ハリーポッターと代行者   作:岸辺吉影

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狼人間

少年は、目を閉じようと何度も瞼を瞬いていた。止めどなく溢れる涙は、目尻を伝って平伏している地面の草に潤いを与えている。彼はこの分泌される液体を止めたかった。ただ普通に居たいのに、普通の状態でいられないのが、堪らなく嫌なのだ。

 

(止まれ、止まれ、止まれ)

 

心の中で何度念じた事だろう。しかし念じる度に、彼の右腕が燃えるように痛みを、脳内に知らせてくるのだ。それは耐え難いものであり、おまけに身体のあちこちが切り裂かれたように、切り傷に覆われている。何処の関節も熱っぽく、思うように動かせない。その熱が、彼の視界を未だに滲ませてくるのだ。

 

(どうして僕は何も出来ないんだろう?)

 

ロナルド・ウィズリーは、坂に身体を伏せたままの状態で、坂の輪郭の頂点にいた。

 

 

彼の眼下に広がるのは、絵本の世界の戦いだ。人2人分はある背丈の化け物が、胸を張るようにして空を見上げる。その口から透明な振動が発せられると、ロンの鼓膜がビリビリと刺激され、身体から意思というものが消え去るのだ。しかし化け物に対峙する2人は何ら変わりなく、隙を与えないと言わんばかりに呪文攻撃を繰り出している。

 

その戦場では、スネイプ先生が怒りを爆発させているところだった。おりしも爆発呪文をルーピン先生にぶつけたところであったのだが、その偶然を笑える余裕は、士堂には存在しない。

 

「…リーマスが【上位種】に噛まれていただと?!?!」

「さっき、シリウスが俺にそう教えて、」

「馬鹿者が! そういう大事な話はもっと早くにしなくてはならん!」

 

スネイプ先生は、忌々しいという言葉がこれほど似合うのか、と言いたくなる表情をしていた。口をへの字に曲げ、反比例するように目は若干吊り上がり気味で、頬は全く動いていない。ただでさえ黒目が大きい人であるのに、今は白目が消えたのではないかと思うほど、黒目が大きくなっていた。

 

「なんたる不始末だ… 校長はこのことを知っておいて、奴めをこの学舎に招き入れたとは…筆舌に尽くしがたい…」

「上位種、というと報告例は数える程しかないのでは」

「吾輩が与えた課題を、それなりにこなしてはいたようだ。左様、報告されている狼人間の上位種は片手に数える程しかあるまい… だがその詳細と被害者は保護の為に我々には分からぬよう、伏せられてきた…」

 

狼人間は、無垢の人間を噛む事で仲間を増やす。この時噛む狼人間の歯から対象者の体内に流入される、ライロンスカーピーと呼ばれる感染症が、狼人間になる決定打であるのだ。そして歴史上存在した狼人間には、上位種と呼ばれる個体がいる。

この上位種は長い銀色の毛に覆われた身体が特徴であり、月の光を浴びるごとに魔力が増すのだ。魔力を浴びた体毛は生半可な魔法を相殺してしまう。つまり通常の魔法使いでは対処できず、闇払いなど限られた戦闘員でなくては、対応できない厄介な個体だ。

他の特徴として、独特の咆哮がある。これは通常の遠吠えと異なり、声が大気中に段階的に増大する音波、所謂衝撃波に変換されるのだ。

 

しかもその性格は惨虐そのもの、狼人間の獣の性が極端に際立っており、人間体の場合でもその性格を隠しきれないという。

上位種に噛まれた人間は、狼人間になるとこの特徴を引き継ぐ事が多いと報告されている。士堂の見立てでは、少なくとも魔力に満ちた体毛と行動を阻害する咆哮は、残念ながら引き継いているようだ。

 

 

狼人間の例に及ばず、獣人と呼ばれる生命体は、多くが高い魔力と知性を持った獣と人間が結びついた時生まれたと、士堂は士柳から聞かされた事がある。肉体の交わりがあった事も、交わりは無しに子が産まれた事もあるとかー

