反射的に閉じていた瞼を叩く光が弱くなってきたことをハジメは感じる。
やがて、周囲が騒がしくなる。それと同時に伝わる身体への軽い衝撃。
その衝撃に手をどかしたハジメの視界に入ったのは、自分に抱き着く風華の頭だった。
「風華……?どうし」
「にぃ……怖い……」
「ッ!!」
身体に回された腕の力は強く、風華の身体が震えていることが全身に伝わる。一先ず、妹を落ち着かせるために頭を撫でながらハジメは周囲を見渡す。
視界に入る景色は、見慣れた教室ではなく、ゲームに出てくるような大聖堂のような大広間。そこには、ハジメと同じように周囲を見渡す者や座り込んで放心状態でいる者たちの姿。あの光の魔法陣が現れた時に教室にいた全ての人間がこの場にいた。
そして、最後に正面を向いたハジメはそこにあるものを見て硬直する。
それは一つの壁画だった。
長い金髪を靡かせうっすらと微笑む中性的な人が、草原や湖といった背景を包み込むように両手を広げている絵。
誰が見ても美しいと答えるであろう素晴らしい壁画だ。しかし、ハジメが硬直したのはそれが理由ではない。
何故だかは自分でもわからない。しかし、ハジメは心の内から湧き出る恐怖から、この壁画から目を逸らせないでいた。
だが一つわかったことがある。風華が震えているのはあの壁画が原因だ。恐らく風華は、この場に来て最初にあの壁画を見たのだろう。
「大丈夫、大丈夫だから」
「……ん」
妹を落ち着かせるために、兄は恐怖を押し殺して小さな身体を抱きしめる。
その行為の効果は大きく、ハジメは、自分の身体を伝わる振動が弱くなっていくことを感じた。
(これってまさか、アニメとかで言う異世界転移ってやつか……?いや確かに白崎さんとか天之河くんとか天之河くんとか異世界行って世界救ってそうだなとか考えたことはあるけど本当に起こるのかこれ)
ハジメは、これが創作物でよくある異世界転移であると認識せざるを得なかった。本当は夢であってほしいというのが本音中の本音だが、五感を通して与える情報が、彼にこれが夢ではないと残酷に告げる。
「ようこそ、トータスへ」
自分たちの知らない、老人の声が聞こえてきたのはそんなときだった。
聖教教会教皇、イシュタル・ランゴバルドと名乗る老人が言うには、自分たちは光輝を勇者とし、その同胞たちとして召喚されたらしい。
イシュタルとあの場にいた信者であろう人たちに案内され、ハジメたちは最初にいた大広間から長テーブルがいくつも並ぶ別の大広間へと通される。上座に近い席へ愛子先生や光輝たちが座り、ほかの皆も次々と座る。その中で、ハジメや美穂は最後方の席へと座ることにした。
「おい風華……」
「……離したら、ころす」
「あはは……風華、南雲先輩が困っちゃってるよ?」
ただ一人、風華だけはハジメの手を力強く握り、彼から離れようとしなかった。
風華がまだ不安がっているのはハジメでなくとも一目瞭然だ。しかし、何もわかっていない状態で下手に動くことも危険だろうとハジメは考えていた。
「……フウ」
「……!」
少しかがんで妹と目線を合わせ、昔呼んでいた名前で呼ぶ。
「お前の気持ちはよくわかる。でも今は、今だけはがまんしてくれ。兄ちゃんは離れないから」
「……んぅ」
「よし、いい子。それに、山上さんも近くにいる。彼女が強いのは知ってるだろ?」
「そうよ。風華の敵は、あたしが全部殴り飛ばす!」
山上美穂の実家である山上家は、自分たちの街の大きな拳法道場を営んでいる。そこの一人娘である彼女は、女性という体格的なハンデがありながら道場一の実力者だ。スポーツなど何もやっていないハジメが相対しても十秒以内に負ける自信がある。
ハジメたちの説得により、風華はようやく手を離した。それを確認した彼らも席に着く。
ハジメ、風華、美穂の順に座る。風華は、ハジメが座るとすぐさま隣に座り、最大限椅子をハジメに近づけて手を握っていた。
全員が席に着くと絶妙なタイミングでメイドさんたちがカートを押しながら入って来る。
これがベターなところか、とハジメは飲み物を給仕しているメイドさんを眺めながらそう思った。
ちなみに、今のやりとりはクラスメイトどころかこの場にいるほとんどの人が見ており、男子の嫉妬全開の視線でハジメの胃がキリキリしていることに、彼は必要な犠牲だったと考えることにして胃痛を受け入れていた。
そして、それ以上に強い、先ほどの壁画とは別ベクトルの視線によって、ハジメの口からはハハハと乾いた笑いがこぼれていた。
何故か妹はその視線を受けてふんすっと静かに勝ち誇っていた。何故だ。
時は進み、夜。
ハジメたちは王宮で開かれた晩餐会に参加していた。
地球の洋食と然程変わらない料理を食べつつ、トータスの人々と親睦を深めるクラスメイトたちをハジメは集団から離れた壁際で眺めていた。
金髪美少年であるランデル王子がしきりに香織に話しかけているところを見ながらハジメはここまでに起きたことをぼんやりと思い出していた。
あのあと、イシュタルは自分たちを呼んだ経緯を説明した。
