金曜日。ヒュー子と約束したカラオケの日。これで二回目のオフになる。
私はマンションの前に立った。深夜2時。地下通路のなかなのも相まって、あたりは完全な暗闇に塗りつぶされている。
最初ヒュー子は私の家まで迎えに行くと言ってくれた。私が暗闇で視覚を失うと知っていての申し出だ。しかし彼女は住所が隣の県で、私の最寄り駅まで一時間ほど電車で揺られなければいけない。そんな長距離を移動させてさらに家まで迎えに来させるのは忍びなくて、私は駅のそばで待ち合わせることを提案した。人の多い場所は避けたいがそうでない場所なら問題はないだろう。
しかしすぐに却下された。
至近距離の相手の顔すら見えない子にそんな危ないことはさせられないと猛反対された。とはいえ私だって以前会ったときに一人で駅まで辿り着けた実績があるのだ。そこまで一生懸命に介護しなくていいと反論した。
待ち合わせ場所の議論はおよそ一日続き、私のマンションの前でという落とし所になった。
「……」
自分の格好におかしいところはないかなと視線を落とし、相変わらず真っ暗で何も見えなかったからすぐにやめる。
今回もリジアに服を考えてもらっている。彼女の選んだものはとてもセンスがあったし、家を出る前に姿見で散々確認したから格好に問題はないはずだ。はずなのだが女の子の服を着て人前に出るとどうしても緊張するし不安にもなる。
「おまたせ、京子ちゃん」
「梨沙ちゃん」
名を呼ぶ声に応える。心のなかで何度も練習した返事だった。
駅近くのカラオケまで手を繋いで移動する。
受付などをすべてヒュー子が済ませてくれるからただ手の引かれるままに移動するだけでよかった。
「よいしょ……」
「そのバッグ何が入ってるの?」
部屋に到着して、私が道中何度も左右の手に持ち替えていたバッグを置くなりヒュー子が質問してくる。持ち替えるたびに手を繋ぎなおしていたからずっと気になっていたのだろう。私が持ってきたのは合成皮のボストンバッグ。近所のカラオケに行くにはあまりにも大げさなものだ。
答えるより実際に見せたほうが早いと思ってバッグを開ける。
「中身はこれ」
「それは……」
中から出して持ち上げてやると、返ってきたのは数秒の沈黙。あれっと思ってそのまま待つと、また数秒経ってから質問が来た。
「それ、なに……?」
「ええ……」
何ってルームライトなのだが。きょとんとするヒュー子と戸惑う私で気まずい空気が流れた。
それから私ははっと気付く。そもそも夜目が効く吸血鬼はルームライトなどの照明器具を使わないから、あまり見慣れてないんじゃないだろうか。私はネット通販で購入したからこれが一般的な家電量販店に並んでいるかどうかを知らない。
「これはね、電気で明かりをつけるものだよ。どこかにコンセントないかな」
それなら貸してと言う彼女にプラグとコードを渡す。
合図に合わせてスイッチを入れると、部屋に光が生まれた。
電球色で浮かび上がるのはL時の形状をした大きな座席、マイクとタブレットが乗った黒のテーブル、カラオケ機器とモニター。
そして、この世界で一番最初にできた私の友達、ヒュー子の姿も浮かび上がっていた。
「どう? よく見える?」
じっと見つめてしまった私に彼女が笑いかける。ショートボブでほっそりした、二十代初めの綺麗な女性だった。それでいてほんの少し前までは学生だったというような、どこか社会人としては垢抜けない初々しさを持つ人でもあった。
「うん……。よく見える」
Vtuberの名前はサリス・ヒューマン。通称はヒュー子。そして本名が笹川梨沙。目の前の彼女が私の友達だったんだなと思うと、なんだか感慨深くなってしまった。
それから私たちはいろんな歌を歌った。
ヒュー子は私がいろんな歌を楽しめるようにしていたと思う。私の知っている歌を二人で歌ったり、スマホでメドレーを再生して私に気になるものがないかを聞いたり、知らないものでも気になった曲はサビを教えてくれて短いパートでも一緒に歌えるようにしてくれたり。そんな配慮と工夫をいくつも感じた。
そうしてるとあっという間に数時間が過ぎた。もちろんそのあいだずっと歌い続けたわけでなく、伴奏だけ聞いて過ごしたり、ときどき休んで雑談したりした。
彼女とはよくデスコの通話で話してきたが、姿を見ながらだと色々な思いが生まれてあとからあとから言葉が出てきて止まらなかった。
きっと私はこの世界に来てからずっと友人というものに飢えていた。だからこの時間の終わりを惜しんで、精一杯楽しもうとしていたのだ。
そんな私にヒュー子は苦笑しながらフロントへ連絡する。聞こえた時間延長と軽食の注文から私の気持ちが受け入れられたような気がして、よりいっそう二人の時間にのめり込んでしまった。
考えてみれば、転生してから半年以上経っているのに、人と対面しまともに交流したのはまだこれで二回目だった。
「楽しかった。本当にありがとう」
「どういたしまして。また一緒に来ましょ」
店から出る頃にはもう日が昇っていて、地下通路の天井の磨りガラスがすっかり明るくなっていた。
二人で何時間カラオケにいたのかわからない。追加で注文した食べ物を夕食の代わりにまでしてしまった。店の用意した食べ物は特に可もなく不可もなしといったところだったけれど、誰かと一緒に取る食事は前世も含めれば一年ぶりで、ひたすら楽しかったと思う。
私たちはヒュー子の提案で地上の通路に出る。
