しずかちゃんのえんげきぶ。~I'll do a play Dogville~ 作:はせがわ
失意のまま伝導所を後にし、しずかの家を訪れると、彼女はひとりベッドの上にいた。
失望も無く、怒りも無く、全てを受け入れたような安らかな表情で、力なく身体を横たえていた。
のび太は家に入るなり、その枕元に顔を埋めて塞ぎ込み、何も言えないまま身を震わせた。
深い絶望が、彼を支配していた。
「……計画は、失敗ね。……また考えて?」
被害を受けているのは、しずかの方。涙を流すべきは彼女なのだ。
だがそっと手を伸ばし、のび太の頭を優しく撫でてやる。慈しむように見つめながら、彼を励ましてやる。
「いやだ! もう計画なんか考えない!
何をしても無駄なんだっ!」
だが彼は絶望に囚われ、イヤイヤと首を振って跳ねのける。
今のしずかの姿を見る事もせず、自身の悲劇的な心境ばかりを想う。
「のび太さん……貴方を信じている。
だから、元気を出して……」
以前とは違う、活力を感じない、とてもか細い声。
その哀れさは庇護欲をそそり、彼女の愛らしさを際立たせるかのようだった。こんな状態になってもなお、彼女は美しかった。
「あんな奴ら、もう知るもんか!
こんな町で理想なんて、叶えられるハズなかったんだっ!
僕はダメだよ、しずかちゃん……。
強くありたいけど、どうしても心が揺らいでしまうんだ。駄目なんだよっ……!」
「疲れてるのよ、のび太さん……。
さぁ、横になって……? こっちにきて……」
ついにのび太はメソメソと泣き出し、ずずっと鼻をすすり上げ始める。そして母親に甘える子供のように、しずかの胸に顔を埋めた。
「さっきね? 君か、彼らか、どちらを選ぶんだって訊かれた」
「……」
「そんなの決まってる、なんにも難しくなんか無いっ!
君を選ぶよ、しずかちゃん。……全部捨てたって良いんだ、僕は君を選ぶぞ!」
突然、まるで火でも着いたかのように、のび太はカッと目を見開いて、しずかの上に覆いかぶさる。
「僕には君だけ……もうそれで良い!
さぁ、今こそ愛し合おう! 僕らが待ち望んでいた時だ!
僕は君を連れて、この町からっ……!」
きっと、何かしらの証が欲しかったのだろう。
自分は覚悟を決めた、君のために生きると、その覚悟の表れでもあったのだろう。
彼は一方的にそう宣言し、しずかの服に手を掛ける。恍惚の表情で彼女の身体をまさぐり、愛おし気にキスの雨を降らせていく。
「そうね……のび太さん。私達は、彼らに殺されるかもしれないもの。
ここで愛し合うのも……とても素敵。ロマンティックな最後だわ」
「そうだよ、ずっと待ってた! ずっとこうしたかった!
愛してるよしずかちゃん……! 愛してるんだっ……!」
切なげに吐息を漏らすしずかの姿に、のび太の興奮は止めどなく高まっていく。
もう何も考えられない、君しか見えない!
のび太は熱い吐息と共にキスを重ね、ついに彼女の下着を脱がそうと、指を差し入れる。
………だが、
「――――けれど、これは間違った行為よ。
美しい終焉ではなく、自由の身になって結ばれなくては。
私達の愛にとって、間違ったこと」
のび太は凍りついたように、動きを止める。
今も優しく微笑んでいる彼女を、まるで信じられない物でも見たかのように、愕然と見ている。
アワアワと口を開き、その顔が絶望の色に染まっていく。
「は、ははっ……! ははは……」
ゆっくりと、のび太が身体を離す。
ガックリと肩を落として項垂れながら、再びベッドに腰かけた。
(なんだ……なんだよそれ……)
ひとり盛り上がっていた感情が、水を掛けられたように鎮火する。
せっかく覚悟を決めたのに、やっとだって思ったのに――――
そう落胆し、のび太は一気に絶望に落ちた。
そして、今も優しくこちらを見ている彼女に対して、怒りがこみ上げてきた。
「君は……冷たいね……」
そう呟いた声が、静寂の中で大きく響いた。
しずかは少しキョトンとした顔で、痛みをおして上体を起こし、彼に向き合う。
「……僕は、全てを捨てるんだよ? 君のために、ぜんぶ失っても良いって……。
なのに、君は報いてはくれないのかい?
