鳴り響くインターホンに応じて玄関の扉を開けた。
乾家つるぎの3D配信当日。マネージャーの渡良瀬が迎えにきてくれることになっている。私が夜目が利かないことはプリズムのスタッフで共有されていて、送迎の必要があると判断されているのだ。3D配信の開始は8時からですでに日が昇っている時間だが、吸血鬼の活動場所は照明のない屋内や地下がほとんどだった。
「今日はよろしくお願いします」
「頑張りましょう。応援してますよ」
着替えとルームライトを詰めたバッグとともに家を発つ。だいぶ大荷物になってしまったそれをマネージャーが代わりに持とうかと言ってくれたがありがたく遠慮した。照明が生命線だから他人に預けたくなかったのと、いつかのリングヒット配信で体力の無さを痛感したから自分で頑張ろうと思っていた。
とはいえマネージャーがすぐにタクシーを手配したから、それほど長い時間持ち続けることはなかった。
タクシーで地下道を1時間ほど走ればプリズム事務所のあるビルに到着する。ここに来るのはこれで二回目で、最初は面接を受けに一人で来たものだ。いま思えばよくもまあ辿り着けたなと数ヶ月前の自分に感心する。どうやって来たかはもう覚えてないが、とにかく必死だった。
マネージャーの背を追いながら小さな箱に入る。吸血鬼の作ったビルはやはり照明がなくて暗いけれど、パネルが放つ光から辛うじてそれがエレベーターであることがわかった。
オフィスビルの階のひとつにプリズム事務所があり、そのひとつ上の階がスタジオとなっている。マネージャーが押したのは事務所の階のボタンだった。
「おや、どうも」
開いたエレベーターから事務所に入ろうとすると不意に横から声をかけられ、二人で足を止める。マネージャーが口を開くよりも早くその人物は言葉を続けてきた。
「もしかしてつるぎちゃん?」
若い女性の、聞き覚えのある声。
「えっと……、トゥーリさん?」
「あたりー! へー、つるぎちゃんかわいいねぇ若いねぇちっこいねぇ!」
暗くて顔は見えないがテンションが猛烈に上がったのはよくわかった。トゥーリは私の手を掴むなりぶんぶんと上下に振ってくる。たぶん握手に違いない。
「よろしくお願いします」
声の方向に向けて頭を下げる。
「よろしくよろしく。今日はサチヨとヒュー子ちゃんが来てるよ。サチヨとは初対面だっけ?」
胸をぎゅっと握りしめられたような気がした。ヒュー子。いまの私にその名前は少しだけ重みを持つ。
「そう、ですね……」
私の煮え切らない反応で彼女が戸惑う気配を感じる。反応したのはサチヨの部分でなくヒュー子の部分なのだが、それを説明するわけにもいかず、なんて誤魔化そうかと考えてるうちにマネージャーから助け舟が来た。
「つるぎさんは照明がないとあまり目が見えないそうなんです。なので部屋に行きましょうか」
事務所にあったルームライトを点けると、デスクの並んだ部屋の光景がぼんやりと浮かび上がった。私のそばにはリムレスのメガネを掛けた女性がいて、目の前には後ろで髪を結んだパッチリした目の女性がいる。それぞれがマネージャーとトゥーリのようだった。
「つるぎちゃん目が悪いの?」
「そうですね。実は照明がないとほとんど」
そういえば私の目のことはスタッフのあいだにしか共有されていないんだったか。吸血鬼にとって夜目が利かないのはピンとこないようでトゥーリはまじまじと私の顔を見ていたが、世の中にはそういうものがあるのかと納得してくれた。
「あれ、なんか明かりついてるな」
新しい人物が登場して言葉とともに部屋へ入ってきた。ガッシリした体躯を持つ短髪の男。年の頃は二十代後半くらいだろうか。スタッフらしくないラフな言い方と性別から私は彼の正体を推測する。
「お、サチヨー。いまねつるぎちゃんが来たんだよ」
等々力サチヨ。プリズムで現在二人しかいない男性ライバー。美少女ボディの狂人とリスナーたちには認識されている。
「乾家つるぎさんか、はじめまして。今日は頑張ってね。なにか話題やリアクションで困ったら遠慮なく俺たちに振っていいから」
その狂人というのも実際は演技で、実はとても真面目で配信業にひたむきな男だという認識もされている。本人は決して認めないが、リスナーには隠れた真面目さも含めて愛されている人物だ。本来3D配信では交流のある人が呼び寄せられるのだが、初対面のサチヨがここに呼ばれたのは私の交友関係の狭さが原因だろう。私がまともに交流したことある相手は同期とトゥーリだけで、リジアはそもそも住所が九州だしまだ3Dの体も持っていなかった。
「今日はよろしくお願いします、サチヨさん」
彼にはしっかり頭を下げて挨拶しておく。初対面だからというのもあるが、私は男性Vtuberには一定の尊敬を持っているのだ。男だった前世でもVtuberを目指していたのだから。
「荷物を置いたらスタジオの方に行きましょう」
マネージャーの言葉に頷き、先輩ふたりに挨拶してエレベーターへ向かった。
