CUE!~Si Vis Pacem, Para Bellum~ 作:ラッキー
リフレッシューーではなく早めの忘年会が終われば、残り1ヶ月程度まで迫った年の瀬、そして新年に向けて労働へ励まなければならない。
エールブルーの営業も本年中のラストスパートを掛けている状態だ。
猫の手も借りたい、という事で佐々木も外回りに駆り出されているがーー中々成果は上がらないのが実態である。
社長であり有名声優でもある真咲だが事務所そのもの、そして所属している声優達は無名にも等しい。彼女のツテもあって業界の有名声優にはそれなりに名前は知られているのだが“エールブルー”という事務所が、というよりも“鳳真咲の所の”という前置きが必ず付いて
回る 。
無論、全くの無名でないだけ有り難いのだが営業で各所を回る彼やチーフマネージャーのりおからするとやり難さは否応なく感じてしまうのだ。
アニメの制作会社へボイスサンプルやプロフィールの書類などを持ち込み、収録の際に“ガヤ”などで所属声優達を使って欲しいと交渉するがーー
「でもねぇ…」
などと渋られるのも慣れ始めて来た。
中には書類を軽く眺めた後、興味を失ったかのように突き返す者もいる程だ。
挙げ句の果てにはーー
「声優なんて掃いて捨てる程いるんだよ。なんでわざわざお宅の子を使わなきゃならないわけ?大体さぁ、こーゆー頼みする時は手土産のひとつぐらい持って来るもんでしょ?そんなに仕事欲しいなら枕でもさせなよ」
ーーテメェの主張は後で話し半分に聞いてやるから、まずはこっちの話を聞け阿呆ーー
肥えた不摂生の塊を思わせるビール腹を揺らしながら有り難くもない講釈とハラスメントを垂れる野郎は目の毒だ、などと佐々木は考えつつ書類とボイスサンプルのデータが入ったノートパソコンを纏めると腰を上げる。
扉を開ける寸前、袖を通しているジャケットの内ポケットへ手を差し入れーー自身のスマホを取り出すと“録音”を停止し、再生のボタンを押すと録音時間のカーソルを移動させた。
〈ーー大体さぁ、こーゆー頼みする時は手土産のひとつぐらい持って来るもんでしょ?そんなに仕事欲しいなら枕でもさせなよ〉
つい先刻の会話がしっかり録音されており、それが再生されると応接室の椅子へ腰掛けている程よく肥えたビール腹の中年男性の顔色が青くなった。
「ーー先程のお話は参考と致します。それはそれとして…この件は鳳へ報告させて頂きます」
肩越しに振り向いた佐々木が濃い茶色の瞳を細める。自然と鋭利な視線が向けられ、男性は顔面蒼白になりつつも彼へ待つよう告げるがーー佐々木は話は終わりとばかりにさっさと応接室から立ち去ってしまった。
「ーー佐々木くん、なにかあった?」
帰社して事務室へ入ると、りおが「お帰り」と迎えてくれるも次に続いたのは確信が籠った問い掛けである。
「……なにか?」
「ついさっき制作会社のプロデューサーさんから電話が来たんだよ。私が取ったんだけど真咲さんに代わってくれって。それと佐々木くんに失礼な事をしてしまった、って謝ってたよ」
りおが発した言葉に記憶が蘇った佐々木が、あぁ、と小さく呟いた。同時に程よく肥えたビール腹を思い出し、眉間へ皺を寄せてしまう。
それを見た彼女が続けて尋ねようとするもーーそれより早くデスク上の電話が鳴り響いた。
「内線?ーーはい、りおです。あ、真咲さん。…佐々木くんですか?えぇ、事務室に居ますよ。…はい…はい…分かりました」
耳へ当てていた受話器を置いたりおが彼へ目配せする。呼び出しであると察しが付いた佐々木は頷き、入室して間もない事務室を抜け出た。廊下を進み、向かう先は社長室である。
社長室とプレートが打たれた扉を前にして彼は軽く身嗜みを確認してからノックを数回。直ぐ様、入室の許可が下り、慣れて来た「失礼します」の声を掛けてから扉を開けた。
その日の夜、寮のリビングで学生ーー高校生でもある声優達の勉強へ付き合いながら佐々木は本を読んでいた。
勉強や宿題に付き合っている以上は分からない点などが発生する。質問されれば律儀に答えるが、彼はそれが終わると再び手元の本へ目線を落としては文章を読み進めている。
「ーーあらマネージャーさん」