僕の苦痛を分かってはくれないのか?」
小さな、しかしハッキリと怒りの滲む声。
「少しくらい、妥協してくれても良いじゃないか。
僕の苦しみを、和らげてくれても良いハズだ。
――――みんな君の身体をもてあそんだっ! 僕以外のみんながっ!
愛し合ってるのは僕達なのに! ……なのに君はっ!」
首輪をはめられた犬のままで、結ばれたくない。貴方を愛しているから。
しずかはただその一心で、誠実な愛をもって告げた。
それをどうか、分かって欲しかった……。
確かに、青少年のたぎる欲望を抑えるのは、辛い事だろう。
自分だってのび太に抱かれたい。愛して欲しいし、ぬくもりが欲しいのだ。
けれど、本当に大切な人だからこそ、耐えて欲しかった。
愛を、理解して欲しかった……。
「僕だけか?! まぬけな僕ひとりが思い上がって! 君の方は全然……!」
のび太は今もこちらを見ようとせず、情けない恨み言を吐き続けている。
その姿を悲しそうに見つめた後……しずかは再び、そっとベッドに横たわる。
「のび太さん、私の愛する人――――」
その小さな囁きに、怖い顔をしたまま、のび太が振り向く。
「そうしたいなら、して。
みんなと同じように、私を好きに――――」
……………。
………………………………。
時が、止まった気がした。
「通報すると、ギャングに引き渡すと、私を脅せばいい。
でも、貴方を信じている――――私の大好きな人」
のび太は黙っている。彼女から目を逸らす事が出来ない。
まるで女神のような神々しさ。この上ない清らかさ。
「貴方は、自分を信じないの? 自分の理想や信念を、捨ててしまうの?
私はこんなにも、貴方を想っているのに」
その言葉に、ドキリと身体が跳ねる。
「誘惑に駆られた?
強要しよう、みんなと同じようにしようって、考えてしまった?
だから今、そんなにも貴方はうろたえている――――」
そう指摘され、のび太は思わずうめいた。
慌ててワタワタと口を動かし、必死に反論する。
「ち、違うよ! 僕は君を助けようとしてるだけだ!
決して肉欲のためじゃ……!」
「理性的でいるのが、馬鹿らしくなった?
人間的である事が、怖くなったの?」
「違う! 違う違うっ……!!
僕は人間だ! 正しくあろうとするのを、止めたりなんかしないっ!
