ひとりの男が悪態つきながら電車を飛び降りる。
早足で進むホームに人は少ない。
それもそうだ。腕時計を見ればデジタル板はすっかり『10:14』を指している。こんな時間まで仕事する者などあまりいないだろう。
自分だって普段はもっと早く帰れるのだが、月末と急ぎの仕事にスクラム組まれて3時間以上も残業してしまった。
思わず地下通路を駆ける。
絶対あとで辛くなるなとわかるのにやめられない。むしろもっと速く走りたいくらいだった。
というのも。
「ギリギリいけるか……?」
なんとしても時間までに帰宅を間に合わせたい事情があるのだ。
息を切らしながら通路を進み続ける。
もうじき家につくというところで、不意に空腹を自覚した。
やばい、冷蔵庫になにもないんだよな。
これが帰宅を急いでいなければ、残業を捌いた帰りであるし外食で済ませたかもしれない。
だがいまは一分一秒でも惜しい状況。
男は地下通路のコンビニを睨みながら空腹とタイムロスを天秤にかけ、意を決して飛び込んだ。
「うおおお間に合え!!」
家までの距離を小走りで詰める。
買い物中、つい何度も腕時計を見てしまった。
いくら見たって時間は止まらないから意味のない行為なのだが、こちらの焦りを察して急いでくれたレジの人には感謝しきれない。
スパウトパウチを口に咥えて空腹を紛らわす。
パウチから飲み込むのは牛の血液だ。脂肪分が少なくさっぱりして飲みやすいのが空きっ腹に助かる。
「あともうッ、ちょい……!」
通路からマンションの自動ドアを潜り、エレベーターのボタンを連打。5階から悠長に降りてくるのを待ってられなくて階段を駆け上る。
はぁひぃと荒い息しながらマンションを進む姿はきっと不審者だろう。磨りガラスの窓はこの上なく明るい。もう完全に日中だ。これは間違いなく不審者。
震える手で玄関の鍵を開ける。靴を脱ぎ散らかして一番最初にすることはパソコンのスイッチを入れること。
腕時計が『10:30』を表示し、なんとか推しの配信開始に間に合ったことを告げるのだった。
◆配信準備中...
小気味良いBGMがパステルカラーの背景で流れる。
同時視聴者数はみるみる増えて、コメント欄が軽快にスクロールしていく。
そしてコメント欄に男の打ち込んだものが映ったとき不意に画面が変わる。
「はーい、おまたせ!」
茶髪の上で楽しく動く動物耳。後ろで髪を一本に結んだ少女。
彼女の登場に合わせてコメントが怒涛のように溢れる。
「こんにちわー! 犬耳Vtuberの乾家つるぎだよー!」
Live2Dと呼ばれるイラストのアニメーションによって、活発な姿が描画されてゆく。
帰路を走り、階段を駆け上るほどに見たかった光景がここにあった。
「えっと……、今日は大丈夫かな? 大丈夫だよね……? 私の声は聞こえてる?」
音量も大丈夫だよね、と少女が呟く。紅茶色の瞳がコメント欄を注視し、やがて笑顔を弾ませた。
「よかったー。今回は念入りにチェックしたからね。ミスがなくてよかった」
「前はまあうん……ごめんね!」
犬耳Vtuberを名乗るこの少女は、乾家つるぎ。
Vtuberグループ『プリズム』に先月から所属するようになったキャラクターだ。
数多くいる他のVtuberと比べて特別に目を引く外見ではなく、抜群にトークが上手いわけでも、ゲームのプレイスキルで魅了してくれるわけでもない。
にもかかわらず、デビューから一ヶ月弱でチャンネル登録者数3万という快調な滑り出しを見せているのは原因がある。
「さてさて今回はー、告知していた通りにマロマロ読みと雑談でいくよ」
マロマロ読んでからのほうが雑談ネタたくさん生まれそうだからそっちから読んでいくね。そう言って笑いながら小さく体を揺らしていく姿を見るだけで、男は口角が持ち上がっていくのを感じる。きっといまとても気持ち悪い表情になってるに違いないと思った。
犬耳Vtuber乾家つるぎの魅力は、正直なところよくわからない。
どこのSNSやBBSにも彼女の魅力を説明できたものはいない。それこそ、デビュー時からずっと見守っているファンでさえわからない。
ただそれでも強いてあげるなら。
彼女にはどこか、本能をくすぐってくる不思議な存在感があった。
はーい、二人組つくってー
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「……はい! 開幕クソマロですね本当にありがとうございます」
「あの、こういうのね、私はべつに刺さらないんだけどリスナーのみなさんには刺さるひといるみたいなので……ここに固定しておこっかな。よいしょ」
すうっと耳から滑り込んだ声が脳に浸透し、意識を彼女に固定させる。
推しから紡がれる言葉は、たとえ喧騒のなかでも絶対に聞き取れるような気がした。
「それじゃーつぎつぎ」
子供のときからの夢とかやってみたかったことは?
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「ははーん」
「あはは、私の小さいときにはVtuberなんて単語ないよー。……うーん、そうだなぁ」
じっと黙り込む少女をリスナーたちが見守る。深く考えなくていいから常に喋っていてほしい、ずっと声を聞いていたいという気持ちと、マロマロひとつひとつ大事に対応していく彼女の真面目なところを好ましく思う気持ちが膨らんでいくのを感じる。
コメント欄を見れば、皆同じ気持ちなのがよくわかった。
「あ、そうだ! あのね、富士山で初日の出! 富士山の頂上で初日の出を見たいなぁ。子供のときから」
……うん?
「え、あれ? なんだか微妙な反応……」
あばたもえくぼという言葉を思い出す。
ときどき飛び出るズレた回答も微笑ましく受け止めてしまうほどに、自分たちはすっかり彼女を推してしまっているのだ。
初投稿、処女作になります。
小説投稿サイトの利用自体が初めてです。
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