冬の峠は、越したようだった。陽気は暖かい。平地の雪は、早くも溶けつつある。
桜が咲くころには、本部に戻る。そういう約束だった。期限はまだ先だが、これ以上の時は必要なかった。
本部に、
隠が、ひとりで待機していた。
「後藤だったのか」
「やっと、来やがったな。待ってたぜ」
地味な黒子の装束だったが、覆面の下からは、相変わらず快活な声がする。
「すまなかった。岩柱様の館にいた時、何度も俺に、声をかけてくれていた」
「しおらしい顔するんじゃねえ。お前達は、俺の命の恩人なんだ。その恩人がああなってるのを、黙ってみてる奴はいねえ」
「そう言ってくれるだけでも、俺は、また立ち上がれる」
「おう。頼むぜ、隊士なんだからよ」
そう言い、後藤は頭の後ろを掻いた。いくつ位の歳なのだろうか。声は自分とほとんど同じか、すこし若いくらいだろう。
もっとも、歳などどうでもいいことだった。共に最終選別を受けた人間で生きているのは、もう後藤だけになっている。この男との間柄は、それだけで十分だった。
「じゃあ、行くぜ」
武仁はその場で目隠しをされると、後藤に背負われた。ある程度移動すると、別の隠が待っている。そうして何人かを乗り継ぐと、下され、目隠しを外された。
鬼殺隊本部。産屋敷邸。前に来た時と同じ、庭園にいた。
「思っていたより、早かったではないか」
からからという笑い声とともに、横から声をかけられた。
水柱、
「無事、御影は戻ってきた。とりあえず、良かったではないか、悲鳴嶼」
「意味のある、旅だったようだな。ここを発った時とは、気配が違う」
「こけおどし。あるいは、空元気。そういう言葉もあるがな」
「私はここに、御屋形様への報告のため、参りました。そうすれば、私の頼みをひとつ聞いていただける。そういう約束でしたので」
「一般隊士の頼みを聞く、ねえ。それは本当か、悲鳴嶼?」
「いかにも。御屋形様は、確かにそうおっしゃった」
じゃらりと、数珠が音を立てた。胸の前で合わさっている手も、よく見ると、かなり分厚いのが分かる。
その手にかかっている数珠も、普通の大きさではないのかもしれない、と思った。
「それを聞くのは、後の楽しみにしておこう。もし死にたければ、俺が介錯をしてやってもいいぞ」
笑った瀬良に、武仁も笑って返した。
ここを出立したときは、ただ死ぬことだけを考えていた。しかし今は、全く違うことを考えている。
これは、折角の機会でもある。御屋形様に対して、自分はなにを願うのか。それを考える時間は、狭霧山を出立してから今日まで、いくらでもあった。
時が過ぎて、最初に、悲鳴嶼が縁側の近くに移動した。瀬良もその隣に続く。それで、武仁も気づき、独りで館に正対して膝をついた。
待つほどもなく、御屋形様の姿が、館の奥から現れた。
「お帰り、武仁。よく、帰ってきてくれたね」
「御屋形様との、約束でしたので」
武仁は、低頭しながら、その声を聞いていた。
改めて聞くと、不思議な声だ。発せられている言葉。そのすべてに、聞き心地の良さがある。ただ、その心地よさに、身を任せないようにした。
あくまでも、ただの男の声。そういう聴き方をした。
「行冥と蛟も、来てくれたんだね。蛟とは、前の柱合会議以来かな」
「はい。御屋形様にあっては、御子息様方の無事の御誕生、真にめでたい。御当家の益々の繁栄を、この場で御祈念申し上げます」
「ありがとう。それに、武仁もだ。私の頼みを、よく聞いてくれたね」
「煉獄家、狭霧山。旅の中で、多くの人に会いました。水柱である瀬良様にも。私は、多くの人に助けられた、と思います。いままでも、そしてこれからもです」
「それだけではないよ。武仁もまた、助けてきたんだ。煉獄家でも、狭霧山でもね。君は前にここに来た時、自責の念の一心で、死のうとしていたね。でも、死ななかった。武仁は、まだ死んではならない。その助けを、待っている人たちがいるということなんだよ」
武仁は、顔を上げた。御屋形様は澄んだ眼で、静かな微笑みを浮かべている。
「先に逝った者たちの分も、私は生きます。生きて、人を守ります。先日の御無礼、お詫び申し上げます」
「頼むよ、武仁。私は、君たちにお願いすることしかできない。私は御屋形様なんて言われているけど、無理してそう扱うことはないよ。私などよりも、日々を平穏に生きている人たちを、助けてあげて欲しい」
「はい」
