CUE!~Si Vis Pacem, Para Bellum~ 作:ラッキー
ハムレットは言わずと知れた『マクベス』、『オセロー』、『リア王』と並ぶシェイクスピアの四大悲劇のひとつである。
あらすじは、デンマークの王子ハムレットが父を殺し母を奪い王位を簒奪した叔父を討ち、復讐を果たす物語だ。
その劇中で最も有名な台詞とは、訳せば「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」から始まる一文であろう事は疑いない。しかし翻訳家が変わると「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」とも訳されるので注意が必要だ。
このハムレットという戯曲の洋書を佐々木は学生時分に当時の英語教師から教材として勧められて以来、辞書を片手に読み込んでは英語のスキルを高めるよう努めてきた。その努力が報われたかはさておき、中々に読み応えがある戯曲であったのは確かだ。
彼は前者の訳ーー「生きるべきか、死ぬべきか」というそれで翻訳しているが、大半の人々はその後に続くハムレットの台詞を知らない者が多い。
どちらが立派な生き方だろうか
荒れ狂う運命の矢弾をひたすら耐え忍ぶか
ハムレットは父王の亡霊から、自らを弑して王位を簒奪した弟であるクローディアスの不正を許すなと言われ、復讐を誓っている。しかし、ハムレットにとっては叔父となるクローディアスが王殺しだという証拠が掴めずに思い切って行動出来ない。その中で紡がれた台詞は読者にハムレットのーー悪く言えば優柔不断さや女々しさを抱かせてしまう。
とはいえ殺しの決心を即断即決が出来る人間がどれほどいるか、と考えればハムレットの逡巡も幾何かは理解が及ぶだろうと佐々木は捉えている。
まぁ、自分には良くも悪くも外れている考えではあるがーー彼は心中で呟くとグラスに注がれた琥珀色の度数が高い液体を飲み干した。カランと氷が軽やかな音色を奏でながら踊り、空となったグラスをタンブラーの上へ置いた。
「ーーマスター。同じ物を」
既に時刻は23時を過ぎだ。この店ーーBARを経営する壮年のマスターの趣味なのか店内にはジャズが流れている。しっかりネクタイを締め、ワイシャツの袖をアームクリップで吊ったマスターがタンブラーの上へ置かれたグラスを取り、背後の棚に並んだ幾多のボトルから佐々木が飲んでいた銘柄を選んだ。
キャップを外し、グラスの中へ琥珀色の酒を注ぎ、軽く撹拌してからスーツ姿の佐々木の眼前へ差し出した。
それを眺めつつ彼は愛煙の煙草を銜え、慣れた手付きでジッポのホイールとフリントを擦り付けて火花を散らし、オイルが染みた芯へ火を灯す。炙られた煙草の先端から紫煙が細く立ち上るとジッポを仕舞い込んだ。
「ーー久し振りにお顔を拝見しましたが、相変わらず良くお召し上がりになりますね」
マスターの口振りからは佐々木が何度かこの店へ足を運んだ事が察せられる。神瑞町の端にあるBARはあまり客足が無いのも手伝っていつも店内は静かだ。
彼もそこまでお喋りな性格ではないので静かにグラスを傾け、煙草を燻らせて静かな時間を過ごす事が出来る。
「…この頃、とんとお足を運んで頂けないので別のお店に浮気なさったのかと心配しておりました」
「生憎と一途な人間だ。アテが外れたな」
マスターが軽口を叩けば、佐々木も同様の口振りでそれを返す。
その答えにマスターは苦笑を浮かべつつグラスをクロスで磨き始めた。
これを最後の一杯にしよう、と佐々木は短くなった煙草を灰皿へ押し潰し、注がれたグラスを手に取った。一息に琥珀色の酒を流し込み、アルコールとニコチンの香りを吐息と共に漏らす。
「…もう12月か…チェックを」
店内の壁に貼られたカレンダーを視界の端へ収めた佐々木が呟くとマスターは小さく頷き、スツール席から腰を上げる佐々木を見守った。財布の中から飲み代と席代が込みとなった料金が紙幣として差し出される。
代金を受け取ったマスターは釣りを出そうとするが佐々木は外套へ袖を通してしまい、扉へ向かって歩き出した。
「お客様、お釣りがーー」
「一杯やってくれマスター。あまり顔を出せなかった詫びだ」
その言葉と共に彼は外へ通じる扉に手を掛けてしまう。ドアベルの音色と共に扉が開かれると冷えた外気が店へ流れ込む。そのまま彼は振り向く事もなく退店する様子を眺め、扉が閉まるとマスターは溜め息を吐き出しながら唯一の客が出て行った扉へ深く一礼し、「またのお越しをお待ちしております」と紡いだ。
BARを後にした佐々木は12月の冷たい空気に満ちた空気を肺へ送り込むと寮への帰り道を歩き出した。
平日の真夜中であるからか、それともあまり人の往来がない道路だからか人影は非常に疎らだ。
煙草を銜えたいがーー路上喫煙禁止の看板が立っているのを認め、寮に帰るまで我慢するしかないと溜め息を溢した。
良く磨かれた革の短靴が規則正しい足音を奏で、一定のペースで佐々木は帰路を進む。
その途中でーー僅かにだが“異音”が混ざった。
背後から聞こえる足音だ。100mほど離れているだろうか。
最初は自分と同じく家路を急ぐ人間のそれかと思ったが、耳を澄ませて足音を聞くと妙な違和感を覚えたのだ。
