シリウスの叫びを聞いた他の人間の反応は、様々だった。スネイプ先生は怒りからか、憤怒の色を色濃く残してペティグリューを睨みつけたままだ。ルーピン先生は顔を手で覆い隠し、何かを小さく呟いた。
お互いの手を握りあってこの急展開を半ば鑑賞していたロンとハーマイオニーも、同じようにお互いを見合って顔を回し、友人の方に向き直る。ハリーは口の中で水分が急になくなる感覚に襲われるが、それでもやらなければならない事があるとわかっていた。
「…士堂…?」
3人が心配そうに見つめる少年は、顔から生気が失われていた。青白い顔は普段のスネイプ先生とよく似ているが、唇も同じ色になっているのは違う。両手に握られた杖と黒鍵の先は小刻みに震え、今にも埃まみれの床に零れ落ちそうだ。
「貴様が、貴様が、貴様が…?!」
「わ、私は君たちとは違うんだぁ!」
現実の時は、少年たちを待ってはくれない。シリウスとスネイプの狂気的な怒りを突きつけられたペティグリューは、我慢できないようにこれまでで1番の大声を上げた。
「し、シリウス。勇敢な君には分からないだろう。あの恐ろしい、あのお方が私の命を狙っていたのだ… 何か分からない、しかしとてつもなく恐ろしいあの方が… 私は、私はただ怖かったのだ……」
「ヴォルデモート。性根が腐りきった主人に媚びへつらっておいて、」
「わた、私は殺されたかもしれないんだ! あの時言わなくては?!」
「嘘を言え! お前はその前、1年も前からヴォルデモートの手先だった!! 拠点への襲撃が急に増えたのは、お前の密告だったんだな?!
そのせいで、あの日士厳達までもが…!!」
「違う…違う… おお、ルーピン… 君なら、君ならわかってくれるだろう…?」
この中で性格が穏やかなルーピン先生に助けを求めるも、返ってきたのは凍てつくような、冷ややかな視線だけだった。それでも諦めがつかないのか、今度は子供達に必死になって呼びかけを始める。
「た、助けてくれロン… 君はいつだって私を助けてくれた… そうだろう、私のご主人様…」
「お前なんかと、僕は毎日寝ていたのか…?」
「お嬢さん…君なら僕の無実を証明できる筈… だってあの鳥の為に、あんなにも必死になっていたじゃないか…」
「あなた、バックビークと自分が同じ境遇だと思っているの?」
ロンは記憶を消したいと言わんばかりに首をブンブン振り、ハーマイオニーはやや呆れた口調で、押さえつけられた男を見ていた。
「子供達にその穢れた声をかけるな、ピーター!」
「助けてくれぇ、ハリー… 士堂… 君達のご両親と僕は、友達だった… 君達のご両親なら、きっと僕を助けてくれた筈だ… 頼むぅ…」
「誰がお前なんかを助けるか! 父さんと母さんはお前が殺したんだろ!」
「…そうらしいな。お前が色んな人を殺した。ハリーの両親に、俺の両親」
ハリーが喚くようにペティグリューを突き放した時、ゆらりと士堂が動いた。右手の杖はいつの間にか懐に仕舞われ、両手には黒鍵が左右2本ずつ、指の間に挟まれていた。その目に宿る負の感情は、我慢の限界を迎えたように彼の身体全身から迸っているかのようだ。
その刃が微かに差し込む月明かりを反射し、冷徹な殺気を憐れな男に向けている。その殺気を感じ取ったのか、ただでさえ大袈裟だったペティグリューの震えは、ここにきて更に激しくなっていった。
「覚悟を決めろ、ペティグリュー…」
そう言って黒鍵をその首に向けて突き立てようとした士堂を、誰かが突き飛ばした。体勢を瞬時に取り直した士堂は、相手を睨みつける。
「ハリー、邪魔をするな。大人しくここは下がっていろ」
「ペティグリューは、アズカバンに送るべきだ」
「何を言うんだ。こいつは生かしておく意味がない。俺が始末をつけておく」