「これは、柱の皆も知っていることだけど、私の体はいずれ、ある病に冒される。代々、産屋敷の男子はその病のために、短命なんだ。私も、この弱い体では、真剣ひとつ振るうことさえもできなかった」
御屋形様の表情は穏やかな様子を、全く変じていないが、発している言葉はまるで、己が身を自嘲しているかのようだった。
眼。その奥で渦巻くものがあるのに、武仁は気づいた。どろどろとした、怒りや憎しみ。束の間見えたそれは、すぐに柔和な笑顔の裏に消えた。
「ところで、武仁の報告を聞く前に、まず君に会ってほしい子達がいる」
「私が、ですか」
「必要ないのかもしれない。でも、私は会ってもらいたいと思った。君も会うべきだ、と行冥も勧めてくれた」
右側に控えている悲鳴嶼は、軽く頭を下げると、音もなく姿を消した。しばらく待つ。すると、足音がいくつか近づいてきた。その足音が、不意に砂利を蹴って、走り出した。
武仁の傍で2人、跪いた。長い黒髪。女というのは、それでわかった。
2人の顔が上がった時、武仁は全てを理解した。あの夜、民家にいた娘たちだろう。顔は見ていなかったが、他に思いつくものは何もない。
「私は、胡蝶カナエ。こちらは妹の、しのぶといいます。あの夜、私たちを鬼から守ってくれた、隊士の方ですね。
「君たちを助けたのは、私ではない。私は結局、あの鬼を倒せなかったのだ」
「でも、悲鳴嶼さんが来るまで戦ってくれてたんでしょ。守ってくれたんだから、私たちにとっては同じよ」
髪の長い方が姉で、短く後ろで束ねているのが妹。2人とも、蝶の髪飾りをつけている。
姉は物腰穏やかそうだが、妹はまだ子供らしい真っすぐさで、言いたいことを言う。最初の印象は、それだった。
「しのぶの、言う通りです。私たちを守ってくれたのに、今日までお礼も申し上げられませんでした。本当に、ありがとうございます」
そういい、カナエとしのぶが再び頭を下げた。何となく、むずがゆさを感じた。やるべきことをやっただけで、礼を言われる筋合いなどない、と考えていた。
その時、引っかかっていたことに、ようやく気づいた。
鬼殺隊士として、関わった人間と事後に会うこと自体は、ないとは言えない。だが、鬼殺隊の本部である。無関係な人間が入ってくる場所ではなかった。
「君たちは、なぜここにいる」
「私たちは、鬼殺の隊士になります。悲鳴嶼様に、育手を紹介していただきました」
武仁は何を言われたのか、咄嗟に理解ができなかった。
こんな小娘が、鬼殺の隊士になるというのか。
2人とも華奢で、線は細い。男である煉獄杏寿郎や錆兎、冨岡義勇よりも、さらに細いのだ。頸を斬る力がなければ、鬼殺は無理である。それは、武芸が劣るとか、全集中の呼吸の適性がないといわれた自分よりも、さらに向いていないということだ。
姉は鍛えれば、まだ何とかなるだろう。体の作りは、芭澄と似ているところがある。だが妹の方は、既に背丈が足りない。
だから、悲鳴嶼行冥がこの2人を認めたというのは、いささか信じがたいことだった。
「私たちは、鬼に両親を奪われました。だからこそ、他の人には同じ思いをさせたくない。2人で、戦うことを決めました。御影様に守っていただいたこの命で、人だけでなく、鬼も救いたい。私は、そう思っています」
胡蝶カナエは、澄んだ声で、臆することなくそう言い切った。カナエの湛えている気配は、少女のそれとはとても思えない。あるのは、悲劇を経てきた鬼殺隊士特有の、覚悟だった。
色々、言いたいことはある。そもそも、鬼殺隊になど入るのは止めておけ、という思い。鬼を救いたいとはどういう意味か、という疑念。何よりも、御影様という呼び方は、やめてくれ。だが何ひとつ、声にはならなかった。
助けた2人と再会できたことを、喜ぶべきか。鬼殺の道を歩むことを、悲しむべきなのか。武仁には、よく分からなかった。
「誇れ」
「瀬良様」
不意に、瀬良が声を発した。
「これが、人の生き方だ。守った人間の人生に、お前があれこれ感じる必要はない。人助けとは、そういう類のものではないはずだ」
瀬良に、いつもの笑顔はない。鋭く吊り上がった眼が、武仁を真っすぐに見据えている。
「此度は、ただ誇ればいい。鬼殺隊士として、お前は命を賭して2人を守り抜いた。その命が、いつか別の命を守る。
不意に、目頭が熱くなった。強く瞼を閉じ、溢れそうになったものを、押さえこむ。
