昔は新しい場所に馴染めないなんてことはなかった。それはきっと、いつも親しい人が近くにいたからだ。自分をよく知る人が隣にいると、人見知りしたって勝手にそいつが俺のことを話してしまう。
千佳はいつも他の奴等に俺の話をした。当時はうざったいとも思ったが、それがきっかけで俺を知ってもらえていたのかもしれない。
高校生になって、同じ中学の生徒があまりいなかったこともあり、ほとんどの時間を1人で過ごしている。
入学当初は皆、積極的にコミュニケーションを取っていた。
自分の居場所を確保するための席取りゲーム。俺はそれに参加しなかったことで、見事に孤立した。
千佳とのことから2年が経ったと言うのに、まだ他人に関わりたいと思えるほど自分に自信が持てない。
ずっとこのままで良いはずがない。しかし長く一人でいたせいか、臆病が染み付いてしまった。
そんな俺だが、一応は居場所というか、逃げ場所がある。
正確に言うと、ある人が作ってくれた。
放課後や昼休みなんかは、いつもそこで過ごしている。
4階には俺達1年生が使う教室があり、その下の2、3階にはそれぞれ上級生の教室と文化系の部室がある。
その中に、部活の表札すら付けていない小さな部室があった。
「あら、新くん。いらっしゃい」
部室の扉をあけると、透き通った声で、1人の女子生徒が出迎えてくれた。
穏やかな笑顔を浮かべる黒髪の先輩。
まっすぐに下ろしたロングヘアーはとても手入れされていて、彼女の美しい顔立ちをより際立たせている。
真面目な性格を表した完璧に着こなされた制服。そこから伸びる白い手足。
彼女が本を片手に窓際に座っていると、映画のワンシーンのような完成された空間に見えた。
「どうしたの?そんなに見られると恥ずかしいわ」
彼女は優しい表情のまま、照れたように笑った。
見惚れていたなんてとても言えない。
「いや、なんでもない……」
俺はそそくさと自分がいつも座る席についた。
それにしてもこの部室はとても狭い。顔を前に向けると、優しい表情で笑い返してくれる彼女の顔が、すぐ近くにあった。
石塚 泉(いしづか いずみ)。
一つ上の先輩で、俺の元家庭教師だ。
俺がこの高校を受験すると決めた時、お袋がこの人を家庭教師として連れて来た。実際に受験を合格した人に教えてもらうのが、一番効率が良いと考えたようだ。
泉さんは教えるのが上手くて、なによりも熱心だった。
授業の時間以外でも、分からないところがあれば教えてくれた。だから自然と家庭教師をしている時間以外にも、連絡をとるようになった。
そうしている内に、少しずつ近い存在になっていった。
他人とあまり関わりたくない。そうは言っても、来るものを拒むほど、閉じこもってはいなかった。
そんな世話焼きな泉さんだから、俺がクラスに居場所がないことを知って、逃げ場所になるような小さな部活を作ってくれた。
「で、結局何部なんだよここ」
「電子レンジ調理部ってことになってるわ。ほら、そこに電子レンジがあるでしょう」
なるほど。これなら狭い部室でも活動できるって言う名目が立つ。
この部活は俺が昼休みや放課後に、教室から姿を消すために作られた架空の部活だった。
「狭い部室だけど、二人だけなら十分よね」
「ああ、いつもありがとう泉さん」
部活としての活動なんてないし、特にやることもない。だからこの広さでも十分だ。
俺は問題集を広げて勉強を始める。そして時々、泉さんが間違えを指摘してくれる。
これでは、家庭教師だった1年前と変わらないな。
頬杖を着きながら俺を見つめる泉さん。時々口元がほころぶ。正直ちょっとうざったい。
「泉さん、さっきから何もしてないけど、退屈じゃないのか?」
「退屈なんてとんでもないわ。むしろ楽しい……と言うよりも幸せよ」
なんだそりゃ。
まぁ、本人がいいなら良いか。
「じゃあ、一応レンジ調理部だし、なにか作ってあげましょうか」
泉さんは「そうだ」と言って、何かを思い付いたように手を叩いた。
「蒸しパンとかどうかしら」
「蒸しパンなんて電子レンジだけで作れるのかよ」
「ええ。ホットケーキミックスと卵、牛乳を混ぜて、3分くらい温めるだけで出来るのよ」
なぜか自慢げな顔をする泉さん。普段は大人っぽい雰囲気を放っているが、時々子供っぽい仕草をする。
彼女のこういう抜けた部分が、親しみやすさに繋がっているのかもしれない。
10分ほど読書をして待っていると、甘い香りと共にチンというレンジタイマーの音が鳴った。
「本当に早く出来るんだな」
「そうなのよ。でも冷めるまで少し待ってちょうだい」
蒸しパンが冷めたところで、泉さんはそれを手でちぎって俺に向けた。
「はい、あーんして」
突然何をしているんだこの人は……。驚きすぎて一瞬呼吸が止まった。
「二人きりなんだから……そう言う冗談はやめてくれ」
「誰も見てないんだから、照れなくていいのに。別にキスしてって言ってる訳じゃないでしょう」
