なので、ここで手を貸していただきました。
数日前、遠くで眼にした山並みは、うっすらと白く染まっていた。
その様相が、少しずつ変わった。木は建物に、草花は人の姿に。陽光は、電気の灯に。
帝都、東京府である。
まず、人が多い。ものを売る店も、所狭しと建ち並んでいる。他の街とは比べ物にならない、活気や熱気に覆われていた。しかし、その何もかも全て、
空を飛んでいる、黒い鴉。ただそれだけを、見ていた。
元々がそうなのか、主が死んだからか、全く言葉を発さない。しかし、自分から離れようともしない。追い払おうという気にはならなかったが、声も掛けなかった。
那津は華やかな中心街から、家が集中している郊外に向かって移動すると、ある館の前で、降り立った。
門構えは、まるで武家の大名のようである。
「ここは」
思わず、声が漏れた。表札には、煉獄とある。
那津がここに連れてきた。つまり御屋形様である産屋敷燿哉が、ここへ自分を導いたということである。
手前勝手に自裁する前に、罵詈雑言や悲嘆の声を聞け、ということなのか。しかし逆に言えば、それこそが、朱雀の死を受け入れるということだ、とも思える。
朱雀は、自分にできた初めての友達だったのだ。その死について、全てを受け止めた時、自分も死ぬことができるはずだ。
訪いを入れて、しばらくすると、正面ではなく脇のくぐり戸が開いた。
まず眼に入ったのは、燃えるような赤い髪だった。
出てきたのは、少年である。自分よりも、頭ひとつは背が低い。しかし、くりっと開かれた瞳が、武仁をまっすぐに見つめていた。
「どなたですか?」
「鬼殺隊士、
「あっ、武仁殿ですか! 朱雀から、話は聞いておりました。私は、煉獄杏寿郎と申します! 中へ、さあどうぞ!」
言い終えるなり、杏寿郎という少年に、手を掴まれた。履物を脱ぐと、そのまま屋敷の奥へと引かれていく。
「話は全て、鎹鴉から聞きました。朱雀が任務の先で、上弦の壱と遭遇したのだと。それでも、武仁殿だけでも生きていてくれて、本当に良かった。朱雀は、父上への恩返しのため、誰かを守るために炎の呼吸を使うと、いつも言っていました」
手を引かれながら、煉獄杏寿郎の名前を朱雀から聞いていたのを、武仁は思い出した。
自身をいずれ必ず上回る、天稟を持っている男。そう言っていたような気がする。
確かに、自分の手を引いている少年から発せられる気配は、今まで武仁が感じたこともないものだった。
触れるものすべてを焼き尽くす大炎のような力強さと、人を守り包み込む温もり。それを、折り合いをつけることなく、しっかりと持っているようだ。
「折角いらしたのです。是非、父上にお会いになってください。あっ、父上!」
縁側の廊下を曲がった先に、杏寿郎と同じ髪形、髪色をした男が立っていた。杏寿郎の呼びかけで、顔をこちらに向けた。
武仁は素早く、膝をついた。
杏寿郎の父ということは、つまりは炎柱である。しかし、寸前に見た炎柱の瞳には、荒んだ色が混じっているように見えた。
「父上。この方が、御影武仁殿です。朱雀が、以前話していた、選別で命を救ってくれた友人の方です」
「ああ、そうか」
声を聞きながら、武仁は奇妙な感覚に襲われた。
覇気のない、炎柱の声。それに杏寿郎の声には、どこか懸命そうな感じがある。
確か朱雀は、今の炎柱は元気がない、と言っていた。それも、あの朱雀の表情を、曇らせる程だった。
「お前は、色が変わっていない、日輪刀を持っているらしいな。それに、全集中の呼吸も大して使えないと聞く」
「はい」
「なら鬼殺隊士など、もう辞めてしまえ」
「父上、それは」
武仁が身を硬くするのと同時に、別の声も上がった。杏寿郎の声だった。
「黙れ、杏寿郎。いいか、全集中の呼吸を使っている者でも、鬼相手では所詮、大したことはできん。雑魚鬼の頸を、何百と飛ばそうとだ。それは、お前も良くわかっただろう、御影武仁とやら」
