CUE!~Si Vis Pacem, Para Bellum~ 作:ラッキー
「もし良かったらレッスンを見て行かない?」
真咲の唐突なその一言、そして実際に彼女達のレッスンを見ていなければーーこの業界へ入る事は無かっただろう、と佐々木は後に語っている。
真咲と共に事務所の内部にあるレッスン場へ移動すると彼女は指導を行っている黒髪に近い濃い灰色にも見える髪を後頭部で纏めた女性へ歩み寄り、出入口の扉の前で待機している彼を指差して何かを話していた。
やがて話が終わったのか真咲は女性から離れ、彼の元へ戻ると一言だけ「話は付けておいたから」と告げてレッスン場を後にする。
思い思いに準備運動の柔軟を行っている四人の少女達を横目に捉えながら佐々木は女性へ近付くと軽く頭を下げた。
「ーーはじめまして。急な申し出にも関わらずありがとうございます」
「こちらこそはじめまして。レッスンコーチをしています 由良桐香です」
「佐々木と申します。宜しくお願い致します」
軽い挨拶を交わし終えると女性ーーコーチだという桐香が彼へいくつかの注意を告げた。
見学は構わないが大人しくしているように。
そしてレッスンの邪魔をした場合は直ぐに出て貰う。
以上の二点だ。
諸注意へ確かに頷いた佐々木は邪魔にならないようレッスン場の隅へ移動する。
真咲からはコーチの女性について予めどのような人物か話を聞いていた。“鬼コーチ”だという事も聞いていたのだが“空挺レンジャー課程”の教官や助教達と比較すればーーと、真っ先にかなり的外れの比較をしてしまうのは経験者の悲しい性なのかもしれない。
整列した少女達の前へ立った桐香がレッスンのメニューを告げる。
てっきりレッスンの内容は芝居に必要な発声練習の類いかと彼は思っていたが「いつもの通りダッシュと腹筋から」とコーチが告げた事で、基礎体力の向上もレッスンへ含まれているのかと認識を改めた。彼女達がトレーニングウェアの類いを纏っているのにも納得である。
しかしーー
「……うーん……」
レッスン場の端々を往復してダッシュを行い、次いで腹筋を始める彼女達を眺めていると佐々木の喉から唸りが微かに漏れる。フローリングの床の上を駆ける音で唸りは掻き消されたが、彼の表情を見れば“不満”のそれが浮かんでいる事は直ぐに分かるだろう。
彼女達の中で今の所、佐々木が合格点を出せるとすればーー茶髪を腰の辺りまで伸ばした少女、ほのかぐらいだ。
その次は学生の頃に演劇部などが行っていた発声や滑舌練習、そして台本を手にしての本読みが始まった。
こちらの方はあまり縁が無いのもあって物珍しさから佐々木は見入ってしまっていた。
声優はこのようにして育てられ、いずれはマイクを通してキャラクターへ
マネージャーというのは小間使い、という訳ではなくそういった声優本人が出来ない事柄の全般を請け負う仕事なのだろ。
「ーーじゃあ、ちょっと休憩しましょう。各自、しっかり水を飲んでちょうだい」
やがて桐香が休憩時間を4人へ与え、少女達が彼が見学をしている隅へ移動を始めた。
「…あれ…自分の水…どこだろ…いつもバッグに…」
「……水?……あぁ、これですか?」
舞花が自身の手荷物を漁り、中から目的の物を探しているが発見出来ないようだ。その呟きを耳で拾った彼が顔を向けるとーー壁際へ開封されているミネラルウォーターのペットボトルが放置されていた。
それを掴んで彼女へ手渡すと舞花が笑みを浮かべて受け取る。
「あっ!それそれ!サンキュー!」
中身が減っているのを見るとレッスン前に軽く水分補給をして、バッグへ戻さずに稽古へ臨んだのかもしれない。
キャップを開けて水を飲み始めた舞花から視線を外すと、次に視界へ入ったのは先程のダッシュや腹筋で合格点を勝手に出していたほのかだ。
新陳代謝が良いのか、他の三人と比べると汗の量がやや多いようにも見える。とはいえ脂汗のような類いではなく、細かい汗の水滴が浮かんでいる印象を受けるのは彼女が普段からトレーニングを積んでいる可能性を佐々木へ感じさせた。
「…月居さんのタオルは…これですか?」
「あ、はい!ありがとうございます!…良く分かりましたね?」
「…使い込んでいるように見えたので…」
有名スポーツブランドのロゴが入ったバッグの上へ置かれているタオルを認めて彼女へ手渡せば大正解だったらしい。この分ではーープロテインも飲んでいる可能性もあるな、と佐々木は勝手な想像を膨らませる。
「ちょっとティッシュ取って」
「ティッシュ?ーーあぁ、はいどうぞ」
「…佐々木さん…そんな事までしなくても良いんですよ?」
「…いや…じっとしてるのも性に合わないので…」
ティッシュボックスを志穂へ手渡すと陽菜が彼を気遣う声を掛けるが、佐々木はそういう性分なのだと返すしかない。
その様子を眺めていた桐香はーー何かを決心したのか、彼女達が休憩を取るレッスン場の端へ移動すると佐々木へ顔を向けた。
「ーーちょっといいかしら?」
「…申し訳ありません。うるさかったでしょうか?」
「いえ、そうじゃないわ。…明日、時間はあるかしら?」
