「解決策が他にあるわけじゃないしさ、いいけど。どうも軽く考えすぎなんじゃないの」
湖に気持ちよく日光が注ぎ込まれている。自然界の気まぐれな性質から生まれる反射は、古来人間が絵として残したいと思って来た光景であろう。試験もない休みに学校に残る酔狂な生徒がいないお陰で、問題の4人はこうして日光浴を楽しんでいた。
それでも士堂からすれば、昨日の夜行われた事件については納得できていない。
「君しつこいよ。僕たち校長とお菓子食べてたんだもん」
「そういう問題じゃないって」
「嫉妬してるの?ハリーとハーマイオニーが美味しいところ持ってたからって。やだな〜」
「違うっての」
ロンがやけに嬉しそうに士堂の頬を指で突いて来た。士堂が腕で払い除けようとすると、面白がってロンの手は脇に伸びる。指が鍵盤を弾くように動くと、士堂の体が上下に揺れ始めた。
堪らず士堂が笑い声を上げると、つられて他の面子も笑い始める。
昨晩、ハリーとハーマイオニーはある魔法具を使用した。逆転時計と呼ばれるそれは、文字通り使用者を過去の時間に飛ばすという単純明確な道具だ。ハーマイオニーが今学期本来不可能な量の講義を受けていたのも、この逆転時計で時間を何度も遡ったからだ。どうやらホグワーツでは伝統的に、優秀かつ将来性豊かな生徒に貸し与える事で更なる教育を施して来たらしい。貸し出したマクゴナガル先生も、慎重を期していたとはいえ大丈夫と考えていたに違いない。
士堂が文句を言ったのは、時間という概念が分かりきっていない彼女に、容易く学校が道具を貸したことにある。そもそも時間というものについて、考察が複雑かつ議論が収まらないのはこの概念の理解不足にある。
根本的に、時間を遡る行為自体どう定義するか。人1人過去に飛ばしたとして、それはその人なのか。飛ばされた先が、出発点と次元的に同じであるという証拠は?そもそもどうやって時間旅行を証明するのか?
つまりそれだけ専門家でも議論が止まない、気安く触れていい概念ではないのだ。有史以来、何人もの魔術師・魔法使いがこの難題に取り掛かって来た。しかしその結果は不幸を招くと相場は決まっている。悲しい事に時間旅行という行為は、既に魔術の世界では道が半分以上途絶えているのだ。
士堂の知る中で時間旅行が可能なのは、ゼルレッチ翁ぐらいである。そう、彼の行使する「平行世界の運行」に「時間旅行」が含まれているのだ。魔術は一度至った道を再度通るには、その方法以外ありえないからこの系統での魔術開発は不可能な事である。後は他の魔法使いが似た事例を引き起こした起こしていない、限定的な体内時間の操作なら可能…どれも噂話程度でしか知識としてなかった。
それにもし今回の事件が無かったら、ハーマイオニーはパンクしていただろう。目に見える変化でなくても、彼女の根本が歪んでいた事は間違いない。ハリーとの時間移動で、その重さを十二分に理解した彼女は今後は使用しないと決めていた。
士堂達は反対しなかった。ハリーとロンは純粋にハーマイオニーの身体と心を心配していたが、士堂は時間旅行の影響が未知数である事を考えている。
他にも問題はあった。例えば今回の逆転時計。この道具については祖父としっかり話し合わなくては、士堂も対策のしようがない。もしかしたらゼルレッチ翁が関係しているかもしれないが、士堂には知るすべはない。だが逆転時間呪文を考案した人物や道具の製作者が不明な事から、多かれ少なかれあの変人は関わっているに違いなかった。
祖父母はゼルレッチ翁と旧知の仲、とは言い難い曖昧な関係だと聞いたことがある。士堂もよく知る魔術師ー
「人間、知性と品性は両立し得ないというか、並外れた知性が導く品性は凡人には理解できん」
