(くそっなんでだ!?)
とっさに飛び退き、攻撃を回避したハジメの脳内は恐怖と焦りに支配されつつあった。
背後でべちゃっと水音がする。振り返ってみると、そこには赤い血だまりと、僅かに残った何かの肉片が転がっていた。
ハジメの腕の中の風華は、攻撃のあった方向をじっと睨みつけている。
「……にぃ、まずい」
彼女の警告にハジメは応えることは出来なかった。彼はゴクリと生唾を飲む。
風華の視線の先には、2mは超えるであろう巨躯と赤く妖しく光る二つの目。そして、先ほどの斬撃を放ったであろう鋭い爪。
間違いない。ここに住まう階層主である熊だ。熊は、二匹の獲物をじっと見つめていた。
「ぁ……あぁ……」
"次は逃がさない"
その威圧感のこもった視線を受けたハジメは、恐怖で身体を震わせる。失った左腕が痛みだす。彼は風華を抱きしめていた腕を、自然と左腕へと伸ばし傷口をかばう。
なぜこの場に奴がいるのかはわからない。たまたまこちらへとやって来ただけか、はたまた戦闘音を聞きつけてきたか。
(違う、そんなことはどうだっていい。今は急いでここから逃げないと……)
――逃げる?
――ウサギが逃げだしてからでも追いつける化け物相手に?
そう認識したとき、彼は目の前が暗くなっていくのを感じた。
いけると思っていた。あいつを殺せると思っていた。
認識が甘かった。恐怖とは、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
「グルルルアァ!!」
熊が咆哮を上げる。それすらもどこか遠くから聞こえてくるように思えて、
「……閃光、カウント3」
「っ!!」
小さいけれど、はっきりと聞こえた声に彼は意識を現実へと引き戻す。
熊が発達した腕を大きく振りかぶる。それと同時に、風華は全力で熊へと閃光手榴弾を投げつけ、ハジメは壁へと走り寄る。
「グッ!」
熊は、突如己へと向かってきた物体を迎撃するために腕を振るう。すぐさまそれは切り落とされ、カランと乾いた音を辺りに響かせた。
閃光手榴弾は不発に終わった。しかし、彼らには意識を一瞬でも逸らせれば十分だった。
「錬成!」
ハジメは壁に錬成を発動させ、柱を左右から生やして熊の伸びきった腕を押し潰し固定する。今回は支援魔法を受けていないため、効果はあまりないと思うが、数秒の拘束は出来るはずだ。
しかし、そこは階層主。「グルルァ!」とすぐさま腕に力を入れて拘束具を破壊にかかる。錬成し続けているはずなのだが、3秒も経たずに拘束具にヒビが入る様子を見たハジメは心の中で「化け物め」と毒づいた。
それでも、十分な時間稼ぎにはなった。
熊は、拘束具を破壊した直後、ようやく眼前に何かが迫っていることに気づいた。
それは、風華が全力で投げた破片手榴弾だった。
気づいた頃にはもう遅い。それは眼前で爆発し、中に入っていた鉄の破片や狼の牙が熊の目や鼻、口の中に突き刺さる。
「グルァ!?」
突如視界を奪われた熊は混乱し、腕をめちゃくちゃに振りまわして暴れまわる。
その様子を見て、ハジメと風華はすぐにその場から離れた。
背後からは熊の怒りであろう咆哮が響き渡っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
熊から離れたところで、壁に隠れた二人はその場で大の字になって倒れた。
ある程度呼吸を整えたところで、二人は神水を飲んで喉を潤す。これで手持ちの神水は全て使い切った。
「ごめん、風華」
どうにか上体を起こしたハジメは、風華へ礼を言う。彼女の言葉がなかったら、今頃は二人そろって無惨に引き裂かれていたかもしれない。
「……いい、の。それよ、り」
「ああ……」
彼らが入ってきた側の壁からドスドスと音を立てて何かが通りすぎていく。十中八九あの熊だろう、やつは自分たちを探しまわっているようだ。
「どうするか、あいつ」
「……」
「……倒す、か?」
「……っ」
風華の身体が小刻みに震え出す。彼女は、最初に熊に襲われた状況が脳裏に浮かんでいた。
前回、ハジメは自分をかばって左腕を失った。また、自分が足かせになってハジメから何かが、最悪の場合、命が奪われてしまうのではないか。
死ぬのは怖い。しかし、それよりも兄を失って生き残ってしまうのはもっと怖い。
兄のいない世界に価値なんてない。
そんな風華の心情を察して、ハジメは優しく彼女の頭に手を置く。
「あ……」
「正直、無理してまでやることじゃない。僕も死ぬのは怖いし、風華のいない世界なんて嫌だ」
だから、とハジメは言葉を続ける。
「僕は死ぬつもりはないし、風華も死なせない」
「……ん」
「それに、白崎さんと約束したでしょ。それを果たすためにも生き残らなきゃ」
約束。ああ、そうだ。約束だ。
「約束は守らなきゃ、だろ?」
「……ん、当然」
約束を守るためには、あの熊を倒して強くなる必要がある。
どのみち倒す必要がある相手だ。その倒す時が思ってたよりも早くきただけではないか。
そして、やつは今、視覚や嗅覚が潰れているはず。倒すなら絶好のチャンスだ。それは、ハジメも理解しているからこそ、今倒そうと言ったのだろう。
風華は身体の震えが自然と消えていることに気づく。
「……ん、わかった。やろう」
「ああ、あいつを倒して、食って、生き延びる」
