陽の差さない朝 作:ばなな亭ミルク
とても長い時間を、眠っていたような気がする。身体はだるくて、鉛を背負っているかのように動かない。瞼も重くて、接着剤でくっついているかの如く目が開かない。未だに眠気も酷くて、出来ればこのままもう一眠りしたい気分だ。
だけど、ここで寝てしまうと、私は酷く後悔するような気がした。と言っても、身体は動かないし、睡魔が酷くて目も開けられない。どうしようもなくて、諦めかけたその時、どこからか声が聞こえてきた。
———ここまで来て、お前は諦めるのか、と。
———お前の願いは、想いは、その程度のものだったのか、と。
ついさっきまで聞いていた気のするその声に、私の鈍くなっていた思考が段々と冴えてくる。そして、霧の晴れた頭の中で、私はとても大切な事を思い出した。
そうだ。私はまだやり残した事がある。伝えなくちゃいけない事がある。こんなところで、力尽きている場合じゃない。最後にもう一度だけでいい、私の大好きな人達に、大切な家族に会いたい。その為に、私はこの場所へ戻ってきたんだから。
重い瞼に力を入れて、硬く閉ざされた口を開けようと力を込めて。少しずつ、だけど確実に。私の想いに応えるように、その瞼と口は開いていった。そして、目を開けた先、そこに見えた光景は……
「————!」
「—————!?」
「————!」
ベッドの上の私に向かって、驚いた様子で何かを必死に伝えている三人の姿だった。
お父さんが、お母さんが、お姉ちゃんが。三人がそれぞれ必死に何かを話しているのは分かる。だけど、その声が聞こえない。
応えたいけど、何を言っているのかが分からない。分からないから、どう応えたらいいかも分からない。分からなくて、いつまでも固まったままの私の姿にみんなも何か気づいたのか、突然語りかけていた動きが止まった。
最後に家族の顔が見られただけでも充分かな、と。私が目を閉じようとしたその時だった。私の右手を、何かが触れた。
そして、それが点字盤だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
【ミ・エ・テ・ル・ノ・?】
点字を読み取った私は、三人の顔を見渡しながらゆっくりと頷いた。泣きすぎて顔がくしゃくしゃになったお母さんを、涙を拭いすぎて目を真っ赤にしたお姉ちゃんを、久々に笑顔を浮かべているお父さんを。いつの日か願った、大好きな家族の姿を見る事が叶って、自然と私の頬は緩んでいた。
漸く意思の疎通が出来てほっとする私をよそに、お姉ちゃんは喜んだり、お母さんは泣いたりと忙しそうだ。ただ、お父さんだけは難しい顔をしていた。私が長くない事を分かっているんだと思う。その顔を見て、私も時間がない事を思い出した。
「おかあ、さん」
「——?」
「おねえ、ちゃん」
「—————?」
「おとう、さん」
「——」
不思議そうに首を傾げる二人と、分かったかのように穏やかな表情のお父さん。そんな三人の姿に、私はまだまだ話したい沢山の想いを喉に詰まらせて、それを飲み込んだ。不安だった事、辛かった事、嬉しかった事、楽しかった事。あの暗い世界を生きていた中で、私が感じた色んな想いを伝える時間は、今の私にはない。
みんなの声は聞こえなくて、私の言葉は上手く紡げているかは分からないけれど。お願いだから伝わって。こんな私を大切にしてくれた人達へ、この想いを———
「あり、がとう……みんな、だいすき、だよ」
私の想いは、願いは、みんなに伝わったのかは分からない。だけど、最後に見えた、お母さん、お姉ちゃん、お父さんの笑顔は、きっと———
苦難の人生を背負わされた少年は、自らの生に理由を見出してこの世を去った。叶うならば、その先の新たなる旅路に、幸多からん事を———
主人公(奈緒)
享年九歳。死因は自己免疫疾患による多臓器不全。生後数年が経過し、抗体検査によってHIVウイルス(ヒト免疫不全ウイルス)の感染を確認。後に後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症。先天性色素欠乏症、アッシャー症候群、薬剤投与による亜鉛欠乏症を同時に患い、自室から一歩も出られない生活を強いられていた。生物学上は男だが、どう見ても少女にしか見えない。
お母さん
年齢は三十歳。身長は一般の女性平均だが、童顔で、一人娘の美緒と街中を歩いていると周りから姉妹と間違えられる。彼女が学生時代の頃、事故にあった際に血液製剤による輸血が行われたが、それによってHIVウイルスに感染していた。特異体質なのか、今に至るまで彼女は後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症せず、薬の服用をしていないにもかかわらず体内のウイルスは減少傾向にある。また、主人公が自分を女の子と勘違いしていたのは、大体彼女のせい。
お父さん
年齢は四十六歳。背が高く、強面な容姿とは裏腹に、新薬開発の研究者として多忙な日々を送っている。娘(息子)の明るい世界を取り戻す為に、日夜研究に励んだ。様々な薬を副産物として世に送り出した研究の末、驚異的なスピードで免疫機構の再生という功績を上げ、世界的に注目される。後にノーベル医学賞を受賞。
お姉ちゃん(美緒)
年齢は十二歳。弟(主人公)の三つ上で中学に進級したばかり。母親と容姿が似ており、身長も少し高めな為か、母親と歩いていると姉妹と間違えられる。弟を真っ当な男子に成長させたいと望んでいたが、彼の見た目や両親の息子に対する女の子扱いが邪魔をし、苦戦していた。主人公と同じく後天性免疫不全症候群(AIDS)を患うが、投薬治療によって病の進行を抑えられている為、日常生活に問題はない。数年後、父親の開発した新薬により、見事に病を克服した。
死神?
大きな一つ目に羽と足が生えた奇妙な生き物。独りぼっちの寂しがり屋で、優しい心を持つ。実は苦しんでいる主人公を見かねて声を掛けた。現世への未練を捨てさせ、主人公の魂を肉体と切り離す事で彼を苦しみから解放しようとしたが、断られてしまう。
とまあ、どんだけ理不尽な不幸背負わせるんだよという主人公の設定ですが、後天性免疫不全症候群(AIDS)に関しては後付けでした。というのも、以前私の知人と街中を歩いていた時に、その人がこう言ったのです。
「あの家の子供はエイズだから、絶対に近寄らない方がいい。こんな時期だからうつされたらたまったものじゃない」
その言葉を聞いた時、未だにそんな知識というか考えの人がいたんだと驚きました。
後天性免疫不全症候群(AIDS)エイズは、HIVウイルスの感染によって発症する事のある病です。情報が簡単に手に入る現代社会で、殆どの方は聞いた事があったり知っている事でしょう。そして同時に、HIVウイルスというのは安易な性交渉や血液感染を除いて、そう簡単にうつるものではないという事もご存知かと思われます。話したり触れ合う程度では問題ありませんし、同じ食器を使ったって感染なんかしません。私も知人へその事を説明しましたが、「関わらないに越したことはない」と余り理解した様子ではありませんでした。
私の知人が言った事は心無い一言に聞こえましたが、このご時世ですから不安要素があるなら関わらないに越した事はないというのは分かりますし、なるべく他者との接近を控えるソーシャルディスタンスの世の中では、無闇矢鱈に関わっては相手方にも迷惑になります。ただ、ここで問題としているのはコロナ禍という話とは別のもの。エイズに対する認識や知識が間違っているという事にあります。
もし、この何でもない小説を見つけて、この後書きに目を通した事で、エイズに対する間違った認識を抱いていた人が一人でも多く正しいものへと変えて頂ければ、これ以上のことはありません。