(マーフィーの法則より)
刀を抜くどころか、柄に手をかけてすらいない。
その鬼は、ただ立っているだけだ。それなのに、隙は全くない。
むしろ
上弦の壱。十二鬼月最強の鬼ということだ。
下弦の参とは、普通に向かい合えた。しかし、眼の前の鬼が放つ気迫や凄味は、その比ではなかった。しかも、内に秘めているのか、殺気や闘気の類は全く感じられない。
下弦の参どころではない。おそらくこの鬼は、炎柱よりも、強い。
朱雀はそう思うのと同時に、ひとつ覚悟を決めた。
「
「待ってよ、朱雀。私も、一緒に」
「お前たちがいても、もうどうにもならん。武甲山を下山し、このことを報告しろ。これは、上官としての命令だ」
そう言って、朱雀は数歩、前に出た。命令。同期に対して、そういうことをしなければならなくなっている。
「逃がすと……思うか……」
上弦の壱が、動きを見せた。鞘に手をかけた。その瞬間、とてつもない斬撃が、襲いかかってきた。
朱雀は左手一本で、日輪刀を抜いた。しかし、受け止めることができたのは、ほんの僅かにすぎなかった。頭も、腕も、足も、次々と斬られていく。
このままでは、全員斬り刻まれる。斬撃の理屈より先に、まずそれがわかった。
振り向いた。武仁と芭澄が、見ている。いや、何か叫ぼうとしている。
2人を境内から突き飛ばし、左手で門扉を閉めた。すまん。最後に2人の顔を見て、そう思った。その瞬間、背中に次々と衝撃が走った。
視界が暗転し、気づいたら地面が傍にあった。倒れている。そして、見えているものの、半分が赤かった。
「朱雀!」
武仁の声。そんな必死に、叫ぶなよ。傷が開いたら、どうする。さっさと、山を下りろ。
なぜ、とも思った。なぜ俺が倒れていて、武仁が外にいる。俺たちは同期で、友達だったはずだ。
思考は、靄がかかったようで、とりとめなく渦を巻いていた。
「まだ……生きているか……」
虚ろ気な声が、朱雀を引き戻した。
上弦の壱。この鬼を、先に行かせてはならないのだ。
地面に手をついて、体を起こそうとした。右手は、全く力が入らない。弓で射抜かれた。それに、今の斬撃で腕自体をずたずたにされた。
ただ、右が駄目なら、左手で立ち上がればいい。日輪刀も、眼の前に転がっている。
門の片隅。うずくまっている鴉が、不意に眼に入った。
自分の鎹鴉。武仁の鎹鴉を庇って、矢を受けた。そして、今の斬撃に巻き込まれたようで、命の灯が消えかかっている。しかし、小さな瞳は、自分をじっと見ている。
お前は、男だ。人間に負けないくらい、男だった。仲間の鴉のために、命を懸けた。朱雀は眼で、語りかけた。俺も、男としての生きざまを見せる。
気がついたら、立ち上がっていた。
全身から、血が流れ出ている。特に、斬撃をまともに受けた背中は致命傷だろう。
体は不思議なほど軽く、頭は冴えていた。
上弦の壱。まだ眼の前にいる。依然変わらぬ、静かな佇まいだった。
「もし……お前があの方の血を受け入れれば……斬魄を上回る……鬼になるだろう……」
「断る。それに、下弦の参を倒したのは、俺ではない」
鬼になれ。上弦の壱の言葉から、それだけは伝わってきた。返答は、考えるまでもなかった。
鬼を恨む気持ち。それが、自分にない訳ではない。だがそれ以上に、人間の善性で、自分の家族は救われた。
故郷を離れ、家族からも別れ、鬼殺隊士となった。全ては、炎柱から受けた恩を、この手で多くの人に返すためだ。
「俺は鬼殺隊士、
「そうか……」
ついぞ、上弦の壱には、一切の感情が感じられなかった。淡々と喋り、淡々とこちらの言葉を聞いている。
そして、何の痛痒も感じることなく、自分を斬るだろう。
日輪刀を、肩に担ぐように構えた。
あともうひとつ、炎の呼吸の技を知っている。槇寿郎が健在であれば、直接教わるつもりだったが、それはできなくなった。だから、煉獄家で秘伝書をこっそりと読み、いずれは覚えようと思っていた技だった。
その技を、ここで使う。最期の、一撃だった。
全集中の呼吸。どこまでも深く空気を取り込み、体の隅々へと回っていく。慣れ親しんだ、炎の呼吸。すぐに、体の中心に熱が生まれた。
もう、痛みは感じなくなっている。
「決死……良き気迫だ……」
上弦の壱の声。褒め言葉すら、無感動だった。
心臓が、激しく動いていた。それだけ、傷から流れ出る血の勢いも増している。刀を構える左手が、微かに震えていた。