「ポッター、止めておく義理はないのでは。復讐は蜜より甘いのだ。大人しく友人の復讐劇を堪能しておくがいい」
「駄目だ、ここで殺したら、君が捕まっちゃう。それにせめてシリウスと同じ目に合わせないと」
ハリーは自分でも何を言っているのか、分かっていないようだ。ただ頭に浮かんだフレーズを口にしているのか、顔には脂汗が滝のように流れている。しかし士堂を止めなくてはならないのは、確かなはずだ。
そんな彼を無視するように、士堂は手をゆっくりと振りかざした。
「やめて、士堂!! あなたペティグリューを殺しても何もならないわ?!」
「そうだよ、ホグワーツを退学になっちゃうよ、それでもいいの君は?!」
「五月蝿い、黙れ。殺しておくべき奴は、直ぐにでも殺さなくてはいけない」
ロンとハーマイオニーも泣きそうになりながら止めにかかるが、士堂の耳には届かないようだ。スネイプ先生は復讐の炎に身を焦がす士堂をニヤニヤと見つめるだけで、止めようとはしない。
反対にシリウスとルーピン先生は、それまでペティグリューに向けていた杖を仕舞い込むと、士堂の両側に回り込み、彼が振り上げている黒鍵を無理やり下ろそうとしていた。
「いけない、駄目だ士堂… ! これは私達がやるべき事だ、君がすべきではない…」
「止めないでくれ、やらせろ…」
「落ち着くんだ、士堂… 君の怒りは当然だが、君にはまだ家族がいるだろう? 帰る場所は、自分から捨てるものじゃない」
そう言われた時、士堂の脳裏に2人の人間が浮かび上がる。彼らの微笑む顔が、彼から闘志を奪い去るような気がした。それでも尚高まる復讐心は、彼の足元に突き刺さる4本の黒鍵に、如実に現れていた。
「くそ…」
「いいんだ、士堂。それでいい。さぁピーター・ペティグリュー。お前はアズカバンに送ってやる」
「やめてくれ、やめてくれえ…?!」
「リーマス。こいつとそこの黒ブツは、ここで始末せねばなるまい。吾輩が引き受けよう」
何回目か分からない、スネイプ先生の殺害示唆を、今度はルーピン先生が止める。その目には、覚悟が見て取れた。
「それは駄目だ。ピーターがやったことは、やはり裁判にて正当に裁かれるべきだ」
「吾輩の耳に異常がなければ、この程度の子悪党を見逃すと? 貴様は先輩たる吾輩にそう、申されているのかな」
「見逃すんじゃない。吸魂鬼に引き渡して、アズカバンにぶち込んで貰おう」
「てっきり吾輩、貴公も殺せと言うかと考えてはいたのだが」
「考えてはいた。だが駄目だ。少なくとも今は僕も君も教師だ。生徒の前で教師による人殺しは、賛同できない」
「吾輩に教師の心得を説くとは笑止千万。
して、その代償を貴様は弁えているのかな。その答え次第では、吾輩の立ち振る舞いは検討せねばなるまい」
この時のスネイプ先生は、実に嫌らしい顔をしていた。まるでその先の未来が読み取れるとでも言いたげな視線だったが、ルーピン先生は何も言わない。
「…お主を信じるのも、悪くはない手だ。吾輩は、行く末を愉しませてもらう」
「…君には迷惑をかけたね。大丈夫だ、落とし前は私自身で付けさせてもらう」
するとスネイプ先生は、忌々しげなー しかしどこか嬉しそうな表情でペティグリューを縛り上げた。そして颯爽とローブを翻して部屋を後にし、ドアの向こうで待機している。ルーピン先生が縛り上げられたペティグリューと共に部屋を出る。その後をロンとハーマイオニーに支えられた士堂が続き、最後にハリーとシリウスが部屋を後にした。
「大丈夫? しっかり… ああ、無理な話だねそれは」
「…うん、平気、だと思う」