「……ん?あぁ美晴か」
事務所に所属する声優達の中で最年長であり、大学院生でもある美晴がリビングへ足を踏み入れ、年若い学生達の中にいる佐々木の存在を認めると声を掛けた。
彼も声を掛けられると読み進めたところを指で押さえながら顔を上げて美晴に応える。
「どうかしたのか?」
「ふふっ。皆が勉強会をするって聞いたのでお手伝いに来たんです」
「…なにか演奏でもしてくれるのか?」
「あら…それは考えてなかったわ…」
残念だ。彼は肩を竦めながら呟くと誰からも質問がないのを良い事に視線を手元の本へ再び落とした。
美晴はクッションの上へ座り込み、うんうんと唸りながら教科書と問題用紙へ交互に視線を忙しなく移す舞花の横へ腰を下ろす。この中で最も勉強全般が苦手である彼女を集中して教えるつもりらしい。
「ーーう~…疑問詞ってなに…whatとかwhyの使い分けってなんなんだよぉ…全然分かんない…」
「大丈夫よ舞花」
「大体、日本にいるのに英語使う機会なんかないじゃん…」
「あらぁ。英語を少し話せたら道に迷ってる外国の人を案内出来るし、沢山お話できるじゃない」
「出来ないっすよー!」
柔和に微笑みながら美晴が舞花を諌める。彼女の泣き言を聞いた高校生達は苦笑を漏らしながらも自身の勉強へ向かう中、佐々木がおもむろに口を開いた。
「ーー“It always seems impossible until it's done.”」
リビングの一画に響いたのは流暢な英語だ。その声音は低く、落ち着いている。誰が発したのかーー彼女達は顔を上げ、本へ視線を落としながら開いたページを読んでいる佐々木に視線を向けた。
「マネージャー。 Very cool pronunciation♪」
「Thanks」
真っ先に彼へ声を掛けたのは柚葉だ。帰国子女である上、英語も堪能な彼女は佐々木に発音が素晴らしかった旨を屈託のない笑顔を浮かべながら伝えると彼は表情を変えなかったが、律儀に礼を返した。
「マネージャーさん。英語…喋れるんですか?」
「…多少は」
意外だったのか勉強会の参加者の一人である陽菜が尋ねて来ると大した事ではないように佐々木が小さく頷いて見せる。
「…あれ?そういえば…アラビア語も分かるって言ってませんでしたっけ?」
次いで尋ねて来たのは長い茶髪を揺らしつつ首を傾げるほのかだ。
「…ほんの少しだけだがな」
「Really?ーー
彼女からの問い掛けに頷く佐々木を見て柚葉が興味津々とアラビア語で声を掛ける。
すると彼は溜め息を吐き出しながらも口を開いた。
「
「Wow!綺麗な発音!」
感嘆する柚葉が称賛する中、他の参加者達と美晴は意外な特技を目の当たりにして目を丸くしてしまう。
「…マネージャーさん。大学に通われていた訳ではないんですよね…?」
「最終学歴は高卒だ。大学に通う経済的な余裕はなかった」
念の為に美晴が質問すると佐々木は頭を左右に振って否定する。となれば独学であろうか、と想像するがその学習方法と習得の困難さに直ぐ思い立ってしまい彼女は尊敬の眼差しを彼へ向けた。
良く見れば佐々木が読んでいる本は表紙を見る限り、全文が英語の洋書ではないか。そしてその本のタイトルはーー
「…シェイクスピアのハムレット…」
「…ハムレットって…レッスンでやった?うわ…これ全部英語?」
美晴が表紙に綴られたタイトルを呟くと悠希が隣へ腰掛けている佐々木の手元を覗き込む。すると途端に眉根を寄せてしまう。それもそのはずで全文が英語なのだ。とてもではないが目が滑ってしまい勉強以外でーーむしろ勉強でも進んで読みたいとは世辞にも言えない。
「それはどーでもいいんだよ!マネージャー、さっきなんて言ったんすか?イッツオールウェイズ…」
舞花が改めて先程の言葉の意味を尋ねながら、辿々しい発音で聞いたばかりのそれを紡ぐと佐々木が口を開く。
「ーーIt always seems impossible until it's done.」
「そうそれ!なんて意味?」
同じ言葉を繰り返してくれた佐々木に頷く彼女が意味を再度質問すると彼は適切な翻訳をする為、数秒ほど考え込んだ。
