「あ~……疲れた……」
音を立てて椅子へと腰掛けるのは陽炎、勢いのまま目の前のテーブルへと顔を突っ伏したい欲求を堪えながら静かに瞑目する。
横須賀方面第一駆逐艦艦娘養成所、総監督陽炎。
肩書に恥じない忙しさを日々こなす陽炎ではあるが、ここ最近は輪をかけて忙しい。
教導経過報告書は今までとは違い、雪風とそれ以外の者を提出しなければならなかったし、想像以上の習熟を見せる雪風に教導計画は変更ばかりだ。
加えて司令との打ち合わせに、軍各部との会議。本命である教導。
「私、どうして一人なんだろ」
自分が二人居たらな、なんてありふれた愚痴を零してしまうのも仕方ない。
それでもなんとかギリギリではあるが進められているのは不知火と黒潮が上手くフォローしてくれているからに相違ない。
もしもあの時誰かが沈んでいたら。
間違いなく忙殺では済まなかっただろう、そんなところでも雪風に感謝の念を覚える。
「雪風、か」
適性値を聞いた時には思わず何かの冗談かと思ったものだ。
歴代最高値を駆逐艦という枠を飛び越えて、全艦娘の中でダントツの一番。
適性値が全てを決めるわけではないと分かっている、だが実際に適性値からくる予想を遥かに超えた戦果を上げた自分であっても、雪風が見ている景色はどんなものかと嫉妬にも似た感情を覚えてしまった。
かの大戦を生き残った、奇跡の駆逐艦。
多くの艦が沈む中、ただ自分だけが生き残った駆逐艦。
陽炎型という同型艦、言わば妹のような存在が高名であるということに誇りや喜びを感じたりはしない。
着工にあたった当時の人達は何か思うのかも知れないが、現代に生きる自分では想像もつかない。
ただそれでも、あの時身に受けた希望という名の衝撃。
それだけは忘れられない、今はもう戦時下であるという意識すら希薄になりつつあるほど日常となってしまった深海棲艦との戦い。
終わらせられるかも知れない、そう思ってしまった、思わされた雪風という存在。
「何としてでも……」
強く育てなければならない。
その思いがあるからこそ、今こうして忙殺一歩手前で踏み止まることが出来ている。
「黒潮や。入るで」
「どうぞ」
ノックの音と主に聞こえる特徴的なイントネーション。
入室した黒潮は敬礼と共におつかれさんやなと苦笑いを浮かべ、テーブルを囲む。
「で、そっちは?」
「あかんあかん。早く雪風の実戦投入をの一点張りや、話にならんよ」
呆れたように言い放つ黒潮の言葉へ陽炎はこめかみに手を添える。
訓練開始からまだ一ヶ月だ、本来の最低養成期間半年をどれだけ短くしようとしているのか。
確かに目を疑うような戦闘、そして飲み込みの早さはある。
陽炎自身、今の雪風の域へと達したのは艦娘となって三ヶ月を要したほどだろう。
「気持ちは、わかるんだけどね」
「まぁ、なぁ。期待する気持ちもわかるし、何より実戦こそ最高の訓練や。はよぅ強なって前線へ送りたい気持ちはほんまわかるんやけどな……せやけど、早すぎるわ」
同意するように頷く陽炎。
それと同時に再びノックの音が響き、入室を促した陽炎の視界に入ってきたのは不知火。
「お疲れ様」
「はい、お疲れさまです」
平静を装っている不知火ではあるが、顔に浮かんでいる疲労を隠すことは出来なかった。
陽炎、黒潮、不知火。
その三人をして、最近の動向は急が過ぎると感じている。
「新人の調子はどう?」
「ええ、雪風は相変わらず優秀よ。そう言ったら本人は嫌そうな顔してたけど。あとは――」
「霞か?」
割って一人の名前を挙げた黒潮に頷く不知火。
「雪風がいなければ間違いなく
「確かにね。間違いじゃなければ、雪風と仲良くなって……と言って良いのかわからないけど、まぁ話すようになってから」
「せやな、なんやかんやで自分の先を歩んでる近しい人間やって認めて学んどるみたいや。あの姿勢が他の子らにもあったらなぁ」
三人して頷く。
教習課程に照らし合わせてみれば、霞は二ヶ月分にせまる課程を修めたと言っていい。
「とは言え予定以下はいないわ。素晴らしいことよ」
元々ここ、横須賀方面第一駆逐艦艦娘養成所は高適性値者か、成績優秀者からの選りすぐり。要するにエリートが集まる場所。
当然求められているものは大きいし、他の養成機関から見れば教導内容もハードになっている。