まだ士堂の顔には、血の気は戻っていない。しかし興奮を隠し切れないのか、病的な白さの頬には紅潮が現れており、複雑な心境が色濃く反映されていた。心配げに話しかけるロンと対照的に、ハーマイオニーは士堂の右手に抱きついたまま、一言も発していない。時折聞こえてくる篭った声で、啜り泣いているのが何となしに分かるだけだ。
「色々ありすぎだね、今日っていうか今夜は」
「そう、だな」
「ねぇ。僕達この後どうなるのかな。何があるんだろう」
叫びの屋敷から伸びる、あの細い通路を伝って行くときに、ロンが小声で話しかけてきた。確かに今夜の出来事は、一言では表せない。この先に待つ運命など、今の士堂には想像すら出来なかった。だから前で士堂の方に何度も振り返る、不安そうなロンに何も返せなかった。
やっと木の股から抜け出すと、外は若干の静かさと冷たさが支配していた。未だに何かを呟くペティグリューをスネイプ先生が後ろから蹴り上げると、素っ頓狂な声が出てくる。哀れな小男をスネイプ先生とルーピン先生が両側から捕捉し、引き摺るように校舎へと向かっていた。背後で何やら親しげに話し合うハリーとシリウスを他所に、ロンとハーマイオニーは士堂の側から離れない。
「本当に君、大丈夫かい。こう何度も聞くのはあれだけど」
「うん、まぁ」
「君らしく無いよ。兎に角帰って休もう。授業も試験もないし、ちょっとぐらい寝坊しても許されるって」
「そうね。今日は休みましょ。休んでまた明日、特にあなたのご両親のこと考えたらいいわ」
ハーマイオニーはそういうと、涙を拭うように手で顔を隠した。ロンもそれを見て何も言わずに、士堂の肩に腕を回した。愛しのペットの真実も彼なりに消化できたのか、悲しみは感じられない。だからロンの足元でクルックシャンクスが走り回っても、今の彼には苛立ちなど起きなかった。
「クルックシャンクス、お前は頭がいいんだなぁ。お前のお陰で、あのネズミ野郎をとっ捕まえる事が出来たんだ」
クルックシャンクスはロンのお褒めの言葉も気にする事なく、彼、というよりも士堂達3人の周りを、ぐるぐると駆け回っていた。そして甲高い鳴き声で、どこと言わずに鳴きまくっている。それは3人の足取りが緩やかにホグワーツ城に向かっている時でも変わらずであり、むしろ鳴き方は大きくなっていた。最初は微笑ましげに見守っていた3人も、彼女の異変に気がついたのか、足取りを止めて、皆一様にこの橙色の猫を見る。
「どうしたの、クルックシャンクス。もう終わったのよ。あいつは捕まったの」
「どうしちゃったのかなぁ、こいつ。さっきから空を見たりあっちを見たり、忙しいったらありゃしないのに喚き散らして。そらどうどう…」
ロンが手を伸ばしてクルックシャンクスを抱き抱えようとした時だ。士堂は両親の事がそれまで頭から離れなかったが、暴れる猫に注意するよう、一応ロンに警告しようとしたのだ。するとクルックシャンクスは、常に同じ方向を見ている事に気がつく。一度空を見上げると前方に吠え、それを何度も繰り返していた。
気になった士堂が空を見上げると、満点の星空が暗闇に燦然と輝いている。その広大なスケールのキャンバスで、士堂達を一際強い印象と瞬きで見守る天体が、丁度士堂の視界の中央にいた。
「月か。綺麗な満月だな…」
ロンに抱き抱えられたクルックシャンクスは、満月に向かって吠えていたのだ。ハーマイオニーがなんとか受け取って、子供をあやすように猫を揺らすが、お構いなく甲高い鳴き声は止まない。その短い首が月に伸びたかと思えば、今度は城に向かって振られる。
「…城じゃない?」
士堂の頭から、まるで手品のように両親についての考え事が消え去った。次に脳内に溢れたのは、今夜の登場人物が一通り出揃う時の発言だ。
「ー ルーピン。君が脱狼薬を飲み忘れていたようだから、吾輩は親切にも君の部屋に赴いたのだー」
