進行はゆっくりです。
臭いが、鼻をついた。
死んだ人間を、見たことがないわけではない。切り刻まれ、身ぐるみはがされている死体を、2人で埋葬したこともある。
しかし、
朝日が射しこんだ寺の境内には、そこら中に血が飛び散っている。だが師匠の指示で立ち入った本堂や庫裏は、その比ではなかった。まさに血の海で、何人が死んでいるのか、見ただけではわからなかった。
吐き気よりも、涙が込み上げてきて、武仁は唇を噛んだ。
死んでいたのは、ほとんど子供だった。鬼という、あの化け物にやられたのか、手足がおかしな角度に曲がっていたり、首元が抉られているのがほとんどだった。
それでも、生存者を探していると、物音がした。見ると、童女がひとり、庫裏の一室の片隅に座り込んでいた。
「生きている、生きているのか。お前、名前は。怪我はしていないか?」
息はしている。だが、茫然とした眼をしていた。何を話しかけても、全く反応しない。
武仁は、その童女を抱え上げた。童女の服も血で汚れていたが、気にしなかった。体は冷たく、微かに震えている。
抱えながら、自分もどこか麻痺しているのかもしれない、と武仁は思った。色々なことがあった、一夜だった。
外では、師匠が半紙に筆を走らせていた。墨も筆も、常に身に着けている。
鬼を殴り潰していた若い僧侶は、最後に見た姿勢から、微動だにしていない。その傍らに、武仁は童女を下した。凍り付いたような顔を、朝日が照らし出していく。
「沙代」
不意の声に、童女がぴくりと動いた。
続けて、他の名前が発せられていく。9人の名前。それがこの寺にいた、子供たちの名前だろう、と武仁は思った。生き残ったのは、ひとりだけだ。
僧侶の額には手拭いが巻かれていた。師匠が手当てをしたようだ。
手ぬぐいから視線を下げると、白濁している眼が並んでいる。不意に武仁は、僧侶が盲目であることに気づいた。盲目なのに、鬼を肉塊になるまで殴り続けたのか。
それに驚いたことに、僧侶は拳の皮が破れているほか、大した怪我はないらしい。
師匠が、指笛を吹いた。高い音で三度、山中に鋭く響く。一匹の老いた鴉を、師匠はたまにそうやって呼び出すことがある。
細く畳んだ半紙を鴉の足に括り付け、再び空へと放った。いまいましいほど、空は晴れている。
「悲鳴嶼行冥殿だな」
師匠が、僧侶の傍らに立った。
「我々は、もう行かなければならん。辛いだろう。家族を失った後にのこのことやってきた私が、憎いだろう。だが、この武仁も、実の親を失っている身。仏門に身を置く貴殿に説くようなことではないが、生きるということは、辛く苦しいことだらけだな」
悲鳴嶼は何も語らないが、肩が微かに上下しているように見えた。
「だが、互いに失ったものを比べあうことに、意味はない。ご住職は一晩かけて鬼と戦い、勝った。そして、この童の命と、自分自身を守った。それを、忘れないでくれ」
師匠は悲鳴嶼の肩を叩くと、再び、駆け下ってきた山に向かって歩き出した。
「師匠。良いのですか、あの方たちを残して」
「すぐに、麓の村から人が来る。我々がいても、話がややこしくなるだけだ」
途中に投げ捨てられていた荷物を拾い、さらに山の奥へと進んでいく。
無言である。疑問は許さない。師匠の背中が、そう言っている気がした。
勝手に飛び出したことを、やはり怒っているのかもしれない、と武仁は思った。しかし、あの時鬼の注意を引いていなければ、寺はさらにもう一匹の鬼に襲われ、あの僧侶と沙代という童女は死んでいただろう。もしあの場で死んでいても、自分が間違ったことをしたと、武仁は思わなかった。
数度、休憩した時を除いて、ひたすら歩き続けた。
「今日は、ここで泊まる。準備だ」
日没直前まで歩いたので、寺からはかなり離れただろう。
武仁は素早く薪を集め、火を起こし、藤の花の香を焚く。小鍋に水を入れて、火にかける。普段の野営の準備は、それだけだった。
他にも、獣を捕える罠、糸と木の板で、近づく者がいれば音が鳴る仕掛けも、作ることができる。
師匠は石に腰を下ろして、刀の手入れをしていた。今まで刀を持っていたことにすら気づかなかった、と武仁は思い、それと同時に、師匠の棒がなくなっていることに気づいた。
あの棒の中に、刀を仕込んでいたのかもしれない。そう思えるほどの、大きさだった。大っぴらな帯刀は官憲に咎められる。
「今朝のことは、忘れろ。武仁」
刀を納めた師匠が、唐突にそういった。
「悪い夢か、別の国の出来事か、何かだと思え」
「私は、あの鬼という化け物について、師匠に説明していただけるものと、思っていました。師匠がお持ちのその刀のこと、鬼狩りというものも」
「説明して、何になる。あれを理解したところで、お前では勝てないことは、よくわかっただろう」
「私より幼い子供たちが、寺で大勢死んでいました。悪い夢で済ますことなど、私にはできません」
