CUE!~Si Vis Pacem, Para Bellum~ 作:ラッキー
ほのかのキャラクターエピソード フラワートレック回
背負子へ
「環掛けよーし…準備よーし」と独り言を紡いでから右手でロープを操作し、滝の横のほぼ垂直となっている崖を慣れた手付きで降下する人影はやがて無事に岩場へ着地するとロープを手早く回収した。
止めどなく流れ落ちる滝の景観を眺める人影は、その滝壺へオリーブドラブに染められたブーニーハットの庇の奥にある双眸を鋭く光らせる。そして偏光サングラス越しに視線を向けるもーー魚の存在が見受けられないと判断して下流へ歩き出す。
岩から岩へ移動をする度に背嚢へ付けた熊鈴の音色が周囲へ鳴り響く。この近辺では熊の出没情報が出ている。不意の遭遇を避ける為にも熊鈴で人間の存在を知らせなければならないのだ。
偏光サングラスを外し、胸元のポケットへそれを引っ掛けた男はエールブルーマネージャーの佐々木だ。その顔には無精髭が口周りと顎へ薄く生え揃っている。
こんな山奥で何をしているのか、と聞かれれば彼は「渓流釣り」と即答するに違いない。
大体の渓流は9月末日を以て来シーズンの到来まで禁漁となるのだが、佐々木が訪れた某所の渓流は10月末日まで釣りが楽しめる。
これを逃してしまうと来シーズンーー来年の3月まで待たなければならず、ブランクが更に伸びてしまう為、彼は思い切って入社以来、初となる纏まった休暇を申請したのである。
真咲からの承認を受けたのは月曜日。そして自身の愛車であるパジェロへ荷物を積み込んで出発したのは金曜日の朝早くだ。
そして現在は日曜日の10時過ぎ。金土日も山奥の渓流を探りながらルアーフィッシングを楽しんでいる訳である。
当然ながら寝泊まりは野外だ。一人用の小さな
昨日の昼前に源流部へ到達し、丸々と肥えた尺イワナを釣り上げたのを目処に佐々木は折り返して元来た道を戻り始めている。
遡る途中で登れそうな斜面を見付けていた為、そこから登山道へ入ろうと決めていた付近に到着すると彼は岩の上へ腰を下ろし、腰へ巻いている
一息吐くと水筒の蓋を閉めて元の位置へ戻し、これから登る事になる崖を見上げる。
傾斜角はーー70度ほどだろうか。幸いにも足場は安定している。これなら苦労せずに登り切る事が出来るだろう。
「…だがその前に…」
このまま脱渓するのは勿体無いのか佐々木は腰を上げてトラウトロッドを手にする。。
ナイロンラインの先にスナップが結束され、それに取り付けられているのは5gのスプーンと呼ばれるルアーだ。名前の由来の通り、その形状はスプーンの先端と酷似している。
眼前の渓流のポイントを見極めた後にキャストし、ルアーを水中へ投じるとスピニングリールでラインを巻き取りながらロッドを小刻みに動かしてアクションをルアーへ掛ける。
するとーー確かな手応えが彼が握るロッドを震わせた。
「ーーおっ…!」
それは魚が食い付いた事を知らせており、反射的に合わせると強い引きを感じた。ドラグを緩めるべきだったか、と思うもーーこのまま行こうと判断し、魚とのやり取りを楽しみながらリールを巻き続ける。
やがてタモへ見事に収める事に成功した佐々木は釣り上げた魚ーーパーマークが鮮やかなヤマメの姿をスマホのカメラで写真撮影。フックを外すとヤマメを渓流へ逃がしてやった。
既にこの3日間で釣り上げた魚を大量に食べている。おまけに先程のヤマメは腹部が膨らんでおり、おそらくは卵を抱えた雌の可能性がある。資源保護の意味からも余計な採取は避けるべきだ。
釣行は充分に楽しんだ。そろそろ帰ろうと決心した佐々木はスプーンを外してルアーケースへ収めると、これから登る事となる斜面を見上げながらトラウトロッドや釣り道具を地面へ下ろした背負子へ括り付けている
再び背負子を担ぎ、一面に生えている笹を掴み、足で斜面を蹴りつつ登り始める。
「…あぁ、そういえば…」
陽菜を始めとしたFlowerの4人もなんの偶然か、この近辺を今頃は登山で歩いているはずだったーーと思い出した佐々木は100mほど登った先にある筈の登山道を目指して進み続けた。
ーーちょうどその頃、鷹尾山の山頂へ到達した陽菜、舞花、志穂、ほのかの4人は記念写真の撮影を終えて下山の途へ就いている最中だった。
しかし登山の途中で足を捻ってしまったほのかを陽菜と舞花が肩を貸し、志穂が彼女が背負っていた登山用ザックを代わりに持っている状況の為、下山は慎重を期している。