瞼の裏。様々な光景が流れた。鬼殺隊に入ってから、多くのものを自分は失った。しかし、失っただけでなく、守れた命もまたある。前にいる姉妹が、まさにそうではないか。
「ああ。生きていてくれて、良かった」
武仁の口から出たのは、それだけだった。眼を開けた時、瀬良の顔はもう笑っている。
武仁も座り込んでいる胡蝶姉妹に、笑いかけた。上手く笑えたかどうかは、わからない。
だが、咲き誇る花のような笑顔で、笑い返された。
胡蝶姉妹が去った後、改めて、報告の場に移った。
上弦の壱の特徴は勿論、その前の下弦の参との戦闘から、武仁は思い出せるものは些細なことまで、その全てを報告した。記憶は整理していたが、実際に口にしてみると、さらに出てくるものがいくつもある。
全ての報告が終わると、武仁は瀬良と、門の前で別れた。悲鳴嶼は任務のため、早々に居なくなっている。柱は、やはり多忙なのだ。
「やはり、瀬良様には似合いません。特に、真面目な顔は」
「お前、次は木刀じゃなくて、俺の左手を食らってみるか」
「同じ手は食らわない。それが、私の師匠の教えのひとつです」
瀬良は、声を上げて笑った。狭霧山がどうだったのか、瀬良は何ひとつ尋ねてこない。一度手元から離れたものは、もう気にしないのだろう、と思った。
「お前の願いとやらが、あんなものだとはな。口にしたからには、努力しろ。死線を生き残れば、それだけ人は強くなる」
「はい。この後で、朱雀と芭澄に報告に行きます。鴉の、弦次郎にも」
武仁は手で、懐を軽くたたいた。そこにある硬い感触は、何度も確かめている。
「まあ、武運を祈る」
言うなり、瀬良の姿が消えた。柱が移動するときは、何故か誰もが忽然と消えていく。
隠に導かれて、館の裏手に回った。細い道をしばらく進むと、開けた場所に出る
鬼殺隊士の、墓地である。遺書に特段の記載がなければ、死んだ隊士はここに埋葬されることになっている。その一角に、導かれた。
流石に、弦次郎の墓石はなかった。しかし鎹鴉も、しっかりと埋葬されているらしい。
武仁は墓石の前に膝をつくと、懐から、竹笛を取り出した。
本部に戻る途中、ある街の骨董屋で手に入れたのだ。何の装飾もないが、それを見た時、思わず手が伸びた。
笛らしい笛だ。不愛想な骨董屋の主人は、そう評していた。武仁自身も、良い笛だと思っている。
何度か吹くと、師匠からもらった笛と同じくらい、自分に馴染んでいくのがわかった。
「しばらく、そっちに行くのは遅くなる。そう何度も、墓参りなどできないだろうし。だから、俺は生きて、どこかで笛を吹く。その音だけでも、聞いていてくれ」
聞いている人間も、返事もなかった。ここまで連れてきた隠は、姿を消している。
武仁はひとり、笛を構えた。音がゆっくりと滑り出る。
鬼との激戦地や、被害が多く出ている現場。そこへ、優先的に送ってもらいたい。それが、この旅路の対価である、自分の願いだった。
現状では、一般隊士の犠牲が出すぎている。だが自分なら、どんな手を使ってでも生きる。生きて、鬼を倒す。あるいは、柱の来援まで、持ちこたえる。
死を厭う気持ちは、全くない。その時が来れば、簡単に死を受け入れられるだろう。その一方で、自分は生きるために戦うのだ。
生きて、人を助けるため。その人の中には、他の隊士も含まれる。
笛を吹いていると、唐突にある鬼の姿が、鮮やかに蘇った。侍のような出で立ちの、6つ眼の鬼。無数の不可視の斬撃を放ってきた、鬼の姿だった。
いつか。ふつふつと沸き起こってくる思いを押し込めながら、そう思った。
いつの日か、上弦の壱を滅殺する。それは、口にはしなかった。自分だけがそう思っていれば、いいことだ。
思念が途切れると同時に、笛を吹き終えた。
傍らに、那津が降り立っている。芭澄の墓をじっと見つめたまま、動かない。かつての主と、言葉でも交わしているのだろうか。
2人の墓を前にして、武仁には驚くほど、何の言葉も湧かなかった。涙も出ない。
死は、ただの死。それを確認しただけだ。死んだ者のことを、決して忘れない。生きている自分にできるのは、それだけだ。
那津が飛び去ると、武仁は立ち上がった。さらば。胸の内でそう呟き、身を翻した。
本話をもって、第一部が完全に終了となります。
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