水を掛けられた。
「立て、
続いた師匠の声で、武仁の意識は急に覚醒した。
人助けの旅は中断となった形で、代わりに、地獄の訓練の日々が始まった。
一日は、まず剣術の稽古から始まる。
互いに木刀を構え、まず武仁が打ちかかる。入った、と思った瞬間、地面に打ち倒される。
逆に打ちかかられると、防いだはずが、見当違いの方向から襲い掛かってくる。
師匠の剣は、打ちも突きも、変幻自在である。何が起きているのか、技を食らっている自分でも、よく分からなくなってくる。
昼頃、わずかな休みを与えられてからは、体術の稽古である。
最初だけ、体術の基礎を教わった。すぐに、打ちかかってくる師匠を、武仁が素手で払うものに代わっていた。全身を木刀で、時には空いた手足で、容赦なく打たれる。
夕刻からは、ひたすら山中を走った。師匠が終わりというまで走り続けるもので、休むことは許されない。遅ければまた、木刀の餌食である。
日に、何度も気を失った。しかし水をかけられれば、すぐに目覚める。いつまでも寝ていれば、木刀が叩き込まれるのだと、体で理解していた。
「お前の望む通り、厳しい訓練をくれてやる。苦しいだろう。だが、死ぬことは許さん。強くなるとは、そういうことだ。その代わりに、いつでも、私を殺していいぞ」
最初に、そう言われていたが、殺されないように立ち回るだけで、武仁は精いっぱいだと思えた。師匠なら、自分の殺気すらも察知するだろう。
数日で、全身が痣だらけになった。木刀で自分を打ち倒すのを、楽しんでいるとすら思えるほどで、憎悪のような気持ちにも襲われた。
しかし、諦めはしなかった。
強くなりたい。鬼の前で、情けなく棒立ちしているような人間に、なりたくないのだ。
訓練で混濁する意識を通しても、それだけは見失わなかった。見失ってはならないと、最初に自分で決めたのだ。辛いときは、寺の光景を思い出した。
次第に、師匠の棒や身のこなしが見えるようになってきた。山走りのほうは、旅路で鍛えていたこともあって、わりと早く慣れていた。
夜は、泥のように眠る。眠りつつ、気配は感じていた。
気を抜けば、木刀が襲ってくる。
季節が回っていた。始めた時は夏だったが、もう冬に入りかかっている。
訓練を始めて、3か月程は経っただろう。
遠くの山並みが、初めて薄く白く染まった日も、武仁と師匠は、木刀を構えて向かい合っていた。互いに吐く息も、微かに白い。
日中の稽古は、木刀と体術を織り交ぜた立ち合いに変わっていた。
向き合ったまま、互いに固着した。師匠の構えに、隙は無い。隙が見えても、実は隙ではない。そういう駆け引きがあるというのも、体で理解していた。
動いた。正面に、振り下ろされてきた木刀を、武仁もその場で受けた。一呼吸おいて、左右から次々と打ち込まれてくる。右は棒で払い、左は半身回して躱す。
甘い動き。そう思うのと同時に、左肩に衝撃が走った。
木刀を落とした。いつもなら、ここで仕切りなおす。だが、師匠の木刀は、唸り声をあげて襲い掛かってくる。
「誰が、終わったといった」
師匠の声。転がりながら、躱す。二度地べたを回り、体を起こした。木刀。軌道は見えていた。師匠の腕を、咄嗟に体術の構えで捌く。
立てた膝。逸らした切っ先が跳ね返ってきて、打たれた。自分の動きの甘いところを、容赦なく衝いてくる。
落ちている木刀に飛びつき、再び構えた。
「戦え、武仁。今日は、お前に死ぬまで戦ってもらうことにした」
息を深く、吸って吐く。構えたまま、立ち位置が何度も交錯した。師匠の動きに、ひたすら食らいついていく。剣術も体術も、体に叩き込まれた全てをつかった。
そして、一度打たれた動きは、繰り返さない。
さらに何度か、深い呼吸を重ねた。山走りの成果で、息の深さと長さには、自信がある。
二度、木刀を振るい、競り合って離れる。木刀を握る手に、痺れが走った。
三度目。肩を突かれ、体制が崩れた。さらに打ち倒されたが、木刀だけは離さない。
跳ね起きる。四度目の斬撃。下から来た。木刀を撥ね飛ばされたが、両手で師匠の服の袖を掴んでいた。捩じれば。そう思った。それで、腕を折れる。
力を入れる寸前、息ができなくなった。膝で腹を蹴り上げられている。
「躊躇などするな。わずかな戸惑いが、隙を作る」
武仁が距離をとるのと同時に、師匠が跳躍した。頭上。振り下ろされてくる木刀の動きが、のんびりとしたものに見えた。
死んだ。そう思った瞬間、師匠と眼が合った。死ね。いや、戦え。そう言っていた。
不意に、視界が白くなった。
木々の間に、星が浮いていた。日が暮れている。
そう理解するのと同時に、武仁は跳ね起きようとしたが、体が動かない。
火が焚かれている上に、毛布が掛けられていた。体はほとんど、冷えていない。