もう自分は、長くはもたない。呼吸の途中で、この命が尽きるかもしれない。それでも、諦めるな。
心を燃やせ。煉獄家での生活で、言葉なくとも教わった、心の在り方。それを、お前も体現しろ。
不意に、体の中心で、何かが爆ぜた。大炎が燃え盛っている。震えが止まり、力が戻ってきた。そして、跳んだ。
間合いは、即座に詰まった。上弦の壱は、動いていない。
刺し違えてでも、その頸を、ここで飛ばす。
全集中 炎の呼吸 奥義・玖ノ型 煉獄
全ての力を込めた左腕を、朱雀は解き放った。
赤い刃が、炎が、尾を引きながら走る。
上弦の壱の、頸。それだけだ。それだけを、見ていた。
「片腕ながら……見事……」
上弦の壱の手が、再び柄にかかった。
全集中 月の呼吸・壱ノ型 闇月・宵の宮
頸に刃が触れる、寸前だった。日輪刀が半ばから折れ、さらに何かが体の中を突き抜けていった。
そして気づいたら、地面に仰向けで倒れていた。手も足も、感覚がない。
刃が届く、その刹那に斬られた。刀も、そして体も、斬られた。言葉では言い表せないほどの、力の差だった。
空が、白かった。鬼の時間が、ようやく終わろうとしているのだ。
死もまた、すぐそこまで、来ている。死ぬことへの、恐怖はなかった。
上弦の壱と対峙することを決めた時に、その覚悟も決めていたのだ。鬼殺隊士にとって、死はいつでも身近なものだった。
ただ、今まで死を迎えた隊士に、お前の思いは受け取った、と声をかけてきた。背負ったまま、ここで死んでいくことに、忸怩たる思いはある。
不意に、朱雀の眼前に様々な光景が去来した。
武仁と芭澄。あの2人は、無事に下山できただろうか。頸どころか、時間もあまり稼げなかった。だがあの2人には、生き残ってほしい。そう強く願った。
自分の戦いは、ここで終わる。だが思いは、いつでも、あの2人と共にあるのだ。自分が背負ってきたものも、生きている者たちが果たしてくれるだろう。
そして、煉獄家の面々。
杏寿郎の成長を、直に見守ることはできなくなってしまった。自分が先に死んだと聞けば、瑠火様は悲しむだろうか。そして炎柱様は、いつかまた元気になってくれるだろうか。
できれば武仁と一緒に、煉獄家に帰りたかった。あの笛を聞けば、みんな元気になれたかもしれない。
一度、眼を瞑り、全ての思念を頭から追い払った。
生きている者たちを、信じる。男なら、それだけでいい。
眼を開けた時、不意に朱雀は、強い眠気に包まれた。眠れば、自分はもう目覚めないだろう、とも思った。
もう一度、武仁の笛を聞きたかった。そう思いながら、朱雀は眼を閉じた。
とても、走ることはできなかった。
武仁は、芭澄に肩を支えられつつ、芭澄の右足を庇ってもいた。2人で支えあい、できるだけ早く歩く。それしかできなかった。
まだ山道の半分も下っていない。鎹鴉だけは、芭澄が飛ばしていた。
どうしてこうなったのだ。武仁は歩きながら、そのことを考え続けていた。
下弦の参を、何とか倒した。その直後に、上弦の壱が出現するなど、誰が予想するだろうか。柱どころか、一般隊士しかいない。その攻撃も、不可視の斬撃が嵐のように襲い掛かってくる。それしか感じられない、凄まじいものだった。
朱雀は、境内に残った。自分と芭澄を、逃がすためだ。
最後に眼が合い、思わず、大声で名前を呼んだ。
すると、自分の体の中で何かが破れる音がして、血が口から噴き出てきた。常中を止めれば、血が止まらずに自分は死ぬだろう。
朱雀は、覚悟を決めて、残ったのだ。友達として、それを無碍にしたくはなかった。
「ごめん、武仁」
芭澄の声は、申し訳なさそうだった。それに対しても、首を横に振ることしかできない。
先の戦いで、芭澄は相当、右足を酷使したらしい。今はほとんど、右足を使わないように歩いている。石段は、武仁が先に下りて、一段ずつ降ろしていた。
不意に、背後で凄まじい闘気が立ち上った。山鳥が弾かれたように、一斉に羽ばたくと、武甲山は再び静けさに包まれた。
立ち上っていた闘気も、それで消えていた。
朱雀が負けた。そして多分、死んだ。それを確信した武仁の頭に、最後に見た朱雀の顔が鮮やかに蘇った。涙がこみ上げてきかかったが、耐えた。
次は、自分の番だ、と思った。朱雀が命を懸けたのなら、自分も命を懸ける。それで芭澄だけでも、逃がす。
「武仁、貴方にお願いがある」