「飛躍しすぎだ……まぁ、泉さんがいいならいいけど」
蒸しパンは意外と手の汚れる食品だ。読書を続けるために手を洗う面倒を考えれば、この恥ずかしさは許容の範囲内だ。
そう自分に言い聞かせた。
「はい、あーん」
口の中に、蒸しパンの欠片が押し込まれる。
意外と不器用なのか、泉さんの指は俺の唇に長く触れられていた。
「美味しい?」
「ああ。うまいよ」
「よかった」
泉さんは再び蒸しパンを口に放り込む。その度に彼女の指が唇に触れた。
そして頬杖をつきながら、楽しそうに俺が食べる姿を見ていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
泉さんは、自分の指を眺めていた。
どうしたのだろうと思い観察しているとーー
その指を舌で舐めとった。
俺の唾液がついている指をだ。
「ごめんね。キスしちゃった」
あまりに生々しいからかい方をされたせいで、反応に困った。
ただでさえ人とあまり接しないせいか、女性のこういう冗談に慣れていない。
「ふふ、可愛い」
どう返したらいいか分からず黙って読書を再開させた。
そんな俺を泉さんもまた黙って見ていた。
そしてその日も、外が薄暗くなるまで部室で過ごした。
これからこんな日々が続くのだろう。穏やかで、静かで。とても居心地いがいい。
こんな空間を作ってくれた泉さんには、いつか恩返しがしたいと思っている。
____________________
部室を使うようになって2ヶ月。
放課後や昼休みは、いつもここで過ごしている。それは泉さんも同じだった。
今日もお互い別々のことをしている。俺は宿題をしているし、泉さんは参考書を読んでいる。
湿っぽい空気に雨の音、ページをめくる気配。会話はたまに短くするだけ。それだけの狭い空間だ。
「泉さんはどうしていつもここに来るんだ?俺と違って友達もいるだろうに」
「新くんが居るから、かしらね」
「俺が居たって面白くないだろ。……友達だって少ない」
「だったら新くんの側に居る私は、あなたにとって数少ない特別な人ってことじゃない」
泉さんは参考書を読む手を止めて、俺に視線を向けた。
彼女の頬はかすかに綻んでいる。また俺をからかって遊ぶ気だ。
しかし泉さんの言う通り、彼女は俺にとって特別な存在なのかもしれない。一緒に居て、一番居心地がいいのだから。
泉さんは男女問わずとても人気のある女性だ。今は俺を心配してくれているが、いずれはもっと大事な人がたくさん出来る。
だから彼女とのこの距離感は、きっといつまでも続かない。
そんなことを考えていると、今この瞬間が大事に思えて、静かに窓を濡らす雨音にすら寂寥感を覚えた。
____________________
ある日。部室のドアを開けると、いつもと様子が違う泉さんがいた。
「あ、新くん」
俺を待っていたようだ。
何故だかそわそわしていて、少し緊張している。
「どうしたんだ。俺に用事でもあるのか?」
「う、うん。あのね、今日は、……やる事もないし、これからどこかに出掛けない?」
「やる事なんていつもないだろう……ああ、荷物持ちか。それなら付き合うよ」
「違うの!……どこか遊びに行こうって話で……」
泉さんは髪に手を当てて、目を逸らした。
彼女からのこう言う誘いは何度かあった。
当時の俺は千佳への勝手な罪悪感で、女性と2人でどこかに出掛けるなんて考えられなかった。今思うと、とんだ勘違い野郎だ。泉さんにそんな気などある訳ないのに。
だからいつも受験にかこつけて断っていた。何度も断るうち、段々と誘われなくなった。
「今日は雨だろ」
「そ、そうよね……ごめんね」
この顔だ。
何度もこうやって断るうちに、彼女の表情に恐怖が見え始めた。
それを必死に隠そうと、軽く作り笑いをした後、俯いた。
断られるのは誰だって怖い。なのに友達の居ない俺を心配して、こうやって連れ出そうとしてくれる。昔の余裕のない俺ならまだしも、今はその優しさに気付けた。
「いや、出掛けるなら休日がいいんじゃないかって話だ」
「え?いいの?」
なんて嬉しそうなんだ。こんな顔が見れるなら、もっと早く誘いを受ければよかった。
「当たり前だ。泉さんと遊びに行くのが嫌な奴なんていないよ」
泉さんにはお世話になりっぱなしだ。受験の時もそうだし、この部室もそうだ。ここまでしてくれる人を、今まで突き放していた俺は大馬鹿者だ。
過去に怯えてばかりいないで、そろそろ一歩踏み出しても良い頃なのかもしれない。
泉さんが居てくれるなら、きっと大丈夫。そう思った。
「日曜日がいいわ。あと時間は……」
気分が良くなった彼女は、無意識に体を乗り出していた。気付けばすぐ近くにお互いの顔があった。急いで目を背けたが、彼女の整った顔が目に焼きついてしまった。
最近この人と居ると、どうしてだか心臓の鼓動が早くなる。