裏返った悲鳴が無人の屋外を駆け抜ける。
日光の世界まで引っぱり出された中年の男は驚きと恐怖で必死にもがく。
必死なのは私も同じだった。右手で彼の手を握り、左手で服を掴んで全体重を後ろに傾けた。
「やめろ、やめろ! 馬鹿じゃないのかお前!」
男が激昂するのは当然だ。日光なんて吸血鬼にとって毒でしかない。一分二分でどうにかなるものではないものの本能的に恐怖するのだ。
初動は完璧だったと言っていい。驚いて硬直した男は簡単に引っ張れたし、私が手を放した扉は勝手に閉まってくれた。地面に投げ出すつもりで一気に体を後ろへ倒したから1mくらいは扉から引き剥がせた。
けど、それでも体格差体重差というのは如何ともし難い。男が冷静さを取り戻すにつれ逆に私のほうが引っ張られはじめる。
「……!」
男の手を掴んでいた右手が振り払われた。
そして彼は残った私の左手を両手で剥がそうとする。
力比べになればもうだめだった。もともとヒュー子ですら敵わなかった相手なのだから、彼女より体格の小さい私ではとても勝負にならなかった。
残った左手まで払われて私は尻もちをつく。
「狂ってる……、 お前狂ってるぞ!」
男と目が合う。意外にも彼の目にあったのは怒りでなく恐怖だった。声と足を震わせ、まるで怪物と遭遇したように体を縮こまらせていた。彼は日光だけでなく私にまで恐怖したのだ。
それから踵を返し大慌てで扉の奥へ消えていく男を見送り、私は尻をついたまま目を閉じて全身から力を抜いた。
足音が遠ざかる。金属の扉が音を立てて閉まって、あとは静寂だけが残る。
脅威は去った。
「はぁ」
疲労感と安心感。そして達成感。
転生してからずっと、ずっと恐怖を抱かされてきた吸血鬼というものを撃退した事実がゆっくり心に染みわたる。
なんとも不思議な気持ちがあった。言葉で表せない、輪郭のぼやけた、しかしきっと頭上の空のような色をした気持ちだった。
日差しが暖かくて大の字に眠りたくなる。
「つるぎちゃん!」
悲鳴の滲む声がする。見れば扉を開けたヒュー子がいる。
彼女は日なたを前に一拍躊躇を見せて、それから意を決したように飛び込んできた。私が言葉を発するよりも早くしがみついてきて、引きずるように通路の中へ運びこんでいった。
「ばか! ばか!」
日陰に戻るなり罵倒が飛んでくる。声にならない声でどうしてあんなことしたのとか、危ないじゃないとか、様々な言葉を浴びせてくる。けれども表情はくしゃっとして泣きそうで安堵してるようで、どこまでも私の身を案じているのがわかった。
それもそうだ。彼女は私のことを吸血鬼だと思ってる。吸血鬼が日向で眠ったら普通に死ぬ。
体を放り出したままの私に彼女が覆いかぶさってきた。くしゃくしゃの表情がよく見えた。
「赤くなってる……」
「あー……」
不意に頬に冷たい感触を覚えた。手を当てられたらしい。
言われてみれば左頬が熱い。男が暴れたとき拳でも当たったのだろう。なんとなく血の味がするのは口の中を切ったからかもしれない。
「あのね、つるぎちゃん。お願いだからこんな危ないことしないで。あと人を外に連れ出すのは……」
連れ出すのは。
そこでヒュー子の言葉が途切れた。どうしたんだろうと彼女をよく見上げると、まっすぐこちらに向いたまま目を見開いていた。
「ヒュー……」
子、まで言わせてもらえない。頬に添えてきていた彼女の手は私の唇まで移動し、突然指で口を開けようとしてきた。
「……っ!」
何かおかしい。
上から彼女の顔が近づいてくる。
まるでキスの距離だ、そう思ったとき私の中で色々な要素が電撃的に繋がる。
吸血鬼。
人間。
血の味。
口の中を切った。
吸血。
あ、と気付いて大慌てで互いの顔のあいだに手を差し込んだ。
けれどもヒュー子は予想以上の力で顔を近づけてくる。開いた口が迫る。白く覗いた歯が剣呑で禍々しいものに見えた。
「ヒュー子、待って! ヒュー子……!」
目を閉じる。
自分はこのまま彼女に噛まれて血を吸われてしまうのか。そう思うとどうしようもなく悲しくなってしまった。
こんな日がいつか来ると思っていた。
自分の正体が人間だとバレて、果てに吸血鬼から血を吸われる。この世界で生きるかぎりその末路は避けられないものだと思っていた。