士堂は士柳から多くの知識を伝授されたが、その中に獣に対しての心構えがあった。

 

『獣、獣人。心に刻まねばならぬのは、知性とは人間固有のものではないという事。人間が知性を形作り、後世に伝える事ができるだけで、獣とて皆それなりの知性は、人間が思うより持っておる』

 

そう言われて読まされたのが、アメリカの狼の伝承だ。しかも単なる伝説の類ではなく、実話が基になっているという。その伝記本を読んでいた士堂に、士柳は煙管をふかしながら、深々とこう言ったものだ。

 

『大事なのはな、士堂。獣とて愚かと思ってみくびるから、皆命を失うのじゃ。あくまでも4本足で歩く人間、とまではいかぬでも、ある程度の敬意を持たねば、簡単にこっちがやられるものよ』

 

さもあらん。目の当たりにしている狼人間は、確かに知性と獣性が共存しあっている。だが感心する暇もなく、士堂を捕まえんと件の獣は捕らえる為の行動を開始した。

まず細長い鉤爪を振り回してくるのを、その場で屈伸した後に前転する事でかわす。するとそれを読んでいたかのように、狼人間の口が士堂の喉元を正確に狙ってくる。背後にステップを踏んで回避すると、自分がいた位置に、狼人間の涎が溜まっているのが分かった。

 

地面に溜まるよだれが放つ、鼻を啄むような悪臭に顔が顰めるが、狼人間は待ってはくれない。一直線の跳躍により、続け様の噛みつき攻撃を繰り出してきた。それを右脚を後方に引き、上半身をやや半身にして突進を躱し、士堂は左手の黒鍵を右腰の辺りに構えた。

そして後方に引いた右脚、正確には右の股関節に体重を乗せると、脚の親指を正面に向けるように捻る。連動して膝と腰が捻れていく間、士堂の上半身は未だに半身のままだ。右腰が周りきる寸前、体重を左股関節に移し替えると士堂は上半身を一気に捻り上げる。

上と下で生じていた捩れは備わった筋肉以上の力学を、士堂の黒鍵に伝えるのだ。加速する左腕を、感覚的に左肘を狼人間に並行の位置に突きつけるように、前方に向かって伸ばす。

そして左肘が突き出た時、肘を支点に腕が遅れて伸びた。すると士堂の左腕はまるで鞭のようにしなりを帯び、黒鍵が円弧状に歪んだように見受けられる。実際は歪んではいないものの、士堂の黒鍵は半長円の軌道を描いて、狼人間の脇腹を切り裂いた。

 

そこは体毛の薄く、肋骨が浮き出ているような脂肪分の少ない箇所だ。瞬時に反応して身を捩るも、鋭利な切先はその弱点を仕留めた。左手に柔らかい重みを感じつつ、士堂は2の手を繰り出している。左腕を突き出すと同時に、右腕の黒鍵も展開していていたのだ。左腕が薙ぎ払われた軌道の、真後ろに当たる位置から今度は殴るように、右腕を直線的に突き出す。

士堂からみて右に身体を捩った狼人間の挙動を見ながら、彼はコンマの世界で軌道を修正し始めた。左腕を振り切らず、そのまま自分の腰の方に引くように戻す。そして下げていた右脚を狼人間の方向に、体重が乗っている左股関節を軸に大きく踏み込んだ。そのまま後方の位置につく事になる左脚で、強く地面を踏み抜く。

 

身体の加速と体重が乗った黒鍵による逆手突きは、もろに狼人間の腹に突き刺さった。しかし3センチほど突き刺さったかと思うと、刃が砕け散ってしまう。まるでガラスが割れるかのように砕け散る刃を無視して、士堂はそのまま柄を狼人間の脇腹に突き立てた。

中途半端に残った、歪に形を留めた刃の残骸ごと身体にめり込ませると、化け物の身体が後方に大きくふきとばされる。

 

「ふん、リーマスが教えた防衛術は奇怪なものよ」

「先生の呪文よりは効きましたよ」

「口だけは達者なようだ」

 

