3D配信の次の日。
いま、目の前にヒュー子がいる。
待ち合わせにした場所からカラオケの店に入って、ふたりでソファに座るまでお互い終始無言だった。
私はといえばヒュー子に先導されるままただ歩いて、ずっと身を縮こませていて情けない有様だった。彼女の衣擦れの音、空気の揺らぐ気配、それらひとつひとつに肩が跳ねてしまう。執行を控えた死刑囚の気持ちがよくわかった。
これからどうなるのか、私はどうすればいいのか。そんな考えばかりがぐるぐると頭を巡っていて彼女の意図にまで気が回らない。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。別に言いふらしたりしないから」
だからそんなことを言われて私の頭は完全に硬直してしまった。
彼女はどんな表情でそれを言ったのだろう。私はいまどんな表情をしてるのだろう。
明かりのない部屋では何もわからない。
それから何かを思い出したような小さな声がして、ライト貸してと言われる。私が持ち込んだルームライトのことだと気付くのに数秒かかった。
部屋に明るさが生まれる。
光に照らされたヒュー子は私の隣に座って、昨日のように笑っていた。眉をハの字にすぼめた張りのない笑みだった。
「念のため確認しておくね」
彼女の唇が動く。「はい」と返そうとしたけれど、ずっと言葉を発してこなかった口は貝のようにぴったり閉じてしまっていたので、代わりに頷いて返した。
「つるぎちゃんは、吸血鬼じゃないんだよね?」
じっとヒュー子の顔を見ていた私の目が、だんだんと首まで下がって、胸に降りて足をたどって、最後には床まで落ちる。
ここで首を横に振ったらまだ友達でいられるのかなと思った。また前のような仲のいい女友達に戻ってくれるのかなと。苦くて甘い誘惑が私の両頬を掴んで首を振らせようとする。
でも、もう無理だ。
もうこれ以上、彼女には嘘も隠し事も重ねられない。
それでもやっぱり声が出なかったから、彼女の顔を見てもう一度頷いた。
「そっか」
ルームライトに照らされた室内。私たちはおよそ夕焼けほどの明度の空間にいた。前の世界にはこれほど暗い部屋はなく、この世界にはこれほど明るい部屋はない。
吸血鬼世界に異分子が紛れ込んだからこそ作られた空間。これを『私が吸血鬼でないこと』をヒュー子に受け入れられてる根拠だと考えたい。私が人間であるという部分が認めて、そのうえで友達でいられる未来を望みたい。
けれども心の中の臆病な私が期待するなとすすり泣く。望み通りにならなかったときが辛いぞと喚き立てる。
どうして私は純粋でいられないんだろう。ただ望みだけを抱いていられたらきっと楽に呼吸できるのに。
「ええとね。色々と順番を飛ばしちゃうんだけど、ひとつ伝えたいことがあるの」
隣のヒュー子が座り直して体ごと私に向く。
なんだろう。もし拒絶だったら耐えられるだろうか。
疑問を抱きながら私も引き摺られるように体の向きを変える。ヒュー子とまっすぐ向かい合うように。なぜだかそうしなきゃいけない気がした。
とすん。
小さな音と小さな衝撃がひとつ。
体温と微かな息苦しさ。目の前にいたはずのヒュー子が見えない。
さらさらと頬に触れる髪の感触で、私は彼女に抱きしめられたと気づいた。
「ありがとう。それと、ごめんね」
言うのが遅くなっちゃったけど、と続ける彼女の真意はまだわからない。
ただ、どこか受け入れられたような予感ばかりが心に吹き荒れていた。
「あの酔っ払った男からあたしを助けてくれてありがとう」
でも。と彼女は言う。
でも助けたことが、私が吸血鬼じゃないと気付く切っ掛けになってしまった。その切っ掛けを作らせてしまってごめんなさい。
私を抱きしめたまま吐露される彼女の心情はこんな内容だった。
「……」
すると鼻がツンとしてきて視界が滲んだ。
返すべき言葉が見つからず、私もぎゅっと彼女を抱きしめ返した。
◆
あたしが子供の頃に聞いた怖い話でこういうものがある。
とある小学校には不思議なクラスがあって、30人クラスなのになぜか31個の机があるというのだ。ただ机があるだけじゃなくてすべての机にはきちんと子供が座っている。つまり30人のクラスに31人の子供がいるということ。一番不思議なのは子供も大人もそのクラスには30人しかいないと認識しているのだという。
ある日一人の子供が違和感に気づき、31人目が誰かを調べようとするのだ。誰に聞いてもみんな疑問を抱かないものだからひとりで調べる。ときには名簿を見て、時には授業参観で親の来ていない子供を探して。そしてついに誰が31人目なのか突き止めるのだ。だけどその直後に背後から声がかかる。「気付いてしまったな?」と。振り向くと例の子がいてそいつに食べられてしまう。最後に「ほら、これで30人になった」という言葉だけが残って話は終わり。
カラオケから帰った日、あたしはベッドでその話を思い出してしまった。
幼い頃に感じた恐怖。膨らませてしまった空想。
もし身の回りにおばけがいたらどうする?
