大道寺邸にて
大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、これまで世界の工場としての役割を果たしてきた欧州が戦場となり、物資の供給が滞った。
一方、日本には大量の注文が舞い込み、日本の産業革命は一気に進むことになる。日本は大戦中、純債権国に転じ、日本の貿易立国の礎が築かれた時期でもあった。
日本の紡績業はインド、エジプト、中国、米国から綿花を調達し、原料を手に入れる一方で、製品である綿糸・綿布の輸出の拡大を推し進めた。
特に大戦時には最大の生産国であった英国からの供給が細ったことから日本の製品輸出は急拡大し、日本は世界最大の紡績大国となる。
綿花の調達はビルマや東アフリカにも広がり、羊毛の調達や生糸の輸出など事業の多角化を図った。
しかしながら、第一次世界大戦から大戦後にかけて、日本国内における賃金上昇や国際労働機関加盟に伴う深夜業禁止政策などをきっかけとして、日本の大手紡績業の多くが上海・青島などの中国都市に進出した。1921年から翌年にかけて、日本企業のうち9社が相次いで中国に進出するなど、1925年までに計17社が進出している。
日本の従来の経営形態を持ち込み、現地の住民を日本国内の半額程度の安い賃金で雇用し、1925年には日本国内の1/4にあたる100万錘規模(中国全域の4割弱)を占めるようになった。
国内かつ人件費が高い都内で紡績工場を営む者は大道寺家も含めても数えるほどしかいないのだ。どこもかしこも経営難にあえいでいる。
普通に考えるなら大道寺家もただちに中国都市に進出することに賭けた方がいい。事業の存続を考えるならば従業員を全員解雇し、工場を閉鎖して、少しでも資金を集めて、一族総出で海を渡った方がいい。
もし、当主である猛が病気で倒れなければ、即断の上実行したに違いなかった。だが猛は病魔に侵されてベッドから起き上がることすら困難な状況であり、性根が優しすぎて商売に向かない性質の清が代表をしている今、そんなことを決断できるわけがなかった。
当主を継いだ瞬間に廃人と化して大道寺家の未来のためになすべきことを紡ぐ蓄音機として、長らく地下に閉じ込められていた妹に手をかけた兄ならば。鬼憑きに頼らなけばならない一族など未来はないと覚悟していた兄ならば。伽耶に憑きし者があの日のパーティに乗じて暗殺未遂されかかった陸軍将校に取り入って商談を成立させてしまったことを知ったらどう思うだろうか。
陸軍将校の使いから商談について話を前向きに進めたいというありがたい話を持ち帰る途中の道すがら、清はそう思って気分が重くなった。
もちろん言えるわけがない。
お前もやればできるじゃないかと喜んでいた兄に伽耶に憑きし者がすべて段取りを組んで商談を成立させてしまったなどいえるわけがないのだ。
まさか鬼憑きよりも商売の才覚が劣ると突きつけられることになるとは夢にも思わなかった清はため息しか出ない。
大道寺家の令嬢とはいえ貴族でもなんでもない名家の小娘が陸軍大将に商談を持ちかけて気に入られるなど、伽耶にはまずあり得ない行動力なのである。まして相手は暗殺未遂があったばありで下手をすれば撃ち殺されていたかもしれないあの状況下でだ。
今度は伽耶を連れてくるように、と言われたが、さすがに清は断らざるをえなかった。陸軍将校は清の人柄を見て、父親たる猛が伽耶に入れ知恵をしたのだと判断したようで、商談については清にあまり話をしてくれなさそうだった。
兄に判断を仰ぐほかない。伝書鳩のように陸軍と紡績工場と病院を行き来する生活がこれから始まるのだ。とりあえず、この商談がうまくいけば当面の大道寺家は安泰だ。それだけが清にとっては心の支えだった。
これから忙しくなるから、一緒にご飯を食べたり、学友と遊びに行くときに付き添いしたりできなくなると伽耶に話すことができたのは、ようやく家族水入らずの時間が確保できた夕食のときだった。
「そう......ですか......」
伽耶は寂しそうに呟いたが、すぐに笑顔になる。清に心配させたくないのだろう。本心を押し殺し、気丈に振る舞う姿はかつての妹を思わせた。
「でも、陸軍からお仕事をいただけたから、お忙しくなるのよね、おじさま?」
「ああ、そうだね。そのとおりだとも。これで従業員のみんなを解雇しなくて済む。一安心だよ」
「よかった......。おじさま、いつも商談でお忙しそうだったから、ようやく実を結んだと聞いてうれしいです」
「伽耶には心配かけてしまったようだね、すまなかった。これからは安心して学校にいくんだよ」
「はい、がんばります」
微笑む伽耶はどうみても内気な15歳の女の子だ。陸軍将校に直々に取り入って商談を成立させてしまうような烈女にはどうしても思えない。やはり陸軍将校がいっていた伽耶は憑きし者、鬼憑きの人格だったのだろうと清は確信したのだった。
「伽耶にはしばらく寂しい思いをさせてしまうけれど、わかってくれるね?」
「はい、わかっています、おじさま。でも、くれぐれもお体だけは気をつけてくださいね。お父様だけでなく、おじさまにまでなにかあったら、私は......」
「あはは、大丈夫だよ。わかっているさ、これからが本当の勝負だからね。商談が成立しても納品して代金をいただくまではいっときたりとも気が抜けない。陸軍のお墨付きがもらえたら、紡績業は一気に軌道に乗せることができるはずだ。私が倒れたらいよいよ大道寺家は終わりだからね、わかっているとも」
伽耶は安心したように笑った。
「私の近況はこんな感じだね。伽耶はどうだい?」
「はい、私は無事に試験を終えることができました」
「それはよかった。靴擦れが響かなくてよかったね、伽耶。女の子の足に傷が残ったらと気が気じゃなかったが。ハルアキくんだったかな、彼の応急処置のおかげだね。ところで試験の結果は来週かい?」
「はい、そう聞いています。ええと、それでね、おじさま」
「なんだい?」
「今度のお休みに凛と銀座の富士屋にフランス風ケーキを食べに行こうと思っているの。いいかしら?」
「もちろん構わないとも。それは試験結果のあとかい?」
「ええ」
「なら、その結果次第でいつものようにお小遣いをあげよう」
「よかった、ありがとうございます」
「凛さんにはくれぐれもよろしく伝えてくれ。遅くならないうちに帰るんだよ」
「わかりました。ええと......それでね、おじさま」
「なんだい?」
「あの、土御門さんから頂いたハンカチなんだけれど、やっぱり血が滲んでしまっていくら洗っても落ちなかったの。捨てて構わないとあの人はいっていたんだけれど、凛がね、とても高いものだからそのままにするのは失礼だって......。どうしたらいいかしら」
伽耶が凛から教えてもらったというハンカチのブランドは、たしかにかなり高価なものだった。
「そうだね......たしかに私もいずれはと思ってはいたんだ。安倍伯爵のところでお世話になっているといっていたね、たしか。調べてみたんだが、安倍伯爵は土御門家宗家、安倍晴明の末裔で貴族議員をなさっているらしい。おそらくハルアキくんは土御門と名乗る以上その分家筋なんだろう」
「そうなんですか!?」
「私も驚いたよ、あんなに気さくな青年が......。いや、逆か。あの人柄だから本家が気に入ったのかもしれないね」
「私、そんな方から応急処置していただいてたなんて......」
「私も時間が取れたら、すぐに準備しよう。それなりのものを用意してご挨拶に行かなければならないね」
伽耶はうなずいたのだった。