「あれが、人の死だ。そしてそれは、珍しいものではない。病、飢え、獣との闘い、人間同士の些細な争いごとでも、人は死んでいく。今朝の出来事は、そのひとつに過ぎん」
師匠の言葉にはどこか、まやかしがある、と武仁は思った。今までの旅は、そのひとつひとつを無くしていくためのものではなかったのか。
「これまであんなに、人助けをされてきたではありませんか。どんな仕事も、僅かな礼で。それを今になって、人が死ぬのは当たり前だなどと、どうして言えるのですか」
「これは人助けなどと、甘い言葉で片付く話ではない、と言っている。もういい。話は、これで終わりだ」
言い捨て、師匠は火の傍で横になった。
大らかな人だったが、旅で怒られた経験は何度かある。卑怯、姑息、廉恥心のない行動をしたときは、強い語気で叱りつけられた。
それでも、こんなにも頑なな態度は、初めてだった。鬼が原因なのは、間違いないだろう。
横になり、ふと武仁は気づいた。師匠の過去を、自分はほとんど知らない。
翌日から、元通りの日常に戻った。
最初に行き着いた山間の村で、仕事を受けた。薪を作るため、山で木を斬る仕事である。
斧で木を倒し、村まで運んで、さらに断ち割っていく。生木はすぐに薪にせず、乾燥させるのだ。それが終われば、次は乾燥し終えた木を、鉈や斧で割っていく。一抱えもある木の幹が、村にはいくつもあった。
すべての作業を終えるまで、数日はかかった。
作業している間、何度も、寺のことが頭に浮かんだ。死んだ子供たちの無残な姿、酸鼻極めた寺の中。
生き残った2人は、どうしただろうか。そして、あの鬼というのは、他にもいるのだろうか。
「こんなところで、何をしているんだ」
何度も、声に出ていた。
師匠は忘れろといったが、あの光景は、瞼に焼き付いて離れない。薪割りなど、誰にでもできる仕事をしていて、本当にいいのか。こんなことをしている場合ではない、という気がしていた。
村を発つ日、入り口で村長と数人の村人が見送りに出ていた。
「ありがとう、影法師殿、お連れの方も。冬の準備が、大分捗りましたぞ」
「我々は、当然のことをしたまでです。長らくの逗留を、許してもらいたい」
「最近は若い者が村を出ていってしまうことが多くてな。影法師殿のような方なら、いつまでも村にいてほしいものじゃ」
師匠は、必要があって名乗るとき、自らを、影法師と名乗っていた。慣れると、法師様などと呼ぶ人もいる。
「我らは、流れ歩く身。またいずれ会うことが、あるかもしれません」
「本当に、あれだけの銭で良いのか? 村には、いくらかの貯えもあるのだが」
「それは、村の方々のもの。冬の費えにしていただきたい」
師匠と共に一礼し、村を辞去した。村には何人かの子供たちがいて、姿が見えなくなるまで、こちらに手を振っていた。
再び、山の中だった。道なき道を、踏破していく。
山腹の、一段高くなったところ。武仁は立ち止まった。ほとんど同時に、師匠が振り返った。お前の心の中はすべて知っている、と言いたげな視線を向けてくる。
「師匠、私はどうしても、納得がいきません」
「私のやり方に対してか、それとも、自分自身か」
「鬼に殺されかけたのに、何一つできなかった私自身の弱さが。そして、鬼という化け物が、跋扈しているということが」
「何が言いたい、武仁」
武仁は荷物を下ろすと、地に額を擦り付けた。
「私を、強くしてください、師匠。非力の身であることは、重々承知しています。人を助けて歩く師匠のあり方が、間違っているとは思いません。しかし今の私は、あの寺での出来事を、忘れることもできないのです。真に助けられるべき人が、どこかにいる。そして今の私には、その人たちを救うことはできない。そう思うと、何も手につかないのです」
沈黙が、山間に流れた。枝葉のざわめきや、鳥の鳴き声が、頭上を流れていく。
額を擦り付けたまま、師匠の声を待った。もし呆れて見捨てられたなら、それまでのことだ、と武仁は思った。その時は、一人でも今の旅を続ければいい、とも思い定めた。
「あれと関われば、確実に死に近づくぞ。そうでなくても、お前はその決断を、後悔することになる。死ぬなど、本当は生ぬるいのだ。生き地獄を、お前は味わうことになる」
「覚悟の上です。自分で選ぶことです」
「ふん。子供が簡単に、覚悟などという言葉を使うな」
唐突に、武仁の棒が視界の中に転がり込んできた。
「持て、武仁」
立ち上がり、棒を構えた。師匠の手にも、同じくらいの木の枝があり、互いに向き合う形になった。鬼の首を飛ばした刀は、今は袋に収められている。
「育て方を間違ったな。まあ、当然のことか。馬鹿な師匠なら、弟子も馬鹿になる」
師匠が、笑った。気合を発して打ちかかってきたのを、武仁も棒で受けた。
次回から修行パート(長い)