不意に芭澄が、武仁の傍から離れた。片足で跳躍したのか、石段の下ではなく、上にいる。そこは参道の中間位の、踊り場になっている所だった。
「私の鎹鴉は
見下ろしてくる芭澄と、視線が交じり合った。朱雀が最後に見せたような、ある覚悟を決めたような瞳。
やめろ。お前は、逃げろ。声は出なかったが、芭澄は自分が伝えたいことを、理解したようだ。しかし、動かない。
武仁が石段を登ろうとすると、芭澄は首を振った。
「本当に、ごめんなさい。貴方を、ひとりにさせてしまうけど、武仁なら大丈夫。あと、鍛錬は毎日すること。人間は、すぐに強くなったりはしないから」
「芭澄」
「お願いだからもう、喋らないで!」
芭澄の大声には、悲痛さすらあった。武仁はまた、血を吐き出した。ちょっと力を抜いただけでも、口内に血が流れ込んでくる。
「お願いだから、行って。武仁では、あの鬼の時間稼ぎはできないよ。あの鬼は、多分、全集中の呼吸を使ってる。どの流派かは分からないけど、常中は使ってると思う。本部に、伝えて」
芭澄は上弦の壱の前に立ちながら、冷静に見て取ってもいたようだ。
自分は、上弦の壱の動きを見定めようとするだけで、頭がいっぱいになっていたのだ。
「それに、私は貴方に生きていてほしいの。最終選別で見捨てられた時、私、本当は死のうと思った。でも、貴方が怪我をしてでも、助けてくれた。だから、まだ生きていようと思えた。そんな貴方が死ぬなんて、私は、受け入れられない」
武仁は束の間、芭澄と見つめ合った。
やはり、気持ちのどこかでは、芭澄に惹かれていたのかもしれない。ただ、自分が信じる人助けのために、そういう想いとは距離を置いてきた。
いずれ、理解する時が来る。そう思っている内に、別れが来た。それも、今生の別れだ。
「もう、行って。あいつが来る。私は、貴方に命令なんてしたくない」
芭澄はもう、こちらに背を向けていた。
さよなら。武仁は視線にそれだけを込め、身を翻した。
独りきりになった。石段をどうやって下りているのかは、ほとんど意識にない。
なぜ、とだけ思っていた。
なぜ、上弦の壱が来た。なぜ、全集中の呼吸を使ってくる。そしてなぜ、朱雀と芭澄が捨て身の覚悟で戦い、自分は生きようとしているのだ。
思念は、とりとめもなかった。しかし足は止まらず、血を吹くこともない。自分で、体を動かしている感覚すらない。それでも、常中は続けているのだろう、と思った。
気づいたら、参道の登り口だった。
眩しい、と思った。東の山並みから、朝日が昇っていた。
ここから、俺はどうすればいい。自問するのと同時に、藤の花の家紋の家だ、と答えを出した。朱雀が、そこへ行けと言っていたではないか。
「止まれ、武仁」
誰かに、声をかけられた。しかし、止まらない。藤の花の家紋の家に行って、怪我を治療する必要があるのだ。治療した後、俺はどうすればいいのか。
「止まるのだ」
体が奇妙な浮遊感を覚えるのと同時に、視界が闇に包まれた。
眼が覚めた時も、まだ浮遊感に包まれていた。体が、揺れている。
「おっ、気がつきやがったな。岩柱様、武仁が、眼を覚ましました」
その声で、自分が担架で運ばれているのだと、分かった。それに周囲には、かなりの人数の気配がする。
悲鳴嶼行冥の顔が、武仁の眼の前にぬっと現れる。
「生きていたのだな。少々手荒いが、矢を抜いて血止めはしてある。傷の心配は、不要だ」
「私よりも、朱雀と、芭澄は。あの2人は」
悲鳴嶼行冥は、問いに即答しなかった。沈黙する間、逡巡しているような表情だった。
「お前の鎹鴉が、付近にいる鬼殺隊士の多くを呼び寄せた。十二鬼月、下弦の参がいる、と」
そんなこと、どうでも良かった。下弦の参は、死んだ。そこに、上弦の壱が現れたのだ。
武仁は、苛立ちを抑え込みつつ、口を開いた。
「2人は、どうなったの、ですか」
再び、沈黙した悲鳴嶼行冥の眼から、涙が溢れだしてきた。
「南無阿弥陀仏」
それで、武仁はすべてを理解した。
朱雀と芭澄は、死んだ。それも、自分ひとりを庇って。
訳も分からない衝動が、こみ上げてきた。声。叫んだつもりが、かすれ声にもならない。むしろ、呼吸ができなくなった。しかし、自分のどこかが叫び続けていた。
また、眼の前が、暗転した。
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