CUE!~Si Vis Pacem, Para Bellum~ 作:ラッキー
11月へ突入して早数日。声優事務所 エールブルーの社長以下のスタッフ達はオーディションを突破して役を獲得、或いはナレーションの仕事等が入った声優達のスケジュール管理やレッスンの予定を作る事に忙しい。
特に社長の真咲やチーフマネージャーのりおは様々なコネや人脈を使って仕事を取ろうとするのに忙しいようだ。
佐々木も同行する機会が増えて来たが、専らは事務が主な仕事である。
今日も今日で彼は事務室のデスクへ腰掛け、ノートパソコンのキーを忙しなく叩きながら領収書の精算へ勤しんでいる真っ最中だ。片手で領収書の束を捲り、逆の手でキーを叩いては精算を行っている彼のデスクの端へホルダーに入れられたカップが置かれたのを視界の端で捉えた佐々木が顔を上げる。
「ーーお疲れ様。少し休憩したら?」
「お疲れ様です。外回りから?」
「今さっきね」
コーヒーが注がれた湯気立つカップを置いたのはチーフマネージャーのりおだった。今朝のミーティングが終わってから不在であったが戻って来たらしい。左手首の内側へ文字盤が来るように巻かれた腕時計を彼が見ると時刻は11時25分だ。
差し入れのコーヒーの礼を告げた佐々木がそれを摘まんで一口嚥下する。
真咲を含めた声優達のスケジュール管理を進めつつ電話応対を行い、それが一段落した後は領収書の精算。だいぶ時間を喰ってしまったが月末に慌ただしくならない為にも領収書の精算はある程度纏まったら済ませておくのが吉だ。
「そういえばあと少しで年末だねぇ。年末年始はどうするの?」
「……どうするとは?」
「いや、予定だよ予定」
自身のデスクへ腰掛けたりおが思い出したかのようにカレンダーへ顔を向けつつ佐々木へ尋ねると彼は低く唸る。予定はあるようで無いようなものなのだ。
すると事務室の扉が開き、ヒールの足音を立てながら腰まで届く焦げ茶色の髪を揺らして社長の真咲が入室して来た。
「二人ともお疲れ様。りおはお帰りなさいかしらね」
「あ、お疲れ様です真咲さん」
「お疲れ様です」
「休憩中にごめんなさい。気が早すぎるけど二人の年末年始の予定を聞いても良い?」
「奇遇ですね。実は今その話をしてたんですよ」
そうなの?と真咲がチーフマネージャーへ尋ねれば彼女は頷いてみせる。まだ年末年始は先なのだがーー早めに予定が分かっていた方がこの業界では色々と助かるのだろう。特に二人はマネージャーだ。急な飛び込みの営業や仕事が入る場合もあり、なるべくどちらか一人は事務室にいる必要がある。
「ーー私は一応、帰省する予定ですね。まぁ1日か2日ぐらいゆっくりしてこっちに戻って来ますけど」
「分かったわ。それで…佐々木くんは?確か宮城県だったわよね?」
コーヒーを啜り、カップをデスクの端へ置いた彼は精算した領収書を纏めてホチキスで留めると口を開いた。
「はい。ですが帰省はしません。寮か事務所にはいますので安心して下さい」
その言葉に真咲とりおの目が点になる。お盆は兎も角として年末年始ーー正月ぐらいは世間も“基本的”には休みなのだ。特に佐々木のような実家が遠方の人間が帰省できる数少ない機会でもある。
「…それは事務所としては有り難いのだけど…無理しなくて良いのよ?」
「そうだよ。たまには実家に帰って親御さん達に顔でも見せたら?」
「…親…」
帰省を勧める二人の気遣いは有り難いのだがーー等と思いつつ佐々木はコーヒーを啜ってから口を開く。
「帰っても誰もいませんから」
「へ?…あぁ、ご両親のお仕事がお忙しいってこと?だとしても帰った方が良いと思うよ?」
「いや、そういう意味ではなくて…両親や祖父母は死んでますから帰っても意味がないのですよ」
平然と彼が家族構成ーー全員が鬼籍に入っていると告げれば真咲とりおが絶句する。もっと勿体ぶるか、言い難そうに語られるならまだしも明日の朝食の献立を語るかの如き態度なのだ。
「…えっと…それは聞いてなかったわね…」
「聞かれませんでしたから」
面接や雇用契約の際も家族構成は尋ねず、提出を願った書類へ綴られていた事故などで生命の危機へ陥った際に連絡先としての指名は彼がかつて所属していた部隊の電話番号と部隊名、隊員の名前だったのだ。真咲も親族ではない事を気にはしていたが、なんらかの事情があるのだろうと考えて深くは尋ねていなかったのである。