長ったらしかったし転移物にありがちなテンプレだったのでざっくり言うと、このトータスという世界は人間族と魔人族の戦争が百年単位で続いており、今までは戦力が拮抗していたが、魔人族側が魔物を使役しだして負けそうだから、神エヒトの呼んだ自分たちに人間族を救ってくれというものだ。
つまりは戦争をしろと言っているのだ。当然、こちら側の唯一の大人である愛子先生は反対した。
ここからが問題だった。
「お気持ちはお察しします。しかし……あなた方の帰還は現状では不可能です」
イシュタルはそう言った。その言葉に生徒全員が凍り付いた。
イシュタルが言うにはこうだ。
僕らを召喚したのは人間ではなくエヒト。自分たちが呼んだわけではない、人間族に異世界に干渉する魔法は使えないという。
ようは帰れないし帰せない。その事実に愛子先生は脱力し、生徒たちもパニックになりだした。
ハジメはこういった展開の創作物をよく知っていたので多少は落ち着いていた。
しかし、隣に座る後輩組はそうもいかなかった。いくら強い美穂でも実際に殺し合えと言われて出来るほどの覚悟は無いのか強張った表情をしており、風華はまた震えが強くなりとうとうハジメの膝の上に移動して兄へ安心を求めていた。
そこで、生徒たちに希望が降りた。
天之河光輝だ。クラスどころか校内一のカリスマと言ってもいい彼のリーダーシップは、おびえて収拾のつかなかったクラスメイトたちを瞬く間にまとめ、冷静さを取り戻させた。
ただし、戦争に参加するという形で。
「へっ、お前ならそう言うと思ったぜ。お前一人じゃ心配だからな。……俺もやるぜ?」
「龍太郎……」
「私は戦争なんて反対よ……」
「雫……」
「それでもあんたを放ってはおけない……私もやるわ」
「雫!」
「え、えっと、雫ちゃんがやるなら私も頑張るよ!けど……」
いつものメンバーが光輝に賛同するが、香織は不安げに自分から一番離れた席を見やる。視線の先には未だ震える風華の姿だ。
香織からすれば、風華は同じ異性を取り合うライバルだ。だからといって風華を邪険にしているわけではないし、むしろ仲良くなりたい存在だ。
もっとも、風華からすれば、兄に近づく女として敵視しているが。でも兄の昼事情を密告してくれることは正直助かってる。
「香織……大丈夫だ、彼女たちもみんなも俺が守り抜く。俺は世界を救ってみせる!」
「はい!ありがとうございます!……やっすい言葉」
「……」
美穂からは返答があったが、風華はガン無視を決める。それを照れ隠しと受け取ったのか、光輝は気にせずクラスメイトたちを鼓舞し再び希望を与える。
自分たちを殺し合いへ誘う希望。しかし、絶望の中の一つの光に生徒たちは疑うこともせず、その光に縋った。
あとはもう止まらない。愛子先生は最後まで止めようとしていたが結局押し切られてしまった。
そこからはトントンと話は進んだ。ハイリヒ王国の王宮へと移動し、国王に謁見し、自己紹介を受けたのちに晩餐会が開かれている。
そこまで思い出して、ハジメは深いため息をついた。
「絶対に何も気づいてないでしょ天之河くん」
少なくともハジメは気づいていた。
イシュタルが事情を説明するとき、光輝を観察し、どう言えば光輝が賛同し、かつ、自分たち全員が戦争に参加することを促すように話していたことに。
そして、彼の思い通りに事は進んだ。駆け引きも何も無く進んで、拍子抜けだったのではないだろうか。
創作だろうが現実だろうが、ああいった立場の老人はあなどれないということか。トップにいるということは、自分たちにはない長年の経験と観察眼という武器がある。それは、時として武力以上にやっかいなものだ。
「……にぃ」
「っ!風華……」
風華の声で、ハジメは現実へと意識を戻した。
気が付けばいつのまにか妹が目の前にいた。少し離れたところにはこちらに手を振る美穂の姿もある。
自分を見上げる風華を見て、申し訳なさで心がいっぱいになる。自分は風華を守らなくてはならないのに、戦争に参加させてしまった。
守れるだろうか?肉も、力もロクにないようなこの腕で?
呼吸が荒くなる。
小さな赤い紅い華を幻視する。してしまった。
脚に力が入らない。膝が崩れ落ちる。
今になって、ハジメが心の底で蓋をしていた死という恐怖が溢れてきた。あるいは、今まで目をそらしていた現実に目を向けたということだろうか。
「ごめん……」
目頭が熱くなるのを感じる。口からはひたすらに謝る言葉しか出てこない。
何故あそこで反論しなかったのか、それは自分に力が無かったからだ。自分があの場を治めてみろと言われても無理だという自信しかない。
「ごめん……!!兄ちゃん、が、こんな……」
「……大丈夫、フウはここにいる」
静かに泣き崩れる兄の頭を妹は撫でる。
「……にぃがいるならフウがいる。にぃならフウを絶対守ってくれる」
「……ああ、やってやるさ」
確証も何もない言葉がハジメの心にのしかかる。それをハジメは受け入れた。
誰も気づかない壁際でのやりとり。
それを不安げにずっと香織は見ていた。
精神不安定なハジメが出来上がってしまった。けれどこうなるのが普通なんかなぁと思ったりしている。