理想を捨てたりなんかしないッ!!」
虚勢。思わず出ただけの、精一杯の強がり。
けれどそれを聞き、しずかは小さく頷く。
見惚れるような美しい笑みで、のび太を見つめる。
「そう…………よかった」
ベッドに横たわったまま、手を差し伸べる。
おいでと、聖母のように。自愛に満ちた美しい顔で。
「自分を疑うことは、罪ではないのよ、のび太さん。
……でも、貴方がそうじゃなくて良かった――――」
吸い寄せられるように、彼女に身を委ねた。
その神々しさと限りない慈愛に、のび太は抗う術もなく、子供のように呆けたまま。
しずかはのび太を抱きしめ、優しく頭を撫でる。
そして赦しを与えるように、そっとくちづけをした――――
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「少し、外を歩いてくる。……散歩でもしてくるよ。
君はもうおやすみ」
そうしずかに別れを告げて、のび太は家を出た。
「……! ……!」
しずがに言った通り、のび太は夜の町を歩いた。
白く染まった楡通りを進み、積もった雪を払いのけてベンチに腰かける。
「ああ……。あああ……」
動揺し、未だ混乱した頭を、凍り付くような冷気と風が、次第にクリアにしていく。
モヤモヤとしていた気分と、思考の霧が晴れていき、ようやく物を考える事が出来るようになった。
「……自分を、疑う? ……僕が?」
理想と現実、それを同時に追い求める。
これはのび太が自らに課した使命であり、この町においての仕事であり、また誇りでもあった。
土いじりや、ろくに人の来ない店での接客、トラックの運転、詐欺まがいの作業。
そんなくだらない労働に身をやつしている連中とは違う。これは哲学を志す自分にしか出来ない、崇高な役目だ。
「……そんな僕が、自分を疑うだって?」
あの時のしずかの言葉が、頭の中でリフレインしている。
自分を疑う事は、罪ではないのだと。
「馬鹿げてるよ。だって、そんなの……」
道徳というテーマは、彼の得意分野。
それを疑う事や、自らの純粋性に疑問を持つ事は、自分自身を軽んじることになる。
これに関しては、絶対の自信を持っていなくてはならない。自身のアイデンティティであるハズのこれで、誰かに負けることなど許されない。
間違いを指摘されるのなんて、もってのほかだ。
「…………」
のび太は、怒りを感じていた。
自分が今、たしかに怒りを感じていることを、ようやく自覚した。
その怒りの原因は、すぐに思い当たる。
しずかと交わした先ほどの会話が、全ての原因だ。
批難されたからでは無い。不当な指摘だったからでもない。
多少なりとも思慮深いのび太は、それを理解する事が出来た。だがそうと分かっても、いま胸に渦巻いている不快感を拭い去ることは出来ない。
屈辱、そして止めどなく湧き出す黒い感情を、処理する事が出来なかった。
「まずい……まずいよこれは……」
のび太は立ち上がり、虚ろな目のまま楡通りを歩き出す。とにかく体を動かし、少しでも心を落ち着かせようとした。
のび太はショックを受けていた。
しずかという、自分を脅かす存在を認識し、身体が震えた。
彼女はいずれ、自分の崇高な使命を脅かす存在になるかもしれない。自らの心を疑う、理想と信念をへし折られる、その原因となるかもしれない。
彼女が見せた、あの聖女のような微笑みが、胸を離れない。
そして今、はっきりと
「……駄目だよ、もう出来ない。彼女といっしょに居たら……」
それに加え、のび太は「一度彼女の中に生じた疑いは、次第に増していくだろう」と考えた。
自分は今日、彼女の尊い真心を裏切り、身勝手な言葉をぶつけ、醜い欲望をさらけ出してしまった。所詮はこういう人間なんだと、底を見せてしまったのだ。
ならばもう、真に彼女の信頼を得ることは出来ないだろう。心から愛されることも出来はしないだろう。
それどころか、彼女はいつか必ず、僕の信念を打ち砕くと。
必死に考え抜いた理論も、崇高な理想も、全て否定される日が来る――――
だって彼女は聡明で、素晴らしい良識を持ち、正しい道徳を知っているから。
理想を語る? 偉そうに道徳を説く?
なぜそんな事が、彼女の前で出来るだろう。
彼女は自分より、よっほど上なのに――――
「ッ!! ~~っっ!!!!」
叫びそうになった。頭を抱えて、地面に蹲りそうになった。
だがのび太はそれを堪え、早足で楡通りを進んでいく。
決断をするのに、時間はかからなかった。
――――危険だ、危険だ、危険だ。
そう何度も心の中で呟く。
――――彼女は危険だ! 僕にとっても! この町にとっても!!
