私が初めて新くんと会ったのは、中学生活も終わりに差し掛かった頃だった。
知り合いのつてで、家庭教師をやってほしいという話がきた。
高校に入るといろいろな場面でお金がかかる。だから私はそのアルバイトを受けることにした。
生徒の名前は柊木 新(ひいらぎ あらた)。
まだ中学2年生だった彼は、私が受かった高校の受験を希望していた。
彼の第一印象は決して良いものではなかった。
話す時はあまり目を合わせず、必要最低限の言葉しか話さない。
社交性のない人。そう思っていた。
しかしそれは違った。
彼は少しずつ私を信頼するようになり、心を開いていった。彼には何か事情があるのだと悟った。
そして彼に対する私の気持ちも、少しずつ変わっていく。
長く接しているうちに、彼は私を信頼するようになっていった。
友達も少なく、頼る相手がいなかったのかもしれない。
もしくは生徒と教師という、頼りやすい関係のせいかもしれない。
彼は授業の時間以外でも、私にいろいろな質問をするようになった。
私には兄弟はいないけれど、弟がいたらきっとこんな感じなのだろう。
そう思うと、かわいくて仕方がなかった。
しかしそれが兄弟に向ける愛ではないことに気がつくのには、そう時間はかからなかった。
高校に入ると周りの友人たちは、恋の話ばかりをするようになった。
恋をしたことはないはずの私が、彼女らの気持ちに共感が持てた。
友人の話す彼氏の話を、どうしても新くんと重ねてしまう。
そして苦しいほど、自分の中にある恋心を認識した。
いつだって部屋で2人きり。
教え合う2人の距離は徐々に近づく。
少女漫画のように、彼も私と同じ気持ち。お互いにひかれ合っている。
そう思っていた。
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ある日、私は新くんにとって家庭教師でしかないのかもしれないと考えた。
私たちの話題といえば勉強のことばかり。色のある話は少しもなかった。
だからデートに誘ってみた。
家庭教師という垣根を超えて遊びに出かける。ただそれだけのこと。
結果は失敗。新くんは私の誘いをことわった。
彼も私と同じで、一緒にいる時間で愛を育んているものだと思っていた。
それが勘違いだと気づいて、悲しい気持ちになった。
夜通し泣いて、次の日の家庭教師を仮病で休んだ。
仮病とはいっても、まるで風邪を引いたかのように寝込んでいた。
布団にこもっていると、家のチャイムが鳴った。
誰かがお見舞いに来たようだ。
気が乗らない。
来てもらったのに追い返すわけにもいかず、髪を整えしぶしぶ部屋へ招くと新くんが現れた。
来てくれたことを嬉しく思った。しかしそれと同じくらい複雑な気持ちでもあった。
私は彼に背を向けたまま何も話さない。
私の誘いをことわったことに対し、すねてやりたかった。
もともと無口な新くんは、ベッドの横で黙って座っていた。
そんな彼に、意地悪をしたくなった。
「寒いわ」
「大丈夫か?おばさんに言って布団を……」
そう言って離れようとする彼の手をつかんで引き寄せた。
「温めてほしいのよ。一緒に布団に入ってくれる?」
デートだって断られた。こんなお願いを聞いてくれるわけがない。
でも弱っている女の子を断るのは良心が痛むはず。
デートを断ったことへのただの腹いせ。そのはずだったのに……
「いいよ」
彼は私に腕を引かれるまま、隣で横になってくれた。
そして背中を向けたまま言った。
「風邪ひいてる時はさ、なんでか寂しいんだよな」
『私、最低ね。新くんが人と接するのを怖がっていることくらい気づいていたのに』
それでも彼は私のお願いを聞いてくれた。体調を崩している私を案じて無理をしてくれた。
会ったばかりの彼なら絶対に聞いてくれなかったお願い。
私たちの距離は昔よりずっと縮まっていたというのに、周りの影響を受けて焦っていた。
私は彼の背中に顔を埋めた。
よかった。新くんがうしろを向いていてくれていて。こんな顔は見せられそうにない。
「ねぇ新くん、昨日いっしょにお出かけしようって誘ったの、嫌だった?」
「嫌なわけないだろ」
「じゃあどうして」
「……ごめん」
それ以上は話せないようだ。
そういえば私が家庭教師を始めたばかりの時、彼のお母さんから「新と仲良くしてあげてね」とお願いされた。
勉強だってできる彼に家庭教師をつけたのは、他にも理由があったのかもしれない。
彼は心に何かを抱えている。
私がこんなことでどうする。今、彼を支えてあげられるのは私だけだ。
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新くんが私と同じ高校に入学したばかりの頃、私は彼に告白した。
高校生活を、恋人として彼と過ごしたいと思ったから。
しかし断られてしまった。
そして彼の過去を聞いた。
彼には事情がある。仕方ない。
それでも私のことは好きと言ってくれた。
そう気持ちを切り替えようとした。でも結局は、その場で泣き崩れてしまった。
本当に彼のことが好きなのだとあらためて気付かされた。
だから諦めることはできそうにない。