「父上。朱雀は、炎の呼吸を使って、武仁殿や多くの人を助けたのです。それは、大きなことだと、私は思います」
「だから何だ。結局、炎の呼吸だろうがなんだろうが、上弦の鬼にすら勝てんのだ。朱雀の戦いなど、結局は無駄な事だった。だから、杏寿郎。お前も、鬼殺隊になど、入るのは止めろ」
朱雀の戦いは無駄だった。炎柱の口からその言葉が放たれた瞬間、武仁は立ち上がっていた。
俯いた杏寿郎の顔も、自分に向いている。
「いま、無駄、と言われましたか。朱雀のしたことを」
「ああ、そうだ。無駄だった」
「炎柱様のお言葉ですが、撤回していただきたい」
「なんだと?」
「朱雀は、炎柱様への恩返しのために、刀を振るったのです。それに、あいつは炎柱様のことを、心配していました。今は元気がないが、いつかかならず元に戻ると。そのために、自分が鬼を狩り、人を助けるのだと。その朱雀の戦いを、無駄とは言わせません」
「ふん。無様に逃げ延びておいて、偉そうに抜かすな」
「私のことは、何と言っていただいても結構です。すぐに、死ぬ身です。しかし朱雀を、悪し様に言うことは、許せません」
体に走った衝撃が、その返事だった。外へ蹴飛ばされたのだと、すぐに理解した。武仁は空中で身を回し、同じ膝をついた体勢で、庭に着地した。
腰のあたりが、痛みの中心である。しかしむしろ、痛みがあることが、心地よいほどだった。死ねば、痛みすらも感じないだろう。
「どうか、撤回して下さい」
しばらく、炎柱の眼と視線が交錯した。
燃えるような眼。しかし意外なほど、そこに力はなかった。情熱をかき消すほどの、別のものがある。諦念。武仁がそう感じた瞬間、炎柱は身を翻していた。
「失せろ。俺がお前と話すことなど、なにもない」
炎柱の姿は奥の部屋に消え、障子がぴしゃりと大きな音を立てて、閉じられた。
「申し訳ありません、武仁殿。お怪我は、ありませんか」
「気にしなくていい。私も、ひどい口の利き方をした。だが、朱雀の戦いを無駄と言われて、かっとなってしまった。相手が誰であっても、同じことを言ったと思う」
縁側から下りようとする杏寿郎を、武仁は押しとどめ、再び屋敷に上がった。予備の足袋は、様々な道具と一緒で、いつも身に忍ばせてある。
「朱雀は友達だ、と言っていました。武仁殿のことを」
その友達を、俺は見捨てて生きている。口をついて出てこようとした言葉だが、出てこなかった。
杏寿郎の笑顔を見ると、それができなかったのだ。
お前は、俺を恨んでいないのか。武仁はむしろ、そう思った。
朱雀は杏寿郎が成長するまで、一緒にいるつもりだったのだ。父親である炎柱は、あの有様である。朱雀がいれば、どれほど杏寿郎は心強かっただろう。それを奪われた時の衝撃は、いかほどのものだったか。
しかし、考えてもどうにもならなかった。自分は、朱雀の代わりには、絶対になれないのだ。
「杏寿郎」
不意に、細い声が聞こえた。
杏寿郎が、すり足である部屋に近づき、障子を少しだけ開けた。
「母上。どうなされましたか」
「御父上の、声が聞こえました。どなたか、いらしているのですか?」
「はい。御影武仁殿です。朱雀が、話していた鬼殺隊士の方です」
「あの、武仁殿ですか。もし、よろしければ、私も話したいと思います」
「しかし母上、お体は大丈夫なのですか?」
「大丈夫です、杏寿郎」
声は聞こえている。杏寿郎の顔だけ向いたので、武仁は黙って頷いた。
もう少しだけ、開けられた障子から、その部屋に入った。四方の鉢で炭が焚かれていて、中は暖かかい。
中心に敷かれた布団で、女性が横になっている。病に臥せっているのかもしれない。面貌はやつれていたが、確かな気品に包まれていた。
体をゆっくりと起こすのを、杏寿郎が傍らで支えている。
「このような姿でいること、申し訳なく思います。私は、煉獄瑠火。煉獄槇寿郎の妻です。朱雀が、貴方の事を、色々話してくれました」
