しずかちゃんのえんげきぶ。~I'll do a play Dogville~ 作:はせがわ
外ではたまちゃんが洗濯物を干し、子供たちが無邪気に走り回る
ジャイアンがリンゴ農園の手入れ
丸尾くんは椅子に座り、のんびりと窓際で日向ぼっこ
まる子のグーズベリーも、耕しすぎという心配に反して、良く育っている
それは太陽の光を受け、美しく生い茂っていた
そしてこの早春の日は、しずかにとって、生まれて初めての労働の日となった
彼女はひとりドッグヴィルを歩き、各家を周っていく
労働を提供するため
日に一時間ほど、町の人々に奉仕するのだ――――
「こんにちは、藤木さん」
トラックの荷台にいる藤木のもとに、しずかがやって来た。
「あの、何かご用はありますか?
良かったら、お手伝いをしたいのですが」
高級そうなコートに、ハイヒールの靴。非常に整った美しい顔と、柔らかな物腰。
それは明らかに場違いだった。
彼女はこんな寂れた町にいるハズもない、別世界の人間のような印象を受ける。
「あっと……じゃあお願いしようかな」
作業を続けながら、そう言葉を返す。
しずかの方をまっすぐ見られずに、どこか目を逸らしている様子なのは、恐らく照れがあるからなのだろう。
こんな高貴さを纏う美人を見る機会など、ドッグヴィルに住む藤木には、あるハズも無い。
「んっ……! ん~っ!」
しずかは嬉しそうにトラックの傍に行き、さっそく荷物の箱に手をかける。だがそれは中々持ち上がらない。荷物が重すぎるのか、彼女の細腕の非力さゆえか。
トラックの荷台どころか、膝の高さまで持ち上げる事もままならず、しずかの身体がぐらつく。それを見かねた藤木が「いいよ、僕がやる」と言い、彼女から荷物を取り上げてしまう。
決して不快そうな態度では無いし、純然たる彼女への気遣いなのだろう。
けれどそれは、実質的な戦力外通告だ。
「あ、なら家のお手伝いをしましょうか? お掃除でも、なんでも」
それにもめげず、しずかは出来るだけ明るい顔で、ご用伺いをしていく。
けれど彼の「僕に家は無いよ、ガレージだけだ」という言葉に、意気消沈してしまった。
失礼な事を言ってしまったかと、しずかは心底申し訳なさそうな顔。
「気にしないでくれ。運送業はね?
そう気遣う藤木の言葉に、少しだけ笑みを取り戻す。
やがて遠くから「お待たせぇ~」という声が聞こえ、この場にみぎわさんが現れた。
「あ~らしずかさぁん、おはよぉ~う♪」
「おはようございます、みぎわさん。……あの、みぎわさんは」
「なぁ、彼女お手伝いがしたいんだってさ。何か用事はあるかい?」
「えぇ~、お手伝い~?
私は掃除婦なのよぉ? うちの家事をしてもらうっていうのも……ねぇ」
みぎわさんが助手席に乗り込んだのを確認し、藤木はトラックのエンジンをかける。
「良い一日を。気を付けて」
「ええ、言ってくるわぁしずかさん。また今夜ねぇ~」
トラックが発進し、どんどん遠ざかっていく。
しずかは一人この場で佇み、それを出来るだけの笑顔で見送る。
藤木たちは沢山のグラスを積んで、ジョージタウンへ向かっていった。
これは永沢一家が安物グラスに細工し、高級品に見せかけた、例の品物だ。
見えなくなるまで見送ったしずかは、おもむろに自身のひざ元を確認した後、スカートの端っこを少しだけ破る。
これまでの逃避行や山登りによって、彼女のロングスカートはもうボロボロになっている。所々が穴の空いたそれを、少し整えたのだ。
けれど彼女の容姿は、なおも美しい、煌びやかな物。
このドッグヴィルにおいては、明らかに浮いた存在だった。
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「……何だい? 僕に何か用かな」
しずかは異国風な名前の横道“グルーネン通り”に入り、盲目であることを隠している男、スネ夫の家をノックした。
「こんにちはスネ夫さん、私はしずかと言います。
何かお手伝いできる事はないかと思って、お伺いしました」
にこやかに挨拶するも、スネ夫の目線はしずかの顔には無く、どこか明後日の方を向いているように感じる。
そして彼は今、少し考え込むような仕草。
「ああ、どうもご親切に。けどさ?」
「あのっ、お役に立てればと思って。……ご不便な状況でしょう?」
拒否される雰囲気を感じ取り、しずかは慌てた。
だがその言葉に、スネ夫は少し驚いた様子を見せ、表情に不信感が滲む。
「不便な状況って、何だよ?」
「あ……そのっ、お独りでお暮しのようだから……」
「はは、僕は昔からずっと独りだよ。何も問題ないんだ」
スネ夫が柔らかに笑う。だがその笑みに、しずかの心が晴れる事はない。
彼女は追いすがるように、そして今の謝罪の意味も込めて、必死に頼み込む。
「なんでもお手伝いします。ですから……」
「すまないけど、その必要は無いよ。本当に大丈夫なんだ」
ふいに、スネ夫がしずかの背後を指さす。
「見てごらん、そっちに木の尖塔があるだろ? 伝道所の屋根の上にさ?