故に、こなしているだけで十分優秀。ましてや見込まれている通りの結果を出しているなら尚更。
霞が飛び抜けて優秀で、雪風はもはや異例なのだ。
「さて。それじゃあ私からの報告をする前に不知火」
「はい」
「雪風との単艦演習、その所感をお願い」
予定が噛み合わずの二週間遅れではあるが、不知火の瞼の裏と頭には今もなおしっかりと残っている。
「結論から言えば、雪風は異様に運が良いと言えるわ」
「運……? いや、運言われてもな」
少し戸惑ったように言う黒潮へ一視、そのまま続けて不知火は言う。
「最後の魚雷が一番わかり易いでしょう。あの時たまたま運良く高波が来て魚雷発射を確認できなくて、遅れて確認できて避けようとした導線上にたまたま運良く雪風の放った砲撃があった」
あの演習中に何度も感じた仕留めきれないという確信。
それも思い返してみれば大凡環境的要因が強かったと思い返す不知火。
「長距離航海練習の時も思わなかった? あんな適当に放った魚雷が、どうして当たったのかって」
「まぁ、そりゃ思うたけど……」
もしもあれが、あの姿が雪風が至るだろう未来の姿だとすれば。
「運、か……」
再び瞑目し思考を巡らせる陽炎。
運も実力の内という言葉があるが、運を確信に変えられたのなら。
運良く上手くいったというものが、必然として処理出来たのなら。
ありえないと理性は言っている。だが、自分に眠る何かが否定しきれないと言っている。
「それとは別の部分を見ても、だけど。基礎体力訓練と基礎海上訓練の組み合わせはもう雪風に取って意味は薄いと思うわ」
「同感やな。あんまりにも体力あれへんからフィジカルは外されへんけど……せやな、通常の海上艦隊演習を軸に進めたほうがええんちゃうか」
言いながら黒潮は自分の発言へ笑いそうになる。たかが訓練を受け始めて一ヶ月経過した新人に艦隊演習を、なんて初めて言ったと。
しかしそんな提案を陽炎は飲む。
「そうね。出来たら……その方が良いわね」
「それで陽炎? あなたの方は?」
出来たらという言葉の意味を許可が得られるかどうかといった問題ではないと勘付いた不知火。
相変わらず察しが良いと心地よさ混じりだが苦笑いを浮かべた陽炎は声のトーンを一つ低くして口を開け直す。
「八丈泊地に深海棲艦の襲撃気配アリ、よ」
「っ! 八丈を、ですか」
横須賀方面から各海域へと出撃するには絶好の場所であり、そこを抑えられてしまったなら横須賀方面は動きが鈍くなってしまうそんな場所。
それだけに他の日本各所へ作られた簡易な泊地とは違い、防衛に大きな戦力を割かれている重要拠点。
「長距離航海練習の時に鉢合わせた敵水雷戦隊、あれはどうやら後方確認のために出てきた強行偵察部隊だったみたい」
「今生きとるから結果的にではあるけど……出会せて良かった言うべきやな」
不知火と黒潮の背筋へと冷たいものが流れる。
もしあの時深海棲艦の動きを察知できていなければ。間違いなく初動は遅れていただろう、最初から防衛戦を強いられていたはずだ。
ある程度の戦力を割かれていると言っても、敵戦力はまだ不明。対処できないほどの大群で攻められてしまえばと。
「ええ、現在八丈島に追加の戦力が送られ始めているわ、同時に周囲の海域調査も行われてる。両方完了次第、打って出るって話」
重要拠点だ、生半可な戦力が送られるわけはないだろうそこまで軍上層部は無能じゃない。
そう思い胸を撫で下ろす不知火と黒潮だが対して陽炎の顔はまだ晴れない。
「陽炎?」
「いや……そう、さっきの話じゃないけど、運が良かったなって」
陽炎が零した言葉にはっとする二人。
「あの時の敵艦隊は間違いなく雪風を狙っていたわ。私達はまるでついで扱い、ううん。視界に入ってすら無かったと思う」
「せやな……そうちゃうなら、うちも不知火も抜かれてへんわ」
結びつかない線と線。
しかしこれは何に対しての幸運なのか。
素直に事前察知できたと喜んで良いはずなのに、何故か拭いきれない不安感がある。
「フォーナイン……奇跡の駆逐艦
視線を窓に向けて不知火は小さく呟く。
稀代の幸運艦、そのまたの異名を死神という。
「調子はどう?」
「ふぇっ!? か、陽炎教官っ!?」
慌てて少しだけ様になったか敬礼を取る雪風へと答礼を返す陽炎。
入渠施設というよりは、入浴施設として使われることのほうが多いこの場所でなんとも不似合いな光景。
