「おいスタッフゥ! やっすい血出してんじゃねぇぞ!!」
広くないスタジオに怒号が響く。
何事かと思えばサチヨが私の隣からスタッフに吠えていた。両手を大きく広げて何故かドラミングを始める。あれで配信状は美少女ボディなのだからギャップが著しい。
「やめろサチヨー! プリズムに無茶言うな!」
そこへ飛び出すのがトゥーリだ。いかにも怪物に立ち向かう英雄めいた空気を全身に漲らせてサチヨの前に立ちはだかった。
「3Dボディの実装に予算の大部分取られてドリンクの質にまでほとんど回せないんだぞ!!」
サチヨの怒りはよくわからなかったがトゥーリの反論もよくわからなかった。嘔吐感と焦りが暴れまわっていた脳内が一瞬で漂白される。
慌ててスタッフの顔色を窺うが、彼らは一様に苦笑いの表情をしていた。どこか慣れてる節があるというか、そうきたかと思っているように見える。
「畜生ァ! 俺にもっとうまいコーンスープ飲ませろ! 舌やけどしそうになったじゃねーか!!」
「それは猫舌なだけじゃん! 味関係ねーじゃん!!」
次はコメントを確認する。突然のサチヨの暴走にさぞ困惑してるだろうと思っていたのだが、実際は予想と正反対の流れになっていた。
ここまでくれば二人が何をしようとしているのかわかる。後輩の失態を即興の茶番で塗り替えようとしてくれているのだ。彼らへ振り返ると一瞬だけ視線が合う。適当に誤魔化してと伝えられたような気がした。
何か言え。何でもいいから失態を繕える内容を言え。
だが、体が待ったを掛けた。血液を飲み込んだ体は思うように動かず、むしろ台風でも飲み込んでしまったかのようにめちゃくちゃだ。口を開いたところできちんと声が出る保証はない。それどころか、胸でぐるぐると暴れてるまずいものがまろび出る可能性だってあるのだ。
――泣き言をいうな!
精神力を総動員して肉体を叱咤する。
泣き言をいうな、血を飲んだからなんだ。私はエンターテイメントを期待するリスナーたちに、フォローしてくれる先輩たちに、全力で応えなければならないんだ。
「……ごめんなさい!」
気合で絞り出した声は思いのほか大きくスタジオに響き渡った。
トゥーリ、サチヨ、ヒューコ。スタッフたち。そして画面の向こうのリスナーたち。全員の視線が私に集中するのを感じる。
「なんだか緊張して、すごくむせちゃって」
二本の足に力を込めて立つ。姿勢を正し、目線はカメラへと真っ直ぐに向けた。
こんな言葉で繕えるかどうか自信がなかったけれど、先輩二人からはよくやったと言われたような気がした。
「血がまずかったわけじゃないじゃん」
「いや俺、毎日100mlで1万くらいのやつ飲んでっから」
その後トゥーリから私の飲んだ血液の種類を明かされるなどを経て、3D配信の後半はつつがなく進行した。
アクシデントで進行のやり方がすっぽ抜けてしまったのだが、私が詰まりそうになるたび二期生の二人がフォローしてくれたり、また脱線しそうになった流れを掛け合いで戻してくれることがあって、もう先輩たちには頭が下がる思いである。
「ふぅー……」
スタッフから配信の終了を告げられるなり私はその場に座り込んでしまった。緊張で忘れていた疲労感が一気にやってきたかのようで、もう泥人形になったんじゃないかとすら思った。
いますぐ五体を投げ出して眠りたくなるのを、なけなしの理性が必死に引きとめている。
「つるぎちゃん大丈夫?」
そんなときに声をかけてきたのがトゥーリだった。振り向くと彼女はたいそう心配そうな目で私を見ている。
「顔色わるいよ?」
「え……」
指摘された途端、腹と胸をぎゅっと締め付けられる感覚が蘇ってきた。そうだ。配信に集中していただけで消えたわけじゃないんだ。トゥーリの後ろにいるサチヨや数人のスタッフも同じように私を見ているから、よほど酷い顔をしてるのだろう。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます……」
