車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と、或いは雨避けとなる覆いを持ち、台座とつながれた柄を車夫が曳いて進むという構造を持つ人力車という車に俺はいた。
原田さんが生まれて初めて一流を知るんだから人力車も体験すべきだとお金を出してくれたのだ。行き交う人がやけに若い人間が人力車に乗っていると物珍しさにじろじろみてくるだろうと、飯田さんは雨でもないのに俺が見えないよう覆いをかけてくれている。
飯田さんには銀座駅までお願いしてある。これで少なくても迷うことはないはずだ。銀座駅から竜宮まで迷った笑い話はすでに飯田さんに伝わっているようで、次来る時は俺が迎えに行くからよろしくなと笑われた。
飯田さんは俺が退屈しないようにと道中ずっと話をしてくれた。
日本語では、略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)。車夫はまた車力(しゃりき)とも言った。また英語のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語らしい。
人力車には乗客が一人乗りのものや二人乗りのものなどがあるが、日本で普及したのは一人乗りのものが圧倒的に多かった。また車夫は通常1人だが、特に急ぎの場合などは2人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあった。
1870年(明治3年)和泉要助が発明した。江戸時代以前には存在せず、代わりに大八車などが使われていた。その後、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少しつつあるという。
銀座には日本で唯一という芸者送迎専用の人力車の車宿「日吉組」があるが、飯田さんは料亭・竜宮の専属車夫(人力車引き)。その道長いベテラン車夫であり、 その事に誇りを持っているのがうかがえる。
やっぱり俺みたいな若い人間が使うのはかなり珍しいらしいが、社会の西欧化につれて自動車が台頭しつつあり、人力車ではなくタクシーをつかう客が増えており、歩合制の飯田さんは苦しい生活を強いられているという。飯田さんに言わせれば高級料亭だからと俺みたいに人力車を使ってくれる若者なら大歓迎だそうで、紹介状と金があるんだからタクシーを使わせろとごねる一見客の方がマナーや態度がなってなくて困っているらしい。
どうやら自動車に利用客を奪われる状況に寂しさと憤りを感じているようだ。さすがは車夫、話しながら平気で人力車を走らせている。息切れすらしない。よほど体力があるんだろうことがうかがえる。
新鮮だから振られる話振られる話全部真面目に聞いていたら、飯田さんも口が軽くなってきたのか愚痴が多くなってきた。
「時代の流れってんなら、まあ諦めもつくんだよ。だがよりにもよって妹のシズまで奪いやがった。結婚相手が土御門さんみてーな若者ならよかったんだが、両親に早くに死なれて男で一つで結婚話も蹴って育て上げた妹をタクシーの運転手に取られちまったんだ、こんなふざけた話があるか?しかも駆け落ちした挙句に連絡も取れない、飛んだ親不孝もんだぜ、あいつはよ。土御門さんも結婚するなら家族みんな幸せになるようなことの運びしねえとダメだぜ、結婚てのは家族同士の繋がりができるってことだ。2人きりでできるもんじゃない。子供作らねえってならまあわからんこともないが、子供欲しいってのに誰も頼れねえなんてだめだ。誰かしら不幸にして結婚なんて考えるべきじゃねえんだ」
飯田さんはため息をついた。
「土御門さんみてーな若者なら大歓迎だったんだがなあ......聞いたら俺より労働環境悪いし、体壊したらシズが苦労すんのは目に見えてた。なのに耳すら貸しやがらねえ、若いってのは周りが見えないから困る。甲斐性無しで妻子を吉原に沈めちゃおしまいだろってのになあ」
今はまだ生活保護という概念すらないようで一度地に堕ちたら終わりなんだろうなとふと思う。
「ただでさえ、最近は治安が悪いのか行方不明になったり、暴漢に襲われたりする。土御門さんも気をつけな、金もってるとわかったら、いつ何時襲われるかわかったもんじゃねえからな、夜は一人で出歩いちゃいけねえよ。男だろうがな」
「飯田さんも見たことあるんですか?」
「さいわい俺はまだ会ったことねーんだが、ほかの連中が襲われたり、行方不明になったりしててな。常連客が怖がって使ってくれねえんだ、困ったもんだ。うちはランチやってねえから夜は怖いってなると俺の出番が減っちまう」
気になって話を聞いてみると、どうやら銀座駅付近だけではなく帝都全体で行方不明になる人が増えているようだ。襲われた車夫仲間の話をまとめるとどうやら異界に引き摺り込まれて殺されるか、命からがら逃げ出したはいいが異界の出来事は現実世界には反映されないため警察や軍に相談してもなしの礫らしい。
明らかに安倍さんがいっていた江戸時代の結界、将門公の結界を破壊し、遷座させた悪影響がもろにでているではないか。霊的な守護を担う結界がまともに機能していない。これでは魔弾震が頻発したり、異界から悪魔が湧き出してくるのも仕方ないといえる。ヤタガラスの人手が足りないというのはやはり本当のようだった。
そんなことを考えていると、不意に飯田さんの足が止まった。
「飯田さん?どうしました?」
「でやがった......。土御門さん、ちと悪いが遠回りしようぜ。あれが噂の暴漢だ。失職して浮浪者にでもなったかね?それとも薬に手を出したか?なんにせよ近づかないに越したことはないぜ」
ちらりと見たのは、月明かり。街灯に照らされる青白い顔をした男。あまりにもノロノロと歩いているものだから、人力車からだんだん遠ざかっていく。
「あれはよく見るんですか?」
「ん?ああ、特に今夜みたいな満月の夜はよく出るんだ。きみの悪い連中だろ?あれは一人だが、たまに群衆でぞろぞろ歩いてることがあるからな......気持ち悪い連中だ」
「......」
遠ざかる男の姿はたちまち見えなくなっていく。どんどん腐敗した肉の匂いが遠ざかっていく。風呂にあまりにも入れないせいで不衛生で生きているのに腐り始めている浮浪者なのか、サイガの企みにより増加中のゾンビなのかあの距離だとわからない。ただ飯田さんのいうようにあまりにも数が多いようだからまともに相手しない方がいいんだろうなと思う。
「だから通行人がいないんですかね?」
「だろうなあ、天下の銀座町だってのに静かなもんだ」
人力車は大きく迂回し、時間こそかかったものの銀座駅に無事到着したのだった。
「飯田さんお気をつけて」
「おう、土御門さんもな」
俺はそのまま帰路についたのだった。