一般隊士の数奇な旅路   作:のんびりや

16 / 43
遅かれ早かれ、最悪の状況がかならず起こる。
(マーフィーの法則より)


16話 赤い月が昇る

 刀を抜くどころか、柄に手をかけてすらいない。

 その鬼は、ただ立っているだけだ。それなのに、隙は全くない。

 むしろ朱雀(すざく)は、自分がその鬼に気圧されているのがわかった。

 

 上弦の壱。十二鬼月最強の鬼ということだ。

 下弦の参とは、普通に向かい合えた。しかし、眼の前の鬼が放つ気迫や凄味は、その比ではなかった。しかも、内に秘めているのか、殺気や闘気の類は全く感じられない。

 

 下弦の参どころではない。おそらくこの鬼は、炎柱よりも、強い。

 朱雀はそう思うのと同時に、ひとつ覚悟を決めた。

 

芭澄(はすみ)武仁(たけひと)を連れて、山を下りろ」

「待ってよ、朱雀。私も、一緒に」

「お前たちがいても、もうどうにもならん。武甲山を下山し、このことを報告しろ。これは、上官としての命令だ」

 

 そう言って、朱雀は数歩、前に出た。命令。同期に対して、そういうことをしなければならなくなっている。

 

「逃がすと……思うか……」

 

 上弦の壱が、動きを見せた。鞘に手をかけた。その瞬間、とてつもない斬撃が、襲いかかってきた。

 

 朱雀は左手一本で、日輪刀を抜いた。しかし、受け止めることができたのは、ほんの僅かにすぎなかった。頭も、腕も、足も、次々と斬られていく。

 このままでは、全員斬り刻まれる。斬撃の理屈より先に、まずそれがわかった。

 

 振り向いた。武仁と芭澄が、見ている。いや、何か叫ぼうとしている。

 2人を境内から突き飛ばし、左手で門扉を閉めた。すまん。最後に2人の顔を見て、そう思った。その瞬間、背中に次々と衝撃が走った。

 

 視界が暗転し、気づいたら地面が傍にあった。倒れている。そして、見えているものの、半分が赤かった。

 

「朱雀!」

 

 武仁の声。そんな必死に、叫ぶなよ。傷が開いたら、どうする。さっさと、山を下りろ。

 なぜ、とも思った。なぜ俺が倒れていて、武仁が外にいる。俺たちは同期で、友達だったはずだ。

 思考は、靄がかかったようで、とりとめなく渦を巻いていた。

 

「まだ……生きているか……」

 

 虚ろ気な声が、朱雀を引き戻した。

 上弦の壱。この鬼を、先に行かせてはならないのだ。

 地面に手をついて、体を起こそうとした。右手は、全く力が入らない。弓で射抜かれた。それに、今の斬撃で腕自体をずたずたにされた。

 ただ、右が駄目なら、左手で立ち上がればいい。日輪刀も、眼の前に転がっている。

 

 門の片隅。うずくまっている鴉が、不意に眼に入った。

 自分の鎹鴉。武仁の鎹鴉を庇って、矢を受けた。そして、今の斬撃に巻き込まれたようで、命の灯が消えかかっている。しかし、小さな瞳は、自分をじっと見ている。

 

 お前は、男だ。人間に負けないくらい、男だった。仲間の鴉のために、命を懸けた。朱雀は眼で、語りかけた。俺も、男としての生きざまを見せる。

 

 気がついたら、立ち上がっていた。

 全身から、血が流れ出ている。特に、斬撃をまともに受けた背中は致命傷だろう。

 体は不思議なほど軽く、頭は冴えていた。

 

 上弦の壱。まだ眼の前にいる。依然変わらぬ、静かな佇まいだった。

 

「もし……お前があの方の血を受け入れれば……斬魄を上回る……鬼になるだろう……」

「断る。それに、下弦の参を倒したのは、俺ではない」

 

 鬼になれ。上弦の壱の言葉から、それだけは伝わってきた。返答は、考えるまでもなかった。

 