汗を拭いつつ、スネイプ先生はネチネチと嫌味を言ってくる。彼が士堂に向ける視線には、心配などの感情ではない何か別のものがあると、士堂は感じ取った。

それを聞く暇もなく、スネイプ先生は杖を高々と振り上げる。

 

『マフリアート。 耳塞ぎ』

「ううううおおおおおんんんんん…」

 

狼人間の咆哮の前に、スネイプ先生がかけた呪文のお陰で、士堂は何らダメージを受けることはなかった。士堂の与えた傷は少なくないダメージを狼人間には与えているようだが、未だにその殺戮本能は衰えを知らないようだ。

 

「先生、狼人間はあれほどまでに凶暴でしたか?」

「いや…恐らく脱狼薬の影響だろう。トリカブト系の薬だが、狼人間の本能を麻痺させるだけだ。厳密には本能を抑制するのではない。

これまで薬で強引に押さえつけられていた本能が、急に解放された事で暴走状態にあるのではないかね」

 

まるで実験結果について考え込む博士のような口調のスネイプ先生に、士堂は思わず語尾が荒々しくなる。

 

「先生、何を呑気な事を?! 早くルーピン先生を助けなくてはならないでしょ!」

「まぁ落ち着きたまえ。焦らなくても、吾輩が静かにさせてやろう…」

 

スネイプ先生は、その時口角を上げて士堂と視線を合わせた。その不気味な顔は、士堂の背筋に冷たい汗を滴らせるには十分だった。

 

『メテオロジンクス・レカルト』

 

スネイプ先生の杖から黒い閃光が、天高く伸びていった。外は月明かりと星灯りしかないのだが、その中でも吸魂鬼のようにその黒さは認識できる。

みるみる内に月を覆い隠すように、灰色の雲が出現した。それまで銀色の淡い光を放っていた狼人間の体毛から輝きが消え、狼人間も頭を抱えて苦しそうな声を上げる。

 

『コンフリゴ・マキシマ。 大爆発』

 

狼人間から赤い爆風が巻き起こり、煙の中から掠れるような遠吠えが聞こえてきた。それでもスネイプ先生は杖を左右に軽やかに振り、同じ呪文を何回も炸裂させる。その度に爆音と爆風が響き渡り、焼けるような風が辺りに広まっていく。

あまりの凄まじさに絶句する士堂だが、かけている本人は実に愉快げな笑みを隠そうともしていない。呪文を物ともしなかった化け物だが、月の加護のない上での、呪文の波状攻撃は見た目よりダメージが大きいようだ。口から弱々しい咆哮しか鳴らず、それまで漲る活力の象徴のようだった尻尾は、地面に力なく垂れ下がっていた。

 

「最後だ、リーマス。薬を飲み忘れた己が不手際を呪いたまえ」

『アバ…』

 

『ステューピファイ!! 麻痺せよ!!!』

 

とどめとばかりに杖を頭の位置まで持っていったスネイプが、呪文を唱えようとした時だ。横からオレンジ色の閃光が死に体の狼人間の腹に直撃した。閃光が肉体に吸収されるように消えると、その肉体に似合わない、か細い鳴き声を上げながら狼人間はその場に突っ伏した。

微かに上下する胸以外動かさない狼人間を、見下す形でスネイプ先生は近くに寄った。

 

「先生、もう終わった筈です。もう辞めてください」

「甘いな、ミスター・アベ。秘蔵っ子は、化け物退治の重要な約束事を学んではいなかったとお見受けした。

確実に、正確に息の根を止めねばならんのだ。今その手本を、甘ったれた小童に親切なる吾輩が披露してみせよう」

 

士堂が焦った口調で止めに入るが、相手方は既にこの後の行動は決定事項らしい。最早誰が見ても死に体の狼人間、その頭部に杖を向けてスネイプの口が動きかけた時だ。

 

「終わりじゃ、セブルス。それ以上は行ってはならん」

 

