この店の刺身がとても旨い。
私はこの店に何年も通っている、言わば常連である。この店は魚介、特に刺身に力をいれており何の魚が入るかは店長次第であるものの何にしても旨い刺身が出てくるので不満はない。強いて言うならばあの魚が食べたいな…となっても店長に言って卸してきてもらうまでに時間がかかることだろうか。それにしても数日以内には用意してくれるのはやはり店長の力がある証拠だろう。
さて、冬は過ぎ去ったものの未だに春の訪れは感じない頃、店長がまた知らない魚を仕入れてきた。この店の特徴として、仕入れてきた魚が店にある水槽で泳いでいることがある。大きい魚などは店の奥で眠るのだが、今日は水槽に魚がいた。
「店長、なんですかこれ」
「そいつはミシマオコゼ。十二月くらいからこの時期にかけてが旬でね。プリプリとコリコリが両方味わえるってんで旨いんさ」
店長の紹介で既にお腹が減ってきた。顔はなんとも言えないような微妙な顔をしているものの、こういうやつらに限って旨いのだ。この店に通うことで旨い魚の顔っていうのも分かってきたということだろう。気のせいだろうか。多分店長に言ったら笑われるような気がする。
「実は言うとこいつは刺身でもいいが鍋でも煮つけでも旨い。結構なんにでもできるが…どうする?」
「刺身で」
私は店長が新しい知らない魚を仕入れてきたときはまずは必ず刺身にする。理由は色々あるが、まあ一番はその魚そのものの味を知ることができるからだろう。味の癖、食感、そして見た目。刺身は何の飾りもなく素材が活かされるからこその魅力がある。因みにここまでの話で薄々分かるだろうが私の好物刺身である。
「はい、ミシマオコゼの刺身。醤油は使うかい」
「いえ、このままで」
新鮮な魚を使っているというのが分かるほどに光る身には魚特有のツヤがあり、見ているだけで食欲がわいてくる。
まずは軽く一切れを口に運ぶ。店長の言う通り確かにその身はコリコリしておりしかしそれでいて魚の肉としての柔らかさも内に秘めておりさっぱりとしている味は口の中での暴れることなく爽やかに喉を通る。
「これ、旨いですねぇ」
「だろ?口直しとしても使えるし色んな料理に使えるってんですごい使い勝手がいいんさね」
私は今一度水槽の中を泳いでいるミシマオコゼのことを見る。体が丸いからなんだか手掴みでも捕まえることができそうだが…
「あっ!」
油断してしまい緩くなっていた腕時計が水槽の中に落ちてしまった。防水なので別に問題はないが水槽が中々深いせいで腕を伸ばしたところで取れるようには思えない。突然降ってきた異物に魚たちはすぐに逃げてしまいなんとも言えない気持ちになる。
「どうしたんさね」
「すみません…水槽の中に腕時計を落としてしまい…」
それを聞くとすぐに店長はカウンターの奥にあるロッカーからトングを持ち出してきた。どうやらトングで腕時計を取ってくれるらしい。
「本来は自業自得だって言うんだが…まああんただしな。魚にも悪影響があるかもしれないから今回は取ってあげるさね。次は気を付けんさいな」
「す、すみません…」
ちょっとだけ強い視線を向けられてしまいたじろいでしまう。なんとか水槽の中から戻ってきた腕時計に傷はなく店長に感謝を伝えると共にその日はいつもより多く頼んでしまった。
店長は少し気難しいところもあるが、ここは知る人ぞ知る名店。明日の魚も楽しみである。