埒があきませんね。ダクネス、今こそ『あれ』を使うときですよ」
「『あれ』……? あれとはなんだ?」
「ほら、カズマの裁判の時にダクネスが出した『あれ』ですよ」
『あれ』と言われて首を傾げるダクネスであったが、カズマの裁判と聞いてめぐみんが言う『あれ』が何を指しているのか、理解した。
「ダメだダメだ! あれは無闇に見せびらかすようなものではない!」
「緊急事態というやつです。さ、大人しくあれを出してください」
「例え緊急事態であっても絶対に出さないぞ! 昔からお父様から。貴族たるもの、権力を振りかざすような真似をしてはいけないと厳しく言われて……」
「はいはい、とにかく行きますよ」
貴族の心構えを語るダクネスを無視して、めぐみんは彼女の後ろに回り込むとグイグイと背中を押し始める。
それにダクネスは抵抗しようとするが、却ってバランスを崩してしまい、たたらを踏む形で自ら門番の前に出ることとなった。
「今度はなんだ? どんな理由があってもここは通せないぞ」
「いや、違うんだ。これは……」
「控えおろうー! この方をどなたと心得る。王家に次ぐ権力を持つ大貴族、ダスティネス家のご令嬢なるぞ! 頭が高い!」
堂々と胸を張って、手の平でダクネスを差しながら、めぐみんは高らかに叫んだ。
この国で知らぬ者はいないであろう貴族の名を出されて、門番の二人は一瞬驚くが、すぐさま胡散臭い物を見る目付きになる。
「ふーん、ダスティネス家の……で、その証拠は?」
「ほら、ダクネス。さっさとあれを出してください」
「断る! なんと言われようと絶対に出さないぞ!」
「……そうですか、だったら仕方ありませんね」
めぐみんは手をワキワキとさせながらダクネスににじり寄る。その動きに不穏な物を感じ取ったダクネスは、後退りしながら身構えた。
「め、めぐみん、一体何をするつもりだ?」
「これが最後の警告です。今すぐあれを出してください。さもないと、私の恐ろしさを嫌というほど味わうことになりますよ?」
「脅されようが私の答えは変わらない! 絶対に出さん!」
「……わかりました」
飽くまでも家紋を出そうとしないダクネスに、呆れながらめぐみんは手を降ろした。
「やっと分かってくれたか。いいか、そもそも権力という物は――」
「――だったら無理矢理にでも奪い取るのみ!! こーちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょ!!」
諦めたと見せかけてダクネスの一瞬の油断を突き、めぐみんは飛びかかった。細い指を彼女の首筋や鎧の隙間に差し込むと、容赦なく
「め、めぐみん、そこはやひははははは!! お、お願いだからそこをくすぐるのはあははははは!」
「アクア、今です!」
「分かったわ! さぁ、大人しく渡しなさい!」
くすぐられて思うように抵抗の出来ないダクネスに、今度はアクアが飛びかかった。
「あ、アクア! これだけは渡さひゃははははは!! へ、へんな所を触るな! 余計にくすぐったあははははは!!」
アクアは何とかして家紋を奪い取ろうとし、ダクネスは笑いながら辛うじて出せる力でそれに抗った。しかし、その結果ダクネスをよりくすぐる形となってしまい、女騎士は更に甲高い笑い声を上げる。
目の前で突如として始まったキャットファイトに、カズマと千翼、門番の二人は困惑し。止めるべきか否か判断の付かないウィズはオロオロと狼狽える。
しばらくの間、ダクネスの笑い声が夜空に木霊し続けた。
「この家紋が目に入らぬかー!」
くすぐり責めによって精も根も尽き果て倒れ伏すダクネスを差し置き、彼女から奪い取った家紋のペンダントを、アクアは堂々と門番に見せつけた。
始めは胡乱げな目で見ていた門番も、それが本物であることを確かめた瞬間、背筋を真っ直ぐに伸ばして敬礼する。
「た、大変失礼いたしました! まさか本当にダスティネス家のご令嬢とは。どうぞ、お通りください!」
二人の見張りは素早く門を開けた。アクアは振り返ってサムズアップすると、めぐみんもサムズアップを返し。カズマ、千翼、ウィズの三人は顔を引き攣らせ、地面に倒れているダクネスは一瞬だけピクリと震えた。