「…そうだな。“何事も成功するまでは不可能に思えるモノだ”というような意味になる。ネルソン・マンデラの言葉だ」
「…誰…?」
「……知らないのか?早ければ中学生の頃には学校で習うと思ったが…」
自分の頃とは違うのだろうか。舞花の反応に彼は首を傾げつつ美晴を始めとした面々へ視線を向けた。苦笑しつつ美晴は舞花の積み重なっている教科書を一冊抜き取り、ページを捲って該当する人物を指差した。
「ーーこの人がネルソン・マンデラ。南アフリカの大統領でノーベル平和賞を受賞した人よ」
「へ~。……アパルトヘイトの撤廃ってなに?受賞理由に書いてあるんだけど」
「ーーアパルトヘイトというのは平たく言うと人種分類での…人種隔離や人種差別による政策だ。細々とした内容はネットで調べて貰えると助かる。白人以外の黒人やアジア人…まぁ日本人や華僑などは名誉白人扱いされたらしいが、人種毎に住む場所を制限されたり、公共の交通機関や施設の利用制限を課したり…色々とやらかしていた政策になる」
隔離施設留保法、雑混禁止法、背徳法、パス法などの小アパルトヘイトも含めてしまうと生々しい内容となってしまう為、佐々木は説明を省くが気になるならば自分で調べるよう告げた。
「……それっていつまでやってたんすか?」
「…覚えている限りだと…俺が生まれる少し前までは続いていた筈だ。撤廃されてから30年程度しか経ってない」
もう30年前か、或いはまだ30年なのかは人の感性によって違う。
アパルトヘイトを撤廃した事で国内の情勢は改善されたのか、と問われると一概にそうとは言い切れない。失業率の増加や貧富の差の拡大、性感染症の蔓延ーー諸々の問題は尽きないが、歴史におけるひとつの転換点となったのは間違いない。
「ーーネルソン・マンデラは若い頃から反アパルトヘイト運動に身を投じて国家反逆罪で終身刑となって27年間も獄中生活を送るが釈放された後にアパルトヘイト政策の撤廃へ尽力。そして全人種による選挙を経て南アフリカ初の黒人大統領に就任した。少し前までは誰もがアパルトヘイトの撤廃、ましてや黒人が大統領になるとは思っても見なかっただろう。だが不断の努力と不屈の意志で彼は為し遂げた。だからこそ言葉の重みが違う」
なるべく分かり易いように説明すると彼女達は感嘆の溜め息を漏らす。学校の授業よりも要点を押さえた説明であった為、舞花にも分かり易かった。
とは言えかなり説明を端折ってしまい、アパルトヘイト政策の撤廃を宣言した当時の大統領フレデリック・デクラークを省いてしまった。陰に隠れがちだがマンデラと同じ理由で平和賞を受賞しているのだ。
投獄されている27年間、マンデラはイギリスの詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーが綴った“INVICTUS”という詩を心の支えにしたという。
ヘンリーもマンデラに負けず劣らずの不運と逆境に打ちのめされた人物だ。
まずヘンリーは12歳の頃、骨結核を患い左足を切断するという大きな不運に見舞われている。ロンドンに移り住み、ジャーナリストになる夢を志すが病弱であるのもあって8年間も入院生活となり、右足も切断しなければならない事態にまで発展する。
大人になり、結婚した彼にも娘が誕生するが、その娘も6歳で病死してしまう。
度重なる人生の不条理や試練に遭い、それへ立ち向かった不屈不撓の意気をヘンリーはラテン語で「不屈」を意味する“INVICTUS”という詩に綴ったのだ。
それを説明した佐々木は呼吸を整え、日本語に訳された詩を諳じて歌い上げた。
鉄格子にひそむ奈落の闇
私はあらゆる神に感謝する
我が魂が征服されぬ事を
無惨な状況に於いてさえ
私は怯みも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ
血を流しても
決して屈服はしない
激しい怒りと涙の彼方に
恐ろしい死が浮かび上がる
だが、長きに渡る脅しを受けてなお
私は何ひとつとして恐れはしない
門がいかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者
私が我が魂の指揮官なのだ”