のび太は急いで、自宅の書斎に駆け込む。そして震えた手で、一年近くも開けていなかった机の引き出しを開けた。
幸運にも彼は、几帳面で実務的な性格だった。だからすぐにそれは見つかる。
二度と手に入らない、小説の資料になるかもしれないような物。それを捨てるなんて愚かな真似を、するはずも無かったのだ。
飼い犬に手を噛まれ、腹が立った――――
散々理屈をこねはしても、ようはそれだけ。何も変わりはしない
しずかを自分に都合のよい“物”と考え、見下していた
だが自分の思い通りにならないと分かれば、簡単に掌を返す
あれだけ愛や道徳を語っていたにも関わらずだ
あの日、黒い車の男から受け取った“名刺”
それを手に取ったのび太は踵を返し、皆のいる伝導所へと向かった――――
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「……?」
翌朝、青く澄み渡った秋の空に太陽が輝き、町を白く染めていた雪は、とうに消え去っていた。
その疲労から深い眠りの中にいた彼女は、窓から差し込む光の眩しさに目を覚ます。
しずかは困惑した。この光の加減から察するに、時刻はもう昼に近いと思われたからだ。
「もうこんな時間? ……でも」
これはありえない事。なぜならいつも自分は、日がのぼる時間に起き出して、仕事に向かっている。もし寝過ごそうものなら、誰かが強制的に起こしに来て、家のドアをどんどこ叩くハズなのだ。
こんな時間まで、何事もなく寝ていられる訳がない。
子供達が窓ガラスを割ることも、何かしらの悪戯をしにくることも無かった。土橋さんの鳴らす鐘の音も、しなかったように思う。
しずかはベッドから身を起こし、ヘンテコな首輪に邪魔をされつつも、急いで服を着替える。
そうしているうちに、彼女はふと、昨日の集会での出来事を思い出した。
「…………」
おかしい。彼らは自分が立ち去ったあと、何かしらの議論をして自分の処遇を決めたハズだ。でも何故それが伝えられていない? 何故のうのうと今まで寝かせていた?
実質的に、自分はこの町の人々に歯向かったのだ。
のび太の顔を立てるために、彼の浅慮な提案を受け入れ、人々の悪事を全て暴露したわけだが、それを彼らが良く思うはずもない。
下手をすれば、自分は殺されてしまうだろうとまで考えていたのに。
邪悪な人々は、いかにもそれっぽい理由を仕立て上げて、必ず自分に制裁を加えるものと思っていた。
だが結果的に、いま自分は何事もなく生きている。それはおかしな事だ。
反省し、憤りを抑えるなど、ドッグヴィルらしくない。あの邪悪な人々が、果たしてそんな殊勝な真似をするだろうか?
しずかは訝しがりながらも、とにかく早く仕事に向かわなければと、家の外へ出た。
「すいません笹山さん……。
もっと早く来るべきでしたが、寝過ごしてしまって……」
懸命に鎖を引き、急いで家に向かうと、ちょうど笹山さんが外出する途中だった。
しずかは申し訳なさそうに俯き、謝罪する。次の瞬間には浴びせられるだろう罵詈雑言に、心の準備をしながら。
「あらしずかちゃん、おはよう。良い朝ね♪」
だが彼女が浴びせたのは罵声ではなく、朗らかな挨拶と、あたたかな笑顔。
「ほら見て? もう雪が全部溶けてる。今日は絶好の洗濯日和ね♪
私も喘息が辛かったから、久しぶりにあったかい気温で、とても嬉しいの♪」
しずかは思わず固まり、口をあんぐりと開ける。
笹山さんの笑顔なんて久しぶりに見たし、それが自分に向けられているという状況が、理解出来なかったのだ。
「ああそうそう。私も今日はのんびりするけど、貴方にも少し休養が必要よ?
家の仕事は娘がやってくれたから、今日はゆっくり休むといいわ♪」
そう告げて、笹山さんはウフフと笑いながら立ち去っていった。
その場に残されたしずかは、ただただ茫然とするばかり。
けれどこの一年で染みついた働き者の精神によって、即座にこの場に意識を戻し、別の家へと歩き出す。
「はぁいしずかちゃん♪ よく眠れた?」
その道中、先ほど話に出た城ケ崎さんと遭遇する。
彼女は朗らかに声をかけ、とても愛らしい笑顔を見せている。
「ええ、こんにちは城ケ崎さん……。寝過ごしてしまったの……」
「まぁ! いいのよそんな事! 私だってそういう日もあるわ♪」
優しく労わり、申し訳なさそうなしずかを励ます。
そのあまりの変わりように、またしずかはポカンと口を開けてしまう。
「そういえば、昨日の貴方の話は、ちょっとした物だったわよ?