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「うう……とうとうやってしまった……」
両手で顔を覆ったダクネスは、歩きながら泣き言を漏らす。
「いいじゃないですか、別に減る物でもありませんし」
「そうそう、減らないんだったらドンドン使うべきよ」
「減るとか減らないとか、そういう問題では無い!!」
他人事のように言う二人に怒鳴ると、ダクネスは疲れたようにがっくりと肩を落とす。
手段はどうあれ、源泉の管理地に入ることが出来たカズマ達は、モンスターの襲撃を警戒しながら一本道を歩き続ける。
道の脇には街へ温泉を供給している配水管が何本も走っており、歩くにつれて徐々に硫黄の臭いもしてきた。
「うわ、こりゃ酷い」
道中にあった小さな源泉を見たカズマは、その色を見て驚いた。
通常ならば透き通った熱湯が湧き出ているはずの源泉が、今はまるで原油のように真っ黒に染まっていた。
下からゴボゴボと泡が吹き出る様子は、まるで沼のようである。
「う……臭いを嗅いでいるだけで気分が悪くなってきます……」
「めぐみん、離れた方が良い。恐らく有害な物質が蒸発して瘴気になっているんだ」
上着の袖で鼻と口を覆っためぐみんは、頷きつつ源泉から離れる。
一体何を使ったらここまで汚染することができるのか、そしてこんな危険な真似を躊躇いなく実行に移せる、まだ見ぬ犯人にカズマは恐怖を覚える。もしかしたらアクアの言った『魔王軍による破壊工作』というのは、あながち間違っていないのかもしれない。
「ねぇ、みんな。これ見て!」
源泉から少し離れたところで、何かを見つけたアクアが手招きする。五人がそちらへ向かうと、彼女が指差す物を見て揃って首を傾げた。
「動物の毛皮と骨……これ、溶けてるのか?」
地面に動物の死骸、正確には死骸の一部が落ちていた。しかし奇妙なことに血の一滴、肉片の一つも見当たらず、そこには溶けかかった毛皮と骨だけが残されている。
「カズマ、これは触らない方がいいですよ」
「今も薄くだが煙が出ているな……溶かされたのはついさっきか?」
「薬品……じゃないよな?」
斬られたわけでも、焼かれたわけでもなく。溶かされて死んだという余りにも不自然な死に方に、六人の頭上に疑問符が乱れ飛ぶ。
「って、今は動物の死骸なんてどうでもいいわ! それよりも急いで源泉に向かわないと!」
謎だらけの死骸に気を取られていたが、自分たちの本来の目的を思い出したアクアは勢いよく立ち上がる。動物の死因についてあれこれと議論を交わす五人を無理矢理立ち上がらせ、背中を押した。
「アクア様。すみませんが調べたいことがあるので、先に行っててください。すぐに後を追いますから」
しかし、どうしても死骸が気になるらしく。申し訳なさそうにウィズが手を合わせた。
「なによ、源泉より溶けた動物の方が重要だっていうの!?」
「い、いえ。決してそういう意味では……」
アクアが言いがかりを付けてウィズに食ってかかり、余りの迫力に彼女が後退る。
「こら、ウィズが困ってるだろ。それにこんな所で文句を言ってる暇があったら、それこそ時間の無駄じゃないのか?」
カズマの正論に悔しそうな顔をしながらアクアはウィズを睨む。その様子にウィズの困り眉の角度が更に下がった。
「悔しいけどその通りね。こんな薄情リッチーは置いてさっさと行くわよ!」
不機嫌そうな早足でアクアは山道を進んでゆく。その背中を呆れながらカズマは見送った。
「ウィズ、調べたいことってなんだ?」
「源泉を汚している物質と、溶けた動物の死骸なんですが。どうしても気になることがあって……すぐに終わるので、私のことは気にしないでください」
「手伝いはいらないのか?」
「大丈夫です。私一人で十分ですから」
心配いらない、とウィズは小さく手を振る。当の本人がそう言っているので、ここにいても邪魔になるだけだろうとカズマ達は判断し、アクアの後を追った。
「さて……」
五人の後ろ姿を見送ったウィズは、まずは動物の死骸を調べ始めた。
と言うわけで、次回はいよいよハンス戦です。恐らく今までで一番の山場になると思われます。