士柳がふとこぼしたことがあるが、道子が珍しく同意していた事は記憶していた。滅多に人を悪く言わない祖母だが、どうもトラウマのような厄介事に巻き込まれたのか…
士堂は全身を走るこそばゆい感覚に身を捩りつつ、頭の片隅で壮大なスケールの悩みを悶々と考えているのだった。
笑い声が草原にこだまする。湖で大イカが触手を唸らせては水中を軽やかに水泳しているし、色とりどりの蝶が4人を祝福するかのように飛び去っていった。
すると4人の鼻腔に、甘い匂いが香ってきた。その方向に顔を向けると、ハグリッドが涙を拭きながら此方に歩いて来ている。すっかり湿り気を帯びたハンカチを何度も目頭に押さえつけながら、片手には大きな木製ジョッキが握られていた。
「おお、お前さんらなにしちょるこんな所で」
「ゆっくり休んでた。試験終わったし」
「そうか、そうだったな。お前さんらは皆満点だ。言っても構わねぇと思うが、一応皆んなには秘密にしておいてくれや」
あの試験で落ちるほうが難しい。そう言葉を言い出しかねなかったが、ハグリッドの為に生唾と共に身体の奥底に飲み込んだ。ハグリッドは子供達の配慮など気づくはずもなく、背中に背負った大樽からジョッキに液体を注いでいる。透明感のある黄色がかったそれからは、爽やかで新鮮な果実の香りが上品に漂っていた。
「シードルだ。ダイアゴン横丁のバーにしか売ってねぇ代物なんだが、何せな。バックビークの奴がほら、なぁ?」
高級な酒を一気に飲み干すと、彼の髭だらけの頬が更に赤くなった。原材料と同じくらいに赤みがかった頬をハンカチで拭きながら、ハグリッドは満面の笑みを浮かべる。
「行けねぇ、ブラックの事もあるのに… でも奴らは馬鹿だった。賢いあの子をしっかり止めとかねぇからなぁ!」
「あーそうね、えぇ、しっかり止めとく方が良かったかも」
昨晩、ハリーとハーマイオニーはシリウスと共にバックビークも解放した。魔法省はしっかり鎖で捕縛していたのだが、まさか人間それもホグワーツ現役生徒が逃したとは考えていなかった。今はシリウスと共に何処かの山奥にでも隠れているはずだ。
そんな事は露も知らず、上気分なハグリッドは今にも踊り出しそうだ。何はともあれ彼が嬉しそうな事で、4人は救われたような気分になる。しかしゆったりとした時間は、唐突に終わりを告げた。
「でもこんな所におってええんか。もうすぐリーマスが行っちまうのに」
「何の話? ルーピン先生がどうなの?」
「知らなんだか? てっきりお前さんらは知っちょるもんかと…」
気まずそうに顔を拭きながら、ハグリッドはシードルを煽る。そして空になったジョッキに注ぎつつ話し始めた。
「今朝早く、スネイプ先生が漏らしちまったんだ。スリザリンの連中が集まった席でな。オラァ皆知ってると思うとった。そうでなきゃあの方が教師なんかになさらねえ。
そんでもってリーマスは今朝に退職願いを届け出たんだと」
「そんな…」
ハリーはその場で立ち上がると、茫然自失としていた。他の3人も言葉がない。皆何処かでこの結末を覚悟していた様な、そんな気はしていた。しかしダンブルドア校長が引き留めてくれると、根拠もない自信だけはあったのだ。
それだけ彼等にとって、ルーピン先生は適任であったのだろう。
「僕先生に会ってくる!」
「でも先生はもう決めてらっしゃるわ」
「そうだよ、行ってもどうにもなんないよ?」
「それでも行かなきゃ!」
ハリーが一目散に城に向かって走り出した。慌てて士堂達が後を追いかけると、湖にはハグリッド1人が残された。
「いっちまった。まぁ、いいわさ。へへ、へ…」