地上と言ってもそこは日差しを直接受けるような道ではなく、そこはアーケード状の屋根で日光対策がされている場所。いまでこそ降ろされたシャッターが両側に壁を作っているが、吸血鬼の主な活動時間帯ではすべて開放されて風通しの良い通路になっているであろう場所。前世のもので例えるなら、シャッター通りになった商店街が近いだろうか。
決して日光の差し込まない場所だけれど、地下通路よりずっと明るいここは、私の視力でも問題なく歩けた。
こんなところあったんだ、と呟く私。
駅の地図で探してみたの、と答えるヒュー子。
残念ながら私の住むマンションまで通じてはいないけれど、暗くない道を知れたのはそれだけで嬉しい。
それに吸血鬼がいないのも好ポイントだ。日が沈んでいればそれなりに人通りはあっただろうが、いまは遠くに影をひとつ見つけられるくらいしかない。みんなわざわざ地上でなく地下のほうを歩くためだ。
「……」
こんな道を一緒に歩いてくれることが嬉しくなって、繋いだ手にぎゅっと短く力を込めてみる。
すると同じくぎゅっと力を込められた。
小さな子供の遊びのようなやりとりに二人してくすくす笑う。明るい道では手を繋ぐ必要がないのに、それでもずっと繋ぎっぱなしだった。
だけど、家に着くまでずっと続くと思っていたふわふわした気持ちは唐突に終わる。
「おい」
酒の臭気を纏う赤ら顔の吸血鬼によって。
強い力で手を引かれた。
引いたのはヒュー子だった。
私は躓きそうになりながら彼女の後ろに隠される。
「……なんですか」
聞こえるのは彼女の緊張と敵意に満ちた声で、相対するのは呂律の回らない胡乱な男の声。
「ねーちゃん、いくら?」
ヒュー子の背中から覗けば、赤ら顔の男の吸血鬼がズボンから財布を出そうとしている。どこからどう見ても酔っ払いだ。歳のほどは40代だろうか。身なりはいいが情欲を一切隠さぬ目つきに嫌悪感が湧く。
「ふたりぃ、いるからー」
そんな吸血鬼が私たちの体を買いたいなどと言っているのだ。
ヒュー子は無視して私の手を握りながら反転しようとするが、それは叶わない。
「痛ッ、離して!」
ゴツゴツした手が彼女のもうひとつの手を掴んでいた。酔っ払っているとはいえ大柄な中年、対するは社会人になったばかりの細身の女性。ふたつの手の大きさを見比べてしまったらもうだめだ。力では絶対にかなわないと思い知らされて抵抗する気が萎んでしまう。力比べに持ち込まれてはもうどうしようもない。
誰か、誰かと彼女が叫ぶ。しかしその誰かはここにいない。この地上通路に他の人はいない。当たり前だ。だってみんな地下のほうを歩きたがるのだから。
「そんなに嫌かぁ、残念だ。それじゃあ後ろの小さい子に頼もうかな。若い子はかわいいね」
「絶対ダメ!」
もはや絶叫に近い声が通路に響いた。彼女の声はどこか湿って掠れていて、後ろからでも涙を浮かべているのがわかる。
「……」
なんだろうこれは、と私は強い疑問に囚われた。
この状況は一体何なんだろう。
酔っ払った中年の吸血鬼が若い女子二人に絡んでる。体を狙っている。もう女の身では恐怖に縮こまってしまうことだろう。私の手と繋がるヒュー子のそれが震えていて痛ましい。しかし彼女は一生懸命に胸を張って立っている。小さな少女である私をその身で守るためにだ。
理解できない。これは一体何なのだろう。
私も間違いなく体を狙われている一人のはずなのに、なんだか世界が現実感のない白黒の景色に見える。被害者のはずが、二人のやり取りをぼうっと眺める傍観者になっている。
おい、と胸をつく内なる思いに気付いた。
おい、いいのか。酔っ払いに絡まれてる女の子を見過ごしていいのか。
それは私が前世で20年以上付き合ってきた『男の感情』だった。義憤と使命感に満たされた、ヒロイックでどこまでも我の強い感情だった。マグマのように滾る強い思いが私を被害者の立場から引き剥がし、女の子を助ける第三者の立場に押し込んだのだ。
――やめろ、女の子が嫌がってんじゃねぇか。
握った拳を振り上げようとした衝動を、また別の何かが押さえつける。ここで殴り掛かるよりもっといい方法があるでしょと嗜める思いがあった。それは私が今世で獲得した『女の感情』だった。憎しみと計算と、そして何より仲間意識の強い感情だった。
――ヒュー子、いま助けるよ。
異なるふたつの混ざった感情は、本人の私すら予想できなかった言葉を紡ぐ。
「それならおじさん。私と行こうよ」
水を打ったように二人が止まる。中年の男とヒュー子が驚いたように私を見ていた。私の表情筋は笑顔を作っていた。とびきり可愛い女の子の、とびきり可愛い笑みを見せつけてやった。
「待って、つるぎちゃん……待って」
弱々しい言葉を絞り出すヒュー子を心の内で謝りながら無視する。彼女の手を放して、代わりに男の手を握った。
「行こ、おじさん。いいところ教えてあげる」
だらしなく緩む好色な顔を見て、自分の魅力の確かさを実感して、そして足を進める。己が魅力で他者を誘惑する昏い楽しさと、自分より強いものに抱く確かな勝機と、そして友達を怖がらせたことへの激しい怒りが私の足を支える。
目的地はすぐそばだ。地上通路の壁側、シャッターの合間にある扉。日が昇るまで建物に入れなかった吸血鬼が駆け込むための、地上通路と外を繋ぐ金属の扉。
私は扉に背を預けて男に向き、その手をしっかり握りしめながら。
「ほら、こっち」
後ろ手に開けた扉から、日光の降り注ぐ世界に引きずり出してやった。
現代の吸血鬼は日光浴びてもすぐダメージ入ったりはしないからたぶん大丈夫。