霧に薄く覆われた眩しい世界に、ふたりぶんの呼吸が溶け込む。
霧越しにうっすら開ける視界は古ぼけた壁紙を映していて、この場が屋内であることを伺わせた。コントラバスで奏でた腹に響くほどに重く低い旋律が不穏な雰囲気を紡いでゆく。
ここは悪夢の世界。
複雑に入り組んだ構造の洋館。地下に青空があったり、通り抜けた扉が消えていたり、迷い込んだ者を引きずり込もうと亡者どもが徘徊する、そんな幾重にも不条理がまかり通った世界。
『ねぇこの部屋大丈夫? ほんとに入って大丈夫? やだやだやだやだ進みたくないもうほんと無理無理むりむりぃ……』
「見た感じ普通の部屋っぽいよ」
つまりそういう設定のホラーゲームである。
悪夢の世界に迷い込んでしまったふたりの吸血鬼を、出口に導くべく動かしてゆく。先頭を歩くのはもっぱら私で、後ろからおっかなびっくりもうひとりが付いてきている。怖くて進みたくないようだが私との距離があくのも怖いようで、常に背後ぴったりとくっつくようにしていた。あちらの画面では私の背中しか見えないような気がするが大丈夫だろうか。
『もうこれで終わっていい? もうやめよ? やめようよぉなんで進むの……』
「まだはじめて40分しか経ってないけど……」
『なんで!!』
いやなんでと言われても。
複雑に入り組んで迷わされる構造と常に徘徊している亡者がプレイヤーの精神をゆっくり追い詰めていくホラーゲームで、吸血鬼のあいだではかなり怖いと有名らしいのだが私には全然怖くない。
そもそもが霧で少し視界が悪いだけの真昼間よりも明るい空間なのだ。明るさという吸血鬼向けのホラー要素は人間に対して真逆に働くのである。
とはいえ今回は乾家つるぎとサリス・ヒューマンのホラー実況コラボ配信。そのサリス・ヒューマンといえば人間という設定のVtuberだ。
「そういえばサリスさんって人間だったよね」
『うう……』
「人間なら明るいところ平気だよね? 私の前歩く?」
『もうやだああ人間や゛め゛る゛う゛う゛!!』
リスナーの狙い通りの反応に口元が緩む。明るいところが怖い人間と全く平気なデイウォーカーの対比を面白がってくれている。
物音やうごめく影にいちいち反応して足を止める相方の様子に演技はない。本当に心からホラーゲームを怖がっていて、だからこそテンポが悪くならないよう私がどんどん引っ張っている。すると自然と明るさを怖がって尻込みする彼女と平然と進んでゆく私の構図ができていくわけだ。きっとこの関係はゲーム終了まで続くことだろう。
『ねえ待って誰か倒れてる……』
「ほんとだね」
そろそろいまのチャプターが終わるんじゃないかという頃、探索する私たちは廊下の突き当りに人影を見つけた。周囲がおびただしい血痕で汚されていてもう見るからに生きてはいない。私がそばでアクションボタンを押すと、体が起こされ恐怖に染まった死に顔を見せつけてきた。
『ひ……っ』
「口に何か入ってる、だって」
これは分担してアイテムを回収するシーンなのだろう。一人が死体を支えているあいだにもうひとりが口からアイテムをとるのだ。起こした私はそのまま支える役になるらしく、一番の怖がりである彼女に一番おぞましい役が押し付けられた。
『むりむりむりむりほんと無理! ほんと無理!! ほんと無理!!! ほんッッとムリィ!!!』
まあそうだよねって感想が出る。同時に私はここ切り抜かれて動画にされるだろうなとも思った。たぶん『ほんと無理×1』『ほんと無理×2』って字幕でカウントされるに違いない。
「支える役代わる……? 死体の顔がずっとアップで表示されるけど大丈夫かな」
『うええ゛え゛え゛え゛え゛もうやだぁあ゛あ゛……』
それからしばらく彼女のすすり泣く声をBGMにしながらアイテム回収の攻防が発生し、役割を交代して死体を起こした彼女が死に顔に驚き離して床へ叩きつけてしまい、5回ほど繰り返される死体にコメントが同情を始めるなどのトラブルを経て、およそ数分後に私たちはアイテムの回収に成功した。
入手できたものは鍵だった。
鍵によって新しいフロアが解放されたところでチャプターが終了し、主に彼女のビビり芸が多数の撮れ高を生んだホラー配信もそこで終了となった。
「はぁ……疲れたね、お疲れ様」
『…………』
リスナー向けに終了の挨拶をしたあと、私は通話中のサリス・ヒューマンに改めて挨拶をした。返事こそないものの荒い息が続いていて、彼女が本当に消耗しきっていることが窺える。
『あの……』
「うん」
しばらくして返ってきたのは蚊のような声と虫の息を足して二で割ったようなものだった。ゲームの雰囲気が明るかったから私には平気だが、もし逆に暗かったら私も同じようになっていただろう。
『もうちょっと通話繋いでていいかしら……』
「うん……。サリスさんが落ち着くまで切らないから大丈夫だよ」
それからぽつぽつと私たちは話をした。
私からは改めて謝罪をした。最初コラボに誘われたときに失礼な態度をとってしまったことを。本当の理由を言うことはできないから収益化のプレッシャーと体調不良のせいと嘘を付いてしまったが、彼女は気にしないでと言ってくれた。
そして彼女からはホラー配信やってよかったと言われて驚いた。あれだけ怖がっていたにも関わらずである。サリス・ヒューマンのキャラクターとして人間のくせに明るいところが怖いというのは表現しておきたかったけれど、一人でホラーやれる気がしなかった、だから一緒にやってくれてありがとうと感謝されてしまった。
彼女のガバガバ人間アピールはいつも大変そうだなと思うけれど、いつ見ても面白い。
乾家つるぎは、自分が面白いと思うものを発信してたくさんの人と共有していくVtuberだ。だから私が彼女の表現に関われるのは嬉しくあり、また誇らしく感じるところでもある。
こちらこそありがとうと言ったら、なんだか照れたような笑いが返ってきたけれども。
『ヒュー子でいいよ』
「うん?」
『ヒュー子って呼んで。あたし最近、配信でヒュー子ってよく名乗ってるから』
公式の名前を名乗らなくていいのかと聞きそうになるが、ふいに以前のマネージャーの言葉を思い出した。公式の初期設定は演者のやりやすいように変えていいんだったか。
「じゃあ、ヒュー子……さん」
『さん?』
なにか期待されてるような気がする。
「ヒュー子、ちゃん……」
『じゃああたしもつるぎちゃんでいいよね?』
「うん……」
頬の熱さを感じて顔を覆ってしまった。こちらは数ヶ月前まで男として生きてきた人間である。若い女の子同士の距離感なんてわかるわけがないし、ちゃん付けで呼ばれるのはめちゃくちゃに恥ずかしい。
嬉しさもあるのは、否定しないけれども。
『そういえばつるぎちゃんっていつも地声で配信してたのね。地声がすごい可愛いっていいなー』
「それはどうも……。ヒュー子、ちゃんは配信中少し声を高めにしてるんだね」
『だいたいみんなそんな感じだとおもうわ』
それからしばらく私たちは話し続けた。
どうでもいい、他愛もない会話ばかりだった。転生してから誰かと雑談するのは初めてで嬉しかったし、その相手が吸血鬼だというのはなんだか不思議だった。
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乾家つるぎ tsurugi@prism
配信後ヒュー子ちゃんが落ち着くまで1時間くらい通話してたよ
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