私は、私の正体に気付くのは彼女であってほしいとどこかで願ってた。
でも、私の血を吸う吸血鬼が彼女でないことを祈ってたのだ。
大事な友達に血を吸われてしまうこと。大事な友達に血を吸わせてしまうこと。そのふたつが私の心を締め上げる。
「……」
目を閉じてどれくらい経っただろう。体感では何分にも感じられたが、実際には一秒二秒くらいだろうか。
予想した噛みつきはやってこない。
代わりに、頬に熱いものを感じて恐る恐る目を開けた。
「ヒュー子……」
彼女はひどく動揺して傷ついたような顔をしていた。目元から溢れてきたものが私の頬に熱を落とす。
何が起きてるのかわかってないのだ。
私の人間という要素が、血液が吸血鬼としての本能を操って襲わせてることを彼女は理解できていない。理解できていないからこそ現状に戸惑い、そして深く傷ついている。
ゆっくりと彼女の顔が離れる。
立ち上がって、一歩二歩と後ずさるのを私は横たわったまま見上げる。
「ごめんね」
それはどちらの言葉だっただろう。
ヒュー子は弾かれたように背を向けて走り出し、私は何もかも放り出したくなってそのまま目を閉じた。
◆
地下通路に降りて通行人をかき分ける。
あたしは走った。とにかく走った。
何もかもが衝撃的で信じられなくて、ただがむしゃらに走った。頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
すれ違う人々が驚いてあたしを見るけど関係ない。
何も考えたくなくて走ってるのにごちゃごちゃと考えてしまう頭が恨めしい。壁にでも打ち付けたら考えるを辞めてくれるんだろうか。
二度目に会うつるぎちゃんはやっぱり可愛かった。リジアちゃんが新しくアドバイスしたっていう服は似合っていたし、明かりをつけた部屋のなかで初めて目が合ったときは感激しそうになった。
一生懸命歌おうとするのは応援したくなった。彼女の知ってる歌を一緒に歌ったり、私の好きなものを一緒に聞いたときはとても楽しかった。
あの酔っぱらいには何もかも台無しにされた。気持ち悪い目つきと言葉であたしの体を舐め回すのは許せなかったし、つるぎちゃんにまで向けていたのはもっと許せなかった。
それからつるぎちゃんがあの男を外に連れ出したときはとてもびっくりした。
それからあたしが彼女を日陰に連れ戻して、それから。
「……はぁ、はぁ」
それからが、あたしには何もわからない。
足が限界になって立ち止まる。通路の壁に体重を預けた。走りすぎて胸が痛い。体が熱いし前髪が汗で張り付いて気持ち悪い。
あのとき。
彼女に人を日向に引っ張り出すのは犯罪なんだよと注意しようとしたとき、なぜかあたしは彼女が怪我してることに気付いた。赤くなった頬じゃなくて別のどこかが、見えなかったけどどこかが出血してるとわかった。
そうしたら一瞬で頭が痺れて、まるで両側から脳をがっちり掴まれたようになってつるぎちゃんの顔のほうへ近づけられた。
あたしはキスがしたかった?
あたしは同性が好きになった?
それは違うと思う。あたしは高校の時に彼氏がいて、普通に異性として好きになっていた。当時恋人に抱いていた感情は、さっきのつるぎちゃんに抱いたものとは全然違ったはず。
「あたしは……」
もう気付いてるでしょ、目をそらさないでと自己批判が吹き荒れる。
「あたし、は」
彼女の血を飲みたいと思ってしまったんだ。
「……」
おかしい。
そんなの全然おかしい。
吸血鬼は絶対に同族の血を求めたりしない。飲んでも全く意味がない。なのにさっきは間違いなく彼女の血を求めていた。
あたしが突然おかしくなったのだろうか。
それとも彼女の血だけが特別なんだろうか。彼女だけ他の吸血鬼とは違うんだろうか。
「……」
考えてみれば確かに彼女は特別だ。
真祖で。
デイウォーカーで。
日光を全く怖がらなくて。
そのくせ暗いところが全然見えなくて。
B型とかいうよくわからない血液が好みらしくて。
人混みに紛れていてもひと目で見つけられるような存在感があって。
そのうえ、吸血鬼すら飲みたくなる血まであるというの?
「そんな吸血鬼、いるの……?」
たくさんの感想ありがとうございます。
執筆の励みになります。