「ー僕は狼人間だー」
瞬間、マグルでいうサイレンが脳内で響き渡る。すぐに声を出そうとするが、口が乾燥して言葉にならない。口をパクパク始めた士堂は、一度大きく唾を飲み込んで、掠れるような声でロンとハーマイオニーに叫ぶ。
「…逃げろ…!」
「? 何言ってるんだ士堂?」
「そうよ、何から逃げるのよ」
「…脱狼薬は定期的に飲まなくては、意味が無いんだ」
「ルーピン先生が、狼人間に化けるぞ!!!」
士堂の大声と呼応したかのように、前方で異変が起きた。ルーピン先生がフラフラとペティグリューの側を離れると、苦しそうにその場で蹲る。異変を察知したスネイプ先生が杖を構え直しペティグリューを抱え込むが、時既に遅かった。
ルーピン先生の身体が急激に膨らんでいく。露出している肌からは忽ち剛毛が生えてきて、全身を覆い隠していった。服が破け、腕と脚が伸びる。細長い胴体には薄らあばら骨が浮いてはいるものの、筋肉質な体がみるみる巨躯へと変貌していくではないか。手は鉤爪に変わり、顔は細長くしかし獰猛な、狼のそれに変わっていった。
ルーピン先生ーもとい狼人間は、一度その大きな背中を丸め込んだ。そして月に向かって、大きな口で吠えたのだ。
「あおおおおおんんんんんん…」
それは吠えるというよりも、咆哮と言った表現が相応しい。その場にいた全員が思わず耳を押さえてその場に蹲り、身動きが取れなかった。口から涎を垂らしながら、獣の手でそれを拭う狼人間は、ロープで縛り上げられたペティグリューを掴み上げようと、その鋭い爪を光らせた。
その手がペティグリューに延びた途端、小男は予想だにしない動きを見せた。瞬時に身体を捻り、ロープを狼人間の爪に引っ掛かると、拘束を振り切ったのだ。次に口を窄ませると、か細く泣くような、篭れ声を出す。
「小賢しい真似をしおって… その場に跪け!」
いち早く体勢を立て直したスネイプ先生が、再度拘束しようと呪文をかけようとした時だ。黒のローブを見に纏った先生に、何か小さい物が一斉にへばりついてきたのだ。
「おお、何なのだ一体?!」
「…ふへへ…」
何処からか現れた無数の鼠が、スネイプ先生に取り付いていっているのだ。さしもの先生も振り払うのに精一杯で、1人手を振り乱すしか無い。無数の鼠の大群は狼人間にも襲いかかるが、此方は鋭い鉤爪と鋭利な歯で次々と噛み砕かれているようだ。
「ま、不味い! ペティグリューが逃げるぞ!」
大量の個体が、辺り一面を覆い尽くさんとしていた。その喧騒の中心にいたペティグリューは、チラリと士堂の方に小さく潤んだ瞳を向けると、汚れた手を子供のように左右に振ってきた。挑発的な別れの挨拶を済ませると、瞬く間に鼠へと姿を変える。
子供達の中で1番早く立ち直った士堂が皆に叫んで知らせつつ、懐から黒鍵を取り出してすぐさま投擲した。
『corvus volant quoque nihil mons sheng (鴉は飛び立ち、山々を超える)』
『主よ、この不浄を喰い改め給え!』
『鳥葬式典!』
黒鍵の刃が空中で砕け散り、破片が次々と鴉へと変化する。その嘴が鼠を噛み砕いていくものの、その中にピーター・ペティグリューがいるかどうかは、はっきりと判別がつかないのだ。しかしそれまでしつこい程にスネイプ先生と狼人間を襲っていた鼠が、一斉にその場を離れていくのを見た士堂は、ピーターが逃走に成功したと直感している。
「ああおおおおおんんんん…」
またもや響き渡る咆哮を何とか耳で塞いで抵抗するものの、士堂の身体は動かなかった。まるで足裏に釘が突き刺さるかのように、脚が全く意思通りにいかない。チラリと背後を振り返ると、まだ1回目のダメージが残っている時にまともに食らったせいか、皆地面にひれ伏していた。