それまでの会話にはなかった、温かみのある声がスネイプ先生の呪文詠唱を止めさせた。士堂が振り返ると、ダンブルドア校長が、杖を構えていつの間にやらそこにいるではないか。皺が見える右手には、特徴的な節々が盛り上がった、あの杖がある。

 

「セブルス、もう終わりじゃよ」

「しかし校長。ここにはか弱き生徒があるのです。念には念を入れるのが、筋というものではないでしょうか」

「その必要がない。最早ルーピン先生は一歩も動けんじゃろ。相当に痛みつけられてあるしの」

 

不服そうなスネイプ先生だが、ダンブルドア校長の眼光が強くなったことに目敏く気が付いたのか、杖を懐に戻す。誰にも聞こえない声量で何か呟く彼を横目に、校長は坂から一部始終を見ていたロンに話しかけた。

 

「もう泣かんでよいぞ。よくぞ、無事であったな」

「だ、ダンブルドア校長……僕、僕、何も」

「おお、おお、心配しなくてもよい。出来なくていいのじゃ、出来なくても。腕が折れてあるの、早くマダム・ポンフリーの所に行かねばならん」

 

『フェルーラ。巻け』

『エスピキー。癒えよ』

 

ロンの痛々しい右腕に添え木を当てると、校長の呪文で腕に布が巻かれた。血の巡りが悪く、青白くなってきていた腕が元の肌色になると、ダンブルドア校長は満足げに何度も頷いた。

 

「聞かねばならん事が山ほどある。皆もう少し老人に時間を貸してくれると、ありがたいことよ。ささ、早く城に帰ろうか」

 

士堂とスネイプ先生が近くに来てから、ダンブルドア校長の杖が一振りされる。すると4人の姿が一瞬で消え、その場には傷だらけの狼人間ー ルーピン先生がいつまでも横たわっていた。

 

 

士堂は鼻をつく、つんとした匂いで目を覚ました。それは医務室ではお馴染みの、消毒用アルコールの匂いである。朦朧としている意識が現状へと引き戻されようとしていたが、その現実はあまりにも慌ただしかった。

 

「…だからシリウスは無実です、信じてください大臣!!」

「私達、ペティグリューが逃げた事も確認しました! 嘘なんか言っていません!」

「おお、おお、うんうん。ああその、どうなのだろうか、セブルス。スネイプ君。その彼らの言っていることは…」

 

まだ若干重い身体を起こすと、ベッドの周りで数人が言い争っているのが分かった。ハリーとハーマイオニーが、老人に向かって激しく抗議している。そして老人ー魔法省大臣、コーネリウス・ファッジは年甲斐もなくオロオロしながら、背後に立つスネイプ先生に助けを求めていた。もとより頼り甲斐のない、前屈み気味の格好だが今は地面と平行になるまでに背骨が曲がってしまっている。顔には困惑と恐怖がまざまざと浮かび、情けない印象を強めていた。

大臣の慌てように口を出さなかったスネイプ先生は、待っていましたと言わんばかりに、仲間のはずであるのに実に恐ろしい、ゾッとするような笑みを浮かべた。

 

「ええ、ポッターの言っていることは概ね真実でしょう」

「な、何と。ピーター・ペティグリューが… 彼は英雄だぞ?」

「ええ、おっしゃる通り、彼は英雄でした。しかし残念ながら吾輩も奴が生き延びたことを、はっきりとこの目で見ております故に」

 

それは魔法省としては、あってはならない事実なのだ。彼を英雄として扱う事にしたのは、他の誰でもない当時の魔法省であるのだから。そしてこの事実は、誰からも隠す事も出来ない事は明白である。この先に待つのは、魔法省のトップであるファッジにとって大変な苦労しかないのだ。

のしかかる気苦労から、ベッドの手すりに力なく寄りかかるファッジに、スネイプ先生は実に優しく肩を添えた。

 

