電子レンジ調理部には活動内容なんてものはなく、部室に行かない日はざらにある。
今日だって少し面倒な宿題が出たから、部活には参加せずに学校が終わるとすぐに帰宅しようと考えていた。
校門の前で、千佳が待ち構えていた。
「あ、いたいた。やっほー」
「待ってたのか……」
「まぁね」
極力出くわさないようにしていたが、こういう不意打ちは避けようがない。
「今帰り?じゃあ一緒に帰ろっかー」
「ちょっと待て。なんでお前と……」
俺が何か言おうとすると、千佳は強引に手を引いて歩き出した。
一体なんなんだ。記憶のない千佳にとって、俺はただの他人だ。ここまで付き纏ってくるのは、どう考えてもおかしい。
「なんかさー、最近避けてない?私のこと」
「そんなことは……いや、正直避けてる」
誤魔化す必要なんてないから、正直に答えた。
歩みを止めて振り返った千佳の表情は、少し寂しそうに見えた。
「そうだよね。別のクラスだし、変だよね。……なんていうかさ、記憶を無くしてから、誰かと話しても楽しくなくてさ。だって笑ってる自分が、なんで笑ってるのか分かんないし」
感情は経験や記憶に基づいて生み出される。しかし千佳にはそれがない。だから感情が動いた時、まるで別の誰かを客観的に見ているようで、どこか冷めてしまうのだろう。
「でもさ、君といると楽しいっぽい。なんでだろ」
ああ、そうだったのか。
俺は千佳のことを知っている。何が好きで、どんな感情の動き方をするのか。記憶がない事で起こる感情の違和感を、俺が補ってしまっていたのか。
「ほらね。こういう時に手を握り返してくれる所とかさ、私の感情に答えをくれるんだー。ほんと、なんでだろうね」
気付けば千佳が引いていた手を、握り返してしまっていた。
仕方ない。こんな話を聞いたら、誰だって放っておけない。
「分かったよ……。今日だけだぞ。次からは友達とか作って一緒に帰れ」
「なにそれー。普通に友達いるし」
なんだよいるのか。心配して損をした。
「いいから帰るぞ」
「やったー。じゃあ喫茶店でも行こっか」
「駄目だ」
「けちー!」
まったく……すぐ寄り道しようとするなこいつ。
それから俺と千佳は、他愛もない話をしながら下校して駅で別れた。
ただ一緒に下校しただけなのに、心臓の鼓動が速くなった。千佳と話していると、昔の自分に戻ったような気になってしまう。
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昼休み。弁当を買うために鞄にしまった財布を探していると、千佳がひょっこり顔を出した。
財布を探すのに夢中だったから、机の正面でしゃがんでいた千佳に気付かなかった。
「お昼まだなんだー」
「ほっとけ」
千佳を無視して教室を出ようとすると、「待ってってばー」と言ってついて来た。
その後も何か言っていたが、あまり聞かないようにした。彼女の顔を見ていると、情が移ってしまいそうだ。
それから弁当を買って、教室に戻ったが、千佳は最後までついて来た。教室で女子と2人でいるのは気恥ずかしい。結局2人して広場のベンチで食べることになった。
「6月なのに最近あんまり雨降らないねー」
「そうだな」
「見て見て。私のお弁当キミのよりおかず多いよ。同じの買ったのにねー」
「そうだな」
「ねぇ聞いてるー?」
聞いてるよ。
お前は昔から、俺が持ってるものと自分のを比較したがる。
「お前さ。俺にもう関わるな」
「んー、なんで?」
おかずを頬張ってこっちに首を傾ける千佳。
突き放したつもりなんだがな。全く動じてない。彼女はただ理由を聞いているだけだった。
「教室見て分かっただろ。友達いないんだよ俺。浮いてるやつと関わったっていいことないだろ」
「えー、だからなに?」
心の底から、意味が分からないと言う顔をしている。千佳は他人の目を気にするタイプじゃないから、こんな事を言ったところで意味がないのかもしれない。
「友達とかいても、楽しくないと意味ないよ。キミは今幸せ?」