だが、やはり指一本動かせなかった。全身が疲労感に包まれている。今までにないことだった。
体を動かそうともがいていると、そのうち林の中に気配を感じて、武仁は首だけを回した。
「おう、起きていたか。さすがに、若いだけのことはある」
師匠が、闇の中から現れた。手には野菜をぶら下げている。
「近くの村まで行っていた。ちょうど野菜の収穫が終わったらしい。それも豊作で、安く手に入ったぞ」
そうですか。そう声を出そうとしたが、のどが痙攣して、うなり声のようなものが飛び出る。
師匠は笑い、武仁に水筒を傾けてきた。水を飲み下すと、冷たい潤いが口や喉から、全身に染み渡った。もっと飲みたいと思ったが、飲まされたのは少しだけだった。
「ありがとう、ございます」
「声が出るなら上々だ。寝ていろ。晩飯はまだだ」
言われて、目を閉じた。意識が吸い込まれるように落ち、旨そうな匂いで、眼を開いた。
焚火に掛けられている鍋が、湯気を上げている。それを見て、武仁は猛烈な空腹感に襲われた。体も、少しは動くようになっている。
「飯はたっぷり用意してある。遠慮せず、食いたいだけ食え」
焚火の前に座り込むと、師匠に器を渡された。
米を、野菜や肉を刻んだものと合わせて炊きこんだ雑炊。それに、山で自生している山椒や辛子をすり潰したものも入れてある。
1杯目は、気づいたら食い終わっていた。2杯目からは、自分で鍋からよそっていく。それにも、すぐに食らいつく。鍋が空になるまでに、4杯は平らげた。
片づけをしてから、再び火を囲った。
「ほとんど、一人で食ったな」
「すみません。腹が、減っていたのです。今までにないほどです」
「当然だな。お前は、今日はそれだけの動きをしていたのだ」
「覚えているのは、師匠が跳んで、私に木刀を振り下ろしたところまでですが」
「これを見ろ」
師匠が、半分灰になった燃えさしを取り上げた。一目見て分かる。木刀の柄だった。
「お前の木刀だ。お前はその後、私の一撃を紙一重で躱し、ほとんど夕刻まで戦い続けたのだ。折れなければ、まだ戦っていたかもしれんな」
「師匠が言われている意味が、よくわかりません。私は、何も覚えていないのです」
「人間には、時折、そういう力が働くのだ。死を前にするとな」
いわゆる走馬灯や、火事場の馬鹿力のようなものだろう、と思った。
師匠は木刀を、再び焚火の中に戻し、その上にいくつか細い枝を重ねていく。すぐに、全てが炎に飲まれた。
武仁はしばらく、炎のうねりを眺めた。
「私は、死んだのですか?」
「お前はどう思う。自分が死んだと思うか」
「わかりません。死んだような気もしますし、実は死した後の妄想を見ているのかもしれません。死んだのは本当で、その後に蘇ったのかも」
「面倒くさい子供だな、お前は。聞くのではなかった。私もお前も、確かに現世を生きている。それに私は死人に、飯を作ってやるつもりなどはない」
「そうですね」
またしばらく、炎を眺めた。この数か月、訓練の後は眠っていることが多かったのだ。炎を落ち着いて眺めたのは、いつぶりだろうか。
焚火を眺めていると、弱くなる気配があるのに気づく。それに合わせて枝や、薪を加えていくのだ。
「本当はな、武仁。私はお前が、死ねばいいと思った」
師匠の言葉を聞いても、意外なほど驚きを感じなかった。
「半端な強さほど、無意味なものはない。武芸は特に、そう感じる。自分より強い相手が、必ずどこかにいる。そしていつか、負ける」
そう語る師匠の眼は、焚火に向けられていた。武仁は、黙っていた。まるで、師匠が自分のことを語っているようにも思えたからだ。
「今日、私はお前を、本気で殺すつもりでいた。鬼狩りなどになって死ぬくらいなら、いっそ私が殺してしまおうか、とな。しかし、お前は何度私が追い込んでも、生き残った。私は、ひとつ確信した。生きようとするその執念が、お前を強くする」
師匠の眼が、焚火から武仁へ向いた。
鋭さや強靭さ、優しさをも備えている眼。しかしどこか、思いつめたものを孕んでいるようでもある、と思っていた。
今日は、この眼で、戦えと語りかけてきたのだ。
「これまでの稽古は、今日で終わりだな」
「師匠、それは困ります」
「武芸だけの稽古は、終わりということだ。立ち合いは、まず朝か夕のどちらか一度。お前が身に着けるべきものは、まだ多くある。夜は私が、鬼と鬼殺隊について教えよう」
「そういうことですか。では、今晩はどの話を?」
「焦るな。そうだな」
師匠は小さく笑い、枝を2つに折り、焚火にくべた。山の空気は冷えているが、寒さはそれほど感じない。しっかり飯を食ったからだ、と思った。
「鬼からだな」
枝が、軽い音を立てて爆ぜた。
呼吸は次に持ち越しです。
戦闘シーン書いただけで疲れてしまったぁ。