それは夕方の5時になると、まる子の店に影を落とすんだ。
窓にかけたOPENの看板、そのちょうど“O”の文字の、真上にね。
それが毎日、僕に『夕食を買いに行け』の合図をくれるんだよ。
どうだい、なかなか便利だろう? ははは」
これ以上は無駄だろう。そうハッキリと感じ、しずかは別れを切り出す。
「スネ夫さん、それじゃあ」
「ああ、またねしずかちゃん」
優しくスネ夫の手を握る。彼も確かめるように、両手で握り返す。
だが彼の視線はしずかを捉える事なく、ずっと前を見たままだった。
親し気に笑い掛けはするが、どこか控えめ
好奇心も無くはないが、どこか一線を引いている
町の子供達がしずかの周りに集まり、コートのファーを触らせてもらう
モフモフとした手触りと、今まで目にした事のない高級感に触れる
しかしそれを楽しみはするが、この子らが用事を言いつけてくれるハズも無い
しずかは暫しの暖かな交流の後、次の場所へと向かう――――
「でも、ホントに何もないの。
仕事は私だけで十分こなせるし……ごめんねしずかちゃん」
スネ夫は素早く明快に“NO”と答えたが、話し好きの土橋さんは一時間も話してから、彼女に同じ答えを告げた。
女の子同士の語らいは、確かに心地よい時間だった。この町の人々と仲良くなるという目的としては、とても有益だった事だろう。
しかし、しずか本来の目的は叶わなかった。
何件かの家を周り、疲れを感じたまま、彼女はグーズベリーの茂みへと向かった。
正直あまり良い気分ではなかったが、生い茂るグーズベリーの素朴な美しさに、心が癒される想いがする。
この茂みには、恐らく後ろにあるベンチへの近道とする為であろう、畑を2つに割るようにして伸びる一本の道が作られていた。
それは柵で仕切られ、分かりやすくチェーンまで張られている。グーズベリーと人の両方を気遣う、その丁寧さに好感を持つ。
そして暫しの休憩を終えた彼女は、まる子の営む食料品店へ向かった。
「こんにちは、皆さん」
扉のベルが鳴り、店内にいたまる子や野口さん、そして城ケ崎さんが振り返る。
しずかの控えめな声の挨拶に、皆も小さく会釈を返す。
「あれぇ? のび太には伝えたんだけどなぁ~。
あーしずかちゃんや? あたしんトコは大丈夫だよ。
小さな店だし、人手は足りてるからねぇ~」
だがまる子は開口一番、彼女の顔を見た途端、そう告げる。
今の今まで、三人は楽しく雑談でもしていたのだろう。だがその会話は自分が来た事によって止まってしまい、楽しかった雰囲気は壊れてしまったのだろう。
今もじっとこちらを見つめている野口さん、城ケ崎さんの姿に、しずかは内心でため息をついた。
「そうですか……わかりましたまる子さん。
いいんです。きっと私には、何も出来ませんから。
とても非力だし、今まで働いた事すらないんだもの。……お役には立てません」
「……」
「……」
「あ~。そうかね……」
しずかは苦笑する。その声には疲れと、諦めの色が滲んでいる。
前向きさや、頑張ろうという気持ち。それを叶える場所さえも得られずに、しずかは情けなさを感じていた。
協力してもらったのに。命を助けてもらったのに。でもその恩返しをする機会さえ、自分には与えられないのだ。
よそ者で、世間知らずで、汗水を垂らして働いた経験もない。そんな自身のあまりの無力さに、彼女はもうぐうの音も出ない。
「手荒れには、アロエを塗ると良いわ。朝には治ってるから」
もう出来るのは、笑顔でいる事だけ――――
自分の感謝や好意を、精一杯に伝える。それだけが今の自分に出来る、唯一の事。
しずかはふと城ケ崎さんの手に赤い腫れを見つけ、優しくそう告げるのだった。
「……これ、カンナ屑のせいなのよ。いつも親の仕事を手伝ってるから。
ご忠告ありがと。貴方はまるで、
城ケ崎さんは、バツの悪そうな表情。
その時、彼女は窓の外に、こちらに向かって歩いてくるのび太の姿を見つけた。
小さな声で「助かったわ……」と呟き、バトンタッチをするように場所を空ける。
「やぁみんな、おはよう。
しずかちゃん、調子はどうかな?」
朗らかに挨拶し、のび太が店内に入ってくる。
「良いとは言えないわ……。皆さん手伝いは要らないって」
「う~ん、やっぱりそっかー。
みんなシャイだし、なにより働き者だからね……なんでも自分でやっちゃう」
のび太は腕を組んで、うむむと唸る。
