「ぶー、ぶー」
唇を閉じながら空気とともに音を出す。私は小さな幼児の遊びのような、あまり人様には見せられないようなことをしていた。もっともここは私の家のお風呂場。間違っても誰かに見られるようなことはない。
ときどき唾液で唇を湿らせながらこれを繰り返す。初めは一番低い音、だんだんと音を上げていって一番高い音。それが終われば逆の順番で。
私はお風呂場でリップロールというボイストレーニングをしていた。
リップロールが終われば次は腹式呼吸の練習。ゆっくり時間を掛けて息を吸い、倍の時間を掛けて息を吐いてゆく。へその裏側あたりに意識をやりながらとにかく長くゆっくりと息を吐く。これは繰り返しすぎるとお腹が痛くなるのでほどほどに。
そのまま熱いシャワーを浴びて体を洗い終ったら、お風呂場から出て次はスマホを使っての練習。軽く口ずさむようにワンフレーズを歌って録音。その声を聞きながら改善点を考えていく。
マンションで大きな声を出せないから、こういったボイストレーニングを毎日繰り返していた。一日数回、体に負担がかからない程度に。
前世で数えるほどしか歌ったことがなく、転生してからは全く歌ったことがない。そんな私が歌を公開するからには相応の練習が必要だろう。期待してくれてる人がいるならばなおさら頑張らなくてはいけない。
それにしても、と録音した声を聞いてると思うことがある。
自分の声は果たしてそんなにいいものなのだろうか。
スマホから再生される音は鈴とか絹とか、そんなよくある形容が浮かぶような軽やかで滑らかな声だが、これが魅惑の美声なんて言われると首をかしげるしかないのだ。
『それはね、厳密にはつるぎちゃんの声そのものに魅力を感じてるわけじゃないと思うのよ』
場面変わってヒュー子とのデスコ通話。声に関する疑問をぶつけてみるとそのような言葉が返ってきた。
「え、もしかして私が歌う意味ない……?」
いやそうじゃなくて、とヒュー子は続ける。
『つるぎちゃん全体にすごく魅力があるけど、配信だと声しかわからないんじゃない?』
「……どういうこと?」
Vtuber乾家つるぎではなく、その演者である黒川京子に魅力があるのだと彼女は言う。配信では黒川京子の姿は見えず代わりに乾家つるぎのイラストしか表示されないから、外見に不思議な魅力があるわけではない。体の動きや仕草に関しても黒川京子からキャプチャーしたものを動くイラストで表現してるだけだから、そちらにも特別な魅力が生まれるわけではない。
ただし音声に限っては黒川京子の声がそのまま配信に乗る。だからこそみんな魅力を感じているのだと説明された。
『オフで会ったときはどうだった?』
言葉を挟むのはリジアだ。いま私たちは三人で通話している。
『オフでつるぎちゃんを見たときは、声に限らず全部すごかったわ。もう見た目もみんな、ぜんぶ』
全部。
黒川京子の外見、声、仕草、あるいは匂いや足音さえも彼女には魅力的に映った。らしい。
荒唐無稽というかなんというか。
異世界に転生してる身分で言うのも変だが非現実的でなかなかに信じがたい話だ。
仮に真実だとしても、なんだか呪いのようなものに感じられてしまう。
『ガチ恋みたいな?』
『いやいやそういうのじゃないの。こう、魅力が人の形をして歩いてる感じ。あーカリスマって本当にあるんだなーってあたしそのとき思ったもの。あたしだけじゃなくて他のひとたちもチラチラつるぎちゃんのこと気にしてたから』
いままで。
いままで私は多くの人から自分を魅力的だと言われてきた。その多くは声に向けられたものだったが、私はようやく魅力の正体が理解できた。
きっとこれは本当に呪いなのだ。
私が人間であるゆえの呪い。
私は人間だからこそ、吸血鬼である彼らに魅力を抱かせる。
口を開けば声で惹きつけ、姿を見せれば外見で惹きつける。きっと私の自覚してない様々な部分でも彼らを惹きつけているのだろう。