ハグリッドは湖で泳ぐイカや人魚達にジョッキを傾けると、並々注がれたシードルを豪快に飲み干していく。暫くホグワーツの誇る日光浴のスポットでは、野太い笑い声が一日中、いつまでも聞こえていたそうだ。
ハリーが急な階段を段を飛ばして駆け上り、お目当てのドアを強く押し開いた。室内はこれまでとは少し違う。数々の水槽や檻はそのままに中で小動物が暴れ回ってはいるものの、部屋の奥の教員机には沢山の鞄やトランクケースが置かれており、服や本で溢れかけている。
そしてルーピン先生は窓際の小さな机に肘を置いて、何かを熱心に見つめていた。
「君達をずっと見ていた。団欒を楽しむ所からハグリッドに会い、そしてここに来るまで」
忍びの地図を畳みながら、ルーピン先生は口角を上げて見せた。彼の表情はおよそ退職する教師とは思えない、清々しいものがあった。
「ハグリッドから聞きました」
「そうか」
「どうしてお辞めになるんです? 校長先生は庇ってくれなかったんですか?」
悲痛な表情を浮かべるハリーに対し、先生は実に淡々としかし軽やかに答えてくれた
「いやいやちゃんと説明してくれた。ファッジに対して、僕の働きなくては事件は解決しなかったと。向こうはどう思ったか分からないし興味はないがね。
でもそれでセブルスー スネイプ先生のマーリン勲章は消え失せた。それに怒った先生が朝ついポロッと漏れてしまったらしい」
「そんな事でお辞めにならなくてもいいでしょう?!」
ハリーの叫びに、先生は頷いてはくれなかった。
「いや、辞める。明日の今頃は、保護者やらなんやらから苦情の手紙が押し寄せてくる。皆狼人間に教えてもらいたくはないんだ。
それにね。本当のところ僕は教師としては失格だ」
「そんなことありません! 先生は今までで最高の先生です!」
「ハーマイオニー、ありがとう。君に褒めてもらえて光栄だ。でもね。
昨日脱狼薬を飲み忘れて、生徒を危険に晒したのは紛れもない事実だ。そしてその生徒の前で人を殺めようとした」
「でもルーピン先生は思い止まったじゃないか」
「ロン、それは君達がいたからだ。君達を見て、すんでの所で思い止まれた。もしもシリウスと2人だけだったなら、僕は間違いなくペティグリューを殺していたよ」
初めて自嘲的な笑みを浮かべたルーピン先生は、忍びの地図をハリーに手渡した。
「君に返そう。もう教師でない私からすれば、君達に渡した所で何も躊躇う事はない」
「先生は、あの時こう言いました。この地図の制作者が、君を誘い出すって」
「そうとも。ムーニー・ワームテール・パットフッド・プロングス。ホグワーツ史上屈指の悪戯小僧がね。特にプロングスは、自分の息子がこの城の抜け道を一つも知らずに卒業するなんて、大いに失望しただろう」
忍びの地図の表紙に、4人の名前が浮かび上がる。その中の一つにハリーが指を添えると、先生は机に腰を下ろしてハリーをじっと見た。
「教えてくれ。昨日の晩何が有ったか。ハリー、君がどうやって守護霊呪文を成功させたのか」
「どうしてそれを?」
「それ以外に吸魂鬼は追い払えない。そう講義で教えたじゃないか」
ハリーから昨晩の話を聞いた先生は、一瞬顔を伏せたがすぐにハリーを見つめ直す。
「そうだ。プロングスー ジェームズは牡鹿に変身した。君の想像通りだ。そうか、それを聞いて安心した」
先生は微笑んでそういうと、ハリーの肩を優しく叩いた。
「今年から昨晩にかけて、君が学んだ事は計り知れない。そしてその知識で多くの人を救った。
知識だけでは駄目だ、その智を持って行動がともわなくてはならない。私が好きな教えだが、言葉にしなくても君は学びとってくれた。こんなに嬉しい事はないよ」