「どうだろうな」
「私は……多分今、幸せじゃないっぽい」
「なにかあったのか?」
「違う違う。多分何かが欠けてるだけ。でも、キミも同じ感じ。何か足りないんじゃない?」
「……」
「でもキミといる時は、楽しいみたい。キミも楽しそうだたよ?」
駄目だなこれは。こいつは俺のことを分かりすぎてしまう。記憶のない千佳と違って、俺にとってはあまりにもきついものだった。
だから黙って立ち上がった。
これ以上この場にはいられなかった。
「あ……待って」
俺が立ち上がったのに釣られて、千佳も立った。
しかしまだ食べている途中だった彼女は、膝に乗せていた弁当をひっくり返してしまった。
「なにやってるんだ千佳……」
「うん、こめんねアラタ」
落ちたおかずを拾おうとしゃがんだ時、目があった。その時の彼女の不適な笑みを見て、自分の失態に気が付いた。
「どうしたの?アラタが先に名前で呼んだんでしょー。ねーアラター」
「うるさい。今のはなしだ」
一瞬肝が冷えたが、俺が昔の千佳を知っているという疑いは持たなかったようだ。
しかしここで誤魔化しても、またボロが出そうだ。もうこのまま呼び捨てでいいだろう。
「私の名前覚えてくれてたんだー。もしかしてアラタってツンデレ?」
いきなり名前で呼んだせいで、変な誤解を生んだ気がするな。
「違う。いいから落ちたやつ拾うぞ。弁当代は俺が払うから」
「いいよ別に。あ、そうだ。だったら今度遊ぶ時に、いろいろおごってよ」
「なんでお前と遊ぶことになってる」
「いいじゃん!行こーよー」
そうやってなんだかんだ千佳に絡まれていたら、昼休みが終わってしまった。
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休日、泉さんと出掛ける約束をしていたが、その日は雨だった。
中止も視野に入れていたが、泉さんは雨でも大丈夫な場所があると提案した。
その提案に乗った結果ーー
「遠慮しないで入って。大丈夫、今日は誰もいないわ」
大丈夫じゃないんだが。
雨でも大丈夫な場所とは、泉さんの自宅だった。
玄関には綺麗な花が飾ってあり、室内は明るくて清潔感がある。
階段を上り泉さんの部屋に入る。
部屋は思ったよりも狭く、何もない。机と小さな本棚。そしてベッドだけの空間。
これでよく暮らせるものだ。
「狭いからベッドに座って。私は飲み物を持ってくるわ」
狭い部屋なのでドアを閉められると空気が密閉される。
布団や枕、ハンガーラックにかけられた制服。それら全てに染み付いた、女性特有の甘い香りが鼻をくすぐった。
こんなところでベッドに座っていると、よからぬことを考えてしまう。悶々とする気持ちを、なんとか窓の薄暗い景色を見てやりすごす。
そうやって待っていると、泉さんがトレーにグラスを乗せて戻ってきた。
「ジュースと麦茶持ってきたから、好きな方を選んでいいわ」
「あ、ああ。じゃあ麦茶で」
グラスを持った泉さんが俺の隣に座った。
肩が触れるような距離で、2人並んでベッドに座る。
気まずさに負けて床に座ろうとすると、泉さんが肩に手を当てて立ち上がるのを阻止した。
「このままがいいわ」
そう言って腕を絡ませ、もたれかかってきた。彼女の細い髪が、首筋に当たる。
グラスはサイドテーブルに置かれたままで、あまり飲む気はないらしい。
この沈黙には耐えられそうにない。部屋を見回して、話題を探す。
「ゲームとか」
「持ってないわ」
「そうだ。テレビ……」
「あまり見ないから」
「そう言えばあれだな。本棚とかないんだな」
「自分のものは電子書籍にしたの。本ってかさばるでしょう」
本当に何もない。
何故ここに呼んだのだろうか。
「ごめんね。何もないところで」
「いや、でもだったらなんでここを選んだんだ?」
「下心があったのよ」
泉さんは最近、俺に対して正直すぎる。すでに告白という障壁を越えてしまったからだろうか。
「退屈でしょう?やることがないと、何か間違いが起きるんじゃないかって思ったの」