桐香の問い掛けに彼は首を捻りつつも明日の予定を考えた。
ーーまず起床した後に軽い運動としてジョギングや筋トレ。シャワーと食事を済ませて職業安定所へ赴いて職探し。帰宅後は条件の良い仕事が見付からなかった場合は苛立ちを解消する為にトレーニング。そしてシャワーと食事の後に就寝である。
「…ありますね…というより一日空いています」
ここ数日間、仕事探しは全滅だったのだ。検索の仕方が悪いのかもしれないがーーこの流れだと明日も似たような結果となる可能性がある。苛立ち解消の為にトレーニングへ集中した結果、やっと膝へサポーターを付けていれば運動が出来るまでに治った怪我が悪化しかねない。
「それなら良かった。もし良かったら見学に来なさい」
「…見学…ですか?今日のレッスンと同じなら、体力練成のメニューで口を挟ませて頂ければと…」
桐香は彼の言葉に瞳を何度か瞬かせる。明日は特別レッスンとして声の収録現場へ教え子達を招こうと考えていたのだが、佐々木が口を挟もうとする内容が気になった。
「言ってみて。体力練成、という事は…ダッシュや腹筋かしら?」
「えぇ。ダッシュは良いとして…まぁ、フローリングの上を走らせるのは転倒や怪我の危険がありますので肺活量を上げるのが目的ならばエアロバイクやランニングマシンを使用した方が安全でしょう」
彼の指摘に桐香はなるほど、と頷きながら暗に続きを促した。
「それと
“時間の無駄”とまで断じた佐々木に桐香はもとより、少女達の視線が突き刺さった。四人は困惑の表情を浮かべているが、コーチである桐香が彼へ向ける視線は敵意に近いそれが込められている。
それらの反応は予想していたのか、彼は落ち着いた低い声音のまま改善すべき点ーー主に姿勢へ注意を払って行うよう助言した。
特に
「…なるほど…確かにそこは私の指導が足りなかったわね。貴方は…もしかしてスポーツジムでトレーナーの経験が?」
「いえ、そんな大層な経験は…資格も持っていません」
「あっ、でも…確か…」
「…元自衛官で…くうていだん?にいたって話してたよな?」
思い出したように陽菜と舞花が談話室で耳に挟んだ佐々木の経歴を口にするとそれを聞いた桐香が納得が行ったのか頷いてみせた。
「…道理で…ならトレーニングは嫌というほど受けたわよね」
「…えぇまぁ…」
とはいえ佐々木の記憶に色濃く残る腕立て伏せや腹筋、屈み跳躍の類いは自主的な体力練成よりもーー“反省”の意味が強かったが。
「…佐々木さん…空挺団って…あれですよね?パラシュートを背負って飛行機から飛び降りる…」
彼の経歴を聞いて目の色を変えたのは、ほのかだ。確認するように佐々木へ尋ねると彼は事も無げに頷く。
「えぇ、そうです。良くご存知ですね。御興味が?」
「興味が、というよりも…実は私、トレーニングが趣味みたいなもので元自衛官が動画サイトにアップしたトレーニングの動画とかも見るんです」
「…あぁ、なるほど」
その時に第1空挺団の存在を知ったのか、と彼も得心が行った。
「くうていだん、って凄いの?」
「…凄いっていうか…ヤバい、って紹介されてたような…」
興味本位で舞花が尋ねると、ほのかは記憶に自信こそないがーー動画で紹介されていた内容を断片的に呟く。どういう意味での“ヤバい”なのか気になり、志穂は手持ちのバッグの中から自身の携帯を取り出してネットへアクセスするとキーワードを打ち込んだ。
「ーーあった。第1空挺団。部隊の標語は“精鋭無比”。陸上自衛隊で唯一のパラシュート部隊。全国から優秀な隊員が集まっている、らしい」
「…パラシュートよりも落下傘の方が馴染みはありますが…概ねそれで間違いはありません」
「…ネット界隈では“第1狂ってる団”で有名」
なんとも評価に困る別名ーー公式ではなく、ネット界隈で勝手に付けられた別名ではあるが佐々木も認知しているようで複雑そうな表情を浮かべながら眉間には縦皺を刻んでいた。
「…7割、8割は虚偽の逸話なので信用しないで下さい」
「そうなのか…。…3階から飛び降り無傷で着地は?」
「……2階ならまぁ……」
「…出来るのか…」
恐らくは出来る、と少し考え込んだ後に声に出した佐々木へ彼女達や桐香は「本当に同じ人間なのか」と一歩引いてしまっていた。
一般的に
五点着地の要領で実施すれば2階から飛び降りても大丈夫だろう、と佐々木の脳内は結論付けた。とはいえ階段があればそちらを選ぶ。不必要なリスクを負ってまでそんな危険を冒すのは阿呆だけだ。
「…もし時間が良ければ…彼女達に正しいトレーニングを教えて貰っても構わない?ちゃんと指導料はお支払いするから」
「…構いませんが…」
むしろ自分が教えて良いのだろうか、と彼は首を傾げるも頼まれたなら仕方ないと佐々木は頷いた。
スーツの上着を脱ぎ、正しい姿勢や意識すべき筋肉の場所を彼女達へ教えた後に習得出来ているかを確認する。幸いにも呑み込みが早いようで四人は直ぐに慣れていたがーーほのか以外の少女達は揃って息を乱しながら「キツすぎる」と口にしていたそうである。
なお作者は高所恐怖症です