『ステューピファイ! 麻痺せよ!』
すると狼人間に橙色の閃光がぶつかる。胴体に直撃した魔法に、多少のダメージが与えられたのか狼人間の動きが鈍くなった。
「士堂! 今すぐここを… いや吾輩を援護したまえ! 」
スネイプ先生はそう言うと、杖を振りかざして空中に線を描く。するとその線から光弾が、さながら戦艦の並び立つ砲塔から発射したかのように、放射され始めた。横に伸びた光は呪文の弾幕となって、狼人間に向かっていく。
しかしその弾幕を、化け物はとんでもない方法で避けた。あっという間に4、5メートルもの高さに跳躍したかと思うと、四本脚で地面に降り立った。背後で爆風が巻き起こるのもものともせず、獣の走りでスネイプ先生に襲いかかる。
「こいつ…」
左右に身体を振って何とか避けるスネイプ先生は、その最中でも手の動きを止めることはなかった。何度も七色の光が狼人間にぶつかるも、その身体を包み込む体毛に当たると、まるで霧のように霧散していくのだ。体毛は銀色の光を放ち、闇夜に幻想的な輝きで士堂達に強烈なイメージを残す。
「士堂!
離れた位置で黒鍵を構えていた士堂の耳横に、生暖かい風が通る。通りしなに聞こえた忠告を聞き返すまもないまま、シリウスが変身した黒犬が、狼人間の耳に噛みついた。さしもの怪物も動物の例に及ばず、耳は弱いようだ。
スネイプ先生に襲い掛かろうとしていたが、顔に噛みつく厄介者に気を取られ、その鋭い爪を顔に当てている。すると悲鳴に近い、低い遠吠えが闇夜にこだました。そして狼人間の顔に張り付いていた黒い影が、空中に放り出される。
「いやぁぁぁぁ?!?!」
声を出す暇もなく、今度は士堂達の背後からまたもや悲鳴が聞こえてきた。士堂が振り返ると、それまで安静にしていた暴れ柳が、その長い枝木を乱暴に振り乱し始めているではないか。その激しさといえば、さっきここに来た時よりも数倍は凄まじい。何せその空を切る風や葉の重奏は、狼人間の咆哮をもかき消しかかねない爆音なのだ。思わずハーマイオニーが、耳を塞いで甲高い悲鳴をあげてしまう。
「うおおおおおおおんんんんん…!!!」
(ガサガサ、ずしゃああああ!!!!)
「…うわァァァ…?!」
地上での喧騒など関係なく、月明かりがその神々しい光を増す。呼応するように狼人間は月に向かって吠え、暴れ柳は踊りのように草木を振り乱すのだ。するとそれまで耳に聞こえたとたん、石化したように動かなかった身体は、何事もなかったかのようにぴんぴんしている。
(暴れ柳は狼人間の咆哮をかき消す事もできるのか)
一瞬そんな事を考察した士堂だが、それも直ぐに後悔する。かつてない暴れように、飛び散る草木がまるで矢のように、辺り一面に散らばっていくのだ。それをハリー達3人はもろに食らっていた。さらに運の悪い事に、太い枝木の直撃をロンがまともに喰らったのである。
その身体が地面すれすれに吹き飛ばされる様子が、まるでスローモーションのように士堂には見えた。強化魔術を発動しながら、ロンに向かって一気に加速する。ロンと衝突するかのように一直線に突き進む士堂は、ロンとの距離、見積もって5、6メートルの距離になると、急激に地面を踏みしめて減速した。
先ず、背中を向ける格好でこちらに向かってくるロンの身体を、真正面で受け止める体勢を取った。次にロンの身体が士堂にぶつかるその瞬間、士堂はロンの身体の中心線から4、5センチほど自分の身体の中心線をずらす。ロンの身体が砲弾のように士堂にぶつかるが、既に身体の右半身全体に士堂は強化魔術を施していた。
