男にとって金曜日の夕方は鬼門だった。なぜならその週にあったトラブルのしわ寄せが一気に来るタイミングなのである。
ゆえに男はその日、推しのVtuberの配信があると知っていても残業せざるを得なかった。時計の針が進むごとに激しくなる焦りのオーラに同僚たちはさぞ神経を削られたことだろう。しかしそうと自覚していても抑えられないのが吸血鬼の性である。あるいは吸血鬼だけでなく、他の生き物もそうなのかもしれない。
仕事が片付き次第、男がすぐに走り出したのは言うまでもなく、そのまま地下鉄の駅まで直行した。
額の汗をシャツの袖で拭いながら駅のホームでやべ、と小さく声を漏らす。うっかり服を汚してしまったが今日はもう家に帰るだけだからまあいいだろう、そう思うことにした。
電車が来るのを待つ時間は男へ想像以上の苦痛を強いた。何故ここまで走ってきたのに待ち時間で3分も浪費しないといけないのかと、電光掲示板を睨んでしまうは仕方のないことである。
男にとって救いだったのは、どうやら配信時間にはギリギリ間に合いそうなことだった。このままスムーズに行けばもう走る必要はないだろうと脳が電卓片手にガッツポーズをする。なんとコンビニで弁当を買う時間まであるらしい。
余裕を自覚した途端、男の頭には様々な雑念が湧いた。
そういえば血液のストックが切れかかってたなとか、前にもこんな風に急いで帰ったことがあったなとか。そんな取るに足らない事ばかり思い浮かぶ。
前に急いで帰ったときはいつ頃だっただろうか。たしか推しのVtuberがデビューして1ヶ月も経ってない頃だったはずだ。だとすればもう10ヶ月も前だということになる。
轟音響かせながら電車がやってくるのを認め、身を滑り込ませる。座席がすべて埋まっているのを確認し、ドア脇の壁にもたれかかった。
落ち着ける状況になるなり取り出すのはスマートフォンだ。
乾家つるぎ tsurugi@prism
【お泊り配信】罰ゲームつきミニゲーム大全【ヒュー子✕つるぎ/プリズム】
今日の9時から開始するよ みんな来てね!
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サリス・ヒューマン Saris_h@prism
【お泊り配信】罰ゲームつきミニゲーム大全【ヒュー子✕つるぎ/プリズム】
人狼女子に料理で完全敗北するなどのトラブルがありましたが 9:00から予定通り開始します オイシカッタ...クヤシイ...
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もう何度目かわからないほどに開いたSNSが示すのは、推しと推しによるお泊り配信の告知だ。
Vtuberグループ『プリズム』の三期生、乾家つるぎ。そして同じく三期生のサリス・ヒューマン、通称ヒュー子。男にとってデビュー時から推し続けていた二人である。
自然体のまま特別なことをせずともがっしりとリスナーの心を掴んでくる子と、様々な企画を考えて常にリスナーを楽しませようとしてくれる子。そんな彼女たちが好きになってしまったら、二人が仲良さそうにしているだけで言葉にし難い熱が間欠泉めいて吹き上げてくる。
とはいえ彼女たちはデビュー初期からずっと仲がいいわけではなかった。
最初から社交的で様々な人と交流していったヒュー子だが、長いあいだ孤高を貫いていたつるぎと初コラボまで漕ぎ着けたのはデビューからおよそ4ヶ月目。彼女たちの関係はそこからようやく始まったと言っていい。
一部の例外を除いてずっとソロ配信を貫いていたつるぎにどんな心境の変化があったのかはわからない。もしかしたら真祖ゆえの事情というものがあったのかもしれないとファンのあいだで議論されたが、真相はいまだに謎のままだ。
ただ、二人のコラボを見れば相性の良さがわかる。ファンにとってはもうこれだけで充分ではないだろうか。
男は見てほしかった。
万人に紹介したかった。
これが自分の推しであると。
つるぎの3Dお披露目配信で二人がほとんど目を合わせなかったことを指摘し、本当は不仲なんじゃないかと杞憂する者が一時はいた。かくいう男もその一人だった。
だが。
この二人のツイートを見よ。
本当に不仲であれば家に泊まりに行くなどするはずがない。
淀んだ不安を爽やかに吹き飛ばしてくれたニュースには両手を合わせて感謝してもしきれない。
これでは前述の感情も間欠泉どころか、とめどなく溢れる源泉レベルになってしまう。
「むしろ俺が温泉になるので二人はのんびり浸かって体を伸ばしてください……」
対面の中年がいきなり何言ってんだコイツと見るが男の意識には入ってこなかった。
◆
【お泊り配信】罰ゲームつきミニゲーム大全【ヒュー子✕つるぎ/プリズム】
「こんにちわー」
「こんにちわ」
PC画面に二人の立ち絵が並ぶ。リスナーにとっては通常のコラボでよく見る光景だが、声が遠く聞こえることでマイクの位置が普段と違うことを察せるだろう。
「プリズム所属Vtuberの乾家つるぎだよ。今日はヒュー子ちゃんが家に来てくれてるよ。いまちょうど隣にいるんだ」
「はーい、ここにいるよ。同じくプリズム所属のサリス・ヒューマン。ヒュー子って呼んでね」
基本的にリスナーというのは好きなVtuber同士が仲良くしている様子を見ると嬉しくなる生き物である。コラボの告知を目にするだけで盛り上がるし、ソロ配信であっても推しの口から誰かの名前ができるだけでぐっと拳を握りたくなるのだ。
さらに誰かが誰かの家に泊まるなど聞いてしまうともう、それが許される関係性と距離感を噛み締めてしまう。もちろん笑みを浮かべたまま噛みしめるわけだから口角がすごいことになる。
「それじゃ今日の予定なんだけど、二人でミニゲーム大全をー……ちょっとヒュー子ちゃん近いちかいちかい!」
「ヒュー子ちゃんもノートパソコン持ってきてるんだから私の画面覗き込まなくていいじゃん!」
「ええー。せっかくのオフコラボなんだから離れないで近くでやったほうがいいじゃない」
いまリスナーたちの気持ちは一つになっていることだろう。二人の仲の良い様子をいつまでも見守っていたい、このままじっと推しからの供給を享受していたい、自身の存在感を限りなく薄めて二人を包む空気になりたいと。
「はい、はい! 改めて説明します! 今日は二人でミニゲーム大全を一緒にやるよ!」
「負けるたびに罰ゲームでわさびを小さじ一杯食べるルールよ」
「なんで初めてのオフコラボでこんなキワモノ企画にしたの?」
「相手がそばにいるから罰ゲームで悶えてるのを実況できると思って」
二人のやりとりのことごとくがエンターテイメントに昇華されてゆく。まだゲームを開始してもいないのにリスナーたちは盛り上がった。企画の説明から名場面を予感して胸を膨らませた。
彼らはきっと彼女たちの活動をいつまでも追い続けるだろう。
近い未来に目を向ければ、人外三人組による歌や四期生のデビューと、いくつものイベントが待ち受けている。それに応じて二人は様々な変化、あるいは発展を遂げていくだろう。
リスナーたちが現在を愛し、未来に期待し続ける限り、きっと彼女たちの人気は衰えることなく続いていくのだ。
ご愛読ありがとうございました。
ひとまずここまでを区切りということしています。
今後の展望やあとがきなどは活動報告欄にて報告いたします。