 鬼を恨む気持ち。それが、自分にない訳ではない。だがそれ以上に、人間の善性で、自分の家族は救われた。

 故郷を離れ、家族からも別れ、鬼殺隊士となった。全ては、炎柱から受けた恩を、この手で多くの人に返すためだ。

 

「俺は鬼殺隊士、南原朱雀(なんばらすざく)。死んでいった人々のため、これからを生きる者たちのため、お前の頸を、ここで取る」

「そうか……」

 

 ついぞ、上弦の壱には、一切の感情が感じられなかった。淡々と喋り、淡々とこちらの言葉を聞いている。

 そして、何の痛痒も感じることなく、自分を斬るだろう。

 

 日輪刀を、肩に担ぐように構えた。

 あともうひとつ、炎の呼吸の技を知っている。槇寿郎が健在であれば、直接教わるつもりだったが、それはできなくなった。だから、煉獄家で秘伝書をこっそりと読み、いずれは覚えようと思っていた技だった。

 その技を、ここで使う。最期の、一撃だった。

 

 全集中の呼吸。どこまでも深く空気を取り込み、体の隅々へと回っていく。慣れ親しんだ、炎の呼吸。すぐに、体の中心に熱が生まれた。

 もう、痛みは感じなくなっている。

 

「決死……良き気迫だ……」

 

 上弦の壱の声。褒め言葉すら、無感動だった。

 心臓が、激しく動いていた。それだけ、傷から流れ出る血の勢いも増している。刀を構える左手が、微かに震えていた。

 

 もう自分は、長くはもたない。呼吸の途中で、この命が尽きるかもしれない。それでも、諦めるな。

 心を燃やせ。煉獄家での生活で、言葉なくとも教わった、心の在り方。それを、お前も体現しろ。

 

 不意に、体の中心で、何かが爆ぜた。大炎が燃え盛っている。震えが止まり、力が戻ってきた。そして、跳んだ。

 間合いは、即座に詰まった。上弦の壱は、動いていない。

 刺し違えてでも、その頸を、ここで飛ばす。

 

 

  全集中 炎の呼吸 奥義・玖ノ型 煉獄

 

 

 全ての力を込めた左腕を、朱雀は解き放った。

 赤い刃が、炎が、尾を引きながら走る。

 上弦の壱の、頸。それだけだ。それだけを、見ていた。

 

「片腕ながら……見事……」

 

 上弦の壱の手が、再び柄にかかった。

 

 

  全集中 月の呼吸・壱ノ型 闇月・宵の宮

 

 

 頸に刃が触れる、寸前だった。日輪刀が半ばから折れ、さらに何かが体の中を突き抜けていった。

 そして気づいたら、地面に仰向けで倒れていた。手も足も、感覚がない。

 

 刃が届く、その刹那に斬られた。刀も、そして体も、斬られた。言葉では言い表せないほどの、力の差だった。

 

 空が、白かった。鬼の時間が、ようやく終わろうとしているのだ。

 

 死もまた、すぐそこまで、来ている。死ぬことへの、恐怖はなかった。

 上弦の壱と対峙することを決めた時に、その覚悟も決めていたのだ。鬼殺隊士にとって、死はいつでも身近なものだった。

 

 ただ、今まで死を迎えた隊士に、お前の思いは受け取った、と声をかけてきた。背負ったまま、ここで死んでいくことに、忸怩たる思いはある。

 

 不意に、朱雀の眼前に様々な光景が去来した。

 武仁と芭澄。あの2人は、無事に下山できただろうか。頸どころか、時間もあまり稼げなかった。だがあの2人には、生き残ってほしい。そう強く願った。

 自分の戦いは、ここで終わる。だが思いは、いつでも、あの2人と共にあるのだ。自分が背負ってきたものも、生きている者たちが果たしてくれるだろう。

 