そう言って話を終わらせた先生は、スーツをトランクに仕舞い始めた。まだ引き止める言葉を探すハリーが黙りこむと、部屋には静寂が訪れた。時計の針の音と服の擦れる音、部屋に多数いる小動物の金切り声のみが聞こえるなか、突然口火は切られた。
「先生と僕の両親はどういう間柄なのですか」
その質問が投げかけられた時、ルーピン先生は動かしていた手を止めた。ハリー達も一斉に視線を1人に向ける。向けられた少年は、その視線を受けながら口を動かした。
「教えてもらわなくては困ります」
「…そうだね。君には知る権利がある。だが、いいのかな。これは君の最も親しい人から聞くべき事でもある」
「いえ、今教えてもらいたい」
ルーピン先生は士堂の目を、澄んだ瞳で覗き込んだ。士堂は一言も発しないが、先生は小さく頷く。次に他の3人に視線を向け直すと、士堂が何も言わずに頷き返した。ハーマイオニーがこっそり士堂のローブを摘み、ロンがそっと肩に手を置く。ハリーも士堂の横に立つと、その光景を見た先生は何かを堪えるようにまた下を向いてしまった。
「…済まない。つい思い出した… 大丈夫だ、問題ない」
何かを振り払うように先生は首を振り、士堂達に話始めた。
「そもそも何処から話すべきか… 僕たちは勿論のこと例のあの人に対抗していた。だが君たちには実感がないかもしれないが、当時の闇の陣営はとてつもなく巨大な組織だった。
厄介だったのは、敵の中心にいた大半の面々が貴族階級にあった事なんだ。知っての通り反マグル主義は貴族階級に好まれたからね。お陰で例のあの人に反対ではあるものの、配下の貴族の金と権力に恐れをなしてしまい、抵抗しようとする人間は思いの外多くはなかったんだ」
ルーピン先生の目は、窓の外に向けられた。その目は眼科に広がるホグワーツの自然ではなく、戦火に燃える過去が写っているかのように遠くを見つめていた。
「対抗組織のリーダーは、ダンブルドア校長だった。校長は賛成してくれるメンバーを手当たり次第に集めていったよ。そして少ない中でも集まっていったんだ。私達含めロンやネビルのご両親もね。
そして校長は、魔法使いだけではなく他の陣営も仲間にしようとした」
「魔術師ですね」
「そう。僕たちは縁が無かったが、校長は君の祖父上と以前から親しい友人だったと聞いている。その彼を通して色々と協力を要請したけれど、いい返事は返ってこなかったそうだ」
士堂の唇が震え、手には脂汗が滲む。心音がどんどん高まり、先生の声が自分の鼓動で掻き消されてしまうような、そんな錯覚に陥りそうだ。
「結局、仲間に加わった魔術師は4人だけだった。彼らは僕たちの仲間というより、支援部隊という立ち位置の校長の直属だったね。
士柳・安倍。道子・安倍。そして士堂のご両親、士厳・安倍。桃・安倍」
それはあの時、シリウスが言った人の名前だ。士堂以外の3人にもどんどん実感が出てきた。部屋には緊張感が走り、ルーピン先生もそれまでの余裕のあった表情は何処かに消え失せていた。
「君の父上は魔法罠の設置や敵の妨害を担当する、後方支援が主な仕事だった。博識な人でずっと部屋に引きこもって何かを研究していた。そうそう、ジェームズとシリウスがその度がつく真面目さを面白がって悪戯を仕掛けていたな。屁をする羽ペンとか狸に化けるクッションを仕込んだりしていたよ。
君の父上には特殊な精神安定剤を調合してもらっていた。ホグワーツ卒業前後までは満月が近づくにつれ、憂鬱な気分になって自傷したりしたんだ。それを抑える薬を作ってくれたよ、今も飲ませてもらっている…」
先生が小さなポーチから、錠剤が入った瓶を取り出した。液剤や薬草が主な薬の形である魔法界において、たしかに錠剤は珍しい。