勘違いされがちだが登山の全行程の中で一番危険とされるのは下山の時だ。
まず一番に挙げられる理由は“体力が減っている”という点だろう。なにせ体力が削られる坂道を登り切った後の行動なのだ。出発時よりも体力が減っているという事は注意散漫やひょんな切欠での転倒が発生し易くなる。
おまけにこの状況は負傷者を一人出しながらの下山だ。
登山道が整備されているとはいえ負傷者ーーほのかを庇いながら進むのは中々に苦労である。
「ーーマネージャーに“ちゃんと全員を怪我なく連れて帰る”って言ったのになぁ…」
「ほのか。過ぎた事を気にしても始まらないでしょ」
「でもさ舞花…言ってた私が怪我しちゃったら意味ないよ…」
ほのかの溜め息が漏れると肩を貸している舞花、陽菜から苦笑が漏れたーーその瞬間、登山道の脇にある藪の奥でガサガサと物音が響く。
その物音に彼女達はビクリと身を震わせる。登山の最中に同様の事があったばかりだ。ーーこの近辺では熊出没注意の看板を見掛けているだけに緊張が否応なく上昇する。
急ごうと舞花が少し震える声で全員へ伝えた刹那ーー藪の奥からリーンという甲高い鈴の音が聞こえ、彼女達は呆気に取られてしまう。
「…え?人…?」
「な訳ないでしょ!あっちは崖じゃない!」
熊避けの鈴に思えたが付近の看板は“この先、崖あり”の標識が描かれ、転落注意を呼び掛けているのだ。
ではあの草木を掻き分けるような物音と鈴の音はなんなのかーー。彼女達が未知の恐怖から一歩下がるのと同時に登山道の直ぐ側に生えた藪が掻き分けられ、奥から長身の人影が姿を現した。
「ーーん?…なんだ4人とも…奇遇だな」
聞き覚えがありすぎる声が彼女達の鼓膜を震わせる。その声を発したのは間違いなく藪を掻き分けて登山道へ出てきたばかりの人物だ。
纏っている服装が普段と違う上に泥まみれ、無精髭も生えている。それらもあって直ぐ分からなかったがーー
「マネージャーさん…?」
自信なく確認の声を陽菜が紡ぐと、眼前の人物は小さく頷いてみせた。
「ーー崖に向かって歩き始めた志穂をほのかが止め、転倒した弾みで足を捻ったと…」
「…ごめんなさい…」
偶然にも下山中の彼女達と出会した彼がまず気になったのは、ほのかへ陽菜と舞花が肩を貸している状況だ。事情を尋ね、返って来た答えに彼は溜め息を漏らす。
「…負傷者発生は…過ぎた事だから悔やんでも仕方ない。それよりも手当ては?」
肩を落とす一同から視線を逸らした佐々木は担いでいた荷物を背負子ごと地面へ下ろしつつ尋ねる。
大した手当てはしていない、と返ってくれば彼は丸めていたシートを広げ、その上へほのかを座らせるよう指示した。
仲間の手を借りながらゆっくりと彼女がシートの上へ足を伸ばした格好で座るのを横目に佐々木が自身の
ほのかが履いているトレッキングブーツの紐を解いて靴を、その後に靴下も脱がせて足首の状態を確認しながら痛むという患部を軽く握ってみた。
「…痛っ…」
「…骨は折れていないな。捻挫だろう」
尤も骨折の類いであれば肩を貸されても歩くのは至難だ。救急セットから鎮痛と炎症を抑える効果があるスプレーを選んで患部へ噴射すると次いでテーピングを巻いて足首を固定する。
ひとまずの応急処置だ。もしこれで痛みが続き、歩行に支障が出るようなら病院での検査である。
「…すみませんマネージャー…」
手間を掛けさせてしまった事を詫びるほのかだが、彼は反応を見せないまま救急セットを片付けると背負子から背嚢を下ろしてしまった。
意図が分からず彼女達が首を傾げる中、佐々木は背嚢へとコンパクトに纏められている一人用のテントや他の荷物を手早く仕舞い込んでしまう。
腰へ下げていた太いカラビナから降下の際に使用した身体へ巻き付けるロープを取り外すと佐々木がほのかの側に片膝を突いた。
「ーー抱き上げるぞ」
「へ?わわっ…!」
膝裏と背中へ腕が回され、軽々と抱え上げられたほのかが慌てるも彼は意に介さず彼女をスペースが出来た背負子の上に座らせる。
「ーーこれから下山だったな。俺がほのかを担いで降りる。転倒した時のクッション代わりにザックを持っていてくれ」
「えっ、マネージャー!?」
「一人で担ぐの!?ほのか、割と重いよ!?」
「…でも…陽菜と舞花が肩を貸すより合理的…」
「だ、大丈夫なんですか…?」
意図を察したほのかが立ち上がろうとするが彼はそれを許さず、彼女の腰と背負子をロープで結んでしまった。