みんなが驚く顔は見物だったし、私もすごく考えさせられたもの。
今までごめんね、しずかちゃん……。どうか許してね?」
しずかの手を取り、キラキラと潤んだ瞳で見つめる。
それはすごく愛らしくはあったのだが、しずかはワケも分からないままで、こくこくと頷きを返すのがやっと。
やがて城ケ崎さんも立ち去っていき、しずかだけがこの場に残された。
彼女はポケッと呆けながら、ルンルンと上機嫌で去っていく城ケ崎さんの背中を、ただ見送るばかり。
(これは……何? いったいどういう……)
もう二人も町の人々にあったが、未だ罵声を浴びせられる事もなく、棒で叩かれてもいない。
そのあまりの人々の変貌に、しずかは現状を受け入れる事ができず、まったく状況を判断できずにいた。
有体に言えば、すごく
「やあしずかちゃん、ちょっと待っててね」
しずかは、のび太の家を訪ねた。
ドアをノックすると、昨夜のブスっとした顔は何だったのかと思えるほど朗らかな表情の丸尾が出迎えてくれて、明るい声でのび太を呼んでくれた。
のび太はコートを羽織って準備をすると、しずかを連れて坑道の方へとやって来た。もちろん二人で話をする為だ。
「良い知らせだよ、しずかちゃん!
実はあの後、僕は伝導所に戻ったんだ。あのまま終わらせてしまうのが、なんか悔しくてさ」
目的の場所に辿り着くやいなや、のび太はさも準備していましたとばかりに、早口でしゃべり始める。どこか不自然なまでの、底抜けに明るい声で。
「そしたらね、流れが変わってたんだよ。
みんな君の話を聞いて、思うところがあったんだと思う。
結果的にみんな、今までの自分達の行いを顧みて、考え直してくれたんだ」
「……」
「まだ僕たちは、完全に勝ったとは言えないけど……。
それでもこれからは、良い方に向かうと思う。
これも全部、君が頑張って話をしてくれたおかげだよ!」
両手を大きく広げ、満面の笑み。大げさなまでの喜びよう。
「……なぜ、伝えに来てくれなかったの?」
そんな彼を見ながら、しずかはポツリと、素朴な疑問を漏らした。
「え……そりゃあ行ったけどさ? でも君はもう眠ってたんだよ。
僕も君と喜びを分かち合いたかったけど、よっぽど疲れてたんだね……」
突然の問いかけに一瞬キョドキョドするも、のび太は早口でまくしたて、一方的に話を続ける。
「君を休ませようって僕が提案したんだ! そしたら誰も反対しなかった!
丸尾くんも、土橋さんも、まる子も、みんな君の体調を心配してたよ!」
その説明を聞いても、なんだか釈然としない。
どこか演技のように明るいのび太の言葉は、全てしずかの心を上滑りしていく。
もし町の人々が考え直し、今までの行いを反省してくれたのならば、何故いまも自分に首輪を付けているのだろう? 今すぐにでもはまじを呼びつけ、外そうとしてくれないのだろう?
人を畜生に落とす、重い枷の付いた犬の首輪――――これこそが人々の過ちの象徴であり、悪意そのものであるというのに。
それにのび太は、昨晩
心を込めて言い聞かせ、それに納得はしてくれたが、やはりその後の彼の様子は、どこかおかしかった。
なのに何故、そんなにも飄々としているのか。
「そう……素晴らしいわ。
ありがとうのび太さん、貴方のおかげよ」
とにかく、彼に感謝を伝える。
力なく、どこかぎこちない笑みで。
「いやいや、僕なんて……全部君の力さ。
それにしても、いつも町の人々には驚かされるよ。
昨夜はあんな風に言ったけど、とんでもない! 彼らの心にも、ちゃんと良識は残ってた。
あはは、僕も考えを改める必要があるね? 自分の間違いを認めるのは悔しいけど」
「…………」
しずかはじっと、のび太の顔を見つめる。彼はそれをまともに見返すことなく、嬉しそうに話し続ける。
「昨日ね?