「そしてあの女に見せつける」
「あの風華さん、今何と?」
ハジメとしては確認のために聞き直したい言葉が聞こえてきたが、風華はそれを無視して立ち上がる。
「……ほら、にぃ。いこ」
はぁ、とため息をついたハジメはその後を追うのだった。
階層の主の後を追うことはそう難しいことではなかった。
熊が進んだ道には、血で出来た足跡や血痕が残っていた。この足跡はウサギの死体を踏みつけでもしたのだろう。
ハジメと風華は慎重にその跡をたどる。魔力を温存するために空歩で移動するわけにはいかない。
途中で何頭もの狼やウサギの引き裂かれた死体を見つけた。どうやらあの熊は自分たちが思っている以上に怒り心頭らしい。
そして、この階層に存在する広間の1つに着いたとき、二人はバチィッ!という電気の音と何かの弾ける水音を聞いた。
それを聞いた二人はとっさに岩陰に身をひそめ、中の様子を伺う。
広間の中は地獄とも呼べる様相を呈していた。部屋中の床や壁はところどころが血で赤く彩られ、それの素になっていたであろう狼の死体が至るところに散乱している。
そして、部屋の中央では狼の最後の1頭が無惨に命を散らしていた。
「グルルアアァァ!!!!」
全ての息の根を止めた熊はまだ足りないと言わんばかりに怒りの咆哮を上げる。
「ずいぶんとご機嫌だな」
突然、熊の背後から声が聞こえた。その声に、獣は咆哮を止め、後ろを見た。
そこには自身へと迫る杭と、小さな生き物がいた
間違いない、自分を怒らせた餌共だ。
飛んできた杭を、熊は何事もなかったかのように叩き落し、餌をじろりと睨みつける。
「まあ、無理だよな」
ハジメは、その視線を意に介さず熊の目を睨み返す。それが気に食わなかった熊は再び咆哮を上げ突撃する。
「それじゃあ……左腕の借り、返させてもらうぞ」
「……支援」
その咆哮を受けて尚、ハジメは怖気づくことなく錬成を発動させた。
すると、周囲の壁から何本もの杭が熊へ向けて射出される。全方位同時に飛んできたそれを、頭に血が上っていた熊は判断が遅れ、回避することが出来ずに杭に貫かれていく。
それでもなお、熊はハジメたちへ足を止めなかった。
「これでもだめかよ……だったら」
「……これでも、くらえ!」
今度は風華が地面へと手をつく。
正確には、ハジメが地面から錬成で露出させた鉄線の上だ。
風華は鉄線に向けて纏雷を最大出力で発動させる。さらに、ダメ押しと言わんばかりに、先ほど回収したばかりの狼の魔石を触媒に使用し、威力を上げる。
鉄線が向かう先は、ハジメの攻撃で傷つけられた熊から流れる血液だ。
「グルルアアァァ!?!?」
鉄線を辿り、全身から流れる血を辿って、体内に電撃を流され、感電した熊は、流石に足を止める。
全身から煙を上げ、その場に倒れる熊。しかし、流石というべきか、息も絶え絶えながら熊はまだ生きていた。
「……まだ生きているのか」
そういうとハジメは地面を錬成して熊の身体を抑え込む。
すでに死に体にも関わらず、熊はハジメを睨みつける。その姿に、ハジメは左腕の仇である獣に思わず感服してしまった。
「……強くなるために、お前の命を食わせてもらうぞ」
ハジメはズボンのポケットから1本の黒い棒を取り出す。それは、彼が拠点の壁の中から魔力の伝導性がよく、とても丈夫な鉱石をかき集めて錬成で作りあげた、金属棒だった。
ハジメは錬成で極限まで鋭くしたそれを、熊の頭へと突き刺し、更に内部で錬成することで熊の脳を破壊した。
階層の主は完全に息を引き取った。
それを確認した二人の勝者は。互いをたたえるように拳をぶつけ合った。
錬成を利用してどうにか持ち帰った熊の遺体は、使えるところを全て使うことにした。そして、その肉を喰らった二人は大量のステータスと風爪という技能を手に入れた。
ちなみに、肉の味は相変わらずのものだった。
ハジメたちが階層主である熊を食べている頃。
その時間帯は空が赤く色づき始める時間であり、働く人々は「今日はあと一息だ」と気合いを入れ直す。
それは、ハイリヒ王国にあるウォルペン工房も例外ではない。
常にカンッカンッと鉄を打つ音が絶えない工房には、ウォルペンを始めとした筋骨隆々の男女が今日も鍛冶に精を出していた。
小窓から空を見たウォルペンは「もうこんな時間か」と思い、最近雇ったアシスタントへ声をかける。
「おーい、5番の棚の材料を一つ持ってきてくれ!それが終わったら今日は上がっていいぞ!」
「はーい!」
すると、この場には似合わないであろう透き通った声が工房の中に響き渡った。
工房の職人たちはその声が聞こえるたびにやる気を即座に回復させ、それと同時に二人がこの場にいないことに寂しさを感じる。
「よっこいしょ、と。これでいいんですよね、ウォルペンさん」
「ああ、そうだ」
「はい、それではお先に失礼しますね」
そういうと
そして、お疲れさまでしたー!と元気にウォルペンたちに挨拶をし工房を去っていった。
「おう、気を付けて帰れよ。嬢ちゃん……全く、あの坊主共はどこで道草食ってるんだ」
その背中を見て、彼はこの場にはいない少年少女へとつぶやく。
彼女の名前は白崎香織。
彼女は、ハジメがかつて働いていた工房でアシスタントを務めていた。
次回の投稿ですが、かなり忙しくなりそうなので1、2週間くらい後になる可能性があります。