しずかの方は、冗談めかした口調ながらも、どこか心労を感じさせる声色だ。
「私を好きになってもらう計画は……失敗ね。
ごめんなさいのび太さん。せっかく考えてくれたのに」
「いや、そんなの全然だよ! なに言ってるのさ、しずかちゃん……」
彼女に申し訳なさそうに頭を下げられ、のび太は狼狽えてしまう。
けれど最後に、しずかは店内の女性たちに向き直り、まっすぐにお願いする。
「本当に、何かしたいんです――――私を匿って下さったお礼に。
皆さん、どうかお願いします。仕事も頑張って覚えます」
その真剣さとひた向きさに、女性たちは思わずたじろぐ。
しずかという子が善人である事、そして心から自分達に感謝している事が、ひしひしと感じられる。ならばこれに応えないというのは、とても不誠実な事のように感じられた。
彼女らの胸に、ほのかな罪悪感が湧く。
「うむむ。手伝いが必要なのは……スネ夫? あいつだったら……」
「はい、先ほど行ってみました。
土橋さんやジャイアンさんの家にも行きましたが……皆さん要らないとおっしゃっていて」
「ふん、予想通りねのび太くん。……満足でしょ?」
じとぉ~っと睨みつける城ケ崎さんに、のび太はタジタジになる。
この子に頼られるのも、掌で転がすのも、さぞ気分が良いでしょうねと、そんな風にのび太を責めているようだった。理由は分からないが。
「そ! ならあたしが予想を裏切ったげるよ!
しずかちゃ~ん、うちで手伝う事あるかもよ~?」
しかし、暫しのあいだ沈黙していたまるこが、突然優しい声で告げた。
「ねぇ、別にして欲しい事……ないよ?」
「なら野口さん、
それならさ! いっぱいありそうな感じするじゃーん!」
まる子は元気よく言うが、まわりは「?」と疑問符を浮かべるばかり。
しかし聡明なしずかが、いち早く気付いた。
「しても良いとは思うけど、特にする必要もない事――――ですか?」
まる子はニッコリと笑みを浮かべ、我が意を得たりとコクコク頷く。
「ほほう……たとえばどんなの助?」
「そうだなぁ。子供達や、みぎわさんの娘さんの遊び相手とか?
しずかちゃんは優しいし、きっと適任だよ。安心して任せられる」
「そそ! そういうのだよぉ~! 分かってんじゃないのさぁ~のび太ぁ~♪
あたし達の仕事じゃなくてぇ、コレやってくれたら嬉しいな~って感じのこと!」
「なら私……ちょっとしたヤツなら、して欲しい事あるかも……。
しずかさん、お笑いってどうですか……?
いっしょにドリフについて語りませんか……? クックック……!」
「それに、彼女はすごく聡明な人だよ? 子供達に勉強や道徳を教えて貰えばいいよ。
あっ、グーズベリーの手入れとかは? あれも良いんじゃないかな」
「そりゃあたしがやるからいーの!
あたしが耕すって言ってるでしょうがぁー! もぉー! ばかぁー!」
「いや、まる子のじゃなくて、野生のグーズベリーだよ。
あれを、しずかちゃんに任せてみたらどうだろ?」
「えっ、でもあそこって今……雑草ボーボー?」
「うん、いまは雑草だらけだね。
でもちゃんと手入れをすれば、いつか実をつけるかもしれない。そうだろ?」
「あらま! 良いじゃないのさぁ~♪ それは是非やってみなくっちゃ♪」
みんな和気あいあいと(城ケ崎さんだけはぶすっとしているが)、様々なアイディアを出し合っていく。
その様子を不安そうに、でも期待の籠った瞳でしずかが見守る。
諦めていた心と表情に、希望が満ちていく。
「よっし! それじゃあお願いね、しずかちゃん♪
そのアラバスターみたいな手で、野生のグーズベリーの手入れをしておくれよ♪」
「はいっ! ありがとうございます、まる子さん……!」
そう告げられ、しずかは嬉しそうにお礼を返すのだった。
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「ほら、こんな風にやるんだよ~」
まる子がクワを手に、土を耕して見せる。
「そそ、丁寧にね? ゆっくりで良いんだから。気を付けてぇ~」
あの煌びやかなコートを脱ぎ、タンクトップ姿となったしずかが、クワを握っている。
四苦八苦しつつも、それでもまる子の教えを受けながら、懸命に土を掘り返していく。
その光景を、のび太を始めとした町の皆が、微笑ましく見守る。
「ん~! 良い感じになってきたよねっ!