 そして、煉獄家の面々。

 杏寿郎の成長を、直に見守ることはできなくなってしまった。自分が先に死んだと聞けば、瑠火様は悲しむだろうか。そして炎柱様は、いつかまた元気になってくれるだろうか。

 できれば武仁と一緒に、煉獄家に帰りたかった。あの笛を聞けば、みんな元気になれたかもしれない。

 

 一度、眼を瞑り、全ての思念を頭から追い払った。

 生きている者たちを、信じる。男なら、それだけでいい。

 

 眼を開けた時、不意に朱雀は、強い眠気に包まれた。眠れば、自分はもう目覚めないだろう、とも思った。

 もう一度、武仁の笛を聞きたかった。そう思いながら、朱雀は眼を閉じた。

 

                       

 

 とても、走ることはできなかった。

 武仁は、芭澄に肩を支えられつつ、芭澄の右足を庇ってもいた。2人で支えあい、できるだけ早く歩く。それしかできなかった。

 まだ山道の半分も下っていない。鎹鴉だけは、芭澄が飛ばしていた。

 

 どうしてこうなったのだ。武仁は歩きながら、そのことを考え続けていた。

 下弦の参を、何とか倒した。その直後に、上弦の壱が出現するなど、誰が予想するだろうか。柱どころか、一般隊士しかいない。その攻撃も、不可視の斬撃が嵐のように襲い掛かってくる。それしか感じられない、凄まじいものだった。

 

 朱雀は、境内に残った。自分と芭澄を、逃がすためだ。

 最後に眼が合い、思わず、大声で名前を呼んだ。

 すると、自分の体の中で何かが破れる音がして、血が口から噴き出てきた。常中を止めれば、血が止まらずに自分は死ぬだろう。

 朱雀は、覚悟を決めて、残ったのだ。友達として、それを無碍にしたくはなかった。

 

「ごめん、武仁」

 

 芭澄の声は、申し訳なさそうだった。それに対しても、首を横に振ることしかできない。

 先の戦いで、芭澄は相当、右足を酷使したらしい。今はほとんど、右足を使わないように歩いている。石段は、武仁が先に下りて、一段ずつ降ろしていた。

 

 不意に、背後で凄まじい闘気が立ち上った。山鳥が弾かれたように、一斉に羽ばたくと、武甲山は再び静けさに包まれた。

 立ち上っていた闘気も、それで消えていた。

 

 朱雀が負けた。そして多分、死んだ。それを確信した武仁の頭に、最後に見た朱雀の顔が鮮やかに蘇った。涙がこみ上げてきかかったが、耐えた。

 

 次は、自分の番だ、と思った。朱雀が命を懸けたのなら、自分も命を懸ける。それで芭澄だけでも、逃がす。

 

「武仁、貴方にお願いがある」

 

 不意に芭澄が、武仁の傍から離れた。片足で跳躍したのか、石段の下ではなく、上にいる。そこは参道の中間位の、踊り場になっている所だった。

 

「私の鎹鴉は那津(なつ)という名前で、食事は何でもいいけど、炊いた米が好きだから、たまには食べさせてあげて欲しい」

 

 見下ろしてくる芭澄と、視線が交じり合った。朱雀が最後に見せたような、ある覚悟を決めたような瞳。

 やめろ。お前は、逃げろ。声は出なかったが、芭澄は自分が伝えたいことを、理解したようだ。しかし、動かない。

 武仁が石段を登ろうとすると、芭澄は首を振った。

 

「本当に、ごめんなさい。貴方を、ひとりにさせてしまうけど、武仁なら大丈夫。あと、鍛錬は毎日すること。人間は、すぐに強くなったりはしないから」

「芭澄」

「お願いだからもう、喋らないで!」

 

 芭澄の大声には、悲痛さすらあった。武仁はまた、血を吐き出した。ちょっと力を抜いただけでも、口内に血が流れ込んでくる。

 

「お願いだから、行って。武仁では、あの鬼の時間稼ぎはできないよ。あの鬼は、多分、全集中の呼吸を使ってる。どの流派かは分からないけど、常中は使ってると思う。本部に、伝えて」

