17話 生き残り
獣のような気配が、山から放たれていた。まるで手負いの獣が、傷の痛みにのたうち回り、咆哮を上げているようだ。禍々しさすら、感じるほどだった。
悲鳴嶼行冥は、麓にある自分の館でそれを感じながら、涙を流していた。
武甲山で下弦の参を発見。血鬼術で、神社からの出入りができなくなっている。鎹鴉の伝令を受け、悲鳴嶼も急行した。
下弦の参は、一般隊士達が滅殺していた。そこに、上弦の壱が現れたのだという。
上弦の鬼には、鬼殺隊の柱ですら単独では勝ち目がないと言われている。その上弦の中でも、最強の鬼が姿を現したのだ。
夜が明けた後、集結した隊士達で徹底した山狩りを行ったが、上弦の壱の姿はどこにもなかった。
先行で派遣されていたはずの4人の隊士の死体もなく、後発だった男と女の隊士が、境内と山道で死んでいただけだ。
男の一般隊士が、ひとり生き残った。上弦の鬼と遭遇したのであれば、生きているだけでも大金星と言っていい。
しかしいま、その男は生き残ったことに苦しみ、獣のようになっている。
「残酷だ」
悲鳴嶼は手に掛けた数珠を擦りながら、そう口にした。
苦しんでいることが、ではない。弱いという事実が、残酷なのだ。強くありたい。本気でそう思うとき、いつでも人は無力なものだった。
「岩柱様。泣いている場合じゃあ、ありませんよ」
男の隠が、庭先にいた。
「このままじゃ、あいつは死んじまいます。せっかく生き残ったのに、ここで死ぬんじゃ、他の連中が何のために死んだのか、わかりませんよ」
御影武仁が、自分の屋敷に運び込まれたのは、武甲山から下りてきてすぐの事である。
報告より先に、傷を癒すこと。上弦の壱の捜索には、他の柱を向かわせる。それが、本部からの指示だった。
悲鳴嶼は藤の花の家紋の家ではなく、自分の屋敷へと運び込ませた。口封じのために、鬼が襲ってくる可能性は、否定できなかった。
武仁は眼を覚ますなり、日輪刀だけを携え、山へと向かっていった。胸の矢は抜いたが、傷はまだ癒えてはいない。夕刻、山中で昏倒しているところを、この隠に発見されて館に連れ戻される、ということを連日繰り返していた。
「君は、あの隊士とは、それほどに親しかったのか?」
「俺は、後藤と言います。武仁だけじゃない。死んだ朱雀と芭澄とも、一応、俺は同期なんですよ。恥ずかしいことに、俺だけは隊士にはなれなかったんですがね。俺は、最終選別で死ぬはずだった。追い詰められて、崖から身を投げたんです。それで身動きできなくなった俺を、あいつらが全員で助けてくれた。俺は、あいつがあんな様で死んでいこうとしているのを、もう見ていられねえんです」
「君の言葉は、彼には届かぬか」
「全く。隠の分際で、柱に意見するなど、おこがましいのは十分承知しています。でももう、俺は岩柱様に、縋るしかないんです」
「もう良い。後藤、君は任務に戻れ。鬼殺隊の戦いに、貴賤はない。隠もまた、日夜戦っているのだ。君だけが、ここで寄り道をすることは許されない」
さらに何か言い募ろうとしていたが、後藤は一度深々と頭を下げ、姿を消した。
そのまま夕方まで、悲鳴嶼は縁側に座り込んでいた。虫達の鳴き声が、心地よく耳に届いてくる。
不意に、山の気配がぷつりと途切れた。悲鳴嶼は、腰を上げた。
館から出て、山に入っていく。鴉の鳴き声がある。それを、追って行けばいい。
山中の様相は、異様なものだった。そこら中の木に、刀を斬りつけた跡がある。中には、根元から斬り倒されているものもあった。
斜面を登る山道の途中で、武仁はうつ伏せで倒れていた。完全に、気を失っている。
傍らに、野太い丸太が落ちていた。今日はその丸太を担いで、斜面を上り下りしていたようだ。
倒れている武仁の傍らに、鴉が1羽寄り添っていた。鳴いていたのはその鴉だろう。今はもう、大人しくしていた。
悲鳴嶼が武仁の体を肩に担ぐと、鴉はまた一鳴きし、飛び立った。
武仁が以前連れていた、