しずかちゃん、だいぶ上手になったじゃーん! これがはじめてなのにさっ」
「うん。この調子なら、きっとグーズベリーも実を付けてくれるよ。
頑張ってねしずかちゃん。私たち応援してるよ♪」
お昼時には、頑張ったしずかを皆で囲みながら、一緒にランチを食べた。
自身の耕したグーズベリー畑を見ながら、心地よい疲労感と、素朴で美味なパンを味わう。
しずかは町のみんなに、掛け値なしの笑顔を贈る。心から楽しそうに笑う。
その後、いくつかのグーズベリーの株が、慣れないアラバスターの手で抜かれてしまう事はあった。しかし徐々に雑草取りも上達していき、聡明な彼女はどんどん仕事を覚えていく。
初めての経験ではあったが、労働というものの楽しさを実感し、とても熱心に打ち込む。
そして、しずかの成長に伴うように、町の人々の態度も、次第にほぐれていったのだ。
「ほら、僕のラジコンなんだよ。凄いだろ?
もう家は破産しちゃったけど……これだけは大事に守り通したんだよ」
――――してもいいとは思うが、特にする必要もない事。
それは探してみると、この町に沢山あった。
「そこにあるのは、スーパーカーの模型だぜ? どうだいカッコいいだろ?
昔は僕のパパもこんなの乗ってたんだ。よくドライブにも行ったもんさ。
あとこれジャンボジェットなんだけど、僕もこれにのって、よく海外旅行にね?」
「あはは……すごいわスネ夫さん」
棚に大切に飾られている、オモチャの数々。
これは彼が幼少期に飼って貰い、今に至るまで大切に保管している物なのだそうだ。
彼の家を訪れたしずかは、「ぱっぱらぱっぱ♪ ぱっぱらぱらぱら♪」という、いわゆる“スネ夫が自慢話をする時に流れるBGM”を脳内で再生しながら、話を聞いていく。
話し相手を務める他にも、オモチャの手入れをしたり、より良く見える飾り付けを二人で相談したり。
しずかは毎日スネ夫の家を訪れ、彼の為になるちょっとした事を、こなしていった。
「しずかちゃん、バレエは見た事ある?
私も若い頃やってたんだけど、あれが私の青春だったわぁ~♪」
みぎわさんと雑談しつつ、娘さんの身体を持ち上げてやる。
彼女は身体が不自由で、ひとりでトイレに行く事が出来ない。その世話をしてやるのだ。
「今より身体も引き締まってたし、自分で言うのもなんだけど、美人だったと思うわ?
おかげで町一番の美男子だった花輪くんも落とせたし、シングルマザーにはなっちゃったけど、娘を授かる事も出来たし。やっぱり女は美貌で生きていくべきよ。
しずかちゃんも、そう思わない?」
「はい……そうですね、みぎわさん……」
彼女は数年前に夫を病気で失い、そこからは娘さんと二人暮らし。
当時は周囲がひいてしまう位の猛アピールを持って、旦那さんを見事射止めたというが、それが彼女の美貌による物だったのかどうかは、しずかには判断がつかない。
「はいありがと♪ 助かるわしずかちゃん♪
良かったわねぇマイガール? お姉さんが来てくれて嬉しいねぇ~♪」
みぎわさんは元々、娘の為にオムツを用意していたので、娘のトイレの介護をしてもらう必要など無かった。しいて言えば、その小さな手間が省けたくらいの事だ。
けれどこうして、若いしずかと語らえる事。そして娘さんの喜ぶ顔は、彼女にとって何よりのお手伝いとなった。
「君はスケートは好きかい?