念の為、指定された電話番号へ連絡して確認を取ってみると何度かの転送の末に電話口へ出た隊員は「畏まりました」と返答していたのもあって書類を受理した経緯がある。
「別に話す必要もないかと思っていましたので。あぁ、死亡した場合の対処については遺書へしたためていますのでその通りにして頂ければ幸いです」
「遺書用意してるの!?」
「保管場所は寮の管理人室。レターボックスの一番上です」
「そんなに詳しく言わなくても良いから!?」
「…最初は真咲さんに預けた方が良いかと思っていたのですが…流石にどうかと思いまして。2ヶ月毎に書き直しますし…」
「気遣うところがなんか違うよ!?」
何処かズレている佐々木の認識にりおのツッコミが追い付かない。その彼は何か間違っただろうか、と疑問を抱きつつコーヒーを啜る始末だ。
その姿を見た真咲は思わず胸の前で腕を緩く組み、小さく溜め息を溢してしまう。
「事情は分かったわ。…なら…お願いしても良い?その代わりに年末年始も勤務していたと見做して手当は弾むわ」
「ありがとうございます。自分はそれで構いません」
「…本当に休まなくて良いの…?」
信じられないとばかりにりおが彼へ問い掛ければ佐々木が肩を軽く竦めてみせた。
「慣れていますから大丈夫です」
「…無理しちゃダメだからね?」
りおが気遣うと佐々木は頷き、飲み干したカップをデスクの端へ置く。
生真面目な彼の事だ。年末年始の世間が浮き足立ち、大晦日と新年の賑わいに沸き立つ頃も一人で寮や事務所で過ごす光景が二人の脳裏へ浮かび上がってしまう。
「…忘年会…佐々木くんの為にも少し奮発しようかしらね」
「忘年会?」
「そう、忘年会。スタッフだけじゃなくて、あの子達も…都合が合えば皆でと考えている所なの。来月の頭は何処も一杯だろうし…前倒しにした方が良いかも知れないわね」
年末年始、年の瀬となれば自然と世間は忘年会シーズンだ。その翌月は新年会と中々に忙しない。しかも何処も何故か同じタイミングで一斉にそれらを始める為、あらゆる飲食店などは予約で埋め尽くされてしまう。
「って事は…今年も
「流石にそれはどうかと思ってるところなのよ。いっそのこと…温泉旅館とかにしようかしら」
「温泉!」
確定ではないが社長の真咲が呟いた“予定”にチーフマネージャーの表情が明るくなった。
なんいう甘美な言葉だろう。効能のある温泉に浸かり、美味い料理や酒に舌鼓を打ち、日頃の疲れを綺麗さっぱり癒してリフレッシュだ。
脳内で浴衣へ袖を通し、旅館の廊下を歩いて名物の大浴場まで歩く自身の姿を彼女が妄想した所で真咲が溜め息を吐き出した。
「ーーとはいえ予算がねぇ」
「……えぇ~」
無情な一言にりおが意気消沈する。結局は予算、お金の問題が付いて回るのだ。
「…まぁ新年会をしない前提で予算を組めばなんとかなるかしら。あとは私達のクルマにあの子達を乗せて…」
「私、真咲さん、桐香先生、それと佐々木くんが運転手ですね。うわぁ…あんまりお酒飲めないじゃないですか~」
「…マイクロバスのレンタルは?」
まだ一泊すると決まった訳ではないがドライバーとなれば翌日の運転に支障を来さぬよう飲酒を抑えなければならない。それに気付いたりおが嘆く中、佐々木が真咲へ尋ねる。
「…出来なくはないけど…運転手さんも付けて貰うと1日で4万近い筈よ。それなら私達が運転した方が安く済むしね」
事務所に所属する声優達の中にも免許を持っている者はいるが、事故などを警戒して運転はさせない事は真咲の中で決定事項のようだ。加えてレンタカーでマイクロバスを借りるというのも予算が圧迫される為に却下。となれば自家用車の選択肢しか残っていない。
「ガソリン代は事務所が持って…参加費も皆から少し貰って…なんとかなるかしら」
「見積りを取らなければなんとも言えませんが…」
「それは私がやってみるよ。佐々木くんは皆に連絡お願い。少し早めの忘年会は温泉旅行になるけど参加する?って」
「分かりました」
意気揚々と、何処か使命感すら感じさせるりおが起動したパソコンに向かって予算を組み始めながら佐々木へ指示を飛ばす。それに頷いた彼はスマホをジャケットの内ポケットから取り出すとメールを打って所属声優の彼女達へ一斉送信した。