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それからしばらくして、夏野千佳(なつのちか)が現れた。
彼女は新くんの元恋人。そしてとてもずるい人だった。
彼女は新くんにとっては過去の人。
記憶がない。それを言い訳にして、彼に振られた事実もなかったことにしていた。
だから言ってやったの。
「あなた都合が良すぎるのよ!記憶を失ったからって、全部なかったことになんかならないわ!あなたはもう……」
「やめろ、泉さん」
新くんがとめに入るも、私の怒りはおさまらない。
上半身は押さえつけられても、夏野千佳を蹴飛ばしてやることはできた。
彼女は蹴られた腹部を押さえて、痛みにもだえたあと、いそいそと部室の前から去っていった。
『やった。撃退してやった』
そう思ったのは一瞬で、静まり返った部屋と新くんの悲しそうな表情を見てわれにかえる。
冷静さを失っていたのは私のほうだった。
「ごめんなさい……私……また……」
いつもそう。新くんのこととなると冷静さを欠いてしまう。
これではいつか彼に嫌われてしまう。
そう考えたら、どんどん気持ちが沈んでいく。
「やだ……私ったら」
悪いのは私なのに、つらいのはアラタくんのはずなのに、涙を押さえきれなかった。
そんな卑怯な私を、アラタくんはそっと抱きしめてくれた。
「泉さん、ごめん。俺がちゃんとしてないせいで」
「……いいの」
頼れるお姉さんでいたかったのに、最近は弱さばかり見せている。
彼の腕の中で、優しさに包まれている。
泣いているはずの私の表情は、笑っていた。
夏野千佳は、冷静にその場を引くというある種の冷静さを見せた。
それに引き換え私は不安定なままだった。
『そう……あなたは可哀想な人を選ぶのね』
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私は注射というものが苦手だ。
体内に異物を入れることを本能が拒絶する。
注射のように他人の手にゆだねるならまだいい。
昔ささくれが膿んだ時、自分で針を刺そうとした。しかしどれだけ力を入れても、針は皮膚を貫通することはなかった。
自分で自分を傷つけるのは、普通の精神状態ではできない。
だというのに。
私は今、ためらうことなく手首にカッターを突き立てていた。
「なーんだ。簡単じゃない」
刃物はまっすぐ皮膚を滑る。手首から流れる血を見ても何も思わない。
私にとっては生存本能なんかよりも、新くんへの思いの方が強いみたいだ。
『これで少しは可哀想な女に見えるかしら』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
放課後の部室。
相変わらず俺と泉さんの2人。
前と変わったことといえば、会話が減った。
正直今は何を話したらいいのかわからない。
居心地のよかったはずの部室は、張り詰めた空気に満ちていた。
それでも泉さんが毎日来てくれるから、俺はここで放課後を過ごしている。
「ねぇ新くん。最近あまり話してくれないのね」
「そうでも……ないだろ」
「じゃあ、今週私の家にこない?そこならじっくり話せるでしょう」
「それは……」
泉さんの部屋。
そこで何かを求められても、俺はなにも返せない。
沈黙で返す俺に、泉さんは「そう」とだけ言って視線を落とした。
そして聞き慣れない音がした。
キリキリ
それはカッターの刃が出される音だった。
そして泉さんは、突然彼女自身の手首を切りつけた。
「……!泉さん!なにやってるんだ!」
「やっとこっち向いた」
「何言ってるんだ!と、とにかく保健室に」
保健室に連れて行こうとするも、彼女はその場を動こうとしない。
「だったらちゃんと私の話を聞いて、私と向き合って?」
「わかった。わかったから‥‥!」
焦る俺に対し、とうの本人は至って冷静だった。
「じゃあ、この傷口舐めてくれる?」
「今はそんなことしてる場合じゃ……」
俺がそう言い終わる前に、泉さんはもう一度自分の手首を切りつけた。
血液が机や床に飛び散る。さっきよりも深い傷だった。
「……分かった」
そう答えるしかなかった。
泉さんの血をゆっくりと舐める。
生暖かい液体が、むせかえるような鉄分の味とともに流し込まれる。
そんなことを、泉さんの気が済むまで続けた。
泉さんの気持ちがわからない。わかるわけがない。
手首には他にも傷があった。
自分で自分の体を傷つけて、手首を俺なんかに舐められて。
それなのに泉さんは、ずっと笑顔だった。
頬を赤らめて、息を荒くし、愛おしそうに俺を見下す。
俺は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
最近の泉さんの行動は、昔の千佳と重なる部分があった。
しかし自傷行為なんてことは千佳はしなかった。
これは明らかに違うなにかだった。
その後、泉さんに付き添って病院に行った。
保健室では学校側からいろいろ言及される可能性があった。
医者からはひどく怒られ、今回のようなことがないように強く言われた。
泉さんはまるで人ごとのように「そうですよね」とだけ言って、俺にほほ笑みかけた。
次に彼女がこういう行動に出るかどうかは、俺にかかっていると言っているようだった。