「しかしですな。ポッターの言うシリウス・ブラックが無実である、これは些か疑問符が付きますな」

「な、何を言っている?! シリウスは無罪だ! 」

「口を慎め、ポッター。なる程ペティグリューを探してホグワーツに来たのは確かですが、シリウス・ブラックには幾つか疑念があります。

一つは何故秘密の守人をペティグリューなぞに譲ったか。本人は敵の関心を自分に引きたかった、等と弁明しておりましたが、本当は別の誰かに命令された、と考えた方が筋が通るでしょうな。そうでなくては余りにもお粗末な考えでしょう」

「シリウスは真剣に父さんたちの事を考えてくれた!!」

「第一ですな、例えペティグリューが有罪だとして、何故シリウスまでもが無罪と言い切れますか。順当に考えれば、両名とも名前を言ってはいけないあの人の手下と考える方が自然ではありませんか」

 

スネイプ先生はシリウスの無罪を信じる人たちの、最大の弱点をはっきりと指摘した。そう、例えペティグリューが有罪だったとして、シリウスの無罪は確定しない。何故なら秘密の守人が変更された事を知るのは、ペティグリューとシリウス以外には死んだハリーの両親しかいないのだから。

シリウスは安全策として誰にも相談しなかったのだが、今はこれが悪手となっている。せめてダンブルドア校長に相談の一つも有れば違っただろうが、今言える事だろう。

無罪を叫ぶのは子供達だが、何せハリー達は、明確な証拠があってシリウスを信じている訳ではない。この短時間、特にハリーは叫びの屋敷から出てくる時に2人で話した感覚から、彼を信じているだけなのだから。

 

「ハリー… その何か、証拠でも? シリウス・ブラックが無罪とする…」

「それはその…」

「あります、シリウスはハリーを何回も助けようとしました! これは事実です、出なかったら私もハリーもさっき死んでいたわ!」

「黙れ小娘ー ミス・グレンジャー。 失礼大臣。あまりにも衝撃的な体験から、些か生徒の精神に混乱が見受けられる。吾輩は兎も角、生徒達の証言は法廷では到底使えますまい」

 

ハーマイオニーも必死に弁明するが、その結果は火を見るよりも明らかだ。駄々を捏ねる餓鬼のように何度も生徒とスネイプ先生を見る大臣は、力のない声でマダム・ポンフリーを呼んだ。

 

「終わりましたか、この子達は休まなくてはいけないのですよ」

「ああ… チョコを食べさせてやりなさい。ハリー、後は私達大人に任せて、今はゆっくり休みなさい…」

「待って、待って」

「マダム、後は頼みましたよ。ささスネイプ。君に与えられる勲章について話さなくてならない…」

 

とぼとぼと歩くファッジとは対照的に、いつもよりも大股で外に出るスネイプ先生。その後ろ姿を睨みつけ呼び戻そうとするハリーだが、マダム・ポンフリーに強引にベッドに寝かせ付けられた。

士堂は今こそ録音貝を忍ばせておくべきだったと後悔した。あの在庫は手元にないが、もしかしたら校長から貰った残りが実家にあったかも知らない。こうなる事を事前に想定しておけば、何か証拠が残せたのにー

ベッドの上で火照る身体を飲み水で冷やしつつ、士堂は自分の不甲斐なさを痛感した。

結局ハリー達よりも経験豊富であっても、これでは何ともならない。自覚した途端、心が波を打つように不安定になり制御できなくなった。慌てて枕に顔を押し付けて、表情を隠す。

 

「くそ…」

 

人知れず溢れた言葉は、頬を伝う一筋の液体と共に医務室に消えていった。

 

 

目を覚ましたロンも含めた4人がチョコを刻むように食べていると、医務室のドアが開く。それまで誰も口を聞かず、蕩けるように甘い口内とは対照的に雰囲気は最悪だった。マダム・ポンフリーは入ってきた人物を見るや否や、信じられないと言った口調で押し返そうとした。

 

「校長、何をしてますの? あの子達は休まなくてはなりません、さあ早くお帰りになってくださいませ」

「申し訳ないマダム。しかし私も幾つか、あの子達と話さなくてはならない。分かってくれるかな」

「何とまぁ、正気の沙汰とは思えませんー ああもう、ほんの少しですよ」

「心配かけるのぉ。これは今年の給金に遊びを加えねばならまいな」

 