 

 芭澄は上弦の壱の前に立ちながら、冷静に見て取ってもいたようだ。

 自分は、上弦の壱の動きを見定めようとするだけで、頭がいっぱいになっていたのだ。

 

「それに、私は貴方に生きていてほしいの。最終選別で見捨てられた時、私、本当は死のうと思った。でも、貴方が怪我をしてでも、助けてくれた。だから、まだ生きていようと思えた。そんな貴方が死ぬなんて、私は、受け入れられない」

 

 武仁は束の間、芭澄と見つめ合った。

 やはり、気持ちのどこかでは、芭澄に惹かれていたのかもしれない。ただ、自分が信じる人助けのために、そういう想いとは距離を置いてきた。

 いずれ、理解する時が来る。そう思っている内に、別れが来た。それも、今生の別れだ。

 

「もう、行って。あいつが来る。私は、貴方に命令なんてしたくない」

 

 芭澄はもう、こちらに背を向けていた。

 さよなら。武仁は視線にそれだけを込め、身を翻した。

 

 独りきりになった。石段をどうやって下りているのかは、ほとんど意識にない。

 なぜ、とだけ思っていた。

 なぜ、上弦の壱が来た。なぜ、全集中の呼吸を使ってくる。そしてなぜ、朱雀と芭澄が捨て身の覚悟で戦い、自分は生きようとしているのだ。

 

 思念は、とりとめもなかった。しかし足は止まらず、血を吹くこともない。自分で、体を動かしている感覚すらない。それでも、常中は続けているのだろう、と思った。

 

 気づいたら、参道の登り口だった。

 眩しい、と思った。東の山並みから、朝日が昇っていた。

 ここから、俺はどうすればいい。自問するのと同時に、藤の花の家紋の家だ、と答えを出した。朱雀が、そこへ行けと言っていたではないか。

 

「止まれ、武仁」

 

 誰かに、声をかけられた。しかし、止まらない。藤の花の家紋の家に行って、怪我を治療する必要があるのだ。治療した後、俺はどうすればいいのか。

 

「止まるのだ」

 

 体が奇妙な浮遊感を覚えるのと同時に、視界が闇に包まれた。

 

                       

 

 眼が覚めた時も、まだ浮遊感に包まれていた。体が、揺れている。

 

「おっ、気がつきやがったな。岩柱様、武仁が、眼を覚ましました」

 

 その声で、自分が担架で運ばれているのだと、分かった。それに周囲には、かなりの人数の気配がする。

 悲鳴嶼行冥の顔が、武仁の眼の前にぬっと現れる。

 

「生きていたのだな。少々手荒いが、矢を抜いて血止めはしてある。傷の心配は、不要だ」

「私よりも、朱雀と、芭澄は。あの2人は」

 

 悲鳴嶼行冥は、問いに即答しなかった。沈黙する間、逡巡しているような表情だった。

 

「お前の鎹鴉が、付近にいる鬼殺隊士の多くを呼び寄せた。十二鬼月、下弦の参がいる、と」

 

 そんなこと、どうでも良かった。下弦の参は、死んだ。そこに、上弦の壱が現れたのだ。

 武仁は、苛立ちを抑え込みつつ、口を開いた。

 

「2人は、どうなったの、ですか」

 

 再び、沈黙した悲鳴嶼行冥の眼から、涙が溢れだしてきた。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 それで、武仁はすべてを理解した。

 朱雀と芭澄は、死んだ。それも、自分ひとりを庇って。

 訳も分からない衝動が、こみ上げてきた。声。叫んだつもりが、かすれ声にもならない。むしろ、呼吸ができなくなった。しかし、自分のどこかが叫び続けていた。

 

 また、眼の前が、暗転した。




1/25 タグ変更しました。

 閲覧、お気に入り登録等、感謝申し上げます。
 感想も多数いただいておりますが、内容に関することを返答で書いてしまいそうになったので、お返しは後日、改めてさせていただきます。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。