伝導所から戻って、君の綺麗な寝顔を見ていたら、突然アイディアがひらめいたんだ。
小さな町の物語でさ? もう一気に第一章を書き上げちゃったよ! すごいだろ?
まぁ、まだ町の名前をどうするかは決まって無くて、悩んでるんだけど」
「……ドッグヴィル、にすれば?」
「ちょ! それはダメだよ……もっとありふれた名前じゃなきゃさ?
奇をてらうばかりじゃなく、感情移入のしやすさを考えないと。
これは新人作家が失敗しやすい点だね」
皮肉っぽく提案するが、軽く受け流される。
得意げに語るのび太に、しずかは少し不快感を覚え、眉間に皺を寄せる。
「良かったら、今から読んでみる?
せっかくお休みなんだし、ちょうどいいだろ? 君への愛に満ちてるからさ」
「えっと……ごめんなさい。また今度にしても、いいかしら?」
しずかは言いにくそうに、おずおずと告げる。
「休んでも良いのなら、出来たら自分のために時間を使いたいの……ダメ?」
「まさか! もちろんだよしずかちゃん。
読むのはいつでも出来る。今日はゆっくり身体を休めてよ。
愛を疑うことは、お互いを傷つけること、ってね」
しずかに歩み寄り、軽くキスを交わす。彼女は動くこと無く、黙って受け入れる。
やがて彼は踵を返し、そそくさと離れていく。
「退屈になったら、どこかに座って景色を眺めると良いよ。
僕の小説のヒロインならそうする」
「ええ。それじゃあね、のび太さん」
「うん、またねしずかちゃん!」
途中こちらを振り返り、「良い知らせだったろ?」とガッツポーズをしてみせる。
そんなのび太に曖昧な笑みを返し、彼が見えなくなるまで見送った後、しずかもこの場を後にした。
不自然な状況、町の人々の不可解な変化に、しずかは顔を強張らせる。
だが今は、せっかくの休日を活用しよう。身体を休め、やるべき事をしよう。そう考える。
その日、しずかは久しぶりに身体を洗い、服を洗濯してみる事にした。
何故だかこれは、のび太の小説に出てくる人物が、しそうにない事に思えたから。
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穏やかな天候と、風さえない日が続く
外で遊ぶ子供達の姿さえ消えて、町は静寂に包まれた
それは、来訪者を待つ時にも似た、静けさだった――――
しずかは二日間の休養の後、仕事に戻った。
だが彼女の首輪は、はめられたまま。不可解な静寂も街を覆い続けている。
人々は何故か、仕事をするのをやめ、どこへも出かけなくなった。
藤木のトラックも、楡通りの一角に停められたままだ。
この静寂は、ついには謎の緊張すらはらみ、それは日を追うごとに増していく。
しずかはそれを疑問に思うも、以前よりも遥かに人道的な量の仕事を、言いつけられるがままにこなしていた。
町の人々は、あれからずっと優しい。
だが何故か、こちらと目を合わせようとせず、必要以上にしずかと話そうとはしなくなった。
皆、この町の異変にも、素知らぬ顔だった。
そして5日目になり、ようやくこの奇妙な静寂は破られる。
今まで家に籠っていた人々が、突然外に出てきて、楡通りに集まったのだ。
どうやら電話が故障してるらしい――――
ジョージタウンへの道に大木が倒れて、道が塞がっている――――
人々は彼女から隠れ、そう口々に話し合った。
崖の上で双眼鏡を覗いていたのび太が、こちらに向かってくる車の列を見つけ、城ケ崎さんがそれを報告しに皆のもとへ走った。
「車が向かって来るわ。8台くらいあるらしい」
「でも、道路には木が倒れてるんじゃないの?」
「ああ。きっとその前に通ったに違いない」
そう興奮気味に話す人々。
しずかはそれに構うこと無く、熱心に話し込む彼らの脇を通り抜け、次の仕事場に向かうために楡通りを歩く。