町の近くに大きな池があるんだけど、また冬になればスケートが出来るだろう。
ぜひ君もやってみるといい。よい運動になるよ」
「ええ、また冬になったら。私もやってみますね」
しずかが藤木のガレージを訪れ、忙しい彼の為に、掃除や料理を行う。
夜になり、仕事から帰宅してきた彼が言う所によると、若い頃はスケートでならしたのだそうだ。
数々の大会に出て、様々な国を周った思い出。そこで見た美しい景色の話などを、嬉しそうに語っていく。
彼の仕事は運送業で、とても時間が不安定な稼業だ。毎日ここへ帰ってこられるとも限らないし、料理などしてもらっても意味が無い場合もあっただろう。
しかし藤木は、しずかが作ってくれた夕食を食べるため、出来る限り町へ帰ってくるように努めていた。
独り身の彼にとって、こうして誰かの料理を食べられる事は、この上ない喜びとなっていたのだ。
「すごい、そんなに綺麗な指なのに、こんなにも早く動くなんてっ!
しずかちゃん、とっても上手なのねっ」
伝道所で、一緒にオルガンの前に座る。
元々ピアノの経験があったしずかが弾いてみせると、土橋さんはとても嬉しそうに感嘆の声を上げる。普段は口数が少なく大人し目な彼女だが、心からの賛辞を贈った。
「ふふ、ありがとう土橋さん。
練習をすれば、きっと土橋さんも上手になれるわ。とっても筋が良いもの」
「ほんと? ほんとにそう思う?!
私もっと上手になりたいの。しずかちゃん……これからも教えてくれる?」
「ええ、もちろんよ。一緒に練習しましょう」
このオルガンは教会の持ち物なので、勝手に使う事は出来ない決まり。だから音を出さずに弾いているのだが、そんな事は関係なく、二人とも楽しそうだ。
しずかと土橋さんの心の中で、いま美しい連弾の音が、確かに聞こえている。
これは仕事じゃないし、別にしてもしなくても良い事。
けれどしずかと共にオルガンを弾く事は、土橋さんにとって何より楽しい時間となった。
「いやさ、言ってる事は分かるぜ? この公式を使うんだろ?
でもよ、なんでこの解き方になるんだって話なんだよ。
何なんだよコレ。どっから出てきたんだよ」
「あの……えっとね、はまじさん?」
「いきなり言われても困んだよ。この公式って、どうやって出来たモンなんだよ?
どっかの偉いオッサンとかが、考えたんだろうけどよ?
そこが分からねぇ内は、先に進んじゃダメなような気がする」
はまじの勉強は、見てやるだけ無駄だった。だから誰もやらなかった。
彼は好奇心が旺盛なのか、すぐ思考が他所に行ったり来たりする為か、とても物覚えの悪い生徒だった。
「このXだのYだのって、なんかフワフワした言い方だよなぁ~。
なんつーかこう……しっくり来ねぇって言うかさ?
もっと具体的によ? これが何なのかハッキリ言って貰いたいもんだぜ。分かりにきぃよ」
「そ……そうね、はまじさん。
それじゃあ、リンゴとかバナナにする?」
「おお! そっちの方がイメージ湧くぜ! しかも美味ぇじゃんか!
じゃあ形的に、Yがバナナだよな? 似てる感じするし。
Xはどうすっか? なんかXっぽい食い物ねぇかなぁ~」
すぐに話が脱線し、なかなか問題を解く所まで行かない。だがしずかは懇切丁寧に、辛抱強く教えていった。
そして驚くべき事に、彼は出来る人だった。決して頭が悪いワケでは無かったのだ。
しずかのような良い教師さえいたならば、この先エンジニアを目指す事だって出来るだろう。
「ほらはまじ、紅茶を持って来てあげたわよ。
……あ、しずかちゃん。手荒れが治ったのよ、いちおうありがと」
永沢家にいる時、こうしてたまに城ケ崎さんとも話す機会があった。
彼女はどこか余所余所しく、未だ仲良くとはいかない。だが彼女の指はしずかの助言によって、本来の美しさを取り戻していた。
「ズ バ リ ! ワタクシは癌でしょうッ!
さぁしずかさん? この場合、どう処置すれば良いと思われますかぁ?」
「と、とりあえずレントゲンを……」
元医者であり、まったくの健康体である丸尾には、こうして家にしずかを招き、機密性の高い薬瓶の棚を整理してもらう必要など、ありはしなかった。
「それでは次に、ワタクシMOCHIを喉に詰まらせます。
またSHOUGATUになったら、必要になる処置ですよぉ~?