「私は朱雀に、何度も助けられました。朱雀は本当に、強い男でした」
「もしよろしければ、話をしてもらえませんか。朱雀の事を。貴方が知っているあの子の事を、杏寿郎にも聞かせてやって欲しいのです」
「わかりました」
話は、そう多くはなかった。最終選別での出会いと共闘。再会。
瑠火も杏寿郎も、武仁が話している間、一片の口も挟まなかった。
そして、別れ。武甲山の神社で、自分と芭澄を押し出し、朱雀はひとり神社の中に残ったこと。そして参道を下りている途中で感じた、凄まじい闘気のこと。それが、唐突に途絶えたこと。
全てを話し終わった時、武仁の手は震えていた。部屋は熱いほどなのに、震えは止まらなかった。その手に、別の手が重ねられた。
瑠火の手だった。
「まず、感謝します。貴方が生きていてくれたことに」
「それは、違う。本当に死ぬべきなのは、私でした。朱雀は、死んではならない男だった」
思わず本音が、口から出ていた。
朱雀や芭澄との時間は、何ひとつ忘れてはいない。それを、何度思い返したところで、同じ結論に達するのだ。自分は、無駄に生きている。その思いを、押さえておけなかった。
なぜこの家の人間は、誰も自分を責めないのか。その思いもあった。
「杏寿郎。武仁殿の隣に、お座りなさい」
「はい、母上」
杏寿郎の小さな体が武仁と並ぶと、瑠火の視線が一度、武仁と杏寿郎を行き来した。
「2人とも、今から私の言うことを、考えなさい。今を生きている人間の務めとは、何だと思いますか」
杏寿郎はしばらくうんうんと唸り、わからない、と答えた。
武仁は、なにも言葉が出てこなかった。これから死のうとしている自分には、関わりのないこととも思えたからだ。
「生きている人間の務めとは、その生で一所懸命に、己の責務や使命を全うすることです。そして生きている人間は、死んだ者の分も、その生を全うしなければなりません。たとえその生が、辛く苦しいものであっても。朱雀もきっと、貴方にそれを望んでいます」
「どうして、それが分かりますか。朱雀は、死にました。死んだ人間の思いなど、なぜわかるのですか」
「それは、私がもうすぐ死ぬからです」
瑠火の言葉に、思わず息を呑んだ。
死ぬ。そう語る瑠火の眼には、とてもそうは思えない、強い光がある。しかしまた、その光の前では、死相という影もまた、浮き彫りになっているようにも見える。
「夫と、まだ幼い子供たちを残して、私は逝くでしょう。その死を前にして、私もまたそれを望んでいます。たとえ私がいなくなろうとも、立派に責務を果たしてほしいと」
「しかし朱雀は、その責務を果たせなかった。あれだけ強かった朱雀が死んで、呼吸も剣技も劣る私が、のうのうと生きている。私に、朱雀と同じことは、できないのに」
「貴方が、朱雀と同じことをする必要はありません。そのようなことは、あの子も望んではいないでしょう。ただ友として、覚えているだけでいいのです。忘れてはなりません。武仁殿が覚えていれば、その想いの中で、朱雀は生きられるのですよ。だからこそ私も杏寿郎も、貴方が無駄に生きているなどとは、思いません」
覚えているだけでいい。不意に、朱雀の笑顔が、眼の前を去来した。芭澄の声も、聞こえた。忘れるはずもない。
眼の周りが熱くなり、自分の頬を何かが伝った。伝ったものは顎先へ、そして自分の手を包む瑠火の手の甲へ、ぽたぽたと滴っていく。
自分が、泣いている。朱雀や芭澄が死んでから、絶対に涙だけは流さなかった。それなのに、泣いていた。そして、止まらなかった。
「これからは泣いても、辛く苦しくとも、最後には必ず立ち上がり、前を向きなさい。そして、生きなさい。まだ子供の貴方に、このようなことを言うのは、酷な事かもしれません。でも貴方は、それだけのものを背負ったのです。背負ったものから、眼を逸らしてはいけません」
武仁はこれまで、自分の事しか考えていなかった事を、初めて恥じた。