相方のため、必死だったのだろう。伝令のため休むことなく飛び続け、朝には力尽きていた。体には、矢で攻撃されたような跡がいくつもあり、飛べるのが不思議なほどだったという。
館に戻ると、武仁の体を、庭先に横たえた。鴉がすぐに降り立ってくる。武仁の傍から、ひと時たりとも離れようとしないようだ。
胸板は大きく上下し、貪るような呼吸音が漏れている。気を失っていても、常中を止めてはいなかった。
人を助けたい。その思いで鬼殺隊に入った、と言っていた。鬼への恨みや憎しみを糧に戦う隊士がほとんどの中で、綺麗事と言ってもいいほどの純粋な理想を、この男は持っていたのだ。
ただ、綺麗事や理想というものは、圧倒的な力の前では、容易く崩れ去る。
この男を見送った時に感じた、不吉な気配のことを、悲鳴嶼は思い出した。
自分が信じる人助けのために自分を鍛え、挙句に常中まで会得しつつあった。そしてどこか、揚々とした気配で去っていった。それが、気がかりの元だった。
現実というものは、そういう時にこそ、牙を剥く。
「ああ、残酷だ」
悲鳴嶼の眼から、また涙が溢れ出た。
この少年の師匠という男は、鬼の存在を知っていた。もし鬼殺隊士であれば、人助けのためなどという目的が、いかに生ぬるいものなのか、知っていそうなものだ。
あるいは、それも承知の上で、送り出したのか。そんな残酷なことを、する人間だったのか。
武仁が、不意に身を起こした。そのまま、何も言わずに立ち上がると、悲鳴嶼に背を向けて歩き出していく。
「どこに行くつもりだ」
「山へ、稽古に」
「その体でか。胸の傷が、まだ治っていない」
「構いません。傷は、稽古で癒します」
門の方へ歩いていこうとする武仁の前に、悲鳴嶼は立ちふさがった。一瞬で目の前に移動したように見えたはずだが、武仁に動じた仕草はまるでない。
最後に会った時とは、全く違う気配を、武仁は放っている。間近にすると、奥底に禍々しいものが渦巻いているのが、よくわかる。
「柱として、命じる。まず、その傷を治せ」
「力のない隊士が傷つくのは、鬼殺隊では当然のことなのでしょう。弱いものは、特に。怪我の直し方は、自分で決めます。失礼を承知で申し上げますが、柱だからといって、命令などしないでいただきたいと思います」
「君は、私を恨むか? もし柱が武甲山にいれば、君の同期の隊士は、あるいは死なずに済んだかもしれない」
武仁は、それには返事をせず、顔を俯かせた。
数年前、寺を鬼に襲われた日の夜明け、武仁の師匠にも似たようなことを言われた。後からのこのことやってきた私が憎いだろう、と。
しかし、自分に、誰かを恨む気持ちは、全くない。あの場で、唯一生き残った沙代に、子供殺しの罪を被せられても、それで獄門に落とされようとも、誰も恨みはしなかった。
ただ、気づいただけだ。鬼という滅すべき存在のこと。そして、子供の本質的な残酷さを。
それは、この男も同じだろう。人助けという想いは、仲間の死や己の無力さ、強大な鬼という現実の前で、いま袋小路に陥っている。
「私と、戦え」
武仁が、顔を上げた。
「君がやっていることは、稽古ではない。ただの蛮行だ。知り人故に抗命は聞き流すが、隊士が無駄死にするのは、岩柱として見逃せん」
返事はなかった。ただ悲鳴嶼が、鎖で繋いだ斧と鉄球を取り出すのと同時に、武仁も跳び退っている。
鴉が、激しく鳴いた。
「静かにしろ、
武仁の声は、静かだった。鴉の名前が、やはり違う。
互いに距離をとって、向かい合った。武仁は、日輪刀を抜いている。正眼ではなく、低い構えだった。
悲鳴嶼は盲目だが、その分、あらゆる感覚が優れていた。特に耳では、武器が鳴らす音の反響を感じ取り、正確に相手の動きを掴むことができた。
人を相手にする稽古は、悲鳴嶼はほとんどやらない。自分と互角に戦える人間が、他の柱を除けば、ほとんどいないからだ。
自分には、それだけの天賦の才があった。ただ、それに気づいたとき、多くのものを失っていた。
武仁は構えたまま、微動だにしない。この振り回している鉄球と斧を前にすると、鬼ですら怯む。