「母上は祖母上と一緒に救援を担ってくれた。怪我をした時の治療とか、隠れ家の衣食住、身の回りの世話をしてくれたんだ。あの頃の楽しみと言ったら2人の作る賄いぐらいしかなかったね。それだけ過酷な戦争だった」
遠い目をした先生はそこまでいうと、眉を顰めた。まるで自分を責めるかのような、激しい後悔の色が漂っている。
「あの忌々しい日の数ヶ月程前に、僕たちはある予言を入手した。それは例のあの人を倒す可能性を秘めた、1人の子供についてだった。予言の中身から該当するかもしれない子供と親は各地に分散されて、安全を期した。
それでも向こうに情報が漏れている事は考えていた。いや、漏れてなくても子供を片っ端から襲うに違いない。僕たちは此方の戦力を分散して、各個撃退の方針をとった」
「子供を襲う一番の標的は、聖マンゴ魔法疾患傷害病院だ。彼処は知っての通り、イギリスでも随一の魔法病院だ。今でもそうだけど、高度な魔法治療においてあそこに匹敵する病院は世界でも数少ないだろうね。つまり敵味方関係なく、必要な場所だ。だから一応不侵略の了解があったけど、そんなものは信じるに値しないと思っていたから。そこに人員を多く割こうとしていたが、何せ人数が少ない。
そこで本来は前線に出ない士厳と桃も、聖マンゴ魔法疾患傷害病院で前線待機することになった。2人ともそんじょそこらの魔法使いなら、相手にならないぐらいの実力者だったから」
先生はそこではっと息を呑む。後悔の色がより一層濃さを増し、声に震えが出始めていた。見れば机にかけてある手も震えを抑えきれていない。
「そしてあの日。案の定、それぞれに分散した子供達と親の隠れ家が襲われた。聖マンゴ魔法疾患傷害病院には、1番の大軍が押し寄せたらしい。病院付近は壮絶な戦闘が繰り広げられて、大勢の死者が出た。
ー士堂、君のご両親もその中にいたんだ」
「私はその時イングランド北部に用事があった。向こうで知らせを聞いた時の感情は、生涯忘れる事はない。自分の親友の3人がこの世から消えて、仲間が大勢命を落とした。
あの日君のご両親を病院に残したのは間違いだった。その用件も本来は他の人間が行ってもよかったんだ。でもご両親が大丈夫といったから、その言葉に甘えてしまった。
考えたら分かったのに、前線に殆ど出ていない2人をそのままにしておいてはいけなかった…」
ルーピン先生はそこで言葉を区切った。その後も話は続くようだが、次の言葉を探しているかのようだ。あの冷静沈着だった先生が言葉に窮する光景を、4人は初めて見た。そのあまりの衝撃に声も出ない子供達だが、先生は視界に入らないのかそのまま独白の形で続けた。
「……1人は殺され、1人は裏切り、1人は裏切りを止めるために殺された。2人は子供を守るために身を挺した…
耐えきれなかった。その後暫くは記憶が途切れ途切れでね。正直な話、話す事はもうない。だって話せるほど覚えていないから」
先生は皺が目立つハンカチで目を拭うと、ハリーと士堂の頬に手を置いた。そして2人を再度覗き込んでくる。
「君たちは本当にご両親そっくりだよ。君達と会えてよかったー」
先生はローブの懐から杖と共に、小さな布切れのようなものを取り出した。土汚れやほつれてきた糸の残骸が見窄らしさと年月を感じさせるが、それはハリー達がクリスマスの時に贈られた、安倍家のお守りと同じものだった。
「君の母上から貰ったものだ。これは手放せなくてね。ずっと肩身離さず、大切にしているよ」
先生は手にしたお守りを仕舞い込むと、杖を一振りした。開けっ放しだったトランクが一斉に閉じ始め、部屋に置いてあった荷物は綺麗に箱に収まりきった。そして大きなトランクを一つ手に持つと、ルーピン先生は机から腰を下ろす。