ずっと、死にたがっていた。しかしそれは、自分が楽になりたかったからではなかったか。
もし自分が願った通り、逆の立場ならどうだろう。自分は死んで満足したかもしれないが、その後で朱雀と芭澄に、同じように苦しむことを願うのか。そんなことは、あり得ない。
自分ならば、生きていてくれることを、願ったはずだ。
手の震えも、涙も、いつの間にか止まっていた。
瑠火の手が外れて、武仁は居住まいを正した。
「瑠火様、ありがとうございます。見苦しい所を、お見せしました。多分朱雀は、怒っているでしょう。芭澄も。こんな無様な私を見て」
「朱雀が言っていました。貴方は、師匠からもらった笛で、見事な音を奏でるのだと。私も、聞きたいと思ったものです」
「あの笛は、壊れてしまいました。私を、矢から庇って」
「そうだったのですか。しかし、武仁殿には、まだ行かなければならないところがあるのでしょうね」
「すべてが終わったら、また参ります。その時は、笛を持って」
「楽しみにしています。朱雀とは、とうに別れをしたつもりでした。もう、任務から帰ってくるまで、私は持たないだろうと。それでも、武仁殿が訪ってくれました。朱雀が生きられなかった分も、これからは精いっぱい生きるのですよ」
武仁は、ただ頷いた。あれだけ自分の中に渦巻いていた死への憧憬が、いつの間にか、遠いものになっている。
「杏寿郎。武仁殿をお見送りしなさい」
「はい、母上」
瑠火に一礼し、部屋を出た。外は、冷たい空気が満ちている。
しかし、震えはしなかった。
廊下の奥で、人影が動いた。見ると、炎柱の後ろ姿が、部屋の中に消えていくところだった。
その姿が見えなくなる寸前、鼻をすするような音を、武仁は確かに聞いた。
「武仁殿、ありがとうございました。母も、少し元気になってくれたと思います」
「礼を言うのは、私の方だ。今まで見ようともしてこなかったものを、教えてもらった。私はただ、死ぬことだけを考えていた。朱雀の事も考えずに」
「武仁殿は、もう大丈夫です。また、いらしてください。武仁殿の笛を、母も楽しみにしています」
「承知した」
答えとは裏腹に、もう瑠火には会えないだろう、とも思った。
死んだ朱雀が、ここへ自分を導いた。根拠などなにもないが、武仁はそれを確信していた。自分が立ち直るためではなく、朱雀を煉獄家へ連れて帰るために、自分はここへやってきた。
自分の役割は、終わった。笛が壊れていたことは、巡り合わせのひとつだろう。
「最後に聞かせてくれ、杏寿郎。朱雀は、君にとって、どんな男だった?」
「強く、優しく、炎のような男でした。私も、朱雀のことは、決して忘れません!」
「そうか。ありがとう」
きょとんとした表情の杏寿郎の頭を、武仁は片手で撫でた。
掌に、熱が伝わってくる。杏寿郎の心が燃えているのだ、と思った。
「また、会おう。どうか元気で」
武仁は、杏寿郎に背を向けて、走り出した。
心の中で再び、瑠火に別れと、感謝を告げた。
那津は、今度は東京府から離れる方へ、飛んでいた。やはり、本部へ帰還するわけではないらしい。
夕刻。指笛を吹くと、那津は武仁の腕へと、降り立ってきた。音は、以前聞いた芭澄の指笛と、ほぼ同じだったはずだ。
「那津、すまなかった。お前も芭澄を失って辛かっただろうに、ずっと私の傍にいてくれた。ただ死んでいこうとしている人間を、見守ってくれていた。それなのに私は、お前を芭澄に頼まれたことも、忘れていたよ」
穢れのない、黒い瞳。芭澄の瞳も、同じような綺麗な色をしていた。見ていると、吸い込まれそうな気持ちになったものだ。
「教えてくれ。俺は、次はどこへ行けばいい。多分、何かしら芭澄に、縁のある場所なのだろうと思う。何も知らずに連れられて行くなんてことは、したくない」
しばらくして、那津が小さく声を発した。
狭霧山。それが、初めて聞いた那津の声だった。
いよいよ原作キャラとの絡みが増えて参りました。