「…少なくともキミ達よりは慣れてると思う。ほのかに靴と靴下を履かせてくれ。それとザックもだ」
佐々木が指示すると彼女達は顔を見合せた後、言葉に従った。まず陽菜が舞花から受け取った靴下とトレッキングブーツをほのかに履かせ、次いで志穂は預かっていたザックを彼女の膝へ置く。
シートを丸めて、それも背嚢へ収めた佐々木はほのかが膝に乗せているザックの肩紐を両肩へ通させた。
背嚢を片手に彼はほのかと背中合わせになる格好で背負子の前へ足を伸ばして腰を下ろす。まず背嚢の太いベルトを両肩に通して固定し、次いで背負子のベルトも両肩、そして腹部へ隙間が出来ないよう絞りながら固定する。
「ーー立ち上がるぞ。バランスが崩れるから動かないでくれ」
「わ、分かりました…!」
「気を付けて下さい…」
陽菜、舞花、志穂が見守る中、佐々木が腹筋へ力を入れて前屈みになる。総重量は彼自身の荷物やほのか本人の体重とザックも含めれば70kg近いか、或いは越えている可能性もあった。
これで本当に歩けるのかーーいや、むしろ立ち上がれるのか、と彼女達が不安を胸に抱く中、佐々木は両手と両足へ力を込め、ゆっくりとほのかや荷物を抱え、担いだまま立ち上がった。
「ーー良し…行こう。…熊の痕跡もあったからな…」
無事に立ち上がる事に成功したが、目的は無事の下山である。立ち上がる、というのは第一ステップでしかない。
彼女達を催促して佐々木は登山道を歩き出す。ーー懐かしい重み、と感じながらだ。
「ーー……ごめんなさいマネージャー…」
二度目の気落ちした声での謝罪が背後から佐々木の耳朶を打つ。
様々な感情が混ざった声音を察し、応えないのは彼女の精神的にも良くないだろうと考え、彼は溜め息を漏らしながら口を開く。
「ーー…謝罪は受け入れんよ」
静かなーー冷淡にさえ聞こえてしまう低い声が彼の腰へ下げられた熊避けの鈴の甲高い音色と混ざってほのかの耳へ届く。
その返答を聞いた彼女が歯を食い縛り、瞳に涙をうっすらと浮かべた姿を見てしまった舞花が佐々木へ文句を言おうかとした矢先ーー彼が再度、口を開いた。
「ーー…謝罪よりも礼を言ってくれ。その方が俺も嬉しい」
同じ声音のまま言葉を放った彼にほのかだけでなく彼女達も目を瞬かせてしまう。
それと同時にーーほのかは彼が紡いだ言葉を以前、何処かで言われた気がしてならなかった。それはいつの事だったろう。
「…なんだ?変な事でも言ったか?」
「い、いえそんな…!…えっと…ありがとう…ございます…?」
「どういたしまして。…礼がないと助けたのは間違いだったのかと不安になってしまう。次からは謝るよりも礼を言ってくれ」
「……次…?…次があるのか?」
彼の背後ーー担がれたほのかの隣を歩く志穂が思わず彼へ尋ねると佐々木は被ったブーニーハットの奥で眉根を寄せた。
「…無い事を願うばかりだ」
「まぁ確かにそうだね。…あれ、っていうかマネージャーはなんであんな所に?」
怒気を収め、彼と志穂のやり取りに苦笑を漏らしていた舞花が涌いて出た疑問を佐々木へ尋ねる。何故、登山道の脇ーー崖しかないと看板にあった場所から出てきたのかと質問すると彼は当然だと言わんばかりに答えた。
「下の渓流から登って来たに決まってるだろう」
「………は?」
呆気に取られるのは二度目だ。尋ねた舞花だけでなく陽菜と志穂、そして担がれたままのほのかも口を半開きにしながら各々が彼へ視線を向ける。ーーこの人は何を言っているのか、とそれは物語っていた。
「登って来たって…崖を…?」
「そう…100mぐらいか。笹も生えていたし、足場も安定していたから楽だったぞ。それに切り立っていなかった」
つまり崖を登り切った後、今度は負傷したほのかだけでなく自身と彼女の荷物も抱えたまま歩いているという事だ。それを察したほのかが再び慌て始める。
「お、降ろして下さいマネージャー!歩きますから!」
「…余計に悪化するぞ。良いから黙って担がれていろ。このペースなら…1時間程度で登山道の入り口だ。ゴールは近くの駐車場に停めてる俺のクルマ。3人には悪いが…休憩は無しで行くぞ。だが辛かったら直ぐに言ってくれ」
「が、頑張ります…!」
「マネージャーも無理しないでよ!?」
「…ファイトー…」
ほのかを落とさないよう前傾姿勢のまま歩き続ける彼の声に頷いた彼女達を認め、佐々木はペースを落とす事なく登山道を歩き続けた。