さぁしずかさん、どうしますかぁ?」
「じゃあ……身体を逆さに」
なにやら遊んでいるだけようにも見えるが……しずかに手伝いに来てもらえる事、そして医学の知識を披露できるのは、丸尾にとって楽しい時間である事だろう。
彼女は知的で、慎み深い女性だ。今もふと薬瓶の棚に、彼が隠していたヘソクリのお札を見つけたが、しずかは黙って棚へと戻したのだから。
「それじゃあいくよ、みんな? せーのぉ!」
『なんでも、かんでも、みんーなー♪』
「……い、いぇぇ~~っ!!」
スティックを握るまる子の指揮のもと、みんなが“おどるポンポコリン”を歌う。
ちなみにしずかの役割は、なんか隣で『YEAH~!』とか言ってるオッサンのパートである。
『お鍋の中から、ほわっと♪』
「ほっ……ほわっとぉ!(裏声)」
歌うのは楽しいけれど、これに関しては誰もやりたがらないので、オッサンのパートはしずかに任せる事となった。
この後にくる予定の『HEY! エブリバァディ!!』というイカしたシャウトの事を思ってか、なにやらしずかの脚がガクガク震えている。
なんて事をさせるんだ。女の子だぞ私はと。
「ダメだよぉしずかちゃーん! 恥ずかしがっちゃあー!
もっとこうっ、魂で! 魂が溢れ出す感じで!! ヒデキみたく!!」
「いっ、いえ~い! いえぇぇ~~っ!」
「もっとぉ! もっと出せるでしょおー!? いまヒデキでしょおー!?
こうだよしずかちゃんッ! ――――YEAHHHHHHHHHッ!!!!(シャウト)」
「いっ……Yeahhhhっ!!(シャウト)」
みんなそれを楽しそうに見つめ、一緒に喉を鳴らした
今までは、オッサン役がいなくて出来なかった
でもこうしてみんなで合唱するのは、とっても有意義で愉快な事だ
別にやらなくても良いし、たいした事ではない
だが歌うのは良い息抜きになるし、みんなの顔も晴れ晴れとしている
しずかは心底ぐったりとしているが、みんなまたやりたいと思った
これからもしずかに、この“おどるポンポコリン”のオッサン役を任せたい
是非とも彼女には、頑張って欲しい――――
「うーん、あとはジャイアンだけか。
彼だけは、なかなか食いついて来ないね……」
夜、のび太の部屋に招かれたしずかは、その不快な言い回しに、軽い嫌悪を覚えた。
「“食いつく”だなんて、傲慢な言い方だわ」
「……ん、そうかい? そう聞こえた?」
「ええのび太さん、傲慢はいけない事よ?
たけしさんは私の事が嫌いなだけ……そう思うのは彼の自由よ。仕方のない事だわ」
「ああ、悪かったよしずかちゃん」
しずかに諫められ、のび太は肩をすくめる。
彼女もコクリと頷くものの、未だジャイアンにどう接していけば良いのか、その糸口は掴めない。
この“食いつく”という言葉に、作為的なニュアンスを感じた。自分は今、心から町の人々と仲良くなりたいと思っているのに、それを利己的な偽善のように言われた気がした。
だから彼を諫めはしたものの、ジャイアンの件はしずかに重くのしかかっている。
もしあと数日後に迫った集会で、一人でも反対意見を出せば、自分はここを追い出されてしまうのだから。
これは変えようの無い、現実問題として。
「ひとつ、良い方法を考えたんだ。“トロイの木馬”だよ」
「トロイ……の?」
しずかは首を傾げる。その言葉はもちろん知ってはいるが、のび太の意図が掴めない。
「つまり、たまちゃんから攻略するんだよ。
まずはたまちゃんの頼みごとを引き受けて、それを糸口にするんだ」
のび太が机の引き出しから、一枚の用紙を取り出す。
それは何かの張り紙を、はがして持って来た物だった。
「明日、ジョージタウンで講習会がある。どこかの教授が話をするらしくてね?