「行かなくてはね、長居は無用だ。君達とはまた会える。その時まで君達の成長と幸運を陰ながら応援させてもらおうかな」
ドアに向かって歩き始めたルーピン先生を出迎えるように、ドアからダンブルドア校長が部屋に入ってきた。校長は4人を見ても驚く事なく、部屋を後にしようとするルーピン先生を出迎える。
「リーマス、外に馬車が来ておる」
「ありがとうございます。ではハリー、士堂、ロン、ハーマイオニー。お元気で。校長、お見送りは結構ですから…」
ダンブルドア校長と握手を交わしてからルーピン先生は足早に、まるでここには長く居たくないとばかりに部屋を去っていった。ダンブルドア校長の顔は暗く、いつもは悠然と構える彼らしくもない。何かを考え込むかのように目を閉じて、部屋の入り口付近で微動だりしなかった。
士堂はその時、身体の震えが止まらない事に気がついた。ゆっくりと右手で左腕を掴むと、堪えるように力を入れる。彼は気がついてはいないが、唇には血の気は無く顔は地中海の壁の漆喰かのような白さだ。ハリー達は心配そうに彼を覗き込んできて漸く、口角を無理やり上げて大丈夫と合図を送る。
「話は終わったようじゃな」
「…ええ、そうですね。全部終わりました」
「あの、ダンブルドア校長は、士堂達の話を聞いたらしたんですか?」
ロンが生唾を飲み込みながら、恐る恐る聞いて見た。すると校長は初めて破顔して、被りを振る。
「まさか。そんな無粋な真似はせぬよ。ただ朝の時点で相応に身支度を整えていたリーマスがまだここに残っておって、お前さん達がいる。後は老人の長年の勘というやつじゃ」
その時、ハリーが我慢できないかのようにダンブルドア校長に歩み寄る。校長は驚く事なく、少年に視線を向けた。
「ダンブルドア先生。ペティグリューはどうなるのですか?」
「無論指名手配をかける。今魔法省が総出で捜索しておるところじゃ」
「僕、何も出来ませんでした。ペティグリューは逃げ出したし、ルーピン先生は学校を去るし」
校長はハリーの心の奥底から出てきた言葉を、吟味するかのように聞いていた。
「…ハリー。君は素晴らしい事をした。真実を明らかにし、長年言われなき罪を強いられた男を救ったではないか」
「でも…」
「それで充分なのじゃ。ハリー、君はまだ13にしかならない学生じゃよ。何もかも思い通りに事が進むなんて、都合が良すぎる」
ハリーは納得できていないようだ。不服そうに若干頬を膨らませるハリーに、校長は何も言わない。
「…僕には分かりません。だって僕と士堂の両親を裏切った奴です」
「だとしてもじゃ。
その言葉を聞いた士堂も、深く息を吐き出した。鼻と口から大きく空気を吐き出して、頭のモヤモヤを無理矢理跳ね除けた。目を強く閉じてから、カッと見開く。そして隣で心配そうな面持ちのロンとハーマイオニーに、今度はにっこりと笑ってみせた。それが無理やりであるのは百も承知だが、それでもロンとハーマイオニーは笑顔を返した。
そんな友人達を尻目に、ハリーの目は忙しなく動いていた。校長が言った何気ない一言が、彼の脳裏に仕舞い込まれていた記憶を呼び覚ましたのだ。
「そうだ、ダンブルドア校長。お話があります!」
「何じゃ?」
「占い学の試験の時だったんです。トレローニ先生と試験をしていたら、先生急に変になって」
「ほう? 詳しく聞こうかの」
ダンブルドア校長は微笑を浮かべつつ、眼鏡をかけ直してハリーと向き合う。その目と眼鏡の縁が、キラリと窓からの光を反射した。
「声が太くなったんです。それに白目を向いて天井を見つめ始めて… 苦しそうでした。手をこうなんていうか…」
「もがいておったのじゃな。溺れているように、手を高く上に向けて掲げておったか?」