体から熱が抜け落ちるような感覚に襲われた。
このまま私は吸血鬼たちの関心を引く行為を続けていていいのか。それは緩やかな自殺行為じゃないだろうか。もっと他に賢いやり方があるのではないか。
体中を自己批判の嵐が吹き荒れ、私の心を冷やし、こわばらせていく。足元がグラグラ揺れて心細くなる感覚は転生してから何度も抱いてきたが、まるで慣れる気配がなかった。
「そう、なんだ」
『そうよ。つるぎちゃんのそれは才能だと思う。いつかきっとすごいVtuberになると思うわ』
すごいVtuberになる。
その日が来るまで私は正体を隠せていられるだろうか。
無理じゃないかと囁いたのは、私の頭と心のどっちだろう。
『歌の話に戻るけど』
黙ってしまった私に向けてリジアが言葉を掛けてくる。
『歌うとみんな喜んでくれると思う』
「……」
『そうね』
そのまま言葉をかき集めるように、そして絞り出すように続ける。感覚的なものを言葉で言い表すのが苦手だという彼女から、一生懸命伝えようとする気持ちを感じた。
『つるぎさんがリスナーのために何かしようとする。頑張る。それだけでみんな嬉しいはず』
『だって歌ってほしいってマロマロよく届いてるんでしょ? その気持ちに応えるんだから嬉しいに決まってるじゃない』
すとん。そんな音がした。納得の音だった。
リジアの言葉は、説得力は将来の不安で乱れそうになった私の心へするりと滑り込んで、そして重しのように鎮めて安定させくれた。
そうだ、一度決めたじゃないか。
たとえ途中で正体がバレて活動できなくなったとしてもいいと。その瞬間まで私はVtuberをし続けるのだと。そのために黒川京子として転生したのだと。
いつか私が人間だということが明るみになって、それでどんなことになったとしても後悔せずに結末を迎えたい。この道でよかったと胸を張って言えるようになりたい。
そのためにはどうするべきか。
毎日毎日、ひとつひとつ、自分が善いと思うことに全力で取り組んでいくしかない。
「……うん。そうだね、歌うよ」
『歌って。私は聞きたい』
『あたしも聞きたい。何歌うのか決めてるの?』
「えっとね」
一拍置いて深呼吸する。頭を振り、先程よぎったネガティブな感情を払って思考を切り替えた。
実はまだ何も決めてない。そもそもこの世界にどんな歌があるのかさえまだよく知らなかった。
「えーっと……」
唸り続ける私で察したのか、二人は色々と提案してくる。
『何かアニメ見る? アニメからアニソン知っていけると思う』
『オススメの曲教えるから今度カラオケいきましょ』
様々な案が出た。マロマロで歌ってほしい曲を募集するとか、配信したゲームの曲から選ぶとか。そうやって二人が親身に一緒に考えてくれる。
「カラオケはすごく行きたいかも。マンションだと大きな声出せないんだよね」
『決まりね。それじゃ日を決めましょ』
『いっぱい楽しんできて』
私とヒュー子の住所は関東でリジアは九州だから、オフで会おうとするとどうしてもリジアだけ仲間はずれになる。
そのうえでリジアは楽しんできてと言ってくれているが、声に滲んだ寂しさをヒュー子は見逃さなかった。
『つるぎちゃんの歌の練習が終わったら、あたしたち三人で何か一緒に歌を出さない?』
「そうだね。それぞれ録音すれば同じ場所で歌えなくても三人の歌にできるし」
ヒュー子の提案をすかさず拾う。
ふたりは大事な友達だ。人間が私しかいない世界で彼女たちにはずいぶん助けられてきた。彼女たちと話すことで落ち込みそうになった気分が救われたことは一度や二度ではない。
私の正体がバレる日がいつになるかはわからない。
だけどせめて、こうして友達と話せる時間が長く続きますようにと祈った。
吸血鬼に対する魅力に気付く回です。
そろそろ話が動いてきます。