こんなにも大きな音を立てて車輪を引きずっているのに、誰一人としてしずかに気付くことは無かった。
「ああ、しずかちゃ~ん? ごめんだけど、娘のシーツを代えといてぇ~!」
ふいにみぎわさんが家から飛び出して来て、なにやら急ぎ足で崖の方に走っていく。
それをぼんやりと見送った後、しずかは言いつけ通りに家の中へ入り、娘さんに声をかける。
「こんにちは。ちょっとベッドのシーツを代えるわね?」
娘さんはこちらを見ようともせず、ずっと窓の傍に張り付き、外を眺めるばかり。
それを特に気にする事なく、しずかは淡々とベッドの方へ行き、尿で汚れたシーツを手早く取り換えた。
何も考えること無く、ただただいつものように手を動かす。
そわそわと、白々しいまでの町の人々の様子に、ひとつため息をついて。
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………………………………………………………………
やがて夜になり、崖から谷のようすを伺っていた人々が、ぞろぞろと引き換えして来た。
もう暗くてなにも見えなくなり、ようやく諦めて戻って来たのだ。
「のび太さん」
「え……あ、しずかちゃん。どうしたの?」
仕事を終えたしずかは、家に戻る途中でのび太の姿を見かけ、声を掛けた。
「そちらこそ、何をしていたの? 崖の所に行ったりして」
「ああ、こちらに向かってくる車を、何台か見つけてね?
でも暗くなっちゃって、もう見えないよ」
そう彼は、この騒ぎを説明する。
のび太の顔には深い落胆と、軽い疲労感が滲んでいる。
「近頃、あまり会えないわね?」
「うぇっ?! そ、そうかな?
いや僕も、小説のことで忙しくてさ。そういえばあまり、君の所へは……」
あの変なガッツポーズの日から、のび太は妙に彼女を避けるようになっていた。
毎夜のようにあった語らいも無くなり、こうして町ですれ違っても、どこかそっけない。
そして今も、早く会話を切り上げようとしている雰囲気が見て取れた。
「ひとつ、訊いてもいいかしら?」
「何だいしずかちゃん、どうかしたの……?」
扉に手を掛け、家の中へ入ろうとする彼に、しずかは追いすがる。
そして……冷たい眼差しで、まっすぐのび太を見つめた。
「――――捨てていなかったのね、あの名刺を」
のび太の背筋が凍り付き、表情が固まる。
「言ったでしょう? 危険な男だと。
愚かなのび太さん――――」
しずかが目線を切り、去っていく。
針のように鋭い、冷徹な瞳――――
それを受けて、のび太は一歩も動けなくなり、その場に立ち尽くした。
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………………………………………………………………
その夜、のび太は緊急で集会を開き、鬼気迫る表情でしずかの監禁を主張する。
5日前、彼は町を代表して電話をかけ、名刺の男へ連絡を取った。
もうすぐここへ、ギャング達の乗った車がやって来るだろう。
それにより、ドッグヴィルが大きく変わろうとしていた。
ギャング達がやって来るまで、大事をとって彼女を閉じ込めておくべきだ。決して逃げ出したりせぬように。
それには大した反対意見も出ず、結局のび太の主張通り、しずかの監禁が決まる。
「へっへっへ! さー鍵を掛けちゃうぞー!
これでもう外へ出れないブー! しずかちゃんのバーカ!」
ブー太郎が忍び足でドアの前に立った時、しずかはベッドに横たわっていた
静寂の中、カチャっと鍵が回される音を聞く
だが彼女の意識は、ずっと思考の中にあった
この1年の間、ずっと記憶の片隅に追いやっていた、
それについての考えに没頭し、気に留めもしなかった――――