軍医のジョジュア大尉に「明日までに治る」なんて言われてしまった僕の脚。
まさか本当に一日で治るとは思ってもみなかった。これは僕が加護を受けているからなのか、それとも大尉が天才的な医療技術を持っているのか。
昨日のこともあって、食欲が減衰していた僕はしばらく何も食べられず水だけでしのいでいた。けれど、人の体というのは不思議なもので次の日の朝になるとお腹が減っていた。
そういえばカイルから投げつけられたMREレーションが床に転がったままだ。食料が貴重なご時世に放っておいては忍びない。
僕は寝転がったまま床に手を伸ばす。
あとちょっと、あとちょっとでMREのパッケージに手が届く。
こんこん、と病棟の入り口がノックされたのはその直後のことだった。
「うわっ」
バランスを崩して、僕はどさっと床に落っこちた。
「……元気そうね」
「エージェント。ど、どうも」
エージェントは呆れとも何とも言えない声音。見事に醜態をさらしてしまった僕は気まずそうに立ち上がると、病床に腰かける。手に抱えたMREをどうしようかなを迷っていると、素直なお腹がぐぅとなった。
「食べてていいよ。結構元気そうね」
エージェントは微笑みかけると、僕の隣に腰かけた。その笑みに僕は少しだけどきりとした。
戦場の中では意識する暇もなかったけれど、改めてみて見るとエージェントは綺麗な人だった。
何を考えているんだ、僕は。と雑念を払うように首を振る。そのままMREのパッケージを開けた。僕たち他に患者が誰も居ないとはいえ、チリビーンズとか、ポークステーキとかを食べる気にはなれなかったし、どこか汚してジョジュア大尉に怒られたくもないのでビスケットを食べることにした。
「そういえば名乗っていなかったよね。私はエージェント・カロンよ。よろしく」
「カロンさん? シャロンさん?」
僕は思わず聞き返してしまう。カロンと言えば冥王星の衛星とか、ギリシャ神話に登場する死者の国の人だか神だとか。あとは古典ギリシア語で美を意味する言葉だったとも記憶している。
ともかくとして、人の名前としてはあまり聞かない名前だ。
きょとんとしている僕を見て、エージェント・カロンはまた笑った。
「ふふっ。コードネームよ、コードネーム。冥王星のカロン」
「あぁ、なるほど」と腑に落ちた。確かにエージェントなんていう職業は本名を名乗らないはずだ。スパイ映画とかでも、大抵コードネームが使われているし。
なんだか間抜けなことを聞いてしまって恥ずかしくなってくる。
「あなたは確かジョンだったかしら。カイル・バーンズ准尉がそう呼んでいたから」
「ニューヨーク陸軍州兵のジョン・フェイ・オブライエン訓練兵です」
僕は訓練で習った通りに背筋をピンと伸ばして敬礼する。片手でビスケットを持っていた点については大目に見て欲しい物だ。
「え、訓練兵なの?」
エージェントは目を丸くする。
「はい。パートタイムで入ったんですけど、訓練中にパンデミックが起きちゃって」
僕はビスケットをもぐもぐしながら簡単にJTFに配属された経緯を話した。大学生だった僕はニューヨーク州から奨学金を貰っていたので、卒業までに何かしらの公共機関で社会奉仕をしなければならなかった。そこで選んだのが州兵だ。
本来なら少し休学している間に訓練を終えて予備役になり、兵隊生活はそれで終わり……のはずだったのだが、訓練が始まったタイミングでパンデミックが起きたせいで急遽動員されることになり、何故かJTFの戦闘部隊に配属されてしまったのだ。
何がひどいって、僕が訓練所で習ったのは敬礼のしかたと階級章の見方だけで、戦闘なんて教わっていなかったところだ。
まあこんなご時世なので文句も言っていられないのだが。
「そういえば、カイル准尉はどうしてますか?」
「准尉なら出撃したわ」
「出撃? でも、部隊は壊滅してますよ」
「ディビジョン・エージェントで構成された部隊が到着したの。准尉はその道案内よ。リーダーのヴァンガードは凄腕のエージェントだから危険なこともないと思うわ」
エージェントで構成された部隊……なんだかすごそうだ。
きっとグリーンベレーみたいな特殊部隊に違いない。ヴァンガードなる人物がどんな人かは知らないが、きっとランボーみたいに屈強な兵士だろう。目の前にいるエージェント・カロンも、可憐な見た目ながらたった一人でクリーナーズと渡り合えるぐらいの戦闘力がある。
ディビジョンのエージェントというのはみんな戦闘のプロフェッショナルなのだろう。そんな人間が味方に何人もいるのであれば、心強いなんて物じゃない。
きっと、そう遠くないうちにこのマンハッタンは以前のように平和になるに違いない。
胸の辺りが熱くなってくる。希望──そう、これは希望だ。なんだか安っぽい言葉だけれど、エージェントの存在は僕にとってこの暗い世界を照らしてくれる希望そのものに思えた。
きっとこう思っているのは僕だけじゃないはずだ。カイルや、他のJTF隊員たちや、市民たちも同じことを思っているはず。
「あなた休学中ってことはまだ大学生なのよね。大学では何を専攻しているの?」
感動していた僕に、エージェント・カロンが顔をのぞき込んで問いかけてくる。はっきり言って僕は女性経験が少ないので、顔が近づくたびにどきどきしてしまう。
たぶんエージェントっていう人たちはJTFよりも偉いらしいので、いくら相手が若い女性とはいえ、軍人である以上はこういうことは考えてはいけないんだろうけど……。
「えーっと、僕は哲学を──」
「カロン、こんなところにいたのか。探したぞ」
どぎまぎしながら答えようとすると、低い声が割り込んだ。気が付くと病棟の入り口に男が一人立っていた。帽子をかぶった黒人男性で、どことなく知的な雰囲気があった。
「あら、ネプチューン。どうしたの?」
「まずいことになった。ライカーズ島に派遣していたJTFと連絡が付かなくなったようだ」
「ライカーズ島? そこって確か……」
「ああ。刑務所がある島だ。JTFは脱獄が起きた可能性があると言って、調査を要請している。派遣する人員を決める。とにかく早く来い」
ネプチューンはそういうと背を向けて去っていく。
「行かなくちゃ。元気になったらまた会いましょう」
カロンは立ち上がる。
「エージェント。その、気を付けて」
僕の言葉に彼女は頷いて答えた。