スタジオにはヒュー子がいてスタッフとともにスタジオの準備を手伝っていた。私たちは目が合っても言葉を発さず、けれども無視することもできず、ただ軽い会釈だけをした。
【3D公開】おまたせ!【乾家つるぎ/プリズム】
配信の始まりで、揺れる茶色の尻尾を映してみたらコメントの流れが洪水のようになった。
初め、乾家つるぎというキャラクターは犬の耳が生えただけの女の子という造形だったが、私が人狼を名乗ったことで『そういうこと』になったらしい。3D化に合わせて私の腰から髪と同じ色の尻尾が生やされ、体の動きに合わせて緩やかに揺れてくれる。
3Dの体は基本的に初期衣装からデザインを変えないものだが、私は少しだけ特別だった。新しく生えた要素はリスナーに好評で、尻尾が揺れるたびにコメントが高速で流れてなんだか楽しい。コメントでやけに犬っぽいポーズばかり要求されたが、全体的に私も楽しめた満足のいく前半だった。
そして私はまだ歌わないからと代わりに挿入されたのがリングヒットパート。円形の専用コントローラーを持って筋トレするのだが、こちらは攻略で必死になってしまってほとんどコメント画面を見る余裕がなかった。トゥーリが言うには好評だったらしいが、体力クソザコ人狼の汚名を返上できる日はまだまだ先だろうか。
やがて3D配信は後半部分に至る。
「……」
いま私の目の前には紙コップがあるらしい。らしい、というのは私が目隠しをされていて、なんとなくさらさらした感触でしか手に持っているものを認識できないからである。
ゆっくりと持ち上げてみるとそれなりに重量があった。そのまま鼻先まで近づけてみる。ふわっと発酵した植物の香りがする。お茶のようだ。
3D化記念配信のプリズム恒例企画、利きドリンクのルールは目隠ししながら紙コップの中身を飲み、飲んだものの正体を当てるというシンプルなもの。これを四人で順番に繰り返していくのだ。
私は意を決してコップを傾けてみる。
冷たい液体が口内にするりと滑り込み、味覚を清涼感で撫でていった。お茶かもしれない。
「お茶、ですよね……?」
「何のお茶か当ててみて」
横からトゥーリの声。この利きドリンク企画は飲んでいる当人以外は答えを知らされている。回答者の悩む様子に周囲がニヤニヤそわそわするのもエンターテイメントの一部だ。
「うーん、烏龍茶で」
「ざんねん! 正解は麦茶だった!」
当てずっぽうではさすがに回答できなかったか。目隠しを外しながらすぐに回答役を交代する。次の回答者はトゥーリで、飲み物は野菜ジュースだった。
三番目の回答者はヒュー子で、中身はコーラ。不意打ちの炭酸に吹き出しそうになるも正解を言い当てる。
四番目の回答者はサチヨ、中身はコーンスープ。紙コップを持った瞬間に熱がりコメントが賑わった。こちらも正答。
序盤はまだまだまともなものしか出ないためさくさくとローテーションしていく。タバスコなどの危険物が登場してくるのは三週以上してからだ。前回ヒュー子が玉ねぎジュースを飲まされたのは四周目である。設問が多いが経験豊富な先輩たちがうまく回してくれるおかげで本当にテンポよく進んだ。
さて、二週目となって私の番が再び来る。
「次こそは当てたいですね……」
目隠しをつけて紙コップに触れる。熱くはない。スープ類ではなさそうだ。
次は鼻を近づけてみる。微かな生臭さと鉄分のような香り。馴染みのない匂いだ。どこかの温泉水だろうか。
周りが妙に静かで、私の回答を期待しているような気配がした。
まだ変なものが来るターンじゃないから大丈夫だと自身を奮い立たせ、私は一気に呷る。
「さあわかるかな?」
「これは種類まで当ててほしいな」
「つるぎちゃん……」
三人の声が聞こえる。
私は口に含んだものを味わおうとして。
あ、と。
口のもの正体に気づき、そのまま声を発しそうになった。
「……」
これは血液だ。間違いない。
いつかこの日が来ると予想はしていたから、なんとか一口目を飲み込む。
けれども予想を遥かに上回る嫌悪感が胸から喉から勢いよく膨れ上がってきて、二口目は紙コップの中に吐き戻してしまった。
「ちょ、えっ?」
「うえ……、く、ぷ……」
膝から力が抜けて転びそうになるのを寸前で堪える。けれども手が震えてコップが滑り落ちてしまった。ああスタジオの床を汚してしまったなと私の冷静な部分が呆れたけれど、それ以外の全てが飲まされたものの気持ち悪さで恐慌している。
結び目の緩んだ目隠しが落ちた。
開けた視界に見えたのは床に落ちた紙コップと、やはり赤い水溜りだった。
やってしまった。
どうしても飲めなかった。
これでは他の吸血鬼に、ヒュー子に、配信を見ている一万人ほどのリスナーたちに。
乾家つるぎは血が飲めないという事実を知られてしまう。
「ご、ごめんなさ……」
最後まで言い切れなかった。私のすぐ隣まで大柄な男の吸血鬼、等々力サチヨが迫ってきていて、彼の厳しい表情に圧倒されてしまったからだ。
※最後の血を口に含むシーンを少し修正しました(2/23)