ダンブルドア校長の悪戯っぽいウインクを無視して、マダム・ポンフリーはタオルを抱えて奥に消えていった。ウインクを無視されて少し悲しかったのか、一瞬浮かない顔をした校長だが、ロンのベッドの横に腰掛ける。

もうロン以外は起き上がれる状態だった為に、ベッドを降りて自然ロンのベッドに皆が集合した。

 

「ダンブルドア先生。僕達の話を聞いて、」

「分かっておる、分かっておる。今しがた、拘束されたシリウス・ブラックから同じような話を聞かされた。どうやらお前さん方と内容は一致するようじゃな」

「じゃあ、シリウスは?」

「それは別問題じゃ。いいかい、何せあの時間には証言も証拠も出揃っておるのじゃ。これを覆すには、決定的な証拠が必要なのじゃ。

ハリー、シリウスは正当に裁かれた。であるならば、普通は正当に抗議しなくてはならない」

 

ハリーの言葉を優しく遮って、やはりファッジと同じ事を言う校長。堪らなくなったのか、横からハーマイオニーが参戦してきた。

 

「ダンブルドア校長は、ルーピン先生をお忘れです。先生なら、シリウスの無罪を証言してくれます」

「そこがの。君も知っての通り、狼人間はまだ魔法界では忌み嫌われておる。過去の被害が、根強く残っておるのでな。

そうでなくてもルーピン先生とシリウスは、古くからの親友じゃ。まず、庇っていると言われてしまうじゃろ」

「先生は、私達を信じてくれないのですか?」

「そうは言っておらん、そうは。わしはお前さん達を信じておるよ。いつも、これからも。

しかしこれはわしには、どうしようもできない」

 

つまりシリウス・ブラックはこのまま行くと、アズカバンに連れ戻されるかもしれないのだ。いや、恐らくはアズカバンに行くことなく、吸魂鬼のキスが待っているだろう。以前ルーピン先生から話を聞かされ、つい先ほどそれを行おうとする現場を目撃したハリーは、背中に冷たい汗が噴き出てきたのを感じる。

 

「このままでは、間違いなくシリウスは殺されよう」

「じゃあどうしたら」

「大事なのは、時間じゃよ。のう、ミス・グレンジャー」

 

ダンブルドア校長は、何故かハーマイオニーを見つめて意味深に言った。士堂もハリーも訳が分からないが、ハーマイオニーは気がついたようだ。

 

「そうか、そうですね。その手があったわ!」

「規則は忘れてはならん。シリウスはフリットウィック先生の事務所、西棟右から13番目の窓に囚われておる。今宵2人が首尾よくこなせれば、罪なき命を一つならずとも、何個も救えるじゃろう。

だが、念を押すが見られてはならん。気付かれてはならん。聞かれてはならん。分かっておろう?」

 

ダンブルドア校長は、何処からか果物とお菓子の盛り合わせを取り出した。お菓子の中からグミを何個か取り出すと、無造作に口に入れる。

 

「今は真夜中5分前じゃ。左様、今回戻るべき刻を鑑みればー 3回がいい具合じゃろうて」

 

ハーマイオニーが戸惑いを隠せないハリーを引っ張って部屋を出ると、士堂とロンは一斉に校長に視線を向ける。

 

「まぁ、詳しいことは明日には分かる故、今は身体を休めようぞ。

ささお食べお食べ。珍しい龍の名を冠する果実もある。これは南国のアレでな、中々どうしてお目にかかれない珍味じゃ。左様金貨は2桁飛ぶかもしれん」

 

それを聞いたロンが、目をくりくりさせ始めた。ダンブルドア校長が果物バスケットから紫色の、曲がりくねった棘が特徴的な楕円形の果物を取り出すと、いつの間にやら皮を剥いて食べやすく小分けにしていた。