たまちゃんはそれに行きたがってるんだけど、赤ん坊を預けられる人がいないんだ。
娘たちにはまだ、赤ん坊の世話は無理だろ? だから仕方ないって、諦めようとしてた。
でも君が赤ん坊を見ててあげれば、彼女は念願の講習会にいける。
しずかちゃんも大義名分を持って、ジャイアンの家に行く事が出来る」
しずかは話を聞きながらも、のび太からは顔を背け、どこか考え込んでいるような姿。
「たまちゃんより先に、ジャイアンが家に戻るように、僕が手を回すよ。
その時、彼に愛想よくして、気に入られるように振舞えば……」
話を遮るように、今まで立っていたしずかが、ポスンとソファーに座る。
そしてまっすぐに、のび太の顔を見つめる。
「赤ちゃんの面倒は、喜んで見るわ――――でも好かれなくてもいい」
そう告げて、彼女は黙り込む。
こうして相談に乗ってはくれるものの、これを“ゲーム”だと言ってはばからないのび太に、彼女は不快感を露にする。
なぜそのような物言いをするのか。
自分の想いや、町の人達への好意が汚されたように感じ、ぶすっとした顔で口をつぐんだ。
まぁのび太が軽く謝罪をし、心から協力したいと思っている事を告げると、すぐに彼女は機嫌をなおしてくれたが。
二人でのんびりと語らう、優しい夜。穏やかな時。
それをしずかとのび太は、共有していった。
彼女は自分の過去を語ろうとせず、彼の好奇心には応えない
たしかに、そんな物足りなさはある
しかし実例として“他者の受け入れ”を教えるには、彼女は最適な存在だ
彼女が来たことにより、町の人々は様々な事を考え、そして学ぶだろう
そしてのび太は、満足していた
なぜなら崖っぷちにいたしずかを、彼こそが救ってあげたのだから
心地よい優越感を覚えた。
これは女性に対しては、初めての事だ
この淡い感覚が、次第に彼の心に、愛情を芽生えさせた――――
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「この子が長女のダリア。この子はオリンピア。
こっちはダイアナに、アテナに、パンドラよ」
翌日の朝、しずかはたまちゃんのもとを訪ねた。
彼女たちは笑顔で挨拶を交わす。念願だった講習会に行けるとあって、たまちゃんは上機嫌であるようだ。
「この男の子は、ブー太郎よ」
今まで全員が神話にあやかった名前であったのに、彼だけはブー太郎。
なにか意図があるのだろうか? しずかは考える。
(ちなみに女の子たちは、みんなコピーロボット。たまちゃんを幼くした感じの容姿だ)
「そしてこの赤ちゃんが、アキレス」
「可愛い……。とっても愛らしいわ」
「ええ、いい子達よ。……愛してるの」
感じ入るように、しみじみと呟く。
だがふいに、たまちゃんが目頭を押さえ、涙を零し始める。
しずかはそれに気が付いて駆け寄るが、彼女は大丈夫だと言って制する。
「ごめんね……子供を褒められると、すぐ涙が出ちゃうんだ……。
嬉しくて……愛しさで胸がいっぱいになっちゃうの」
慈愛に満ちた、お母さんの顔。しずかは彼女の肩を抱きながら、優しくそれを見守る。
暫くして、家のドアをノックする音が聞こえた。
彼女たちが振り返ると、そこには表にトラックを止めて立つ、藤木の姿がある。
「やぁしずかちゃん、おはよう。
たまちゃーん、そろそろ出発するかい?」
「うん、分かったよ~」
たまちゃんがイソイソとコートを着て、出かける準備に入る。
しずかも藤木に挨拶を返し、待っている間、二人で雑談をした。
「あ、地図を出しておいてくれて、どうもありがとう。
準備しとくのを忘れてたから、助かったよ。……でも何で分かったんだい?」
「いつも、戸口に魔法瓶と地図が置いてあるけど、今朝は魔法瓶しか無かったから……。
気を付けて行って来てね、藤木さん」
柔らかく微笑み、労いの言葉をかける。
藤木はその姿に何かを感じ取ったように、小さくお礼を返した。
「君は、優しいんだね。……まるでローラみたいだ」
「?」
知らない名前に、しずかはキョトンとした顔。対して藤木は慌てて口を塞ぎ、気まずそうに黙り込む。
「ローラっていうのは“そういう店”にいる女性の事。
藤木……口が滑ったね」
「……」
あきれた顔をするたまちゃん。藤木は暗い表情で俯く。
しずかは少し目をキョロキョロしつつも、がんばって“なんでもない風”を装う。
「えっと……恥ずかしがらないで?
誰にだって、楽しむ権利はあるわ。息抜きは必要よ?」
不器用だが、傷ついた彼を労わるように、優しく微笑む。
「そういう店の女性たちは、男性に喜びを与えてくれるのね」
「自慢できる話じゃないさ……自分が恥ずかしいよ。
でも、ありがとう」
藤木が足早にトラックに乗り込み、街へ向けて出発していく。
しずかはそれを見送ってから、改めて子供たちの待つ家に入って行った。
………………………………
………………………………………………………………
おしめを取り換えたり、ミルクをあげたり。しずかはせわしなく家中を駆けまわる。
要領よく、丁寧に。そして愛情をもって家事をこなしていく。
そんな彼女の背中を、この家で唯一の男の子であるブー太郎が、じっと見つめていた。
「ねぇ? あんたの目的、ぼく分かるブー」
「?」
突然に声を掛けられて驚くも、しずかは表情を崩さずに彼に向き直る。
「目的?」
「ブー。町を追い出されたくないから、好かれようとしてるんだろ?