「はい、まさにそうです。それで言ったんです。
今夜、真夜中になる前、その召使いは自由の身となり、ご主人様のもとに馳せ参ずるであろう……闇の帝王は、召使いの手を借り、再び立ち上がるであろう」
ハリーの話を聞いた校長は、何やら意味深な反応をみせた。何回も頷いては移動する事なく、その場でぐるぐると歩き回っている。そして士堂もハリーを引き寄せると、その肩を激しく揺すった。
「お、おいまじか? どうしてそれを言わないんだ?」
「だって急だったし、さっきまで忘れていたんだ。あの先生本当に頭がイカれたんだって思ったから」
だが校長と士堂の2人はそう考えてはいない。その場で回り続ける校長先生に、士堂がハリーに変わって問いかけをした。
「ダンブルドア校長、トレローニ先生の近親の出身はギリシャですか?」
「そうじゃな。出身までは知らぬが少なくとも、母上までの代がその国にいたのは確かじゃった」
「ギリシャの、何処です?」
「デルポイじゃよ」
士堂はその名前を聞いた途端、空いた口が塞がらなかった。ハリーとロンは士堂が何に驚いているのかも、ダンブルドア校長が何を考えているのかも検討がつかない。ハーマイオニーは1人眉間に人差し指を当てて、考え事に耽り始めていた。
「校長先生、あのどういう事です?」
「うん? まぁそうじゃな。さてさてトレローニ先生の給与を上げねばならん。これで2つめじゃからな」
「本当の予言って事ですか?もしかしたらですけど、もしかしたらペティグリューがその召使いって事ですか?」
「ハリー、君何を言ってるんだ?!」
「でもそうなんでしょう?! そしたら僕のせいでヴォルデモートが復活しちゃう! 先生どうしたらいいんですか?!」
ハリーがたどり着いた答えを、ダンブルドア校長は否定しなかった。ロンが口を押さえて悲鳴を上げる中、校長は子供達に優しく諭す。
「焦らなくても、怖がらなくてもよい。わしはハリーや士堂がペティグリューを救った事が、今後何かの縁を生むと考えとる」
「そんな事あり得ません! あんな奴は、ヴォルデモートの手下になるに決まっている!」
「ハリー、君は逆転時計で何をなし得た? そこから学ぶべきは、未来は誰にも分からないという事じゃ。そうじゃろ?今はあの時から見たら未来じゃ。もしやすると、君が時を遡る事もペティグリューを逃す事も、必然であったかもしれん」
「そんな…」
「いやいや、ハリー。それに皆もよく聞くのじゃ。未来とは選択の積み重ねじゃ。ペティグリューはハリーや士堂に半ば見逃してもらうという選択を、自ら選んだ。
ここが肝じゃ。ヴォルデモートがそんな男を信じ切るとは思えん。いつの日か、ペティグリューを救ってよかったと思える日が来ると、わしは信じとるよ」
憮然とするハリーと士堂やショックで声も出ないロン、まだ何かを思い出そうとするハーマイオニーを微笑ましげに眺めながら、ダンブルドア校長の意識は別の事にあった。
(はてさて、そうはいったものの状況はよろしくないのぉ。これは
何事か言い合いを始める少年たちの声が、部屋にこだまする。ルーピン先生が置いていった水魔などの小動物は、思い思いに狭い空間で暴れ回っていた。
(長年止まっておった歯車が回り始めたかもしらん。残念ながら、雲行きは悪い方向に転がり始めおった…)
ホグワーツを包み込む天気は人間の思いなど無視するかのように、燦然と太陽の恵みを降り注いでいた。健康的な色合いの草が風に揺られて、豊潤という言葉を体感させてくる。
(どうか見守っておくれ。君達の子供は、逞しく成長しておる…)
アルバス・ダンブルドア校長は澄み渡る青空を窓越しに覗きながら、ここには居ない誰かに向けてそう呟いた。
次で一応3章は終了となります。