ロンの身体を抱きしめるように腕を回すが、2人の身体は吹き飛ばされた勢いを幾分か殺しはしたものの、依然として勢いは消える事なく2人を宙に舞い上がらせた。しかし士堂が受け止めたからか、空高くは飛ばずに地面に近い位置で吹き飛ばされたのだ。地面に対して鋭角に2人の身体が落ちようとする刹那、士堂は懐に忍ばせている杖を意識して、更に強化魔術を身体に施した。
士堂は、所謂魔術回路を生まれた時から宿してはいない。故に魔術の行使はかなりの制限が存在していたが、ホグワーツにきて打開策ができた。それは魔法使いの必需品である杖を、魔術回路のように意識する事で、魔術の行使が上手くいく事が分かったのだ。
だがあくまでも基本的なものだけなのだ。今士堂が瞬間的にこなしている魔術は、訓練など全くしてはいない。だが物心ついた時から祖父から仕込まれた、彼の防衛術は彼の意識外において、予想だにしない結論を導き出している。
士堂は地面から15センチほどの高さで身をぐいっと、限界まで捩った。一方向に向けられていた運動エネルギーに、強引に回転を加えたのだ。そして自分の左半身がいよいよ地面にぶつかるその瞬間、彼の無意識は強化魔術を左半身に施ている。
地面を転がるようにして、何とか士堂とロンは受け身を取れた。しかし士堂は回転が弱まった時、一気に空気を肺から吐き出した。若干の血の気が混じっているのは、喉の奥を切ったのだろうか。彼の胸に抱き抱えられているロンは、痛みと衝撃で混乱し切っているようだ。士堂が何とか抱き起こすものの、先程までのペティグリューのように、ガタガタと身体を震わすだけだった。しかし右手が枝木の直撃を受けたのか、震える身体と対照的に、ピクリとも動いてはいない。
「落ち着いて、ここでじっとしているんだ。いいか?」
何度も頷くロンを、下り坂になっている坂に寝転がす。ここなら狼人間の視界には、すぐには入らない筈だ。士堂はまた強化魔術を脚に唱えるが、ずきりと痛みが走る。
短時間に慣れない魔術を連続行使した事で、身体が悲鳴を上げ始めていた。しかし目の前で七色の光が空に瞬くのを見て、逃げ出すわけにはいかない。奥歯がガリっと言うほどに力を振り絞って、現場に直行した。
丁度ロンが吹き飛ばされた時、ハリーはハーマイオニーの手を取って何とかその場を離れようとしていた。草木が皮膚を切り裂き、全身がヒリヒリと傷むが、泣き言を言っている暇はない。そして目の前で繰り広げられる狼人間ー ルーピン先生とスネイプ先生の熾烈な戦いを見たハリーは、いち早く決断した。
「ハーマイオニー、シリウスと一緒に逃げるよ!」
「で、でも放っておくつもり?!」
「僕たちは何もできない、足手まといになるだけだ!」
過去2年の経験から、ハリーは今は逃げることが最適だと直感していた。ロンと士堂が暗闇の中を吹き飛ぶのを目にしたハーマイオニーが涙目になって、その場から助けに行こうとするのを強引に引き戻す。そしてシリウスが吹き飛ばされた方向に、必死になって脚を動かしていた。
それでも彼女の顔は友人たちの方向ではあったが、スネイプ先生の呪文が狼人間を直撃しても、傷1つつかない光景にハッと息をのむ。スネイプ先生の呪文は連なる火球だったが、全く有効打にはなりえていない。無言の攻撃呪文の難易度と威力については、ハリーよりもハーマイオニーの方がその情報を知っている。つまり彼女は、自分の理解と実力では到底及ばないレベルの戦闘だと、はっきり認識したのだ。
シリウスが吹き飛ばされたのは、ホグワーツ城と反対側の草むらの方だった。このタイミングでの不運を恨めしく思うが、そうは言っていられない。
覚悟を決めお互いに血が止まるほど、強く握りしめあって駆け抜けるハリーとハーマイオニーは、草むらの中で横たわるシリウスを見つける事に成功した。
「し、シリウス? しっかりしてシリウス!」
「ああ、駄目よ死んじゃダメ!」