父さんや母さんにさ」
子供の無邪気な眼差しにドキリとするが、しずかは笑顔でそれを受け流す。
「……ブー太郎くんは、頭がいいのね」
作業の手を止めて、彼の顔を覗き込むようにして、ニッコリと笑う。
「私は、この町が好きよ。
だから……ずっといられたら素敵だなって、思ってる」
近くにあるベッドに腰かけ、絵本を手に取る。
「さて、本を読んであげましょうか?
これは、
「ぼく、そのお話は嫌いだブー。つまらないんだブー。
それに、二つ目の方が綺麗だよ。……あんたみたいに」
暫しのあいだ見つめ合うが、しずかはクスッと苦笑してから、本に視線を戻した。
「それじゃあ、何をしましょうか? どんな遊びが好き?」
「母さんに好かれたいんなら――――ぼくに優しくしなきゃだブー」
無垢な、しかし良くない光が宿る、子供の真っすぐな目。
それを意に介さず、しずかはひとつため息をついて、その場から立ちあがる。
「……掃除をしましょうか。手伝ってくれる?」
「ぼくは手伝わなくていいって、母さんが言ってたブー」
意地悪くそう告げるも、美しいしずかにニッコリと顔を覗き込まれ、ブー太郎は言葉に詰まる。
「私がお願いしたら、どう? 手伝ってくれる?」
「……うん。いいよ」
その後、二人で協力して掃除をした。
ブー太郎はたくさんお手伝いし、しずかも頭を撫でて褒めてやった。
赤ん坊の世話もトラブルは無く、家の子らもみんな良い子ばかり。
子供達との交流や、つかの間の主婦業を、しずかは楽しんでいった。
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「何をやってる。うちに手伝いはいらねぇ!」
やがて夜になった頃、しずかと子供達がいる部屋に、ジャイアンが入って来た。
彼が農場での仕事を終えて、帰宅してきたのだ。
「どういう事だ、なぜお前がうちにいる。勝手な真似をしやがって!」
その怒声にしずかは黙り込む。
ブー太郎がすかさず「これは母さんが……」フォローに入ってくれたが、黙れと一喝される。
そして父親であるジャイアンの指示で、子供たちはすべて他所の部屋へと行かされてしまった。
「……ったく、バカな女房だぜ。
ガキに神話の名前なんぞつけやがって。狂ってやがる」
少しでも、という思いからなのか。それとも返す言葉が無いのか、しずかは黙って家事を続ける。
その姿を見てジャイアンは、不機嫌そうな顔で、しずかの隣に立った。
「お前もだ。まだ騙されてんのか」
「?」
思わず振り向くが、彼は厳しい目で、こちらをじっと見つめるばかり。
「……私? 私は騙してなんか……」
「そうじゃねぇ、あんたがこの町に、だよ。
……この町は腐ってる。何から何まで腐りきってんだ。
谷底に消えちまえばいいんだよ、こんな町は」
「……」
一瞬責められているのかと思い、立ちすくんだ。
けど彼の怒りは自分には向いていない。このドッグヴィィルの人々に対してだった。
「だがあんたは、この町が気に入ったんだろう?
自然や、純朴な人々……おまけにシナモンの香りか?
ここにはお前みたいなのが夢見る、全てがある。都会の人間のな」
「……」
断定。決めつけるような言い方。しずかはそれに違和感を覚える。
彼の怒りや、憤り。その意味をようやく理解した。
「なぜ、私の夢が分かるの?」
「……」
「そう。貴方も都会から来た人、なのね……」
ジャイアンが目を逸らす。それが事実である事を雄弁に物語っていた。
「……昔の話だ。
そして、人間なんざどこも同じだと……思い知ったよ。
餌を与えれば、腹が破れるまで貪る貪欲さ。獣と一緒だよ」
ここでは無く、遠くを見るようにして語る。
そんな彼の姿を、しずかは悲しそうに見つめる。
「だから、私を嫌っていたのね――――
昔の事を、田舎に夢を求めた自分を、思い出させるから」
……………。
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暫しの沈黙の後、たまちゃんが帰宅する音が、静寂を破った。
それをきっかけにジャイアンは立ち上がり、しずかに出ていけと告げる。
玄関から出ていく、そのすれ違い様。たまちゃんが小さく「ありがとう」と告げる。
それに力なく笑みを返し、しずかは家を出ていく。
「……」
夜道を歩く。
陰鬱な暗闇に覆われた、夜のドッグヴィィルを。
それは暖かさや温もりの無い、とても冷たい姿。この町の本当の姿だ。
夢見た美しさ。それとはかけ離れた、人を拒む深い闇――――