さっきまでの禍々しい気配は、己の内側に押し込めているようだ。
鉄球。続けて、斧を飛ばした。武仁が動く。鉄球を躱し、斧を掻い潜ると、そのまま悲鳴嶼の方へ近づいてきた。斧と鉄球を交差させ、鎖で絡めとろうとしたが、それも身を低くし、地面を転がるようにして回避している。低い姿勢と同時に、日輪刀で鎖を押し上げ、地面との間に僅かな隙間を作ってもいた。
以前の立合いとは、まるで動きが違う、と思った。あの時は、決して悲鳴嶼の間合いの中には入ろうとしない、堅実な戦い方だった。その戦闘の主眼は、生き残るというところにあったのだ。
今は、こちらの間合いに、迷うことなく踏み込んでくる。
ただ、捨て鉢になった訳でもない。動きつつ、鉄球や斧は躱している。まともに打ち合えば力の差で負けることを、忘れてはいなかった。
武仁の姿が、迫った。日輪刀は低く、あくまで静かに、確実に近づいてくる。今まで、ここまで自分の間合いに入れた鬼はいなかった。
全集中 岩の呼吸・参ノ型 岩軀の膚
悲鳴嶼は瞬時に斧と鉄球を引き戻すと、力任せに振り回した。防御技ではあるが、やわなものでは触れただけで粉砕することも、十分にできる。斧や鉄球が届く間合いの寸前で、武仁の姿は止まっていた。
後ろへ引いた瞬間、悲鳴嶼の方から、踏み込んだ。
全集中 岩の呼吸・壱ノ型 蛇紋岩・双極
鉄球。斧。同時に放った。叩きつけられた地面が、地震の如く揺れる。そこに、人影はなかった。
武仁の体は、宙にあった。身を回しながら刀を振り上げ、悲鳴嶼の方へ突っ込んでくる。
こちらの攻撃を、紙一重で跳躍し、躱した。ゆとりがある躱し方をすれば、2撃目の斧の攻撃で、打ち落とすこともできた。
やはり、以前とは全く違う。
ただ、隠された力が、唐突に覚醒している訳でもない。
師匠との稽古で、相当厳しく打ち据えられてきたのか、相手の攻撃やその間合いに対しては、もともと敏感なところがあったのだろう。それは、悲鳴嶼も気づいていたことで、それが常中で、研磨されているだけだ。常中の能力増強は、反射神経にも影響する。
以前と違うものは、もっと深い、精神のところにある、と思った。
もともと持っていた、生き残りたい、という想い。その中に、死にたい、という渇望が入り混じっている。
武仁を囲むように、空中に鎖を走らせた。走らせながら、凌ぐだろう、と悲鳴嶼は思った。締め上げてもそこに手応えはなく、武仁は地面に降り立っていた。片手に、鞘を握っている。咄嗟に、鞘で鎖を打ち、自ら地面に落下したようだ。
この男は生き残るために戦いつつ、死にたがってもいる。それが、死と紙一重の戦い方をさせているのだ。
この残酷な心の在り様から、いっそのこと開放してやった方がいいのではないか。武仁が突っ込んでくるのを感じつつ、悲鳴嶼はそう思った。
同時に、自分でも、自らの気配が変わるのが分かった。
全集中 岩の呼吸・肆ノ型 流紋岩・速征
鎖を引き戻そうとした悲鳴嶼の耳に、別の声が届いた。
「行冥」
1羽の鎹烏が、屋敷の上で羽ばたいている。
「すまないね。武仁を本部に連れてきて欲しい」
「御意」
その声に、居住まいを正しそうになったのを、悲鳴嶼は堪え、まず鎖を手放した。
それでも構わず突っ込んできた武仁を、拳で殴り飛ばした。手ごたえは、軽い。武仁の体は2、3度地べたを石ころのように転がり、塀にぶつかって止まった。
起き上がってはこないが、呼吸音はある。気を失っただけだ。
まるで、武仁を打ち殺そうとする自分の気持ちすらも読んだ指令だった。いや、御屋形様は自分の心も読んでいたのだ、と思った。鬼殺隊の総帥である、産屋敷燿哉には、予知にも近い先見の明がある。
また、鴉が騒ぎ始めた。
「大丈夫だ。死んではいない。那津と言ったか。君は、先に本部に行きなさい」
語りかけると、鴉は大きく一鳴きし、飛び去って行った。
その時になって、既に周囲が闇に包まれつつあることを、悲鳴嶼は肌で感じた。
悲鳴嶼さんの圧倒的登場率。
一度関わらせると、こんなものです。