ロンが目を輝かせながら、それを恐る恐る口に運ぶ間、士堂と校長はルーピン先生について話し合っている。

 

「先生は上位種に噛まれたとか」

「そうじゃ。誰からそれを?」

「シリウスが。校長、不安はなかったのですか。その、普通ではないでしょ、流石に上位種となると」

「うむ。じゃがリーマスは人間の時は普通じゃし、根底にあるのはそうした野生への恐怖のみじゃった。だからわしは彼を此処に招き入れた、それだけの事」

 

さも当然と言わんばかりに髭を撫でるダンブルドア校長だが、その決断はかなり勇気がいる。何せ暴れたら並大抵の魔法使いでは餌に過ぎないのだから。

 

「先生はやけに獰猛でした。あれほどとは知りませんでしたね」

「ふむ、わしの予想ではの。色々聞かさせてもらったが、ペティグリューが逃げる時に確か鼠を呼び寄せた、と申しておったの。

恐らくじゃが、鼠を数匹ばかし、喰べたのではないかな。そうならば、不思議ではない」

「それは?」

「リーマスは狼人間になってから、一度も人は襲ってはいなんだ。それだけ被害が出る事を嫌っておった。

しかしそれが今宵無駄になった。数十年溜め込んだ野生の欲求が、彼の中で目覚めてしまったのだろう」

 

悲しげに首を横に振って、ダンブルドア校長は葡萄を一粒、口に放り込む。

 

「それよりもじゃ。ペティグリューがわしらを悪い意味で、色々と裏切ってくれたの。奴が使える呪文は、ホグワーツの卒業資料には載っていないものばかりじゃ。

動物もどきはさておき、操鼠術を心得ていたとはな…」

「操鼠術? 聞いたことありません、そんな呪文は」

「文献が多くはない。わしの知るところでは、笛などの楽器を使うと言うのじゃが。達人はそれ、人間すら操ることができると言う。異国の地方の街では、笛吹の音色に魅入られた子供がごっそり行方不明になったそうな」

 

皮を小鉢に吐き捨てると、ダンブルドア校長は葡萄を一房、今度は丸ごと取り出した。それを口一杯に房ごと頬張ると、器用に身だけを絡め取っている。口の中で葡萄ジュースを拵えて満足そうに味わうと、大量の皮を小鉢にまた吐き捨てた。

 

「葡萄はこう食べると美味い。以前フランスの葡萄園を渡り歩いた時、教えてもらったのじゃよ。

さてさて、しかしあれじゃな。ペティグリューの事を考えると折角の葡萄の味が落ちてしまうわい」

「先生。ペティグリューは、いつ実用的な呪文を学んだのでしょう?」

「それは分からぬ。奴がスパイとなった時、あるいは逃亡中か。何れにせよ、奴は我々が思うより厄介という事は確かじゃ」

 

校長はバスケットを膝の上に乗せると、次々に皮を剥いて切り分けていく。それを杖無しにやって見せるのだから、士堂としてはどう対処すればいいか、全く検討が付かなかった。

だがそれよりも校長がペティグリューの話を切り上げて、一息つこうとしている事が予想外であった。

 

「あ、あのいいんですか。というよりハリー達は一体?」

「そうだ、どうしてハリーとハーマイオニーだけ何処かに行ったんです?」

「それはさてさて、あともう暫くすれば自ずと知れよう。それまでは、精々自然の恵みを味わい尽くそうではないか。のう」

 

悪戯っ子のようなウインクをしながら、校長はオレンジを丸ごと口に放り込んだ。溢れる果汁を手で抑える老人をジト目で見ながら、士堂とロンはそれぞれ林檎や梨を手に取る。口の中に爽やかな果汁が広がると、疲れた身体に活力が漲る気がしてくるのは、生物としての本能だろうか。

 

未だ月夜は煌々と医務室に差し込むが、聞こえてくるのは小鳥の囀りと、夜風が震わす草木の音色だけだった。




一区切りの話になります。
あと一話ほどで3章は終わりにしたいですね。
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