そのおばけはあたしたち吸血鬼そっくりの外見をしていて、文化に通じていて、同じ言葉を喋り、自分も吸血鬼だと身分を偽って生きているとする。しかし自分の家族や友人は誰も人間の存在を知らなくて、唯一自分だけがその事実を知ってしまったとする。
そうだとしたらどうすればいい?
友達が実は吸血鬼じゃないと気付いたとき、あたしの前で常識という景色がガラスのように割れてしまった。そしてずっと忘れていた感情が、割れた隙間から黒い鞭のように飛び出してきて全身に巻き付いて、ゆっくりと黒い沼に引きずり込んできた。
あたしのこれまでの人生経験に補強されて、子供の空想と恐怖がリアリティを帯びてゆく。
おばけだったのがその子だけだと思う?
近所の人や友達、職場の同僚もおばけじゃない保証なんてどこにある?
あたしの家族が『いつの間にか本物と入れ替わってるおばけ』かどうかなんてどうやって調べればいい?
まるで世界中に怪物の目玉が現れたように感じた。絶対に理解の及ばない未知の存在が、あたしたちにはわからない方法で身を隠しながら吸血鬼の社会を観察している。数は不明。目的も不明。目が合った不幸な吸血鬼はたちまち消されてしまう。
あたしはどうしようもなく怖くなって、つるぎちゃんと一切会話できなくなった。彼女から31人目のおばけの言葉が出てくるんじゃないかと夜も眠れなくなった。
けれども現実はあたしを待ってくれなくて、平日になれば仕事しなきゃいけないし、自分の3D配信に向けた準備もしなきゃいけなかった。それらに打ち込んでいれば恐怖も忘れるかなと思ったけど全然そんなことなくて、周りの人を見てはこの人も吸血鬼じゃないのかもと怯える日々だった。
ある日、ふと気づく。
吸血鬼らしくない吸血鬼なんて、つるぎちゃんしかいないんじゃないか。
あたしの身の回りには夜が見えない人なんていないし、すごい存在感を持つ人だっていない。誰かの血を飲みたくなったこともない。
おばけは、怪物の目玉は、世界にたったひとりしかいない。そこに気づいたとき私は恐怖の沼から解放された。
いま。
吸血鬼じゃなくても体が温かいんだなって思いながらつるぎちゃんを抱きしめている。
今日の待ち合わせからいまに至るまでつるぎちゃんの様子は見ていて痛々しいものがあった。諦観に疲労と悲しみを混ぜた空気をずっと纏いながら、小さなことにいちいちビクビクしていた。
つるぎちゃんが本当は吸血鬼じゃないことを踏まえて見れば、その態度の示す意味がよくわかる。
吸血鬼しかいない世界にたった一人だけで生きていて、正体が気付かれないようにしながら、自分も吸血鬼だよって偽りながら過ごしてる。誰にも頼ることができず、もし気付かれてしまったら終わりだと苦しみつつも誰にも悟られないように頑張っていたんだ。
前にはぐれてひとりになったとき、彼女は泣いていたじゃないか。
きっと吸血鬼を襲うおばけなんてどこにもいない。
ただ吸血鬼に怯えるおばけだけがいたんだ。
「ええと、ひとつずつ説明していかなきゃいけないよね」
きっと彼女は混乱してる。
突然抱きしめられて礼を言われて何がなんだかわからないだろうから、きちんと色々と説明していかなきゃいけない。なのにどうしよう、声が震えてきた。ちゃんと全部言えるか不安だ。
「カラオケの日。家に帰って考えてるうちに確信したんだ」
つるぎちゃんが吸血鬼じゃないことを。
理由はあたしが彼女の血に惹かれたから。
吸血鬼は動物の血を飲んでいるけれど、同じ吸血鬼の血を求めることは絶対にない。そういう性癖の人はいるかもしれないけれど、食欲で求めたりはしない。これはあたしの知る吸血鬼の大原則だ。
「確信したけど、本当は勘違いじゃないかって考え直そうとしたこともあるの」
そこへ追い打ちをかけたのが3D化配信だ。利きドリンク企画でつるぎちゃんが血を飲むことになったことが分水嶺だった。
あたしはいったん話を止めてつるぎちゃんの様子に意識を向けた。
彼女は抱き返したまま何も言わない。ただ時折頷いて相槌を返してくれたからあたしの言葉は全部届いてると信じた。
「……」
つるぎちゃんの息を吸う気配を感じて音に集中する。
「私が人間だと知って、ヒュー子ちゃんはどうする?」
今日はじめて彼女の声を聞いたなと思った。
同時に、ああ彼女は人間だから吸血鬼を恐れてたんだなと深い納得を抱いた。
ヒュー子「さようならつるぎちゃん妖怪説。さようならつるぎちゃん宇宙人説」
長くなったのでここで区切ります