警戒しすぎだろうか。一度は違和感を払拭しつつも素知らぬ顔で少し歩く速度を増してみた。
すると背後から聞こえる足音も佐々木の動きに合わせて速度を増したのだ。
嗚呼ーー。彼は内心で嘆息した。
一度は払拭した違和感だが、まさか適中していたとは思わず確信に至るまでの時間差から否応なく勘が鈍った事を思い知らされたのだ。
それはそうとしてここで撒くべきだろう。
佐々木はそのままの速度を保ったまま歩き続け、途中で路地に入った。
この一帯の路地はさながら迷路のようなモノだ。
地図やナビゲートが無ければ迷う事は必至である。
どうか相手がここの土地勘に鈍い事を願いながら路地へ入った佐々木だがーー
「………」
ーー失敗した、と自身の決定を今更ながら後悔してしまう。
路地に入ると、視線の先に通せんぼする一人の人影を見たのだ。
よりにもよって一方通行の路地だ。
回れ右をして元来た道を戻ろうとするがーー彼の後を尾行してきた正体不明の足音の持ち主が追い付いて退路を塞いでしまう。
これが前門の虎後門の狼という奴か。
ビルとビルの間に出来上がった狭い路地から覗く夜空へ瞬く星々を佐々木は思わず仰ぎ見てしまうと前後の通り道を塞いでいる2名の人間へ交互に視線を向けた。どちらも顔立ちを見る限りでは東洋人の男である。
「ーー总参谋部第二部?」
佐々木の口から、とある国が用いている言語で流暢な発音の問い掛けがされた。
だが彼を挟み込む形のまま向かって来る2名は反応を示さず、纏っている背広の懐からバタフライナイフ、カランビットナイフを一振りずつ抜き取って刃を外気に晒す。
「ーー조선인민군총참모부총국?」
今度は別の国語が彼の唇から紡がれる。その尋ね掛けを聞いた2名が微かな反応を見せた事で佐々木は何処の人間かを概ね察してしまった。
面倒臭いが、放置しておく訳にも行かない。
スラックスのポケットに突っ込んでいた両手を外へ出した佐々木はバタフライナイフを抜いた東洋人に向かって無造作に歩き出した。
規則正しい足音を奏でながら向かって来る佐々木の挙動を注意深く観察する男は握るバタフライナイフを構える。
どう動こうとも迎え討てる態勢を保ったまま彼を待ち構える男が見据える佐々木の背後からは仲間の一人が歩み寄っていた。
二人掛かりであれば造作もなく仕留められる。手間なのは遺体の処理ぐらいだ。
その佐々木が間合いへ入った途端、男はバタフライナイフの尖った切っ先を目にも止まらぬ速さで突き出す。
腹部を狙った一閃。
構えも取らず、無造作な格好で歩み寄って来ていた佐々木の腹へ間違いなく突き刺さった筈だ。
「ーーッ……ブフッ…!」
だというのに何故、右手に力が入らないばかりか、自身の喉笛に握っていた筈のバタフライナイフの刃が突き刺さっているのかーー男は訳が分からず息苦しさで呼吸を整えようとしたが、唇からは血の泡と共に声帯が傷付いたのか言葉にならない呻きしか漏れなかった。
絶命を確認する間もなく佐々木は逆手に握ったそれを持ち換えながら背後を振り向く。
バタフライナイフを基本的な構えとなる
カランビットナイフの熟練者と戦うのはかなりの手間だ。先手を打って斬り掛かっても刃が受け流された場合、自身の手首を斬り裂かれ、そのまま流れるような動作で首の喉笛を頚動脈ごと斬られてしまう。
ーーだが勝てないという事はない。
久し振りだというのに佐々木の身体は素直に動いた。
摺り足気味だった歩みで瞬間的に男の間合いへ飛び込むと、まず徒手の左手でカランビットナイフを握る右手を押さえようと見せ掛けた。
すると反応した男が手首を返して佐々木の左手を斬り付けようとしたが、彼は右手に握ったバタフライナイフの切っ先を対峙する男の太股へ突き刺して直ぐに引き抜く。
ーーザクリと刃が肉を斬り裂いた事で重心が僅かに崩れた。
その瞬間を見逃さず、佐々木はナイフを突き刺した脚の膝へ蹴りを見舞う。
横合いから蹴りで打ち抜かれ、膝の関節が外れたのか男は重心を崩したまま受け身も取れず、無様な格好で路上に転がった。
鈍い痛みが膝から全身に伝わり、男が苦悶の表情を浮かべる。
ーー痛みに歪む顔へ嵌まった双眸が、迫り来る佐々木の靴底を捉えると表情がハッとしたそれへ変わるが、彼はそれを捉える事なく体重を乗せて男の顔面を踏み抜いた。
アスファルトと後頭部が熱烈なキスをしたのか鈍い衝突音が路地へ響く。
踏み抜いた脚を退けて見れば、男は瞳孔が開いた両目をカッと見開いている。アスファルトと激突した後頭部から血が流れているのを認めた佐々木だがーー念の為に左足で男が握ったままのカランビットナイフを蹴り飛ばした上で心臓へバタフライナイフを突き立てた。
彼はナイフを離すと服に返り血が付いていないかを確かめつつジャケットの内ポケットからスマホを取り出して何処かへ電話を掛け始める。
3コールだけ通話をするが直ぐに切ってしまう。片腕で路上に転がった東洋人の片割れの服を掴んで引き摺りつつもう一度、電話を掛けると通話先が出たのか佐々木が通話口へ向かって声を発した。
「ーー私です」
翌朝。2名の男が息絶えた筈の路地には血痕の一滴すらも残っておらず、街は普段通りの平穏な一日が始まったという。
※何処にでもいるただのマネージャーです、いいね?