なんとかそれだけを告げて逃げるようにトイレへ飛び込んだ。
トイレの洗面台へ突っ伏す。
血液を飲んだ衝撃は想像以上に大きかったようで、しばらくそのまま深呼吸を繰り返した。
「確か牛の血だっけ……」
そのようにトゥーリが言っていたと思う。人体にとって毒ではないだろうが腹を下すことはあるかもしれない。場合によっては一日二日ほどトイレと友達になる未来が待っていることだろう。
まだ呼気に血の匂いが残ってる気がして口をゆすいだ。センサー感知式の蛇口は手で水を掬いづらくて袖と襟を濡らしてしまったが、水がもたらす清涼感のおかげで気にならなかった。
はぁ、と最後にもう一度深呼吸をする。血の残り香はこれでなくなってくれただろうか。
疲労感はいまだ全身の筋肉に沈殿している。考えてみれば配信の中盤でリングヒットしていたのだから当然のことだ。体を動かした時間は短いがいかんせん普段の運動不足のせいで大げさに疲れてしまう。
とはいえこれで家まで帰れる程度には回復したと判断して、私はトイレから出ることにした。
いや、出ようとした。
出られなかったのは入り口にヒュー子が立って、私のことを見ていたからだった。
「……」
「……」
沈黙。
お互いに目を合わせて何も言葉を発さないまま時間が過ぎていく。
私は何も言えずにいた。彼女が不思議な表情をしていたから、なんて言葉をかけるべきなのか、かけずにおくべきなのかわからなかった。
たくさんの感情を注いでかき回して、それでいて混ざりきらずマーブル状にでもなってしまったかのような表情。私の前世を含めた人生でも一度も見たことがないような表情だった。
「つるぎちゃん、血はもう大丈夫なの?」
ひゅっと息が止まる。
同時に、頭が疑問で埋め尽くされた。
どっちだ。
これはどっちの血についての質問なんだ。
頭にはふたつの事柄が浮かんでいる。あのカラオケの日に口を切ったことと、さっきの利きドリンクのとき吐き戻してしまったこと。彼女がどちらについて質問しているのか判断がつかない。
「えっと、ただむせただけだから大丈夫」
およそ数秒悩んでから、私からカラオケのときのことに触れるようなことは絶対しないでおこうと考え、後者で答えた。
「だいぶ気持ち悪そうだったね」
対するヒュー子の返事は断定的だった。本当はむせたわけじゃないだろうと指摘されているのかもしれない。それでもこちら側の回答でよかったんだと少し安心した自分がいる。
「血はね。少し古かったりすると人によって体調と相性で受け付けなくなるときがあるから、次からそう答えればいいよ」
これはなんだろう。
配信のアドバイスをされているのだろうか。
ただむせただけという私の言い訳があまりにも苦しかったから、より妥当性のあるものを考えてヒュー子が教えてに来てくれた。そんなストーリーが頭のなかで組み上がった。
「吸血鬼はそういうものなの」
それがたったの一言で粉砕される。
私が吸血鬼じゃないと確信してるような言い方だ。
ここに至って私はようやく彼女の表情から感情をひとつだけ見出すことに成功する。
憐憫。
カラオケの日からいまこの瞬間に至るまで、彼女のなかでどのような化学変化が起きたかわからないが、少なくとも私を憐れむ要素があったのだろう。
私が何も言葉を返せずに入ると、彼女はふっと小さく表情を変える。
笑顔。
「つるぎちゃん、明日予定ある?」
私はゆっくりと息を吸って、吐く。
「……ないよ」
彼女の笑みが濃くなる。どういう種類の笑みなのかはわからない。
「それじゃ明日、カラオケ行こう」
私に断る選択肢はなかった。