ピクリともしないシリウスに動揺を隠せないハリーは、黒い身体を持ち上げた。黒犬はハリーに抱きかかえられてもなお、反応を返すことはない。この緊迫した状況の中、一刻を争いかねない事態に、2人の声は声にならない。あわあわと口を開いては閉じ、目線を上下に下げて、手をはちゃめちゃに動かす。やるべきことはわかっているのだが、焦りと緊張で精神と肉体に齟齬が生まれている。ハリーは去年ジミーの危機に立ち会っているが、あちらはまだ呼吸が微かに残ってはいたし、そのあとでヴォルデモート卿との邂逅があった。人の死という恐怖を感じる暇が、今にして思えばなかったともいえるのだ。
やっと会えた心を許せるかもしれない親類の危機にハリーが何もできずにいる中、何とかズボンのポケットから杖を取り出したハーマイオニーが、一度胸を強く殴って強引に気を鎮めた。
彼女にしては珍しく、両手で杖を握りしめている。
『エピスキー! 癒えよ!』
暖かい熱が、杖から溢れ出した。傷だらけの身体を撫で回すように、杖の先端を動かしていくと、シリウスの身体から力がどんどん抜けていくようだ。呪文が失敗したと思った2人は絶句するが、やがて黒犬の身体がムクムクと縦に伸び始め、黒い毛が引っ込んでいくかのように消えていく。ペティグリューの時と同じく、時が巻き戻されていくようだ。見る見るうちに手足が細長く伸び、見窄らしい男が地面に寝そべっていた。
「シリウス、しっかり! しっかりして!」
「…は、ハリー? ああ嬢ちゃんも…」
「え、とシリウス、そうここは危険だわ。早く私達、あのその、助けを」
ハーマイオニーのあたふたした話にシリウスは、直ぐに現状を理解できたようだ。
「…リーマスは? リーマスは何処に?」
「あっちでスネイプと士堂が…」
「何という事だ。早く助けを呼ばねば…」
そう言って震える手で杖を構えると、シリウスは何かの呪文を唱えようとした。しかしそれは叶わずに、膝から崩れるように地面に跪いてしまう。慌ててハリーが肩を持つが、シリウスのその肉体の軽さにハリーは心配が込み上げてきた。
何せさっき手を引っ張っていたハーマイオニーよりも、シリウスの身体は軽く感じるのだ。ハーマイオニーの体格が優れているわけではないから、シリウスは子供並みか、それ以下の身体しかないという事になる。
しかも叫びの屋敷での、まるで獲物を見つけた獣の無ような、ぎらつくような目は消えていた。死人のように力がない瞳、今にも折れそうな手足、水に濡れたように折り曲がる頼らない背中…
人形のようなシリウスをハリーが抱き抱え、その隣でハーマイオニーが杖で明かりを照らしていた。この大騒ぎだというのに、ホグワーツ城では何の音沙汰もない。自分達が抜け出した事がバレていないとすれば朗報だが、今のルーピン先生の事を考えれば悲報である。
ハリーはダンブルドア校長が、今の事態を把握していないとは考えていなかった。絶対に自分達を助けてくれるはずだ。
何の根拠もなしに、ハリーはそう考えていた。せめて城の近くまで行けば、何かしらの助けがくると。それを信じて、ハリーは草原を必死になって走り抜けていた。
そう信じる少年を嘲笑うかのように、彼の前方に不気味な影が集まりつつあった。それは最初は一つだけだったのだが、やがて何処からともなく集まり始め、遂には桁が10を超え、あともう少しばかりの時を待てば、100は優に超えるだろう。
そう思えるほど、実に素早く的確に、吸魂鬼達が、ホグワーツの月夜に集結していたのだ。
連続投稿です。作中の「咆哮」ですが、元ネタは某有名ゲームから来ています。新作が出た4月ごろから、こう書きたいと考えたはいました。しかしここまで来るのに時間がかかりすぎ、タイムリーなネタでなくなっているという。