さっきからなにかと感じていた気まずさは、意図的に作られていたようだ。
「好きな人が部屋に来てくれたんだもの。少しは期待したいわ」
潤んだ瞳で見つめてくる。
泉さんと一緒に居る時は、大体お互いに別々のことをしていた。
勉強を教えてもらっている時も、俺はずっと机に向かっていた。
それらは彼女を、女性として意識しないためだ。今みたいに2人きりで正面から向き合ってしまうと、彼女の美しさに魅了されてしまう。
「新くん顔真っ赤よ。脈拍も早いみたい」
俺の胸元に手を当てて、耳元で囁く。
「私を振ったのに、どうしてドキドキしてるのかしら」
「いや、これは……仕方ないだろう。それに振った訳じゃ」
「振ってないなら問題ないわよね」
より一層距離を詰めてくる泉さん。絡んだ腕に、豊満な胸が押し当てられる。
このままだと理性が持ちそうにない。
話題を逸らそうとすると、泉さんの方から「そう言えば」と話を切り出した。
「最近あまり部室に来ないわね」
「……忙しくてな」
「嘘。千佳って子と会ってたんでしょう?」
泉さんには、千佳を部室に近づけないように協力してもらっている。
それなのに、当の本人が千佳と会っている。
そんなこととても言えなかったし、余計な心配を掛ける必要はないと考えた。
だから嘘をついた。
だがこうも簡単に見抜かれては素直に話すしかない。
俺は最近の千佳との出来事を全て話した。
それを聞いた泉さんは「そうなのね」とだけ言って、相変わらず俺に寄り掛かって体を委ねていた。
「怒らないのか?泉さんに千佳を遠ざけさせるようなことを言っておいて、自分は会っていたんだぞ」
「いいのよ。私は過去のあなたを知らないもの。だから私に出来るのは、こうやって今のあなたを好きでいることだけ。いつか好きになってもらうために」
困った。これ以上泉さんを好きになったら、俺は今すぐにでも彼女の気持ちに応えてしまいそうだ。
それでも千佳の事が本当の意味で片付くまでは、泉さんと真っ直ぐ向き合えない。
そうでなければ、また千佳のように傷つけてしまう気がした。
「気を使わせてばかりで悪いな」
「そう思うなら、私のお願い聞いてくれる?」
「いいよ。俺に出来ることなら」
泉さんは俺の頬に手を当てて、顔を自分の近くに引き寄せた。
「……キスして」
どう答えたら良いものか。
難しい顔をする俺を見て、泉さんは俯いてしまった。答えを悟ってしまったみたいだ。
「新くん。最近私のお願いあんまり断らないから。でもこれは駄目なのね」
「……ごめん」
「じゃあ、少しだけ……添い寝して」
肩を押され、そのまま2人でベッドに倒れ込む。
すぐ後ろに、泉さんが横になっていた。
「そっちを向いていたら、顔が見れないわ」
「向かい合っていたら、恥ずかしいからな」
「いいから」
肩を掴んで体を揺さぶってくる。俺は渋々体を逆方向に向けた。
振り向いた瞬間、呼吸が止まる。
ベッドシーツに美しい曲線を作りだす長い髪が、彼女の上気した頬をつたう。
普段とは全く違う表情。それがあまりに色っぽくて、どうしようもなく愛おしく思えた。
そうしてつい、彼女の腰に手を回してしまった。
泉さんは俺に唇をゆっくりと近づけた。
しかしそのまま顔を下げ、頭を俺の胸元に埋めた。
「これ以上は駄目ね。きっとあなたは、ここで踏みとどまるわ。でも私は止まれないもの」
「なんか中途半端だよな……俺」
「いいわよ。私が勝手に好きになっただけだもの」
ベッドから体を起こした泉さんは、少し乱れた髪を手で軽く撫でてから、俺の腕を引っ張り上げた。
「勉強でもしましょうか。去年私が使ってた教科書があるから、それを使いましょう」
「ああ、そうだな」
結局2人で勉強をすることになった。
お互いに机に向かって勉強をしている姿は、部室でいる時と変わらない。
それでも、今はこれが心地よく感じた。
最近は千佳のことばかり考えていた。
だから忘れかけていた。もう昔の自分とは、歩んでいる道が違うのだと。