「権力や立場は服の上から着るものだって。楽にしてよ、実年齢はそう変わらないんだし」
「えっ!? え、えっと、その、はいぃ……」
再び浴槽へ身を沈める雪風の姿は先程よりも一回り小さい。
元々気弱というか、そんな性格だったのだろうかと苦笑いと共に陽炎も雪風に倣う。
「それで? 最近はどんな感じ? まだ慣れない?」
「慣れない、と言いますか、なんと言いますか……」
困ったように湯面へと視線を落としながら口ごもる雪風。
なんとなく、陽炎はその姿を昔に見た人へと重ねてしまう。
「やっぱり戦いは、いや?」
「……はい」
小さいながらもしっかりと、その思いは譲れないと頷いた雪風。
こんなところもそっくりかと心内で笑いながら。
「そうよね、私も戦いなんてごめんだわ……って、戦わせるために教えてる私が言うことでもないか、忘れてね」
陽炎自身、雪風と話すときは少し調子が狂うと認めている。
この小さな身体に重ねてしまった重すぎる希望、背負うことが嫌だと言っているのに無理やり背負わそうとしている自分。
そしてもしも自分が雪風程の適性値を持っていたら、もっともっと違った今があったのではないだろうかという後悔にも似た感情。
「陽炎教官は」
「陽炎でいいって」
「陽炎、さんは。なんで戦ってるんですか? もう、任期も終わっているのに」
やはりというか当然の疑問だろう雪風からすれば。
人間に戻れる、その権利さえ手放して未だに戦いへ身を置く意味。
「最初は、ね」
「……はい」
「家族を養うためだったのよ」
陽炎の生家は貧しかった。正確に言うならば貧しくなった。
戦争初期、今から思えば一時的に混乱を極めた日本情勢の犠牲者とも言える家庭。
「意外かどうかわからないけど、私、これでも大家族の長女だったのよ」
多くの妹がいた。
そしてその多くの妹を養える程の財が家から失われた。
当時、今以上に艦娘へなった時支払われる金銭は多かった。
故に義務教育を終えた陽炎は、家族を守るために艦娘を志さざるを得なかった。
「納得は、どうだったかな、覚えてない。けど試験に合格して、海に立つことが出来て、戦えるようになって……ある時気づいたのよ、私が終わっても戦いは続くって」
それはそのままの意味で。
陽炎が任期満了し、家へと凱旋しても、海では戦いが続いている。
「それってさ、結局一緒なのよ。確かに私が艦娘になって家に結構なお金が入った。妹達は食べるに困らなくなって、学校にも行けるようになった。けどそれは一時凌ぎ、戦いが終わらなければ、いずれ誰かが同じ思いをする」
今はもう日常になって
この世界に生きている人は麻痺していると陽炎は理解している。
戦いは当たり前のことで、艦娘という存在、職業も当たり前。
食卓のおかずが一つ減っても、国に流れている野菜や肉の値段が少し上がっても仕方ないで不満はあれど納得できる。
「この戦争が終わらない限り、私達は緩やかに破滅へ向かっているの。それが、戦わない人にはわからない」
「……」
戦うことで、戦うようになって初めて見えた現実。
終わらない戦いは、終わらせなければならない戦いなのだと。
誰かが終わらせる、いつかは終わるなんて希望的観測に過ぎない。
「なんて、ね」
「……へ?」
真面目な顔を一転させ破顔した陽炎へ、聞き入っていた雪風は呆けてしまう。
「小難しい話じゃないのよ。私は妹たち、未来の生活を少しでもよくしたいと思っているだけ。不知火や黒潮なんて掛け替えのない戦友を失いたくないだけよ」
単純でしょ? と陽炎は笑うが、雪風にしてみれば先に話された建前らしいもののほうがまだ納得できた。
高潔な軍人だからこそ護国の意思を持つ。
そうだと思えていたなら、雪風はまだ自分が一般人だと思えていたから。
やがて、自分もそう思ってしまうかも知れないなんて、思いたくはなかったから。
「雪風」
「は、はい」
眉間にシワを寄せ始めた雪風を安心させるように、笑顔の種類をより一つ穏やかなものにして。
「戦わなくていい、って言えたら良いけど、ごめん言えない。でもゆっくりでいい。ゆっくり戦える人になって頂戴。それくらいの時間は、私が……私達が作ってみせるから」
「陽炎、さん……」
そういった陽炎の表情は、今まで雪風が見てきた軍人の顔の中で、一番かっこよく、